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2009年12月

2009年12月29日 (火)

南極観測船「しらせ」と探検家白瀬矗

   南極観測船「しらせ」
 Photo_29 1982年に就航した南極観測船「しらせ」が役目を終え、民間の気象情報会社に売却されることになった。そして2代目「しらせ」が11月10日、晴海埠頭を南極航海に向けて出港した。途中オーストラリアで第51次観測隊の本隊をのせ12月下旬に昭和基地沖に到着する予定。
 2代目「しらせ」は4隻目の南極観測船ですが“しらせ”命名の由来、明治時代の探検家・白瀬矗(のぶ)を知る人は多いでしょう。
 白瀬は陸軍中尉で仙台第2師団配属中から北極探検を志し、予備役となり千島探検隊に加わりました。その時の状況は

      千島探検隊
 日本の北方は江戸幕府のころから南下してくるロシアと、カムチャッカ半島と北海道の間にある千島列島で接触していた。そこでしばしば紛争が生じていたものの千島列島は樺太・千島交換条約により日本の領土となっていたのである。
 1893(明治26)年、北方警備と開拓を志す人々が千島占守シュムシュ島移住を計画した。
 郡司成忠(海軍大尉・幸田露伴の兄)は同志を集め「報効義会」を設立し予備兵五十名とともに隅田川を出発した。その日、隅田川堤は見送りの人々であふれ、小舟には音楽隊、空には花火と錦絵にもなった。
 しかしこの壮途は失敗し隊員の白瀬矗らは千島に残り、救援もなく悲惨な孤島生活を三年間もしなければならなかった。
(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』第3部日清戦争より)


     白瀬南極探検隊記念館
 白瀬は悲惨をきわめた孤島生活にも極地探検の夢を捨てることはなかった。日露戦争のために計画を一時中断したが次ぎに南極を目指す。そして千島探検から17年を経て実行の時を迎えた。
 明治43年11月、東郷平八郎元帥が命名した「開南丸」(204トン)で白瀬は27名の隊員らと東京芝浦港から南極に向けて出港した。
 日本人としてはじめて 上陸に成功した一行は1年7ヶ月にもわたる長旅をおえて、一人の犠牲者も出さず無事に帰還したのである。歓迎式には5万人の市民が集まったという。

 秋田なまはげ伝承館でなまはげが怖くてよそ見、「白瀬南極探検隊記念館・探検と極地の総合ミュージアム」(にかほ市)のパンフレットを見つけました。裏には南極公園の写真、船は開南丸を復元模型でしょうか。いつか機会があったら行ってみたい。(2009.11.11記)

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2009年12月26日 (土)

てれび指南帳(松尾羊一)より

 何かの縁でときどき好い出会いがある。昨年秋に一生に一度の本『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を出版して、読者を求めてあちこちウロウロした。
 還暦を過ぎているので友人たちも時間がある人が結構いて旧交を温めたり、離ればなれだったクラスメートを結びつけられたりして、出版して良かったことの一つに思えた。
 無名の筆者としては自分の本を検索して、貸出中の図書館を見つけると、遠くそちらの方にお辞儀をしている。パソコンにお辞儀をする姿を見たとしたら気持ち悪いかも。
 執筆するまでは資料漁りはもちろんゆかりの土地を旅行もしたが、熱意と内容のおもしろさは別。幕末から明治・大正、終戦までの100年余りを描いたものの、筆を抑えているので血わき肉踊るとはいかず、またとにかく長い。正直、読者は広がりません。

 ところが世の中は広いです。毎日新聞・夕刊「長屋のご隠居 てれび指南帳」松尾羊一氏が拙著をとりあげてくださいました。イブの夜新聞を広げてびっくり、もうこれ以上ないクリスマスプレゼントで感謝感激!

一部を引用させていただくと。

(09.12.24)てれび指南帳「続『JIN』の期待」より

幸  安易な未来の思い出物語あるSF手法を逆手にとったのが『JINー仁ー』なのだ。
隠居 未来からやってきた南方仁(大沢たかお)をさらに子孫をたどる現代史の幻視行に旅立たせるのだ。そこには「裏・坂の上の雲」の物語がごろごろしてるはずだ。
  例えば生涯を諜報任務に賭した石光真清が現れたり、野風(中谷美紀)は女権運動の福田英子になってもよし。橘咲(綾瀬はるか)は日本初の産科医楠本イネに変身して登場!
隠居 旧会津藩出の柴太一郎柴四朗(東海散士)に柴五郎をつづった大著「明治の兄弟」(中井けやき 文芸社)の中に大沢たかおをもぐらせてもいい。
そめ  サッパリわかんない。
隠居 『坂の上の雲』だって、司馬遼太郎が発掘した無名の青春像をめぐる物語だった。
  つまり、歴史認識痛快ドラマとして日本の「夢」を語らせるのだ。続、続『JINー仁ー』があったっていい。

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2009年12月24日 (木)

秋山好古

   今朝、NHKが“秋山好古が家族に宛てた手紙がみつかった”と自筆の手紙を映し出していた。
 会津人柴五郎ファンとしては秋山好古は五郎の陸軍士官学校同期として友人として欠かせない人物である。さっそく拙著『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』から、好古の活躍を引っぱり出してみた。
 日露戦争さなか1905(明治38年1月) 旅順のロシア軍が降伏してから2週間後、好古は奉天会戦を前にして黒溝台で自ら創りあげた騎兵隊を指揮して苦戦していた。

     黒溝台会戦
 旅順の陥落で日本は沙河に第三軍を投入する事にした。一方ロシアも援軍を得て、第三軍が沙河に到着するまでに眼前の黒溝台の日本軍を撃破しようと反撃にでた。十万をこえるロシア第二軍に虚をつかれた日本軍は大混乱に陥り、黒溝台を奪われた。
 それでも日本側は騎兵第一旅団を基幹とする秋山(好古)支隊がロシア軍主力に反撃、沈旦堡を守った。
 日本騎兵隊の創設者秋山好古が率いる騎馬隊、秋山支隊は激戦に耐え死にものぐるいで日本陣地を守った。日本軍は師団を順次投入、日露戦争最大の危機と呼ばれる黒溝台の戦闘は一月下旬まで続き、ようやく戦況が日本側に有利になると、クロポトキンが退却した。

 この会戦を勝利に導いたのは、なんといっても厳寒積雪の中で困難をきわめつつも増援軍が来るまで防戦、よく持ちこたえた秋山好古その人である。秋山は、
典型的な古武士的風格のある武将で、もうこの後ああいう人間は種切れになるだろう」(上原勇作)といわれるほどの人物である。無欲で小事にこだわらない、豪傑肌の軍人秋山を部下が慕っていたので、困難な戦いに耐えられたのだろう。
 そうはいっても、この戦闘の死傷者は一万弱にもなり、兵力が日本の三倍近いロシア軍とあまり変わらず、日本側の死傷率が高い。シベリアの酷寒のなかでいかに厳しい戦いだったのかが思いやられる。

     義和団事変
 古武士のようだと伝えられる秋山好古の人柄は外国人も惹きつけた。義和団事変のさい秋山好古天津駐屯軍司令官となっていたが、袁世凱(中国の軍閥・民国初代総統)の頼みをきいて行政権を清国に返すことに力を貸した。
 このことが日露戦争のとき日本軍のために便宜を得ることに役立つが、一つには秋山の豪放磊落で武士的風格が袁世凱を引きつけたこともありそうだ。

義和団事変:2009、10、21記事『ある明治人の記録』柴五郎義和団参照。

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2009年12月20日 (日)

柴五郎の諜報報告/秋山真之

    Photo_28

写真(陸軍砲兵少佐柴五郎報告・防衛研究所図書館蔵)
筆跡は五郎のものではない

  

 

     米西戦争、カリブの海へ

 1897(明治30)年2月、ハワイ到着の日本移民が手続き不備などにより上陸を拒否され、送還される事件があった。日本はハワイ外相に抗議し、翌年賠償金で解決した。
 また、日本はアメリカのハワイ合併を阻止するため大隈外相はアメリカ公使に抗議したりしたが、けっきょくアメリカはハワイを併合した。

 ハワイを手に入れたアメリカは太平洋進出をはかり、フィリッピンを植民地にというスペインとぶつかる。スペイン領キューバのアメリカ領事は居留民保護のため軍艦の派遣を要請、巡洋艦メイン号がハバナ港にやってきた。

 1898(明治31)年2月15日夜の港内、突然メイン号が爆発し海中に沈んでしまった。この爆沈をアメリカはスペインの機雷のせいだとしたが、スペインは艦内の火薬庫の爆発と主張して結論がでず、これが米西戦争の導火線となる。
 260人もの死者を出した軍艦メイン号には、日本人が料理人や給仕とし乗組んでいた。そのうち2人は助かったが7名はハバナ湾にのまれ、金額は不明だが弔慰金をもらった。
 アメリカ艦船の司厨部に料理人や給仕として採用されていた日本人を柴五郎も目にして報告している。

 4月に米西戦争がはじまり5月アメリカ艦隊はマニラ湾でスペイン艦隊を撃破、6月アメリカ軍はキューバに上陸を開始した。
 この戦争に日本陸海軍からそれぞれ観戦武官が派遣された。陸軍はイギリス駐在中の柴五郎砲兵“少佐”、海軍のほうはのちバルチック艦隊をやぶった日本連合艦隊作戦参謀・秋山真之海軍大尉である。
五郎はロンドンから大西洋をこえてキューバに急いだ。このとき真之は五郎に大勢を聞くなど面倒をみてもらった。真之の兄は五郎と陸軍士官学校同期で騎兵の育成者秋山好古
 米西戦争については島田謹二『アメリカにおける秋山真之』に詳しい研究があり、柴五郎についてもよく描かれていて興味深い。
 同書に秋山の諜報報告はすばらしいとあるが、五郎も22通の報告を出している。防衛研究所戦史部図書館で五郎の報告を閲覧できる。その一部を紹介する。。
 ちなみに写真の「明治31年5月10日、大西洋船中からの第1報告」は、ワシントンでアメリカ政府の従軍許可を得たらアメリカ軍主力がいるタンパに赴き、司令部について視察する」というもの。

 報告は全3ページ(写真)(印度本社ニ向テ)「今後ノ注文ヲセラレタシ 今後小官ニ送ラルヘキ諸書類中急ヲ要スルモノハ米国華盛頓本邦公使館宛ニ差出サレタク其他不急ノ分ハ従前通リ英国倫敦本邦公使館ニ宛差出サレタシ」

 五郎はアメリカ陸軍の動員と編成、武器、義勇兵についても諜報を送った。この時点のアメリカ軍は弱かったので見たままを報告した。ところが後々まで「アメリカ軍は弱い」という観念が抜けなかったいう説もある。いかにすぐれた報告でも明治の諜報を年代も考えず受け継いだ昭和の軍人がいたらしい。

その他の諜報は続きをどうぞ

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2009年12月17日 (木)

『アメリカにおける秋山真之』

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 先日、大型書店にいったら『坂の上の雲』関連本のコーナーが目についた。
 NHKで「坂の上の雲」の放映がはじまってだろうし、先の見えない今の世相に元気のある明治日本を振り返ってみようという人が多いのかも知れない。貧しいけれど希望にもえた若者たちが笑顔で走り回っているのをみると元気をもらえそうな気がする。
 特集コーナーには秋山真之に関した本はもちろん、あのバルチック艦隊をやぶった海戦の日露戦争のものなどいろいろ取りそろえてあった。

 そこになかったが『アメリカにおける秋山真之』(朝日新聞社)をおすすめしたい。
副題――明治期日本人の一肖像――著者は島田謹二で5年にわたり資料をあつめ研究した成果がつまっている。
 諜報報告や海軍軍艦表、また詳しい数字、戦術などでてきて、自分などには頭に入ってこない所もあるが文章がよく(見出しも文学的)、アメリカ留学の若き海軍士官の真之が目に浮かぶようだ。

 自分は会津人柴五郎東海散士(柴四朗)を調べるうちにこの本にいきあたった。米西戦争観戦武官として柴五郎(陸軍)に教わることがあった秋山真之(海軍)、その兄秋山好古(陸軍)と五郎は士官学校の同期であり仲も良かった。ほかにもアメリカ特命全権公使・星亨なども登場して興味は尽きない。内容豊富でうまく紹介できないので一部を抜粋しておく。
 続きをどうぞ

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2009年12月 4日 (金)

大村益次郎像制作者・大熊氏広略伝

Photo_2  折おり東京谷中にお墓参りに行く。帰りはたいてい上野公園を抜け広小路に出て食事をしたり映画をみたり、たまに鈴本演芸場で落語を楽しむ。不信心でご先祖様に申し訳ないがこっちが楽しみ。
 今年の秋分の日はJR日暮里駅からすぐの天王寺(夫の先祖が享保年間に住職)と、実家の墓がある感応寺(渋江抽斎の墓所)にお参りした。この日は上野公園内の奏楽堂でバロックコンサートを楽しんだ。

 旧東京音楽学校奏楽堂といえば、かの幸田姉妹滝廉太郎が思い浮かび明治が身近に感じられる。コンサートの余韻と明治の音楽家を思いつつ奏楽堂を後にすると動物園の前にでた。園の手前に騎馬像があるが、仰ぎ見る人は少なく明治は遠くなりにけりである。

 この銅像は明治末に製作された小松宮彰仁親王像、作者は大熊氏広といい多くの作品がある。作品中もっとも有名なのが靖国神社参道の大村益次郎像で日本初の本格的な西洋式のブロンズ像である。
 作者に指名された当時の大熊は、まだ工部美術学校卒業後3年という新進彫刻家だったが、かつて工部卿をつとめた山田顕義の力があって指名されたともいう。

 大熊氏広は1856(安政3)年、東京に隣接する武蔵国足立郡中居村八幡木(現鳩ヶ谷市)に生まれた。父は俳号をもち、祖父の良平も学芸を好み文人や画家と交流があり、兄徳太郎は篤農家として名を成し緑綬褒章を得ている。少年時代は日本画を学び16歳のとき模写した「酒呑童子絵巻」が残っている。

氏広略伝については続きをどうぞ。

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