柴五三郎編「辰のまぼろし」、会津女子戊辰を越えて

 幼稚園児とママの手つなぎを見ると自然に笑顔になる。よく見かける母子、子どもの空いてる手を繋ぎたくなる。でも、さすがにそれはない。ただ、母子の後ろ姿を目で追い、子育てしていた昔を思い出すことがある。すると、娘と息子の小さな掌の感触が蘇ったりする。子が大人になっても、母にとっては幼い頃が愛おしい。
 話変わって、150年余昔に大きな内戦・戊辰戦争があった。戦争となれば母の思いは二の次、子を手放さなければ生き難い事さえあった。戦に敗れた東北諸藩と会津藩士は賊軍の汚名をきせられ、明治の世を困難と闘いつつ生きねばならなかった。その上、賊軍側には差別と困難が待ち構えていた。家禄を失い、一家を養わなければならない男子の辛苦は察して余りある。
 そしてそれは、妻や娘たち女子の困難も変わらない。次第によっては女子の方がよほど辛かったろう。しかし、史実に挙げられることは少ない。どうしても、戦の勝敗や様相、死傷者に目がいってしまいがちだ。そのことを、読者のお便りで気付かされた。

 便箋10枚に溢れる思いを綴った人は、柴五郎の母・日向氏の先夫の娘、つまり五郎の異父姉(つる)の曾孫S・Kさん85歳。文字も内容もしっかり、聞き伝えた貴重な話が多々あり、引用して紹介したい。
 併せて、前後するかもしれないが柴五三郎編「辰のまぼろし」も引用。ちなみに、手元の「辰のまぼろし」は生原稿のコピー。以前、会津図書館が親切に送ってくれたもの。今は書籍になっていると思う。
 その内容は、戦闘の状況、命がけの極限状態のなかの人間模様、立派で勇ましい武士もいれば戦費を盗む悪人、そうかと思えば、自害した家族の名や人数など切ない記録もある。当事者でなければ判らない話は興味深くお薦めしたい。

 柴五三郎はご存じの通り柴五郎の三兄。
「辰のまぼろし」のエピソードから、五三郎は槍が得意、武芸に優れたサッパリした男気のある人物と知れる。また、危険を懼れず立ち向かう一方、部下や婦女子など弱者に優しさが垣間見える。
 ネットで、『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』の本編に、五三郎の登場を喜ぶコメントを見つけて嬉しかった。兄たちと弟が国内外で思い思いに活躍できたのも、五三郎が会津に帰郷、妻と娘を5人も喪った寂しい父を見守り、柴家を守っていたからこそと思う。

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  ?年、夫と死別した日向与三右衛門の二女・ふじ子は、娘のつる(S・Kさんの曾祖母)を連れて実家に戻る。
 1852嘉永5年12月2日、柴四朗、父が勤務する会津藩の富津陣屋で生まれる。母は日野氏。
  ?年、日向ふじ子は柴佐多蔵と再婚。男女7人の子の母となる。ふじ子は良くできた婦人であったという。
 1859安政6年7月25日、会津若松城下の郭内三ノ丁で柴五郎生まれる。3歳まで乳母の家で育てられる。

 1862文久2年、将軍家茂と和宮結婚。伏見・寺田屋騒動。生麦事件。
   12月、京都守護職・松平容保は藩士千人を率いて上洛。
 1863文久3年、会津藩槍指南・西村久右ヱ門も京都詰となったが死去、京の会津墓地に葬られる。
    長男、西村久之助、つると結婚。父についで京都詰となる。

 1864元治元年、禁門の変(蛤御門の変とも)。
    会津・薩摩を中心とする公武合体派と長州が衝突。新婚の西村久之助は戦没、会津19名の戦死者とともに京の会津墓地に葬られる。
   ―――蛤門外に砲声殷々として洛陽の天地為に震う 余は直ぐに槍を提げ(時に槍の捌きを自由になさんと葦或いは綿布を需め柄に片布をまきたり)・・・・・戦いを挑む我が槍隊大いに苦しみ・・・・・砲声九重に轟き硝煙彼我の陣地を包みて天日為に闇し(辰のまぼろし)。
   おそらく、つるの夫西村も五三郎とともに戦うなかで命を落としたのだ。その西村家に、この年、ふさが生まれる。夫を喪ったつるはふさを連れ、肝入旧家・佐瀬家に身を寄せる。

   ―――元治の戦ニハ士卒より人夫ヲ併セテ31人の死者而ルヲ慶応に於テハ正月三日ヨリ函館其他を挙レハ136 伏見鳥羽淀橋本1 甲信59 両野2 両総5 江戸1 羽2182 陸160 越9 蝦3・・・・・
 自裁(自決)の婦女ノ姓氏に分ケテいろは順ニ記セハ左ノ如ク・・・・・井上丘隅夫婦2名 石川やえ・・・・・(辰のまぼろし)。
   原稿用紙2枚にわたり自決者、西郷家や己の身内の姓名人数が書かれているが、涙なしには書けなかったろう。後の方でも柴家5人、その他3枚余りに記されている。なんとも無残で痛ましい。

 1867慶応3年10月、徳川慶喜、大政奉還。
 1868慶応4年1月、鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争の発端となった内戦。
    9月8日、明治と改元。
    9月14日、西軍、鶴ヶ城総攻撃。 22日、鶴ヶ城開城。
   ―――原田勝吉妻辰野氏が破裂弾の側近く落ちたるに感動せられ男子を分娩せるを奥女房が蚊帳を以て囲いなどして児を世話せり・・・・・籠城中、産児も4、5に止まらざり(辰のまぼろし)。

 1869明治2年、会津藩は領地を没収され陸奥3郡、斗南藩になり廃藩置県まで存続。
  ―――つるは、ある人の世話で戦争で妻を亡くした人と結婚。その節、佐瀬家のたっての頼みで、やむなく娘ふさを佐瀬家に残して北海道へ向かう。そこは下北に勝るとも劣らぬ苦難の生活だった。つるはその地で、夜になると読者その他を教えていたそう。ところが?年、夫が亡くなり、1877明治10年頃、北海道から会津に帰る(S・K)
   <2017.12.16けやきのブログⅡ「殿もお覚悟なさってください」直言する宗川茂弘と一族(福島県)>

 1879明治12年、日本でコレラが流行。
    安政の流行以来、間欠的に流行を繰り返していたが、この年は約10万5千人もが死亡し一揆の原因にもなった。
   ―――若松でもコレラが流行。つるは、瓜生岩子と思われる人の元で看護婦のように病人を看護中にコレラに罹患し亡くなりました・・・・・つるは、弟である五郎氏の存在を知っていたと思われます。一度も会えないまま明治15年のことです(S・K)

 1887明治20年頃、つるの娘・ふさ、会津若松の鈴木清一郎と結婚。
 1891明治24年、鈴木家に娘、清野が生まれる。
    ふさは、やがて清野のほかに、せつ、こう、末娘(名が記されてない。S・Kさん母)と4姉妹の母となる。

 ?年、清野結婚。夫は黒田克巳といい、五郎の長兄・太一郎の妻、八十子の先夫の息子。
    夫婦とも身体があまり丈夫ではなかった様子。克巳は後年、清野のすぐ下の妹、松本せつの二男を養子に迎える。
    お便りにはさまざまな人物が登場、その再婚話なども次々とあって人間関係が判りにくい。そしてその原因は、戦やコレラその他の病気のせいもあったからだと思われる。夫婦そろって長寿、無事に生涯を送ることは現代よりずっと大変だったよう。

  ?年、清野は結核になり、会津の実家鈴木家に戻って療養する。
   ―――五郎氏も会津の連隊に関係していたので清水屋旅館から近いこともあり、目立たぬようよく見舞ってくださったそうで、その頃はお偉くなっておられたので、大変恐縮してお迎えしましたが、まことに普通のおじいさんのようだったと母は申しておりました。克巳の悲しみは深く、その後、独身で太一郎氏・八十子とともに上野毛の五郎氏の離れに住んでおりました。
 1921大正10年ごろ、清野死去。

        ・・・・・   ・・・・・
 1940昭和15年、戦争で東京オリンピック中止。
   ―――家に時々掛かる掛け軸があり、それが母に揮毫してくださった柴五郎氏のお軸でした。そのお軸を戴きに仙台から上野毛のお屋敷に伺ったことはよく覚えております。オリンピックが中止になったのに、胸に五輪マークのワンピースを着た当時の写真があります(S・K)。

   ―――克巳は、最晩年の五郎氏が毎日のようにお庭で書類のような物を焼いていた・・・・・食料が乏しくなった頃、邸内で家庭菜園を始められ克巳が手伝おうとすると体力のない克巳を気遣ってさせなかった・・・・・敗戦の報から間もなく邸内の祠の前でお腹を召したが失敗、家人に口止めをして医療をこばみ天に召されたそうです。この話は、克巳が養子の松本家に引き取られ亡くなる前によく涙ながらに話した事実です。(S・K)
 1945昭和20年12月13日、柴五郎死去。享年87。

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