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2009年8月

2009年8月31日 (月)

本ほんご本:山県有朋/大隈重信/伊沢修二/中江兆民/松方正義/岩崎弥之助 

 2009年8月総選挙は与党自民党の大惨敗となった。何とか国民の方を向いて真剣に政治に取り組んで貰いたいという切なる願いの結果と思う。政権を得た民主党がこれからどのように我々庶民の方をむいて政治を実行し、日本を守っていくか見守らなくてはならない。

 ところでわが国初の総選挙は今から119年前に行われた。そのころ日本は幕府が欧米諸国とむすんだ安政五ヶ国やその他の条約により日本は治外法権、関税自主権などを喪っていた。そのため明治政府にとって条約改正は最高の外交課題であった。しかし外交交渉は欧米の利害のために遅々として進まなかった。
 民間では条約改正論議がさかんに行われ、政府は税権を早く取り戻そうとするあまりか外国人裁判官を認めようとした。それがロンドンタイムス紙上にのり、日本に知れると反対運動はますます高まり、大隈外相は爆弾を投げつけられ負傷するという事件がおこった。これにより黒田内閣は総辞職し山県内閣となる。
 ちなみに条約改正を果たすまで年月を要し1894(明治27)年に法権、税権の回復に至っては1911(同44)年にようやく達成するのである。

 山県有朋首相のもと総選挙が行われることになった総選挙の結果と議会の模様は如何?
 その模様は『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』(p288~)から抄出する。

                                                         

 

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2009年8月23日 (日)

本ほんご本: 河上肇/尾崎行雄/河野広中/寺内正毅

『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』衆議院議員総選挙

 2009年8月18日第45回衆院選が公示された。新聞の一面には
“擁立候補初の逆転/「強気」民主「防戦」自民”  の見出し(毎日)。
 この夏は気候がおかしく、新型インフルエンザがはやったり、どうもいつもと様子が違う。そしておかしいのは気候ばかりでなく日本の社会もゆとりがなくなり、弱い者にしわ寄せがいってる。一票をどうするか考えどころである。
 ところで昔は制限選挙で一定の納税額以上でないと投票できなかったから、今ある一票を大事にしたい。
 この制限選挙の時代、今から92年前の大正時代に柴四朗「殿閣下事件」という一票を争う事件があった。 その経緯を本編第5部1章・寺内正毅内閣から抜粋してみると、冨の偏りと貧窮、株の下落、国防、教育とどれもが現在の世相と似ている。

  
    柴四朗と選挙「殿閣下事件」

 第一次世界大戦(1914~18)は日本に好況をもたらしたが、それは船成金といわれる造船業や鉄鋼など軍需物資、紡績業などに偏り、物価上昇にたいし労働者や下級官吏は月給が追いつかなかった。
驚くべきは現時の文明国における多数の貧乏人」(河上肇)社会で、友愛会の若手幹部による労働者問題研究会や職工組合などが結成され、「ふえる貧乏人の救済のために内務省が調査する」ほどであった。

 このような社会状況の大正5(1916)年、寺内正毅が官僚超然内閣を成立させた。寺内は戊辰戦争、西南戦争に従軍、日露戦争では陸相として戦略計画を推進した。長州軍閥の指導者として政界に転出したのである。

 翌年、寺内内閣がはじめて臨んだ議会は早くも議会と政府が衝突、内閣不信任決議案が出され尾崎行雄(憲政会)が提案理由を説明しようと登壇、その時、衆議院解散の詔書が伝えられた。
 四月、解散後の第13回衆議院議員総選挙の結果は、「勝った!政府党が勝った」で、寺内首相は「どんなもんじゃ」とご機嫌だった。政友会など政府側は計215、これに対し憲政会ほか非政府側は計164であった。

 議席を減らした憲政党本部はさえない。憲政党の柴四朗も「いったんは落選の憂き目」をみたが、実は当選、衆議院議場でほかの七人の補欠当選議員とともに紹介された。これが「殿閣下事件」である。

 若松市の当選は若松出身の実業家で新人の白井新太郎が311票、四朗は310票、わずか一票差である。この得票に対し河野広中は、
「柴四朗の敗因は問題ですね。僅々一票の差なんですが、その一票が [柴四朗殿閣下]と記されて無効だというんです。そんな馬鹿なことがあるものですか。明瞭に柴四朗と記され、殿閣下の敬称を附したのだから、これは当然有効ですよ。訴訟ものです」(中外商業新聞)といった。

 また大阪毎日新聞
「若松市はいつも激戦地で、柴氏は苦戦を繰り返している。かつては政友会の日下義雄に敗れたが、今度閣下という尊称を名前の下に書かれたため、一票違いで落選は気の毒だが、いずれ訴訟を提出するだろう」という記事を掲載した。
 予想通り、四朗は投票用紙に「殿」「閣下」を書いて無効になった二票について訴訟をおこした。選挙から三ヶ月後の七月六日に判決がくだって勝訴、逆転当選となったのである。

 
 さて選挙後の議会、多数派の支持を得た政府は矢つぎばやに出された内閣不信任案・外交調査会決議案を廃案にし、海軍軍備に関する追加予算などを成立させた。
 またこの年、寺内内閣は内閣直属の諮問機関として臨時教育会議を設置した。三十年来の懸案であった学制を改革し、義務教育費国庫負担法を定め、年額一千万円を支出することにした。しかしこの一千万円は市町村小学校費総額の一割にすぎなかった。物価の上昇が激しかったため、国庫負担金の支出にもかかわらず教育費は町村財政を圧迫した。

 寺内首相の士官学校教官時代、生徒の中に柴五郎がいた。寺内は官僚的であり武断専制的になりやすく非難されるが、その人となりは清廉潔白だという。正直に働きさえすれば決して見捨てない人と部下には慕われたようである。

     
        *****  **  *****

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2009年8月19日 (水)

本ほんご本:大山捨松/大塚楠緒子/与謝野晶子/茨木のり子

《本》

『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』大山捨松/大塚楠緒子/与謝野晶子

 日露戦争、そのとき女性たちは

 戦地に夫を送り出した銃後婦人、その代表として総司令官大山巌夫人捨松は献身的な活動を行い、慰問袋の発送・出征家族の見舞奉仕・赤十字社篤志看護婦会・愛国婦人会などに尽した。戦地での夫や子ども、兄弟を思う気持ちは身分に関係ない。女性の誰しもが無事の帰還を願ってやまない。
 旅順の総攻撃で多くの戦死者がでた直後、与謝野晶子は旅順口包囲軍中にある弟を思い、
君死にたまうことなかれ、旅順の城はおつるとも、おちざるとてもなにごとも」を雑誌「明星」に発表した。弟を思う気持ちが戦争反対だけでなく、天皇批判にまで及んだため、随筆家大町桂月は雑誌「太陽」で
「日本国民として許すべからざる悪口なり。国家の刑罰を加うべき罪人なり」と罵倒した。これにたいし、上田敏馬場孤蝶および与謝野鉄幹らは
「君死にたまうことなかれ弁護の演説会」を計画して新聞「日本」に予告した。この晶子の君死にたもうことなかれと並び称されるのが大塚楠緒子(なおこ)の「お百度詣で」である。雑誌「太陽」に発表された。
お国と我夫と いづれ重しととはれなば 答えずに泣かん
 穏やかではあるが、国と個人の相克を歌っている。晶子楠緒子、二人の歌は日露戦争を背景に生まれた反戦思想の美しい結晶といえる。
(『明治の兄弟』第3部・日露戦争より)

               *****    **   *****


《ご本》

 『茨木のり子詩集 見えない配達夫』  ( 童 話 屋 )
                                                                
 幼稚園児が二人、「ややこしや ややこしや」 かとおもうと「汚れっちまった哀しみに今日も小雪の降りかかる」 むじゃきに暗誦している。なんで5歳児が中原中也を、と思ったらNHKテレビ[にほんごであそぼ]で覚えたのです。ややこしい、悲しい、とか無縁そうな幼い子もやがて大人になります。
 大人になって社会にはねとばされ、傷つき、「汚れっちまった哀しみに」と涙でつぶやく日が来ないでと願います。ただ、物心両面の不均衡は世間にはよくあること。もし、つらかったら溜息ひとつ、うつむいた目の先に一編の詩があれば、癒されるかもしれません。

 詩の内容、形はさまざま、現代詩には批評、風刺がこめられたものが多いです。しかし詩の凄さは批判や主張が行間にあっても“みずみずしい”ところでしょうか。ここで茨木のり子の詩一編、声に出して読んでみませんか。
      

     わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね

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2009年8月12日 (水)

日本内外の8月15日

Photo 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』昭和二十(1945)年

   第5部 第6章  日本内外の8月15日

 1945(昭和20)年の元旦は警戒警報発令で明けた。この戦争も4年目となり、敵機が頭上を驀進する有様であった。前年11月からB29が東京上空に姿を顕わした。
 柴五郎の次女春子(西原中将妻)は空襲で焼け出され、娘二人を連れて着の身着のまま世田谷の柴邸に逃れた。そのとき、
 「戦況が厳しいのはわかっていたが、軍人の家なので家財を持ち出したり逃げ出すこともできず、みすみす丸焼けになってしまった」のである。

  当時、柴邸には(陸軍大将を退役して15年になる)五郎と長女みつ、春子母子3人、姉望月の息子そして女中と7人が住んでいた。五郎は少し足が不自由になっていたが毎日畑を耕していた。畑は山の上の方にあり五郎はお昼を呼びに来る女中さんを気の毒がって、鐘を鳴らすようにと言った。相手が使用人でもやさしい五郎である。

 戦争敗北の流言が広まり始めたころ陸軍士官学校以来の友人内山小二郎(侍従武官長・陸軍大将)が死した。内山と五郎はともに80歳を過ぎて、互いの家を行き来し
「どっちが先に逝くか」などと二人で言い合ったりしていたが、内山に先に逝かれまたさびしくなった。

 フィリッピン防衛戦では日本軍の戦死多数で敗戦続きの日本兵は山地を逃げまどった。ついに硫黄島も戦死2万人をだし玉砕した。硫黄島を占領したアメリカ軍はここから日本空襲を援護するようになり、3月9日夜から東京大空襲がはじまった。

 前線とかわらず戦場となった東京。江東区は全滅、その焼け跡には高さ2、3メートルのものが幾つもニョキニョキと立っていた。何だろうと近づいてみれば何と、人間の死体が折り重なったものであった。火災と熱風に追われ、逃げてきた人たちが折り重なって人塚になったのである。
 空襲に追われた国民は逃げまどい、絶望した。東京大空襲の死者は8万人にもなった。大爆撃は東京ばかりでなく大阪・名古屋の大都市をたたきつぶし、地方都市も炎上し国土は焦土となった。

 4月、アメリカ軍は沖縄に上陸したが、日本軍はこれを撃退することができなかった。5月、ドイツが無条件降伏、日本も降伏を考えなければならない時が来た。戦争終結に向かおうという気運がでてきたが、進展しなかった。日本軍はなお沖縄でアメリカ軍と戦う。やっと6月末には死闘もほぼ終わり、アメリカが沖縄を占領した。
 沖縄決戦は「ひめゆり部隊」の悲劇をふくめて9万の将兵が戦死、15万の島民が犠牲となった。なんと、犠牲者は将兵より一般国民の死者の方が多かったのである。

 降伏以外の終戦はあり得ない時に至っていたが、最高戦争指導会議はなおも最後の一大打撃を与えて、多少とも有利な和平をめざそうと
「洋上、水際、陸上いたるところで、全軍をあげて差し違えの戦法をもって臨み、がんばれば必ずや勝利を得ると、本土決戦を決定したのである。参謀本部の作戦部長は
頼むは石に立つ矢の念力」で本土決戦を迎えようとしていた。

 7月、ベルリン郊外のポツダムでアメリカ大統領トルーマン・イギリス首相チャーチル(のちアトリー)・ソ連首相スターリンが会談し、すでに降伏したドイツの戦後処理方針および対日無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。
 しかし、日本政府をこれを謀略なりとして黙殺。これに対する連合国の回答が広島と長崎への原子爆弾投下であった。

 8月6日広島に原爆投下。8日、ソ連が対日宣戦布告。9日、長崎にも原爆が投下され、この日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定した。
 原爆の破壊力はものすごく両市とも一瞬のうちに壊滅した。残虐な兵器が使用され、死者は合わせて約40万人にもなるすさまじさであった。

 宣戦布告したソ連の軍隊は南樺太・満州・朝鮮に進撃して関東軍を蹂躙した。不意をつかれ、大軍が国境から侵入しても関東軍には押し戻す戦力がなかった。関東軍は劣勢の南方戦線へ兵力をさいていて戦力は2分の1、野砲・銃剣も不足し攻撃どころではなかったのである。
 ソ連参戦から日本への引き上げまでに約17万6千人が死亡し、ソ連軍侵攻のさい暴行、略奪事件が発生、混乱の中多くの中国残留孤児が生まれた。関東軍首脳部は率先して家族を避難させ自らも後退した。しかし開拓民や一般居留民の安全を省みなかったから、満蒙開拓団の運命は悲惨なものとなった。

 8月15日の午前中、関東地区に250機の艦載機が来襲した。その正午、ポツダム宣言を受諾する天皇の放送が行われた。玉音放送を通じて日本の無条件降伏を知らされた国民は、

「玉音拝し、一億ただ熱涙。大陸に、南海の孤島に、ああわが幾百万の将兵は玉音を拝し奉っていかに悲しく戎衣(軍服)の袖を絞ったことであろう・・・・父母の許を遠く離れて田舎に暮らす可憐な疎開学童たち、玉音を何と聴き、何を偲び奉ったことか」(朝日新聞)。
 国民の多くは天皇の声が聞こえなくなっても直立不動のまま、ただすすり泣いていた。

 朝鮮ソウルでも総督府従業員は15日のラジオ放送で涙した。反対に日本の敗戦により解放された朝鮮の人々は国民服やモンペを脱ぎ捨て、チマ・チョゴリ姿で街を歩きはじめた。韓国ではこの8月15日を光復節として祝っている。光復を迎え朝鮮の人々は感激したがすぐに自主独立の国家建設には至らなかった。

 日本が降伏したその日、米ソ間で分割占領の合意がなり、三十八度線の南はアメリカ、北はソ連が進駐して軍政が実施された。はじめは連合軍の一時的な任務分担に過ぎないと思われたこの分割占領は、朝鮮半島に二つの国を生みだし今に至っている。
 たまたまこの辺りを執筆中の2008年旧正月にソウルのシンボル南大門が焼失、600年の重みが一瞬にして消えてしまった。韓国の人々はどんなにがっかりしたことだろう。その悲しみは日本にも広がっている。

 
 満州国は日本が降伏して解体、皇帝溥儀も退位することが決定された。満州国はわずか13年余りで消滅した。溥儀は日本に亡命しようとしたが8月22日、ソ連軍によって抑留された。

 中国戦線ではすでに8月10日には日本軍の武装解除に動き出していた。中国はついに勝利したのであるが、喜びにひたる間もない「惨勝」であった。なぜなら内政面で多くの課題を抱え、焦土の復興を考える暇もなく、勃発した国共内戦(第3次内戦)に直面していたからである。
 そして21世紀に入った今、中国は北京オリンピック成功に向けて奔走している。

 台湾カイロ宣言(ルーズベルトらによる対日戦遂行と対日処理)により、中華民国に返還されることになった。最後の台湾総督の安藤利吉は敗戦処理にあたり、内地人引き上げを終えたのち戦犯として上海に送られ自害した。
 軍事基地・公共施設・学校・民間会社が接収され、日本に代わり祖国(中国)からやってきた重慶国民政府、あるいは国民党のものとなった。一般の台湾人の多くは日本の戦争に巻き込まれ、戦病死者は3万人をこえた。敗戦によって被害をこうむったのは日本人だけでない。台湾人も敗れたのである。
 戦争終結から63年の今、台湾は総統選挙のさなかで大陸出身者の外省人と台湾出身者の内省人それぞれの代表が選挙戦を繰広げている。

 五郎が長くその職にあった参謀本部は、10月15日廃止、72年の歴史に終止符がうたれた。
 また陸海軍の外地にいる部隊の復員、武装解除後の軍人が各家庭に帰るのにともない、陸軍は第一復員省、海軍は第二復員省に改組され、復員を推進した。

        ×***   ****   ****

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2009年8月10日 (月)

本ほんご本:郡司成忠/白瀬矗/伊能忠敬

《本》

『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』郡司成忠/白瀬矗

  近ごろ夏山登山で中高年や中学生の遭難事故が相次いでいる。冒険ならしっかり準備したうえで出発するのだろうが、便利すぎる現代、自然への畏れを忘れて登っているのではないだろうか。
 もっとも準備万端整えたにしても厳しい風雪にさからえない時がある。今から116年前
「郡司大尉の一行はいよいよ来る二十日を期し、晴雨にかかわらず隅田川の上流を発して遠征の途に上ることに決せり」(明治26.3.16朝野新聞)。 明治の文豪露伴の弟・郡司成忠(しげただ)はこうして北の守りにつくべく、占守(シュムシュ)島に向かった。事情は次のようである(本編p303)。

 千島探検隊
日本の北方は江戸幕府のころから南下してくるロシアと、カムチャッカ半島と北海道の間にある千島列島で接触していた。そこでしばしば紛争が生じていたが明治八(1875)年、千島列島は樺太・千島交換条約により日本の領土となっていた。

 明治二六年三月、福島安正中佐がシベリア単騎横断をしているころ、北方警備と開拓を志す人々が千島へ向おうとしていた。海軍大尉をやめて同志を集め「報効義会」を設立した郡司成忠(幸田露伴の弟)が千島占守島移住を計画し予備兵五十名が隅田川を出発した。
 その日、隅田川堤は見送りの人々であふれ、小舟には音楽隊、空には花火と錦絵にもなったが、この壮途は失敗し隊員の白瀬矗(のぶ)らは千島に残り、救援もなく悲惨な孤島生活を三年間もしなければならなかった。この白瀬こそ南極観測船「しらせ」にその名をとどめる探検家、日本人としてはじめて南極大陸に上陸した人物である。

 次の千島行きは三年後、郡司は六十余名の同志をひきいて再度上陸し移住を試みた。一同は先住の隊員とともに農業開拓、漁業開発に従事した。占守に漁場を創設し付近各地にも鮭鱒漁場を開設したのである。
 
           **** ****

《ほん》

  露伴の弟が千島開拓に旅だった同じ年、「二六新報」新聞が創刊され柴四朗は編集同人となるが、ここには創立時から与謝野寛(鉄幹)が在社していた。当時の鉄幹は旧派の短歌を痛烈に批判するなど注目の青年であった。鉄幹についてもっと話したいが、妻晶子を記すときまでとっておく。
  今回の隠しテーマは探検、そして子どもだって探検する。おりから今は夏休み、『鉄塔武蔵野線』(銀林みのる・新潮社)の主人公わたしとアキラのように自転車で遠くまで突っ走る少年がいそうです。この本を読んでから、ただ高いだけの鉄塔がかっこうよく見えるから不思議です。
  ところで郡司大尉は船で、少年二人は自転車で探検にでましたが、徒歩で探検したのが伊能忠敬、彼の足跡は立派な地図として今に残っています。

 《ほんその他》他でも書いているなら読んでみようと思われたら下記よろしく。http://secondlife.yahoo.co.jp/s/16469/

 
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《ご本》

『四千万歩の男』(全5巻)  (井上ひさし 講談社)

 “人生二山時代”とこの作者はいいましたがまったく同感です。現代は平均寿命がのびて2、30年もボヤッとしていなければいけない。余生が長くなり大変です。
 50代前の山と退職後の山と。二つ目の山ともいうべき第二の人生を生きていくには心棒が必要です。作者はその支えを見つける手だてを“伊能忠敬の一生”から「第一の人生でやりたいことを見つけ、第二の人生で本気で取り組む」そう考えたそうです。
 忠敬は50歳までよく働き養子先の伊能家を立て直し、財産もふやして隠居しました。それから佐原を出て江戸に住み、幕府の天文方の高橋至時に弟子入り、暦や測量技術の勉強をしました。これだけでもじゅうぶん恐れ入りますが、その先がもっとスゴイです。
 次に忠敬がしたことは何と、ボランティア自費で北海道へ測量の旅に出ました。正確な蝦夷地図を作成して力量が認められると、その後は、幕府御用となり73歳で没するまで各地を測量して日本地図を作りました。
 「人生二山を二つながら登りきった立派な話」は凡人にはキツそうですが、そこは名手井上ひさし、なぜかハラハラドキドキの事件が起きて、読み手をあきさせません。
 それにしてもなぜ夜になると事件なの? 忠敬はいつ眠るの? と案じていたら著者の講演を聴いて謎がとけました。克明な日記が残されていて事実には逆らえない、日記にない時間つまり夜しか小説にできなかったとか。
 江戸東京博物館で《伊能忠敬展》(1998年)がありました。その時、実際は5千万歩以上歩いて作られた本物の伊能図がみられました。ほかに緯度を測った象限儀や江戸時代の望遠鏡などの展示物、他に自分の歩幅を忠敬(69cm)と比べたり、触っていい量程車(引いて距離を測る道具)もあって楽しめました。

 文中の一つ目の山、今なら50代でなく60代でしょうか。いつかどこかでまた伊能忠敬展があったらお楽しみください。

               ∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬

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2009年8月 3日 (月)

本ほんご本:福島安正/山東一郎(直砥)/ニッカボッカの歌

Photo_2  

<本>

『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』/福島安正/山東直砥

 このごろは嫌々勉強する人が多そう、かつて自分もそうだった。読書で夜明かししても勉強は・・・・・・試験前になるとなぜか部屋の掃除がしたくなった。こんな話をその昔、蛍の光で勉学に励んだ人に聞かせたら、情けなくて涙も出ないだろう。
 さて、幕末の動乱も表面上はおさまった明治の初期、戊辰戦争の勝者もだが、敗者の側はさらに学問を身に付けて生きるすべを見つけなければならなかった。
 わが五郎少年は苦労の末、月謝の要らない陸軍幼年学校に入学して食べる心配もなしに勉強できるのを喜んだ。以下本編p107より
 
 教官はすべてフランス人で国語、国史などいっさいなく、九九までフランス語で地理歴史もフランスのだった。食事も洋食でまずいと言う者があったが、五郎にとってはフランス語以外は天国だった。会津弁の五郎にとってフランス語は発音からして難しく笑われた。日本陸軍はのちに新興ドイツに乗りかえるまでフランス式だったのである。
 五郎はよき先輩に恵まれ、自らも寸暇をさいて自習した。もともと温和で正直、よく学問をしたがその勉強ぶりはすさまじい。蛍の光ならぬ、便所の光で猛勉強、反則であったがトイレの石油ランプを利用して勉強した。その甲斐あって、進級してからは優等生の仲間入りをし、フランス語の作文で教師から「トレビアン」とほめられるまでになった。

 四朗の方も早くから英語の勉強を心がけていた。東奥義塾が外国人教師を招聘して教育しているときき入塾したが、学資がないので塾の雑用をしながら学んだ。また東京では沼間守一の英語指南所や山東の北門義塾で学んだ。以下本編91より

 塾は北門社または北門社明治新塾とも。創立者の柳谷藤吉は戊辰戦争のとき兵器を密かに外国人から買って、それを旧幕軍と官軍の双方に売り一万円ほど利益を得た。そこで知人の松本順や山東に相談し学校を創ったのである。
 義塾でははじめ外国人を招いて英学を教えた。塾生募集要項をみると
「月謝は金二両、何人に限らず教えを受けることを欲せば来たり入社すべし、西洋人が英仏独逸学ならびに算術を教授す」とある。
 この北門義塾出身者に、シベリア単騎横断で知られる軍人福島安正がいる。若き日の安正は衣類、書籍を売り払って学資に充てたため、冬も単衣で過ごし、夜は大声で読書をして寒さをしのぐというほど貧しかった。しかしこの塾で外国人から学んだ地理学が中央アジア大陸横断に役立ったという。のちに柴五郎、福島ともに北清事変で大活躍する。

 当時の北門義塾は福沢諭吉の慶應義塾(英学・生徒数三百十三名)、箕作秋平の三叉学舎(英仏学・百六名)、中村敬宇の同人社と並び、東京有数の学校であったが、経営困難となり廃校となった。のちにその隣地に東京専門学校、現早稲田大学が創立される。

 塾長の山東は、西南戦争時に陸奥宗光に組みして兵を挙げ政府転覆を謀るが失敗。陸奥は獄に入ったが、山東は関東に逃れた。のち箱館に行き、ギリシャ正教(神田ニコライ堂)のニコライにロシア語を学ぶ。そして山東は行動だけでなく心境も東奔西走し、はじめ高野山の僧だったのがキリスト教徒として生涯を終えるのである。

<ほん>
 2009年夏の毎日新聞埼玉版「県内のブラジル人学校経営難―――景気悪化で親失業→月謝払えず退学」
 生徒の親の大半は派遣社員などの非正規雇用だったため、昨秋からの景気悪化で次々に失業という記事である。日本とブラジルの架け橋になる子どもたちに厳しい現実が突きつけられている。
 このような記事を目にすると、学ぶことの大切さ、学べることのありがたさを感じなくてはと思う。自戒しつつ孫にも話してみよう。

<ご本>
 『ニッカボッカの歌』定時制高校の青春                              
                                    (南 悟 著   解放出版社)

 俺は今大工の華咲く一五歳足場に上り破風板を打つ
 トンカチで釘打つ仕事の最中に自分の手たたき皮がめくれる
 足場にて可愛い娘見とれ踏みはずし番線からまりニッカびりびり
 やりました仕事みつかりうれしいなぁトンカツ屋さん給料ほしい
 鉄工所だるさ我慢スイッチオン今日も格闘マニシング

 ニッカボッカは建設現場などで見かける作業着。まだ15歳の高一少年たちがこのような仕事の歌を詠んでいます。国語の時間に指を折りつつ短歌を作る生徒たちに、ありのままを詠むようにと促す著者南先生、その授業風景を連休さなかの5月4日、NHKテレビで見た方もあるかもしれません。
 その番組「卒業のうた ― 夜の教室青春の短歌」放映のころ、17歳の空恐ろしい事件が相次ぎました。事件の少年らが神戸工業高校夜間定時制に通っていたなら、そこまで駆り立てられなかったでしょう。なぜか、それは生徒の短歌をよむと察せられます。

 少ししか通えなかった学校に楽しみながら今通ってる
 友だちと遊びほうけたあの頃の自分に見せたい今のがんばり
 まわり道多くの仕事経験しやっと見つけた自分の居場所
 仕事して学校来るのしんどいが友達いるから頑張れるのだ

 今、北海道有珠山の噴火で長い避難生活を強いられている人が多くいます。神戸は5年前大震災に遭いました。自分もそうですが人は離れた地で大きな被害を被った人々を忘れがちです。せめて痛手を負った人を思い遣る心を無くさないようにと<震災を詠む>に思いました。

 手に負へん崩壊家屋数えきれんジャッキアップしまくりまだ五〇軒
 震災で神戸デパート焼け崩れ涙ながらに仕事失う
 かけつける友の住まいは崩れおり生き埋めの友にわれは無力

立ち直りに向け震災二日後、自家の片づけを後回しに18歳少年は新聞配達。

 木枯らしのガレキの中を探し当て吐く息白く新聞配る
「どのような失敗や挫折や障害があるにせよ、それが癒され、人として生きる力が与えられる不思議な学校」読めばあなたも在校生。(2000年)

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