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2010年3月

2010年3月30日 (火)

『武士の家計簿』加賀半御用算者の幕末維新

Photo_31 「花は桜木、人は武士」
「武士は食わねど高楊枝」
これらは武士のイメージを広く伝えている。しかし磯田道史『武士の家計簿』(新潮新書)は、武士も人の子、地道に生活していたことを改めて教えてくれた。

 著者は、あまりわかっていない武士の暮らし、ふところぐあいを37年余の家計簿から読み解いている。
幕末から明治というものすごい社会変動の時代を生き抜いた加賀百万石の算盤係、加賀藩御用算者の幕末維新の話で英雄豪傑ではないのにおもしろい。
 
 家計簿のつけはじめ天保13(1842)年はといえば、幕府は「異国船打払令を止め薪水食料の給与を許す」いっぽうで川越両藩に房総警備を命じた。それはアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻をひきいて浦賀にやってくる11年前である。
 そして家計簿は長い歳月をへて明治12(1879)年5月で終わっているが、この年は各地の民権派士族大阪にあつまり愛国社大会を開催している。

 著者は黒船来航の前から明治維新、戊辰戦争、西南戦争をへて自由民権、国会開設運動が盛んになるまでの激動の37年間の「武士の財布」を読み解いて興味深い。
 読み終わって前に『元禄御畳奉行の日記』神坂次郎(中公新書)を面白く読んだのを思い出した。どっちも現在の我々が直面しているような問題や、生活の歴史が垣間見えて身近に感じられおもしろいのだろう。

http://09keyaki.blog104.fc2.com/

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2010年3月27日 (土)

移動図書館で本を借りた

 遠出をした帰り道、老人ホーム前庭に市の移動図書館車が止まっているのが目に入った。そういえば図書館にご無沙汰してるしちょっと見てみようと立ち寄った。
 本を手にとれば読みたくなる。カードも何もないし誰でも借りられるのかなあとキョロキョロしていたら、白髪の女性が「係の人は玄関の中」と教えてくれた。中へ入るといきなり名前を呼ばれた。なんと知り合いの図書館員さんだ。
 4年ほど前まで近所の図書館発行の便り「ぶっくす」に本の紹介“本は呼んでいる”を寄稿していた。その縁で図書館に知り合いがけっこういる。コラムを10年間も書かせてもらって楽しみだったが、運営が変わって図書館だよりを発行しなくなった。

 書くところがなくなってさびしく図書館の人に会うと「作文ボランティア要りませんか?」と声をかけているが、用無し。そんなこともありブログを始めた。ときどきそのころ書いたものを引っぱり出してここに載せている。

 前置きが長くなったが伝記2冊を借りた。幕末明治初期に活躍した二人、一人は“人切り半次郎”こと桐野利秋で、西南戦争で西郷隆盛とともに命を閉じた人物。もう一人はお公家さんで『米欧回覧実記』岩倉使節団でも名高い右大臣岩倉具視である。

『九重の雲』闘将桐野利秋   (東郷 隆)  実業之日本社
『岩倉具視』言葉の皮を剥きながら   (永井路子)  文芸春秋

 たまたま目についた2冊だが、ともに幕末の激動を生き抜くも住む世界が違う、異なる陣地で活躍したのが対比されておもしろかった。よかったらどうぞ。又は自分なりの2冊を試してみませんか。

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2010年3月24日 (水)

幕末の外交官アーネスト・サトウ

 幕末から明治にかけて活躍したイギリスの外交官アーネスト・サトウ日光中禅寺湖のほとりに建てた別荘(のちイギリス大使館別荘)が栃木県へ委譲されるという。

 サトウには『明治日本旅行案内 東京近郊編』(東洋文庫)があり内容は以下
「当時の日本研究第一人者による旅行案内書から東京近郊ルートをとりだして再編。詳細なガイドによって、明治初年の東京・横浜・鎌倉・箱根・日光・伊香保が生き生きとよみがえる」。
 サトウが別荘を建てたのは明治29西暦1896年というから日清戦争後で、かなり古い。老朽化がすすんでい改修してから一般開放するそうで、いつか訪ねてみたい。その前に本を読んで、サトウが見た明治の日光をイメージしてみようか。
 同じ東洋文庫に『アーネスト・サトウ伝記』(B・M・アレン)があり読んで興味深かった。

 ほかに『アーネスト・サトウ公使日記』(新人物往来社)にはずいぶんお世話になった。この日記には有名無名を問わずたくさんの人物が登場してい、わが柴五郎もその一人である。御用とお急ぎでない方は下記の引用『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』よりをどうぞ。

続きを読む "幕末の外交官アーネスト・サトウ"

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2010年3月22日 (月)

文学、歴史は墓めぐりから/森鷗外ほか

  春の彼岸、夫婦で墓参りしたその夕、テレビに雑司ヶ谷霊園夏目漱石の墓が映っていた。「このごろ有名人のお墓探訪が流行っている」そうで、夏目漱石や竹久夢二の墓前には人が多い。
 実家の菩提寺、谷中・感応寺には渋江抽斎の墓があり時に歴史散歩のグループに出くわす。森鷗外史伝の傑作『渋江抽斎』を読んだ人もあるだろう。
 史伝は鷗外が独自の方法で新しいジャンルをひらいたともいわれる。森鷗外は軍人の道を全うしつつ文学にも大きな足跡をのこした。夏目漱石と並んで近代日本文学の二巨峰となり大きな源流となった。

 森鷗外の墓は三鷹・禅林寺にあるが、その向かいは太宰治の墓でイマドキ人気があり花が絶えないよう。自分が鷗外の墓所に参ったときもこちらはひっそり、あちらは賑わっていた。
 はじめから二つの墓が近くにあったとは思えない。同じ文学とはいえ「全くふうの違う」二人、愛読者ファン層も異なるだろうになぜ並べたのか、心ない気がする。
 ちなみに鷗外は軍人として頂点にのぼり、病が重いとき天皇皇后より葡萄酒を下賜され、従二位に叙せられたほど立身出世した。しかし墓標は「森林太郎墓」とのみ彫られている。なぜか、興味を抱いた人は伝記か全集をどうぞ。

 著名人の墓に参ると故人に近づいた気がし、作品や生涯に親しみがわく。さてその墓地がどこにあるか、知るには近ごろはインターネットが手っ取り早い。でも案内書も捨てがたい。
 手元の『探訪江戸明治名士の墓』(千鹿野茂・新人物往来社)のキャッチコピーは
<ここに歴史眠る。江戸明治の名士1500人の墓を踏査、絶好の歴史散歩ガイド!>
 暑さ寒さも彼岸まで、これから花と緑と歴史と文学と散歩日和ですね。

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2010年3月19日 (金)

『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』

ログネタ: 【ブログ学園】『大人として読むべきオススメの本は?』参加数

Photo  会津人・柴五郎を知っていますか?
『ある明治人の記録』でよく知られていますが、彼は清廉潔白の軍人として激動の時代を生き抜き、昭和20年87歳で生涯を閉じました。まさに日本の近代を生きたのです。

 戊辰戦争で母ら女家族5人が自害。北の大地で飢えに苦しむも、困難にうち勝ち陸軍幼年学校に入学、士官学校に進みます。『坂の上の雲』の主人公秋山好古とは同期、家族ぐるみのつきあいをします。
 秋山の弟秋山真之とも交流があり、アメリカとスペインが戦争したとき、陸海から観戦武官としてカリブ海に赴き、それぞれ立派な諜報報告をし今に残ります。
 五郎の長兄は会津藩が京都守護職となるや藩主松平容保の手足となって働きます。四兄の四朗は明治の衆議院議員となり、政治小説『佳人之奇遇』を著したベストセラー作家でもあります。
 少ないながら与謝野晶子など女性や兄弟と関わりのある人々が数百人も登場します。

 この本は会津の兄弟の伝記を書きながら、「坂の下」や敗者の目線を忘れずに、幕末明治の日本に押し寄せた欧米諸国そしてアジアと日本の関係をも描いている。
 折しも今年は日本が朝鮮半島を植民地化した日韓併合から100年になる。この100年間いくつもの戦争があったが日本はどうだった?国情やいかに?

 本の分厚さに負けず、見出しで内容を予測しながら図書館で借りてみる。または電子図書としてネットで立ち読みはどうでしょう。
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』中井けやき著・文芸社

 

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2010年3月16日 (火)

トルコ金閣湾で釣り、谷干城と柴四朗

  今年は「日本トルコ友好120周年」にあたりその方面のニュースを見かける。120年前というと明治23年、トルコの軍艦エルトゥールル号が紀州沖で遭難した年である。
 長い航海の末、ようやく日本にたどり着いた艦が大任を果たして帰る矢先、大島村樫野崎で嵐の海にのみ込まれた。使者は587人、助かったのはわずか69人であった。生存者は村人の手厚い看護を受け、日本政府の軍艦でイスタンブールへ戻ることができた。この事故をきっかけにトルコ人と日本人の間に友情が芽生え今も続いている。

 それより前の明治19年、農商務大臣谷干城伊藤博文総理より欧州巡回視察を命ぜらた。谷は秘書官に東海散士こと柴四朗を抜擢しヨーロッパの国々を巡り軍事、産業、国会や法令など国のあり方までも視察して回っていた。その年末はトルコ滞在中であった。以下『谷干城洋行日記』から

 トルコ、当時はオスマン帝国では皇帝に面会
「日本の進歩は速やかなる事驚くべし。何とぞ当国と貿易交通の道を開き互いに交通いたしたし」との言葉をたまわった。
 その日は大晦日、谷干城、柴四朗ほか勲章を拝受しホテルに帰った一行はシャンパンで乾杯した。
 明けて1月1日はイスタンブール市街を散歩見物する。市内の様子が平日と変わらないのは暦が違うからだろう。
【*イスラム・ヒジュラ暦:太陰暦、1年354日で11日のズレがある】

 便船がないので翌2日はボスポラス海峡の入江ゴールデン・ホーン(金閣湾)で釣りをした。
 葡萄酒、オレンジなどを持参、アジのような小魚を3人で140~150匹ほど釣り上げ焼いたり酢漬けにしたりして充分に食べた。
 5日、便船が来てダーダネルス海峡をへてギリシャに向かう。
  6日、船中にて「トルコの衰退、漸く社稷(国家)維持するも政の組織宜しからず。役人に忠実の人少なく、万事姑息に安んじ内治(政治)振るわず・・・」

 谷の日記はトルコの衰退と現状を深く観察し書いているが、翻って日本の現状に思いをはせ心配しているのが行間から伝わる。
 谷は当時すでに“行政改革”唱えていたが平成の今、120年たっても出来ていない。「仕分け人」がもてはやされる訳だ。

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2010年3月12日 (金)

死せる諸葛(孔明)生ける仲達を走らす

Photo_30  

 バンクーバーオリンピック“男子フィギュア・日本初メダル”高橋大輔選手の笑顔が新聞一面を飾った日、毎日新聞夕刊トップは「死せる曹操人民走らす」であった。
 中国では魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)が覇を競った三国時代の英雄、曹操のブームがゆかりの地で過熱しているという。「曹操の墓発見」がきっかけで人口2000人のどかな農村に観光客が押し寄せているらしい。そこで「死せる曹操が人民を走らす」。

 もとの諺は「死せる諸葛生ける仲達を走らす」でご存じ蜀(しょく)の軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)と魏(ぎ)軍の司馬仲達(しばちゅうたつ)との戦いでのこと。
 蜀軍と魏軍が?山(きざん)で対峙中、たまたま大きな星が赤く燃える尾を引きながら五丈原にいる蜀軍の上に落ちた。死が近いことを悟った孔明は病める身を起こして、自分の死を魏軍にわからせまいと策略をねった。
 孔明の等身大の座像を車に乗せて、いかにも彼が陣頭指揮をしていると見せながら、全軍を退却させるよう命じた。引き上げの準備に狂奔しているのを知らされた仲達は、時機到来と五丈原へ総攻撃に火ぶたを切った。しかし蜀の陣営に人影はなく仲達は先頭に立って追いかけた。
 すると前方の山かげから蜀の旗が見え、勇ましい陣太鼓が響いてきた。その上車上に指揮をとるのは、なんと孔明ではないか。まさに蜀軍の押し寄せんとする勢いに、仲達は思わず逃げ出した。

 これをみた民衆は死後なお輝く孔明を讃え、仲達の臆病を笑った。しかしこれを聞いた仲達は「生きている孔明の策略はわかるが、死んだ孔明のはわからないさ」と言ったという。(『中国故事物語』)

 日本ではこの場面を「荒城の月」でおなじみ土井晩翠が詩にしている。
「星落秋風五丈原」(ほしおつしゅうふうごじょうげん)と題し「嗚呼陣頭にあらはれて/敵とまた見ん時やいつ/?山の嶺に長駆して/心は勇む風の前・・・」と漢文調で「巧妙いづれ夢のあと/消えざるものはただ誠」とうたいあげる。

 『三国志演義』は抄訳、完訳いろいろでているが、なんといっても平凡社の中国古典文学全集で読むとおもしろい。分厚くて長いが物は考えよう、三国志の世界にずーっと浸っていられる。

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