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2009年7月

2009年7月29日 (水)

本ほんご本:正岡子規/秋山好古・真之兄弟/

<本>
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』/秋山好古・真之兄弟

 もうだいぶ前になるが卒論のために柴五郎大将について調べ中、会津恵倫寺の柴家の墓参りをした。そう遠くない日に法事があったらしく卒塔婆があったので、ご住職に親族の住所を教えていただいた。そこでお便りをし柴五郎の次女の西原春子さんと孫の照子さんにお目にかかることができた。
 東京のお宅に伺うと、面差しが写真で見る柴大将にとてもよく似た品のよいご婦人が迎えてくださった。どこの誰とも知れぬ名もない者にもかかわらずお二人して話をしてくださり、大いに参考になった。
 司馬遼太郎さんも見えたそうです。また内山さん(小二郎、陸軍大将・大正天皇侍従武官長)、秋山(好古)さんとは家族ぐるみにつきあいという話もあった。
 
 本編第三部・第4章 米西戦争、カリブの海へ(p359)/第8章 日露戦争(p437)より抜粋。

 四月、アメリカはスペインとの戦争状態が存在することを宣言、米西戦争がはじまった。五月、アメリカ艦隊はマニラ湾でスペイン艦隊を撃破し六月、アメリカ軍はキューバに上陸を開始した。
 この戦争に陸海軍からそれぞれ観戦武官が派遣された。陸軍はイギリス駐在中の柴五郎陸軍砲兵少佐、海軍はのちにバルチック艦隊をやぶった作戦参謀として知られる秋山真之海軍大尉である。五郎はロンドンから大西洋をこえてキューバに急いだ。このとき真之は五郎に大勢を聞くなど面倒をみてもらった。
 秋山真之の三兄は五郎と陸士同期の秋山好古で、この秋山兄弟もまた活躍めざましい明治の兄弟である。そして真之もまたアメリカに赴任する前、海軍軍令部諜報課員として西洋洗濯屋に扮して満州・朝鮮の視察をしロシアの行動を探っていた。
 米西戦争については島田謹二『アメリカにおける秋山真之』に詳しい研究があり、柴五郎についてもよく描かれていて興味深い。同書に秋山の諜報報告はすばらしいとあるが、五郎も二十二通の報告を出している。防衛研究所戦史部図書館で五郎の報告を閲覧したが、同書に紛失とある第一・第十九報告もここに所蔵されている。
 
 黒溝台会戦
 旅順の陥落で日本は沙河に第三軍を投入する事にした。一方ロシアも援軍を得て、第三軍が沙河に到着するまでに眼前の黒溝台の日本軍を撃破しようと反撃にでた。十万をこえるロシア第二軍に虚をつかれた日本軍は大混乱に陥り、黒溝台を奪われた。それでも日本側は騎兵第一旅団を基幹とする秋山(好古)支隊がロシア軍主力に反撃、沈旦堡を守った。
 日本騎兵隊の創設者秋山好古が率いる騎馬隊、秋山支隊は激戦に耐え死にものぐるいで日本陣地を守った。日本軍は師団を順次投入、日露戦争最大の危機と呼ばれる黒溝台の戦闘は一月下旬まで続き、ようやく戦況が日本側に有利になると、クロポトキンが退却した。
 この会戦を勝利に導いたのは、なんといっても厳寒積雪の中で困難をきわめつつも増援軍が来るまで防戦、よく持ちこたえた秋山好古その人である。秋山は、
「典型的な古武士的風格のある武将で、もうこの後ああいう人間は種切れになるだろう」(上原勇作)といわれるほどの人物である。無欲で小事にこだわらない、豪傑肌の軍人秋山を部下が慕っていたので、困難な戦いに耐えられたのだろう。そうはいっても、この戦闘の死傷者は一万弱にもなり、兵力が日本の三倍近いロシア軍とあまり変わらず、日本側の死傷率が高い。シベリアの酷寒のなかでいかに厳しい戦いだったのかが思いやられる。

<ほん>
 
 司馬遼太郎『坂の上の雲』でおなじみの秋山兄弟と正岡子規は同郷の友である。子規は『仰臥漫録』に五郎の活躍をちょっと書いているが、兄弟が親しい人物だから、親近感があったのでしょうか。
 その正岡子規は“野球”の命名者としても知られる。これを書いている七月下旬は高校野球甲子園予選の真っ盛り、日毎に代表校が名乗りをあげている。そこで甲子園の本と、季節はずれだがスキーヤ一の本を紹介したい。
 ちなみに本の紹介を書いたのは2006年そして今年、村上選手と皆川選手結婚のニュースが流れた。二人揃ってのオリンピック、今から楽しみです。

  

<ご本>

『夢がかなう日』モーグルスキーヤー上村愛子物語(山石やすこ著 学習研究社)
『甲子園球場物語』 (玉置通夫 著  文春新書

 torino 2006 ため息と感動の冬期オリンピックで上村選手は5位入賞。
『夢がかなう日』はイジメに耐え、一人旅をするなかでモーグルと出会い、念願のオリンピック選手になった愛ちゃんの物語。
 アスリートとして成長するも「金メダルをとって」の応援がプレッシャー、二度目のオリンピックは自分を見失って失敗しました。泣きたい……でも観客の拍手に励まされて笑顔をとりもどす。「自分を信じてがんばれば、夢がかなう日がきっと来る」。またまたオリンピックをめざしメダルに挑戦です。
限界を超える勇気、厳しい練習と努力、時にイジメ、どれもトップ選手に共通でしょう。それにしても競技中の転倒は4年間の努力が一瞬にして消えるよう。見ている側も痛ッ! 涙がにじむ。
 日本はフィギュアスケート荒川静香選手の金メダルを頂点として、女子が大活躍でした。男子だってがんばりました。アルペンスキー回転、皆川賢太郎選手は日本に50年ぶりの入賞をもたらしました。
「悔しさ半分、うれしさ半分。スタートに立てたとき、幸せだと思った。弱い自分に脱皮できたから」でも彼は満足しません。さらに4年後をめざします。
 ところで、スキージャンプ大会が甲子園球場であったの知ってます?
『甲子園球場物語』にはおもしろびっくり話がいくつも、ジャンプもその一つ。球場建設には資金から設計施工、グラウンドの土まで多くの人が携わりましたが、なんと牛も一役かっていました。ローラーを引張って地ならしをしたのです。
 甲子園の歴史は昭和の歴史、球児が戦争に征くと内野は芋畑に変りました。そして終戦。甲子園は進駐軍に接収されましたが、昭和22年春、球児が戻って来、“センバツ”の観衆は平和をかみしめました。
  スポーツっていい。する、見る、関連本を読む、お好みの方法で楽しみましょう。  

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2009年7月24日 (金)

本ほんご本/ヘボン/沼間守一/フルベッキ

  <本>

『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』ヘボン沼間守一フルベッキ
  
フルベッキ: Verveckアメリカの宣教師・のち明治政府顧問
   ヘボン: Hepburnアメリカの宣教師、医師、ヘボン式ローマ字綴りの創案者
   沼間守一: 明治のジャーナリスト・政治家・東京横浜毎日新聞社長

 柴兄弟の伝記を書くにあたって物語を紡ぐには“調べまくるしかない”と考えました。幸い?誰に頼まれた訳でなし、期限は無く時間はたっぷり。図書館、資料館、兄弟の出身会津はもちろん北は北海道から南は九州まで旅もしました。ところが一ヵ所、資料を見つけられず“聞いたまま”を書きました。それは本編62ページ1行目
  沼間は長崎でイギリス人に、横浜でアメリカ人フルベッキについて英語を学んだ。

 これについて幕末の英学を研究している人から
  「フルベッキはこの時点ではまだ長崎にいたからヘボンの間違いでは? 二人を混同している人は多い」と指摘されました。
 さっそくヘボンを調べてみるとありました。フルベッキを調べてもなかった筈です。ご指摘に感謝しつつ、ヘボンと沼野のエピソードをご紹介します。

 沼間は幕臣高梨仙太夫の子として江戸牛込に出生、沼間家の養子となる。養父が長崎奉行属員として長崎に赴任、同行してイギリス人に英語を学ぶ。次に横浜で医師を開業したヘボンに入門したが、軍事ばかり勉強しているので破門されかけた。これを沼野の才気を愛したヘボン夫人が取りなし、英語を教えた。(『日本近現代人名辞典』吉川弘文館)

 ヘボン夫人がひらいた塾はのちに明治学院となります。ヘボンつながりでいえば「明治の兄弟」には出てないが岸田吟香が有名。ヘボンの辞書編纂を手伝い、のちには目薬を売り出して成功したなど、エピソードに事欠きません。当時は誰を採りあげても波瀾万丈、おもしろく“割愛”するのがたいへんでした。
 *これを書いているさなか、岸田吟香のふるさと岡山県美作で突風(竜巻?2009.7.19夕)により大被害というニュースが流れた。

  <ほん>

 もうすぐ皆既日食が見られると親戚の二人が南の島へ向かいました。夏の盛りで暑いけど当日は晴れるといいですね。行けない私は涼しい図書館で本探し。『明治の兄弟』著者にはたまらない本を見つけました。
『明治もののはじまり事典』(湯本豪一・柏書房)です。絵で見る歴史シリーズというとおり項目毎にイラストや写真つきで明治の雰囲気も感じ取れて興味深い。
 他に借りたのは『淀川長治映画ベスト1000』(河出書房新社)です。解説文は “ハイ、淀川です”から始まるが、生前の “サヨナラサヨナラサヨナラ”とともに懐かしい。
 「エデンの東」はDVDで見ても未だに切なく娘時代が蘇る。このようにページを繰ると映画の一場面もですが、それを見ていた場所や感情も思い起こされ二重に楽しい。洋画ばかりかと思ったら北野武さん、高倉健さんそして大好きな寅さんこと渥美清さんほか日本映画も入っています。

  <ご本>

        『寅さんの教育論』  (山田洋次 岩波書店)

    結構毛だらけ猫灰だらけ、おしりの回りはクソだらけ
    見上げたもんだよ屋根屋のふんどし
    四角四面の豆腐屋の娘、色は白いが水くさい

 名調子の寅さんが渥美清なのか、渥美清が寅さんなのかもう分からない。分かるのは新しい寅さん映画が観られないこと。平成日、ハハハ笑いの日、渥美さんが亡くなったというニュースが流れた。まだ68歳、まるで寅さんを地でいくようにフイと旅出ってしまった。
 寅さん=日本人の感があるが寅さんのような人、いそうで居ないと思う。寅さんは自由でいい。でも時おり見せるさびしそうな横顔、自由と引きかえ失くしたものを語っている。まあ、それはおいといて正月とお盆、映画館で寅さんに会ってげらげら笑っているうちに、何だかよく分からないが「世の中、捨てたもんじゃない。ま、元気だしてやっていこう」となる。
 寅さん!寅ちゃん!名前を呼ぶだけで可笑しい。なのに『寅さんの教育論』とは堅い。しかし寅さんは寅さんでわずか55ページ「少年寅さんは落ちこぼれだった」で始まる。
 「男はつらいよ」の山田監督が渥美清、寅さん、映画作りをやさしい口調で語る。カットの写真からは寅さんの美声が聞こえそう。

(渥美清は)話の上手な人で詩人だなあと思いましたね。描写の仕方がイマジネーション豊かで、聞き手に情景をありありと思い浮かべさせるのです。
  車寅次郎の生い立ちはあまり幸せではない。芸者が産んだ子どもで、産みの母の顔は憶えていない。両親も小さいときに死んで、おじさんとおばさんにそだてられたんだけれども、たった一人の肉親の妹がいて、この妹は寅とは似ても似つかぬいい子である。
  成績の悪いクラスのお荷物であった少年が、後世、天才的な俳優として寅さんという人間を演ずる・・・・・・一息つきたいとき、大きな役割をもつ・・・・・・寅もその仲間。

 筆者は寅さんに泣き笑いし「それをいっちゃぁおしまいよ」を言われないうちは人間まだいけると思っている。渥美清さんのご冥福を祈りつつ。(1996年)

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2009年7月23日 (木)

本ほんご本/柴五三郎/小野友五郎

     <本>
   『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』/柴五三郎

    柴家の子どもは男女11人、そのうち男子は5人で表題の3人の他に次男謙介(戊辰戦争で戦死)、三男の五三郎がいた。 五三郎は京都守護職となった会津藩主の供をして上京、御所を守って長州勢と戦う。 槍が得意な五三郎であるが負傷してしまう。が、傷の手当をするとすぐ戦場にとって返す強者だった(「禁門の変と五三郎」)。 元気と勇気は人一倍の五三郎だが、時の流れには逆らえず世の中はひっくり返り、働き場を求めるも道は開けない。 その間、兄弟たちはますます飛躍、遠くヨーロッパへ赴任することも。故郷には老いた父が一人、戊辰戦争の犠牲となった一族や自刃した母や妻、娘の墓を守っている。そこで五三郎は会津の父のもとに帰還する。 世の中が大転回するとき、多くの人間がヒドイ目に遭う。 幕末明治をたどっていると、日本のために命がけで働く人物に感銘する一方、苦労するだけさせられて名を残すこともなく死んでいった人々が大部分だと気付く。  五三郎も飢餓に苦しみ悲惨な境遇は賊軍といわれた他の武士と同じだが、彼が遺した『辰のまぼろし』を読むかぎり、現実を受け止め男らしくさっぱりしている。自らの立身を捨てて親兄弟に尽くした五三郎は、ある意味家族の犠牲になったのかもしれない。“愛すべき男”五三郎ファンは他にもいそうな気がする。

  <ほん>
 土日の高速道路が千円という夏、高速バスで信州松川町の親戚を訪ねた。桃や梨、果物畑の向こうに山々が連なっている。あの山の向こうは?と聞けば木曽だという。木曽といえば島崎藤村、「木曽路はすべて山の中」で始まる『夜明け前』が思い浮かぶ。主人公の青山半蔵は幕末維新の大変革の時に流転している。柴太一郎が江戸と京、下北半島から九州まで駆けめぐった時節と重なる。読みかえしてみようかな。

. < ご本>

 『怒濤逆巻くも』(どとうさかまくも)  幕末の数学者 小野友五郎 (鳴海風著 新人物往来社)

  数学好きですか? 私はさっぱり。まして数学者など敬遠ですが小野友五郎の名にひかれて読みました。NHKテレビ[プロジェクトX]は、逆境を智恵と勇気で切り開く人々を紹介して人気でした。

 友五郎の生き方はそれを思い起こさせます。  若き友五郎は黒船が押し寄せ開国への道を歩む日本のため、小栗上野介、ジョン万次郎、長崎海軍伝習所卒業生らと働きます。高い数学力はオランダやアメリカの新知識吸収を容易にし、得た技術を実地にいかし成果をあげます。実務で身分の階段をかけ上り、笠間藩の下級武士から幕臣になりました。  日本人初の太平洋横断を成功させた咸臨丸、艦長は勝海舟、友五郎は航海士として乗船、福沢諭吉も軍艦奉行の従者として同船していました。勝海舟と福沢諭吉には良いイメージが一般的ですが、友五郎が二人を見る目は厳しい。それは航海中の体験、または実務家の目からでしょうか。
 のちに友五郎は咸臨丸艦長となり小笠原諸島回収のため小笠原調査に赴きます。かと思えば再び渡米、南北戦争後のアメリカで軍艦の買い付けをします。その間にも蒸気軍艦の国産、製鉄所(後の横須賀造船所)設立など忙しく、家庭をかえりみる暇がありません。妻が心を病み友五郎は仕事を休みます。が、遅かった。
 妻は自ら命をたち、さびしく悔いの残る日々を過ごします。しかし時代は彼を必要とし、仕事に戻った友五郎は昇進を続け、再婚もします。  開港した日本、その変化は留まるところをしりません。ついに時代は暗転、江戸幕府は倒れ明治維新となります。 新政府はいったんは友五郎を罰しますが、その能力を必要として官に招きます。友五郎は海軍への出仕を断り、鉄道建設に測量技術を役立てました。

  明治の世。友五郎は道を開いてくれた恩人、小栗上野介が殺された水沼河原を訪れました。そこにはもの悲しい風が吹いてい、国を憂え身を惜しまず働いた小栗の悲惨な死を悼むかのようでした。たたずむ友五郎の声にならない詠嘆が胸に迫ります。あなたも小野友五郎とともに時代の波をかぶり波濤を越えてみませんか。(2003年)    

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2009年7月22日 (水)

本ほんご本

<本>            

Photo

『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』

Q: 「明治の兄弟」ってどんな本?

A:ペリーの黒船から昭和の敗戦まで百年間の長い物語。本も持ち歩くには分厚くて重い。でもこの一冊で、幕末から明治・大正・昭和まで通しで読め、ヤング・ジャパンが垣間見えます。なお登場人物数百人。

Q: その出身は、兄弟の働きは?

A:戊辰戦争で敗れ賊軍とよばれた会津藩。敗者の運命はは悲惨なものだが、彼ら兄弟は涙をふるって前進、それぞれの仕方で新生日本に尽くした。以下一部を紹介する。    長男・太一郎は京都守護職となった松平容保の手足となって、  公武合体に力を尽くし、時には新撰組をひきいて京を守護した。   四男・東海散士四朗は西南戦争に出征して良き先輩に出会い、アメリカ留学への道が開け、ハーバードとペンシルバニア大学へ。帰国後刊行した『佳人之奇遇』はベストセラーになった。やがて代議士となり明治の議会内外で日本のために奮闘する。   五男・五郎は下北半島恐山の麓で餓死と隣り合わせの生活を耐えているとき恩人に出会い東京に旅立つ。のち軍人となり、義和団事変では大活躍、北京の連合八ヶ国の危機を救う。そのとき五郎は軍人としてはもちろん、良き日本人として欧米人の心に刻まれ、中国人にも慕われた。

<ほん>

大きなけやきの木の下で

   郊外に引っ越しまず気に入ったのが、道の向こうのひょろっとした三本けやき。それから40年、けやきはどっしり、町を見守っている。 木陰は魅力的だ。幼い子らが走り回るかと思えば、弁当を食べる人もいる。石の階段に座り込んで女子高生が本を開いたり閉じたり、待ち合わせかな? 私はけやきの見える窓辺で、映画「北京の55日」で柴五郎を演じた伊丹十三の本を読むとしよう。 『伊丹十三記念館 ガイドブック』は単なる案内本とは一味違って内容が豊で、なかなか深い。

     

<ご本>

 

『シュリーマン旅行記 清国・日本』   (ハインリッヒ・シューマン著/石井和子訳 講談社学術文庫)

 近ごろ海外旅行はぜいたく言わなければ国内旅行と変わらず、またはもっと安く行けたりします。その安いシンガポールツアーの折、シンガポールドルを用意せず出かけました。現地で両替、日本円でも買物ができました。英語が不自由でもバスや地下鉄に乗って、サリー姿、中国人ふう男女と様々な人種の乗客を眺めたり、逆に見られたりしながら楽しみました。熱帯植物園ではへそ出しルックの日本人ギャルもいました。気楽なものです。  これが1865年、江戸末期となると、世界旅行はそうかんたんではありません。陸路船旅とも日数と費用は大変なもので、海賊に襲われないとも限りません。勇気と探究心と財力が必要です。それに加え旺盛な情熱をもった旅行者が、ヨーロッパからやってきました。トロイア遺跡の発掘で有名なハインリッヒ・シュリーマンです。  彼は偏見のない目で幕末、一大転換が始まる直前の日本を観察しています。食物、風俗、家庭生活から、将軍の行列まですごい好奇心です。見聞記の行間には日本の良さが表れています。それを誇らしく思うにつけ、今の私たちはシュリーマンの目に映った、良き日本を置き忘れていると思わずにはいられません。  

ヨーロッパでは家具類の豪華さを隣人達と競い合うが・・・・来日して豪華な家具調度抜きでも、じゅうぶんやっ ていけるのだとわかった。もし正座に慣れたら、つまり椅子やテーブル、あるいはベッドとしてこの美しいござを用いることに慣れることができたら今と同じくらい快適に生活できるだろう。家族全員が器用に箸を使って、われわれの銀のフォークやナイフでは真似のできないほどすばやく、しかも優雅に食べる。 役人に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである。

 正直なところ思い違いといえる箇所もありますが、見聞記はそれをおぎなって余りあります。文庫本で手になじみやすいし、ぜひどうぞ。2009.7.1

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