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2010年2月

2010年2月28日 (日)

岩崎彌太郎を「明治の兄弟」(東海散士ほか)で見てみる

 NHK大河ドラマ主人公の坂本龍馬とともに岩崎彌太郎の評判がかまびすしい。テレビを見て彌太郎が汚れていてびっくりしたが現代とは貧窮の程度が違う。違和感があっても不思議はない。
 江戸から東京への変革期、陸軍大将柴五郎だって少年の日、食うや食わずで冬に浴衣一枚で巷を彷徨した。変動の時代、困窮に苦しみ「坂の下」で涙にくれた人は多く、ドラマの彌太郎の衣裳髪形は歴史に近いかもしれない。
 ただし岩崎彌太郎にとって坂の下に長居は無用、坂の上にとびあがり雲にも届く活躍をした。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』で彌太郎をみるとキーワードは船舶輸送”。

 九十九商会
 土佐の岩崎彌太郎は若い日、吉田東洋の門下生となり、大政奉還で名をあげた後藤象二郎と知り合う。のち長崎の開成館出張所土佐商会に赴任し、坂本龍馬に示唆され海運業に着眼する。明治になり土佐藩払い下げ船3隻を元に「九十九商会」を創設、海運業の基盤とした。社名を三菱商会として現在に続く三菱の祖となった。
 
 台湾出兵
 明治4年、台湾漂着の漁民を土着民が殺害する事件があり、近代国家となってから最初の海外派兵を決定。同7年、日本軍は台湾に上陸、牡丹社などを平定し交渉の末、清国側が償金50万両(テール)を提供するのと引き替えに撤兵した。
 このとき三菱商会は政府の軍事輸送を一手に引受け、政府の信頼を得た。政府は三菱を援助育成し外国汽船と競争させ、翌年、横浜と上海間に週一回の定期航路を開設させた。これが日本最初の海外定期航路である。

 西南戦争
 明治10年、西郷隆盛が挙兵し明治政府は維新以来最大の危機に直面した。大久保利通ら政府は大規模な戦争準備にかかり、大量の兵を九州に輸送するため三菱の船舶を利用したのである。
 このときの政府と西郷の対立を白柳秀湖(作家・社会評論家)は次のように評した。

 西郷の背後には私学校の生徒、壮兵・職業的武人、約40万の士族という失業者がいる。これに対して大久保、木戸の背後には、高杉晋作大村益次郎らによって試みられ、山県有朋によって創設された鎮台兵すなわち農民と町民の軍隊があった。
 西郷のたのむところは幾百年来の武士道をもって錬磨されてきた壮兵の精神気迫であり、大久保らのたのむところは新に編成された軍隊の団体的訓練とそれに応ずる文明の利器とであった。
 薩軍に剽悍決死の勇気があれば政府には租税という財力がある。しかしながらここに一つ薩軍にとって不利益な点があった。軍隊及び軍需を輸送する船舶というものがなかった。

 三菱は船舶徴用命令に従い全力をあげて兵の輸送にあたる。このとき三菱の利益について法外な儲けだったと明治以来、噂話がたえない。
 儲けの幅はともかく三菱は西南の役で資産を大きく伸ばし、沿岸航路を外国人の手から奪回するのである。戦争の利益は三菱に限らない特需の方では、三井物産大倉組藤田組松本重太郎などいろいろな物資の用立てをし、軍需ブームが起きた。

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2010年2月 8日 (月)

英語塾と山東一郎(直砥)

 戊辰戦争で敗れた会津藩士らにとって明治のはじまりは苦労のはじまりでまず食うに困る。しかし会津人のすごいところは食べるのに事欠くことがあっても勉学の心を失わなかったこと。きっと幕末明治の人々に共通した志操で、それが人材をそだて明治日本を創りあげていったのだろう。
 学問することは生きることと同じで本人にも国にも有用だったのだ。時代は変わり国の状況も変わり、今はどうなのだろう。それはさておき、幕末それまでのオランダ語学習から英語へと多くの若者が外国語を習得した明治初期、さまざまな学校が登場した。その英語塾の一つと主催者の山東直砥(一郎)を拙著『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』から引用、紹介したい。
 山東の生涯はとても興味深く、調べたものを捨てるには惜しく一節設けてしまった。坂本龍馬とも知り合いのよう。

   英語塾と山東一郎(直砥)】

 柴五郎が下北の風雪に耐えているとき、東京の柴四朗もまた苦学流浪中であった。日本橋瀬戸物町にある沼間守一の「英語指南所」で学んでいたのだが、まもなく閉塾してしまった。
 沼間は戊辰戦争後、釈放されると指南所を開いて外国語を教えていたが、東京の土佐藩邸で英語を教えることになった。ところが谷が土佐に帰郷すると、沼間は藩士に教えるのをやめて横浜に出た。横浜では生糸売買・両替商を営んだが成功せず、次に横浜税関に勤務し岩倉使節団に随行する。この沼間は須藤時一郎・高梨哲四郎と三人兄弟でみな活躍したことから
江戸っ子三兄弟」と称された。

 沼間の塾では山川捨松の兄山川健次郎(後の東京大学総長)も学んだ。当時は英語・英学を教える私塾がかなり開設されたのである。江戸時代の外国語はオランダ語、陸軍伝習所ではフランス語の授業があったが、幕末から明治維新にかけては英語・ドイツ語・フランス語とくに英語が主流になった。
 外人宣教師は英会話や英語の教授を主体としたが、日本人の洋学者は英語を用いての洋学を主体としていた。福沢諭吉の慶應義塾は有名である。

 明治人は漢文の素養があり、意外にもそれが語学の修得に役立ったようである。辞書はどのようなものだったのか、四朗がどの辞書を手にしたか不明であるが、いくつか拾ってみた。
 福沢諭吉の慶應義塾は『ビ子ヲ氏原板 英文典直訳』T.S.Pinneo永島貞次郎訳(慶應義塾蔵版)など、自校用に英語教材を作った。
 新政府は旧開成所を復興し、開成所授業開始。英語教師にイギリス人パーリーを雇用(英米人お雇い教師の始り)。『官許英吉利単語篇』(開成所版)を作成した。
 明治四年の『英文典便覧』(青木輔清編述、忍県洋学校刊)は日本人が日本人のために書いた最初の英文法書。明治五年『英文典独学』(格賢勃斯・戸田忠厚訳)は英文典を直訳したもので、単語一語ごとに訳を付し、単語についている番号順に訳語を追うと文章が読み下せる形式である。
 

 柴四朗は沼間の英語指南所が閉鎖されたため次に山東一郎北門義塾に入った。塾は北門社または北門社明治新塾ともいう。
 創立者の柳谷藤吉は戊辰戦争のとき兵器を密かに外国人から買って、それを旧幕軍と官軍の双方に売り一万円ほど利益を得た。そこで知人の松本順や山東に相談し学校を創ったのである。藤吉は北海道人なので北門義塾と名付け、山東に後を託して自らは北海道に帰った。
 義塾でははじめ外国人を招いて英学を教え、明治四年の生徒数は三十四名であった。塾生募集要項をみると
「月謝は金二両、何人に限らず教えを受けることを欲せば来たり入社すべし、西洋人が英仏独逸学ならびに算術を教授す」とある。
 この北門義塾出身者に、シベリア単騎横断で知られる軍人福島安正がいる。若き日の安正は衣類、書籍を売り払って学資に充てたため、冬も単衣で過ごし、夜は大声で読書をして寒さをしのぐというほど貧しかった。しかしこの塾で外国人から学んだ地理学が中央アジア大陸横断に役立ったという。のちに柴五郎は福島はとともに北清事変で大活躍する。

 当時の北門義塾は福沢諭吉慶應義塾(英学・生徒数三百十三名)、箕作秋平三叉学舎(英仏学・百六名)、中村敬宇同人社と並び、東京有数の学校であったが、経営困難となり廃校となった。のちにその隣地に東京専門学校、現早稲田大学が創立される。
 北門義塾『新塾月誌』(二号で廃刊)序言をみると、
「新塾の傍らに園圃を開き蔬菜花木はいうに及ばず牛羊をもまたここに牧し、学生の資なきものをして習業の余力もてこの園圃に従事せしめんとす」とあり、それもあって学資のない四朗も入塾できたのだろうか。
 ところがせっかく入塾したのに四郎はまたも学業を続けることができなくなった。山東が神奈川県参事として官についたため塾が閉鎖されたのである。

 北門義塾の山東一郎は幕末明治日本を東奔西走、志操が右に左にぶれるが、その揺れがかなり大きく興味深い。略伝を記す。
 はじめ山東一郎と山東直砥、北門社と北門義塾が同じと思えなかった。一郎の英語塾と、直砥の漢学が結びつかなかったのだ。それがかつて北門義塾のあった早稲田大学の図書館で、同一人物、この地に北門社があって柴四朗も学んだと判った。

 山東ははじめ剃髪して高野山の僧となるが感ずるところがあって、播州に赴きさらに大阪にいった。勤王家の巣窟のような「双松岡」の学僕となって学び尊王論を唱えるようになった。そして北越に遊説に行ったとき、同士が病気になり西洋医の松本良順の診察を受ける。その同士は助からなかったが、山東は松本の紹介で洋学塾に入る。英語はものにならなかったが、幕府の役人を紹介されて箱館に随行した。
 こうして山東は維新のはじめ、北海道・五稜郭に開かれた裁判所で産物担当の役人となった。たまたま新たに造られた金札を受け取るために上京中、五稜郭は榎本武揚らに占領されてしまった。このため全員辞職となり山東も辞職した。そして北門義塾で子弟を養成するが塾をやめて神奈川県参事となった。しかしそれも辞めて今度は民権論を主張する。
 西南戦争時には陸奥宗光に組みして兵を挙げ政府転覆を謀るが失敗して陸奥は獄に入ったが、山東は関東に逃れ罪を免れた。のち箱館に行き、ギリシャ正教のニコライ(神田ニコライ堂)についてロシア語を学んだ。おりからロシアの軍艦グリヤク号が来航し、ロシア行きをのぞんだが渡航免状が得られず断念した。
 この間、樺太開拓が急務であると思い至り、海援隊の力を借りようと長崎に赴き、坂本龍馬に面会してその志を語った。たまたま竜馬は後藤象二郎と京都に赴くときだったので、山東はともに汽船で京都に上ったが目的は果たせなかった。
 晩年、癩を病み看護婦に手厚い看護を受けてその誠意に感謝した。するとその看護婦が
「天を敬し人を愛するはキリスト教の本旨なり。何の労かこれあらん」といった。これを聞いた山東は感ずるところがあり、熱心なキリスト教信者となって一生を終えたのである。
 山東は詩書をよくし一家をなしたが、晩年は病もあり落魄して振るわなかった。東奔西走の間に家庭をもったようで、人事興信録(明治三六年)によると、明治三年八月長女「毛登」が生まれ、毛登は斯波淳六郎(内務省宗教局長・華族)に嫁いでいる。                              

                  
 はじめ高野山の僧となった山東がキリスト教徒として生涯を終えた。そこに至るまでの山東の人生はじつに波乱にみちている。沼間や山東ら塾を開いた師匠も弟子も、国を思い、志を果そうとすれば右往左往、文字通り日本を駆け回る。憂国の思いが強ければ強いほど、己を役立てたいと思えば思うほど、じっとしていられない時代である。
 柴兄弟とて同様であるが、まずは勉学に励まなければならない。そこで四朗はつぎに横浜でイギリス人の書生になった。英人某とあるだけでイギリス人の名は不詳である。しかしこれも続かなかった。前途はなかなか開けず、四朗は各地を転々し、斗南にもたち寄り、一時、父や五郎とともに悲惨な暮しを体験する。

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