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2010年4月

2010年4月29日 (木)

『旧暦と暮らす』旧暦には1年が13ヶ月の年がある!

 筍ご飯食べました? 
 ずいぶん昔になりますが五月の連休伊那谷の夫の故郷の墓詣りをしました。お墓は家から少し離れたところ、林檎畑の端にあり墓地の後ろは竹藪です。水と供花をもって案内してくれた義姉がなぜか魚籠(びく)を背負っているのが不思議でした。
 私たち夫婦が線香に火を点しご先祖様にご挨拶している間に、義姉はタケノコを掘り魚籠に入れました。
 その日は遠くから私たちが来たからと親戚が集まり、山のようなご馳走です。私は高価なご馳走より筍の煮物、削り節をまぶして煮た筍に感動、せっせといただきました。
 バッカリ食いで行儀悪いですが、柔らかく煮えた筍、でも歯触りが好く香りもあってほんとうに美味しかったんです。夫の実家に行くのは年数を経ても緊張し正直おっくうです。でもあのタケノコをご馳走になれるなら行きたいです。

 前置きが長くなりましたが、『旧暦と暮らす』には「スローライフの知恵ごよみ」という副題がついています。
 暦をよく知ろうとすると数字が出てくるし何だか面倒そう。とはいえ暮らしに欠かせないし、実際の季節とズレがあります。
  その問題を解き明かしてくれるたのが松村賢治『旧暦と暮らす』、旧暦にこだわる著者は昔風の頑固な人かと思うと、さにあらず。著者はヨットで世界周航の旅、
「デンマークを出発点として大西洋、太平洋を渡って日本まで、4万2千キロ、1年9ヶ月におよぶ長い旅」をしたところから書きはじめています。

 自分は本書を古書店で買ったのですが、図書館で借りるなどして「忘れかけていた日本人の暮らしの知恵」読んでみませんか?

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2010年4月24日 (土)

二葉亭四迷 略伝

 石にたつ 矢も有るてふを 思ふこと とげでやむべき 我ならなくに
 ますらをぞ わは大丈夫ぞ めめしくも 泣いてあらむや わが世拙くも

 二葉亭四迷の和歌であるが、言文一致、最初の近代小説『浮雲』で知られる文学者のイメージに遠い。しかし、歌にこめた“志士”大丈夫の道、こっちこそ長谷川辰之助(本名)がほんとうに進みたかった道かもしれない。『東亜先覚志士記伝』(葛生能久)の略伝を読むとそう思える。仮にそうだとしたら二葉亭が今現在の日本をみて何を思うだろう。

 5月10日は二葉亭四迷の命日、今年は没後100年にあたり「二葉亭四迷展」も開催されている。名前をきいて柴五郎を調べているとき思わぬ所、満州ハルビンに二葉亭がいたのを思い出した。
 また文学者が黒龍会出版、志士の伝記に載っているのも意外な感じがした。なぜなら黒龍会とは明治34年内田良平らにより結成され、玄洋社から派生した右翼団体。大アジア主義、天皇主義を唱え、日本の大陸進出に裏面で暗躍した団体であるから。
 『東亜先覚志士記伝』(発行昭和11年、二・二六事件の年)より略伝を転載する。筆名の由来もあり、どのような二葉亭四迷像か読んでみませんか。

  長谷川辰之助(二葉亭四迷 露)

 号は二葉亭四迷、文學者として有名である。元治元年二月三日、江戸市ケ谷尾州上屋敷に生る。父は長谷川吉敷、母は静子、彼はその長男である。幼にして名古屋、松江等に於て教育を受け、八歳にして早くもフランス語を学んだ。
 明治十一東京に帰り、森川塾、済美黌等に入って漢学、数学を修め、三度陸軍士官学校に入学を志願したるも視力の故障により合格せず、十四年東京外国語学校ロシア語科に入った。
 是より前、樺太千島交換条約成るに会し、いたく露国に対する敵愾心を刺激され、将来日本深憂大患となるはロシアにあるを思ひ、慷慨憂国の情やみがたく、先づ軍人たらんことを志し、その遂げられざるに及び露語研究に志すに至ったのである。

 十八(1885)年外国語学校が東京商業學校に合併せられしため改めてその露語科に転じ、十九年一月これを退学した。その頃より文学に興味を持ちゴーゴリ、ツルゲーネフ等の作品の翻訳を試みたが、武士気質の父は之を快しとせず
小説など書くならくたばってしまへ』と叱責せし為、その語に因みて筆名を二葉亭四迷と称し、依然文筆に励み、二十年七月『浮雲』第一編を出版して頓に文壇に名声を馳せた。

 二十二年内閣官報局出仕となって翻訳を担任し、二十六年内閣屬官に転じ、三十一年海軍編輯書記に任ぜられ、三十二年陸軍大学校露語教師、東京外国語學校教授となったが、此間相次いで文部上の作品を発表し、文名益高きを加えた。

 然れども生来の志士的性格は自ら純然たる文學者たるに甘んぜず、文學は男子畢生の事業にあらずと称して慷慨国事に任ぜんとする志を抱き、三十五年五月東京外国語學校教授の職を抛ちて露領浦潮(ウラジオ)に赴き、転じてハルビン、旅順等を歴遊し、露国の満洲経営の実状を備さに視察し、同年秋北京に赴き京師警務学堂の提調となった。

 警務學堂総監督川嶋浪速は彼が東京外国語学校在学時代の同窓にして、夙に東方の問題に関して肝胆相照らす所あり、加ふるに当時警務学堂には教習として本邦志士の教鞭を執れる者少なからず、比等の志士と日夕対露問題を論じて画策する所あった。

 翌年夏、任を辞して東京に帰り、三十七年三月大阪朝日新聞社に入り東京出張員として筆を執った。

 明治四十一年六月、朝日新聞の露都(ペテルブルグ)特派員として赴任の途に上り、その途上新任駐日ロシア大使マレーウイツチ、及び倫敦(ロンドン)より帰朝し来れる小村寿太郎等に會して意見を交換する所あり、この行深く自ら期する所ありしに露都に入って後幾ばくもなく病に罹り、
其後一旦健康を回復したるも再び疾を発して活動意の如くならず、四十二年四月帰朝の途に上ったが、船のポートサイドに着した頃より病勢漸く革り、五月十日ベンガル湾を航行中ついに不帰の人となった。年四十六。
 文学者として盛名一世に高かりしも、志士としての面目は殆ど世に伝えられず、耿々の志を抱いて早く倒れしは惜しむべき事である。 
 平生作る所の和歌、俳句少なからず、今その面目を偲ぶべきもの数首録す。

   寄懐遠征之友
命あらば 又もあひみむし かはあれど いのちをおしむ 君にあらなくに
         ○
物思ふ身を吊されし瓢かな
春三日おらが女房はよい女房

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2010年4月18日 (日)

柴五郎とフランス語

  4月は入学式、新学期で生徒は新しい教科書を使う。
 小学校の教科書は大判でカラフル、黒板は2枚を上下させて使い、どちらも見やすくなっている。最近までゆとり教育がいわれ、のんびり?授業を進めていたのが今年度から「脱ゆとり」に路線変更された。
 方針が変わり習うことが増えて困ると孫がぼやいていた。得意科目なら何のこともないが、苦手教科だとキツイだろうなと同情しつつも「やるしかないよ」と言っておいた。

 さて、いきなり話がとぶが明治初期の陸軍幼年学校に入学した柴五郎は何を勉強したのだろう。例によって『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』から引いてみる。

 陸軍幼年学校の教官はすべてフランス人で国語、国史などいっさいなく、九九までフランス語で地理歴史もフランスのだった。食事も洋食でまずいと言う者があったが、五郎にとってはフランス語以外は天国だった。会津弁の五郎にとってフランス語は発音からして難しく笑われた。
 日本陸軍はのちに新興ドイツに乗りかえるまでフランス式だった。ちなみに海軍は世界の海軍国イギリスを模範として発達した。 夏休みはフランス語教師助手の有坂成章の下宿に同居させてもらった。麹町の商家の二階の下宿で、フランス語や他の教科も指導を受けた。

 有坂の父は岩国藩士で銃砲鋳造に従事していた。成章は苦学して同藩の玉乃世履(タマノセイリ)について物理化学を学び、さらに長崎に行ってフランス語を学び、幼年学校の教師となった。
 このときまだ二十一歳と若いが、のちに小石川造兵司(砲兵工廠)出仕となり参謀本部遊就館富津海堡などを築造するなど才能を発揮し、有坂式速射砲を発明した。

 五郎はよき先輩に恵まれたが自らも寸暇をさいて自習した。五郎はもともと温和で正直、よく学問をしたがその勉強ぶりはすさまじい。蛍の光ならぬ、便所の光で猛勉強、反則であったがトイレの石油ランプを利用して勉強した。その甲斐あって、進級してからは優等生の仲間入りをし、フランス語の作文で教師から「トレビアン」とほめられるまでになった。

 こうしてフランス語に堪能になったのはいいが、のちにドイツ式になり幼年生徒はドイツ語の勉強をしなければならなくなった。しかしドイツ語よりも苦労したのが日本文、漢文で五郎も同じである。読解力が貧弱で士官学校に進学できない者もいた。

 Photo_2 写真は柴五郎がバンクーバーから立花小一郎(のち陸軍大将)に宛てた美しい筆記体の宛名書(国会図書館憲政資料室蔵)であるが、中の日本文は流麗なアルファベットと違い親しみがもてる文字で書かれている。

 ともあれ五郎にとってこの時しっかり身に付けた語学は駐在武官の仕事に役立ったばかりか、海外の人々とも友情を育む助けにもなったのである。

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2010年4月14日 (水)

 井上ひさしさん「読んでもらうこと幸せ」

 2010年4月9日 井上ひさしさんが75歳で亡くなられた。死去のニュースは日本を駆けめぐり様々な方たちが想いを寄せ讃えました。

 ほんとうに短い文章ではその魅力や才能が顕せないほど深く大きい人物です。「博覧強記、言論の自由、平和への行動、鋭い言葉の感覚、強者への怒り根底、新しい喜劇、重い題材を楽しく」。氏へ捧げるどのことばにも同感ですが、なかでも毎日新聞「余録」(4・13)にとくに共感しました。

―――(アメリカ人の詩を引いて)悩みごとや悲しみは最初からあるが、喜びはだれかが作らねばならないという詩です。この喜びのパン種である笑いを作り出すのが私の務めです。
―――人の心を自由にし、豊かにするたくさんの言葉の蝶番を残し井上さんは逝った。人生も世界も変える笑いから生まれた日本語のかけがえのない富だ。

 大人になっても気分は文学少女だった私は「文学」とか「学」のつくようなかたい本ばかり読んでいました。それが、子育てで時間がままならない時、移動図書館で井上作品に出会いました。またそのころ夕飯の支度をしながら見ていたのが「ひょっこりひょうたん島」でした。何ておもしろいんだろうと楽しんで見てましたが、後で作者が井上さんと知ってなるほど納得でした。
 はじめて読んだ作品を思い出せないが、とにかく面白くて次々読むうちに「笑い」がどんなに好いものか、人の心を「自由にし豊かにする」かに気付きました。それからは読書の巾が広がり、たぶん了見も広くなったかと思います。

 そして読めば読むほど深い知識があるのにやさしく表現できててすごいと思いました。「難しいことをやさしく」、凡人には言葉数が多くなりなかなか難しいです。そして「ふかいことをおもしろく」を実践、これはもっと難しい。
 そのうえ井上さんは里山米作りの大切さから憲法の問題まで、積極的に講演し行動していました。テレビや講演会で耳にした穏やかな語り口が耳に残ります。

 ただのおばさんがいうのもなんですが、ほんとうに惜しいです。せめて最後の言葉「読んでもらうこと幸せ」を感じていただけるよう作品を読もう。さて山のようにたくさんある長編、短編小説、戯曲、エッセイ等など、どれにしよう。

 中井けやきの“井”は井上ひさしさんの井を勝手にいただきました。文章も井上さんならしない体言止めとかするし申し訳ないですが使わせてください。

ご冥福を心からお祈りいたします。

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2010年4月 9日 (金)

柴五郎少年、陸軍幼年学校入学の日

 近年の桜は3月卒業式ごろに咲き出して4月の入学式シーズンには散り残りの桜がちらほら。でも今年は花冷えで桜の保ちがいい。やはり入学式には桜が似合う。

 明治少年柴五郎は15歳の春、陸軍幼年学校に合格。そしてマントにズボン、帽子、靴を買い求め、世話になった家々に出向いて挙手の礼をしてまわった。
 紺色の派手なるマンテルの裾、四月の風に翻り、桜花また爛漫たり、道行く人、めずらしき少年兵の姿を、とどまり眺めてささやくを意識し、得意満面、嬉しきこと限りなく、用事もなきに街々を巡り歩き、薄暮にいたりて帰隊す。余の生涯最良の日というべし。(『ある明治人の記録』会津人柴五郎の遺書)

 有頂天に喜ぶ様はここに至るまでの五郎少年の身の上を思うと無理もない。会津落城会津藩斗南藩となって本州の最北端に移住し食うや食わず、命をつなぐだけでも大変な境遇に落ちた。五郎少年は兄を頼って上京したが、兄柴四朗青森県に開拓中の洋式牧場へイギリス人二人の通訳兼案内人として旅だち留守だった。
 兄と入れ違いで頼るところがない五郎は東京をうろうろ、やがて淺草の元家老、山川家においてもらえた。山川家も旧藩の書生がおおぜい居候し、困っているのが一目でわかるほどだった。
五郎はそんな状況でも同郷の士が教官をしている塾で聴講したり、時には数学塾の玄関先で質問するなどしたが、授業料を払えず時間もないため進歩しなかった。

 いつしか季節は冬、でも五郎は相変らずの着たきり雀、浴衣一枚であった。山川の娘常盤が気の毒がって、アメリカ留学中の妹捨松の薄紫の裾模様の袷を出して袖を短くして五郎に与えた。それ以来五郎は後の大山元帥夫人捨松の着物を着て歩いた。周囲には異様に見えても温かいので満足していた。
 五郎の身なりもひどかったが、当時の東京は世相万端ちぐはぐで、奇妙な格好をしていても他人のことなど気にする者はいなかった。世間一般みな貧しかったのである。

 まもなく五郎は山川家を出て、福島県知事安場保和の留守宅の下僕となる。木綿絣の羽織を新調してもらったが、給料は一文も支給されず、仕事は掃除、食事の給仕など。娘が女学校登校の際は書籍包みと弁当をさげて供をした。武家の少年が少女の乗る人力車の後を遅れないよう走る。“昨日に変わるはかない暮らし”で傷ましい。

 五郎は幼年学校の生徒募集を知り勉強、準備するがままならない。そこへきて安場家が一家をあげて任地に往くことになり、五郎は年末に住む家が無くなった。そればかりか改暦で正月が早まり、五郎は年末どころか正月そうそう路頭に迷ってしまった。
 やむなく又も山川家の世話になり、幼年学校の合格発表を待つ。準備不足で心配したが合格通知が届き、衣食住の心配から解放され、学業に専念できることになった。
 冬の寒空に浴衣一枚だった少年が明治6年の春4月マントを翻し颯爽と・・・どんなに嬉しかったろう。それから137年後の今も4月の風は新入生に爽やかに吹き桜花を散らす。桜吹雪と新入生、絵になる光景は昔も今も同じ、ただし勉強に向き合う覚悟は大いに違いそう。

改暦:明治5年12月3日を明治6(1873)年1月1日とする。

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2010年4月 3日 (土)

大関・把瑠都/バルチック艦隊

  白鵬の優勝で大相撲が終わった。相撲は今の九重親方・千代富士が隠退してから見なくなったが、近ごろエストニア共和国出身の把瑠都が勝ち進みインタビューの受け答えを見て、にわかファンになった。
 把瑠都という四股名(しこな)は母国エストニアが面するバルト海にちなんだものという。

 申し訳ないが、エストニアが何処にあるのかさっぱりだった。そこで地図を広げたら、首都タリンはバルト海の奥、フィンランド湾をはさんでヘルシンキの向こう、ヨーロッパ北東部の国と知った。
 バルト海の海岸線は複雑で、湾奥はボスニア湾フィンランド湾に分かれている。

 バルトBalticはバルチックとも。日露戦争中、日本海海戦日本連合艦隊に敗れた旧ロシア艦隊はこのバルチック海からやって来たのだ。
 その海戦の作戦参謀は『坂の上の雲』でおなじみ秋山真之、それから100年以上たってバルト海からカイド・ホーベルソン(把瑠都の本名)青年が日本にやってきた。
 柔道が得意な青年はお相撲さんになりこの度大関に昇進した。なんのこともないが、真之と把瑠都が時を超えてバルトつながり……ちょっとおもしろい。

 把瑠都は大器といわれ横綱も目指せそう。ロシア艦隊のように敗れることなく大関昇進の口上どおり
「けいこに精進」がんばって!

 ちなみに、バルト/バルチックの三国、諸国は以下のよう。でも有為転変は世の習い、ヨーロッパ北方の大勢は現在も同じかな。
 バルト三国:第1次世界大戦後のリトアニヤ・ラトヴィア・エストニアの三国。
 バルト諸国:バルチック海岸に臨む国家。リトアニア・ラトヴィア・エストニア・フィンランドの称。
 参考:『広辞苑』(岩波書店)、『外国地名辞典』(三省堂)。

http://09keyaki.blog104.fc2.com/

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2010年4月 1日 (木)

国立公文書館デジタルアーカイブ/柴太一郎

Photo  明治10(1877)年、西南戦争後の日本は、腕力より言論が力をもちはじめ自由民権国会開設運動がさかんになった。地方遊説も行われ板垣退助が遊説中襲われたとき言ったという
吾死スルトモ自由ハ死セン」は民権運動の合い言葉となった。その後、運動はますます過激になり激化事件がおきる。

 これらに関する記録は各地の公文書館に保存されている。以前はそこまで出向かなければ見られなかったがいまやインターネットの時代で便利になった。実物の手触りは無理としても公文書や、文化財の画像が自分のパソコンにとりこめるのだ。
 このほど国立公文書館のデジタルアーカイブがリニューアルしていっそう使いやすくなったという。
http://www.digital.archives.go.jp/

 うれしいニュースだけれど今は特に調べ物してないのでさびしいような。いろいろ検索すれば、ぼんやりとしたテーマが立ち上がってくるかな。
 写真は『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を書くのに検索しダウンロードをした国立公文書館の明治16年の文書である。下記はそれを取り込んだ本文からの抜粋である。

  自由党諸事件(高田事件柴太一郎)

 激化事件のはじまりは福島事件でこれ以後群馬事件秩父事件などが続発した。一八八二(明治十五)年一月、福島県令に三島通庸が任命された。
 この三島は福島県に着任するや、
某が職にあらん限りは、火付け強盗と、自由党とは頭をもたげさせず」といい、さっそく三方道路の建設を決めた。この道路は山形県新潟県の二方から若松に達し、さらに栃木県に延ばして三方向、東北の米作地帯を東京に直結し、軍事的にも重要な道路であった。
 しかし、道路建設に巨額の人民負担を強制したため、県議会は議案を否決し三島の出鼻をくじいた。これに対し政府は集会条例を改正して自由党の組織を分断し、地方組織を孤立させた。

 新潟県では高田事件があった。一八八三(明治十六)年三月、北陸地方の自由党員二十六人が
「大臣暗殺、内乱陰謀容疑」で逮捕され高田警察署におくられた。新潟県高田市頸城は自由党の地方拠点でもあった。
 このとき高田にいた内務省警保局五等属柴太一郎はこの事件について、
完全ナラズシテ軽率着手セシ辺ハ免レマジク哉」と、逮捕前三月十六日に勝間田警保局長に報告した。
 検事と意見を異にした太一郎が証拠不十分であるといったように、検挙された党員はのちにほとんどが証拠不十分で釈放された。

 高田事件に関する報告は内務卿山田顕義を通じて三条実美太政大臣に上申されたが、文書中に太一郎の報告もある。
 おそらく三条が報告をいちいち手にすることはなかっただろうが、もし読んだとすれば京都守護職を務めた藩主の使いをした会津藩士、柴太一郎を思い出しただろうか。

 ところで太一郎が勤務する内務省は、はじめ勧業行政治安維持を担当していたが農商務相が設置されると官業部門をそちらへ移管し、この当時は警察と地方行政が主務であった。また警保局行政警察高等警察、出版事業に関する事項をつかさどり、戦前の官僚機構において中核の位置を占めた。


  

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