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2010年6月

2010年6月28日 (月)

津軽海峡/青函トンネル記念館

Photo_13  「松前・江差の歴史を訪ねて」というツアーに参加。新幹線で東京を出発、津軽海峡の海底を通って北海道・木古内駅に到着しました。そこから遠くない福島町青函トンネル記念館があり“新幹線、海を超える!”感動を展示しています。

 中に入ると日本初のトンネルボーリングマシーンの実物がどーんと展示され、見る物を圧倒します。映像に加えて、説明をするボランティアさんが実際にトンネルを掘った方なので話に実が入っていて、とてもいいです。
 技術や機械のことはよく判らないですが、技術畑の夫はかなり興味深い様子で真剣に聞き入っていました。工事中のトンネル内の温度は40度にもなった、大きな事故もあったなど聞くにつけ作業の大変さが察せられました。
 行って良かった「青函トンネル記念館」、折がありましたらどうぞ。日本人はすごいと思えるのでは。
 青函トンネルが最新なら、次は戊辰戦争に敗れた会津藩士が下北半島に移住するとき柴兄弟が渡った津軽海峡です。

                

 下北半島へは海路と陸路を何組にも分かれて移住した。陸路を行った者は粥をすすり、空腹をかかえ、途中雨や雹(ひょう)にたたかれても着替もないありさまで、死亡した者も多かった。
 海路をとった1800人余りはアメリカ蒸気船に乗って新潟から日本海回りで下北半島に向かい1870(明治3)年6月10日、大平浦に上陸した。今そこには「斗南藩上陸の地」の記念碑が建てられ、会津若松の方を望んで設置されている。小帆船で船酔に苦しむ苦難の旅であった。

 柴家太一郎五郎の兄弟二人が海路をとり、父佐多蔵はいったん会津に帰り自刃した家族の墓参を済ませて、陸路を北上することにした。五三郎四朗は将来にそなえて勉学するため東京に残留した。
 太一郎と五郎は品川沖から800トンのアメリカ蒸気船に乗った。船は下北半島を迂回して津軽海峡を通り陸奥湾深く、野辺地港に到着した。その進みはゆっくりゆっくりで、船酔に苦しむ五郎には辛く長い航海だった。

 柴兄弟は野辺地に2ヶ月とどまって斗南藩田名部に向かうが途中、横浜村に一泊した。この下北半島の横浜はいま菜の花の町として知られる。当時は海浜の波打際に野菊が咲き乱れ、見渡す限りハマナスが赤い実をつけていた。その光景は五郎少年のいっときの慰めとなった。
  (『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』斗南藩より)

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2010年6月22日 (火)

西郷星

2010    写真は夏至の夕方、茜色に染まった西空です。昼がもっとも長い日、夕方7時でもこんなに明るい。台所の窓が西向きで、夕焼けがよく見える。
 それに暮れなずむ空の青が素敵だったりするとつい外に出る。下方がオレンジで上空にブルーの濃淡があるとステキ。そこに飛行機雲が一筋あったらもっといい。(ステキは“をかし”としたいけど清少納言じゃないからねえ)。

 空をぼんやり眺めている時間が好き、こういうのって案外幸せなんじゃないかな?なんていつまでも空を仰いでいると、蚊に刺されて我に返る。ご飯の支度しなくちゃ。

 夕空もいいけど夜空もね。特にいま、宇宙に7年もいた「はやぶさ」が数々の試練をのりこえて帰還のニュースが私たちの目を夜空に向けさせる。小惑星探査機はやぶさは科学先端技術の結晶、にもかかわらずロマンを感じさせてくれるところがいい。
 ところで星はいつの時代でも人の願いや懐いを映す鏡の一つと思う。明治10年西南戦争後の夜空に西郷星が輝いたそうで、当時の新聞から二つ。

「輝く西郷星
 去る3日の大阪日報に、この節2時頃、辰巳の方に現れる赫色の星を望遠鏡でよく見ると、西郷隆盛が陸軍大将の官服を着ている体に見ゆると・・・銀座通りでも日本橋近傍でも2、3人ずつ寄り合っては空を仰いで、ヘェーあの星ですか、いかさま光が別段ですとか囁いているのを聞きました(東京絵入新聞)。

「西郷星は火星
 世の婦女子が西郷星といい囃せし行星マールス(火星)に一小星の陪随せることを、米国の大博士が去る8月16日夜、発見されしが、至って小さき星ゆえ・・・もし見えたなら、たぶん桐野星とでも申して立ち騒ぎましたろう(郵便報知)。

 砲火が止むまで8ヶ月もかかった西南戦争、長かった戦争で新聞各紙は発行部数をのばした。戦場は遠く、通信も未発達で虚実入れ乱れていたが、人々は新聞で情報を得た。西南戦争後、みんなの西郷隆盛を惜しむ気持ちが「西郷星」となって現れ、新聞各紙も記事にしたのだろう。

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2010年6月19日 (土)

訂正・新聞広告元祖/沼間守一

 前回の「新聞広告元祖/沼間守一 」に誤りがあり訂正します(oukasei氏のコメントごらんください)。
 文中の「岩倉使節団」はoukasei氏ご指摘のとおり「司法省の欧州使節団」でした。手元の年譜に岩倉使節団とありそのまま採り、間違えました。
 『沼間先生之傳』(毎日新聞第5925号付録) をしっかり読めばと反省です。ちなみに司法卿江藤新平は欧州差遣の命をうけたが公務の都合で出発せず、随行官河野敏鎌らが先発し沼間もそれに付き従った。
 それから2年、明治7年2月、江藤新平は佐賀の乱をおこし鎮圧され処刑される。裁判官は河野敏鎌であった。河野は後藤象二郎の紹介で江藤新平を頼ったというから何という運命の皮肉か。ドラマになりますね。自分が知らないだけでもうなってるかも。

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2010年6月16日 (水)

新聞広告元祖/沼間守一

 鳥羽・伏見の戦いに幕府軍は敗れ、ついに西郷隆盛勝海舟が会談、江戸城は新政府軍に明け渡された。旧幕臣の彰義隊脱藩の武士らはこれにおさまらず上野の山に立て籠もり抵抗するも敗れ、生き残った者は各地に散った。
 この情勢に会津藩は大人気となり、佐幕派旧幕臣徳川に縁故のある藩からも続々と人が集まってきた。新政府側から追討命令がだされると
「なぜ賊軍なのか?」奥羽北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を成立させた。しかし反倒幕派戦線を急増した陣営だったので、戦況は新政府軍に有利であった。

 こうした状況にあって幕臣の沼間守一(慎次郎・26歳)が兄の須藤時一郎とともに自分が訓練した幕兵20数名をひきつれて会津に脱走してきた。
 沼間は長崎でイギリス人、横浜でヘボン(ヘボン式ローマ字の創案者)に英語を学んだ。また沼間は幕府のフランス式兵制による歩兵科で洋式訓練をうけていた。
 こうした経歴を知る会津藩家老西郷頼母は沼間に、藩士へはフランス式練兵を、少年に英語の教授を依頼した。そして「会津の三郎」こと山川健次郎柴四朗赤羽四郎の他が選抜され、沼間から英語を学ぶように指示された。
 しかし戦のさなかであり西軍の攻撃で宇都宮城が落ちると、沼間は幕兵山川大蔵(浩)ら会津藩兵とともに日光口に出陣していった。そのため勉強どころではなくなった。戦の最中でしかも攻込まれて勝利は遠いのに、少年を選抜し学問させる会津の藩風に感心する。 

 戊辰戦争後、釈放された沼間は日本橋瀬戸物町英語指南所を開いて外国語を教授、谷干城に頼まれ土佐藩邸でも教えた。柴四朗も教えを受けたが塾は閉鎖される。
 沼間は横浜に出て生糸売買・両替商を営むも成功しなかった。次に谷干城らの縁もあり横浜税関に勤務、のち岩倉使節団に随行することになる。これより先の沼野は、政治家・言論人として後世に名を残す活躍をしている。横浜毎日新聞社長、嚶鳴社自由党立憲改進党設立にも参加etc。

 明治12年、沼間は横浜毎日新聞の経営を引き受けたが、仲間の島田三郎肥塚龍らの反対を押しきって
新聞の広告は、新聞の生命である。欧米の新聞社は広告募集に努力奔走している。日本の新聞社も、広告募集に熱中せねばならず、副業に広告社を経営すべきである」として新聞広告を断行、“新聞広告の元祖”といわれる。

 沼間守一には須藤時一郎高梨哲四郎という兄弟がいて、みんな活躍したことから「江戸っ子三兄弟」と称された。
 沼間は天保14年生まれ明治23年没(1843~90)だが遺言は
「自分の法要は、大名の格式で、僧侶百人に読経回向せしむべし」と。その法要は遺言の如く営まれている(『明治文化』昭和12年7月)。

ちなみに三本けやきhttp://09keyaki.blog104.fc2.com/  でも昔の新聞広告にふれています。

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2010年6月13日 (日)

緑色の憂愁/寺田寅彦と夏目漱石

 いよいよ梅雨の季節となった。猫の額のわが庭では白いアジサイの花冠が風に揺れている。やや緑がかった白い花かんむりは梅雨時ならではの目の保養だ。この白はなかなか素敵だと思いつつもいい表現ができない。
 そんな折しも「黒色のほがらかさ」「緑色の憂愁」ということばに出会った。すぐれた自然科学者で、なおかつ偉大な文学者だからできる表現ではないだろうか。

 

 「青磁のモンタージュ寺田寅彦随筆集より

 「黒色のほがらかさ」ともいうものの象徴が黒楽(くろらく)の陶器だとすると、「緑色の憂愁」のシンボルはさしむき青磁であろう。前者の豪健闊達に対して後者にはどこか女性的なセンチメンタリズムのにおいがある。それでたぶん、年じゅう胃が悪くて時どき神経衰弱に見舞われる自分のような人間には楽焼きの明るさも恋しいがまた同時に青磁にも自然の同情があるかもしれない。
 故夏目漱石先生も青磁の好きな人間の仲間であったが、先生も胃が悪くて神経衰弱であったのである。(後略)

 「緑色の憂愁」をなんて素敵と単純に感心した。でもよく読んで生意気言えば、形と色彩、物の心、向き合う人の気持ちまで、やさしい言葉で伝えてすごいと思う。
 寅彦の文には師の漱石が登場するが、漱石も門下の中で寅彦を愛した。『我が輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八は、漱石が門下の中でも畏敬した寅彦の面影を伝えているという。
 漱石は一部の人にはたいそうこわい先生だったが、寅彦には「ちっともこわくない、最も親しいなつかしい先生だった」という。後世の私たちは優れた師弟の交流をも愉しめる。
 

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2010年6月10日 (木)

太政官の何日、徳川の何日

 6月10日は時の記念日。歴史をかじると「その時」が昔のままの太陰暦の日時なのか、それとも太陽暦になおした日時なのか、どっち?悩むことがある。
 太陰暦、旧暦は農耕や昔ながらの行事には今も生きて、旧暦での生活のリズムを大切にしている人たちがいる。『旧暦と暮らす』(松村賢治)には忘れかけていた日本人の暮らしの知恵がかかれていて、季節と行事のズレにもふれている。知っているようで知らないことが多く、いろいろ興味深い。また世界にも宗教やその土地土地、国々にいろいろな暦が存在している。

 日本が陰暦を廃し太陽暦を採用したのは1872(明治5)年、
「来る12月3日をもって明治6年1月1日とさだめられ候」こととなった。そうはいってもすぐに人心が切り替わる訳ではないから混乱する。
 「暦違いで嫁入りの押しかけ」「「新旧暦混して一定せず、これを呼びて太政官(明治政府)の何日、徳川の何日という」。かと思うと「年齢計算法を定める」(『明治日本発掘河出書房新社)など暦がかわっててんやわんやだった。

 そしてこの年は12月がない。なぜか。また折悪しく奉公先の家を退去させられていた柴五郎少年は改暦で正月が早まったため柴五郎少年は、年末どころか正月そうそう路頭に迷うことになった。以下『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』<江戸から東京へ>より

「政府は改暦をするにあたり、あらかじめ12月1日と2日を11月30日、31日(新暦にもない)と定めた。そして12月3日を新暦の1月1日にすると、12月は1日と2日の二日間だけになる。このたった二日間の12月をとばしたのである」。
たった二日でも12月があると新政府の役人へ月給を払わなければならないから。

 ともかくこれで西暦と年号が一致することになり、国際的標準時、交通や時間の共有で便利になった。反面、時間により学校・工場(職場)・軍隊・生活が規律化され行動が束縛されることになった。

 しかし新暦の強制は民衆の反発をひきおこし、発禁の民間暦が各種出版され時には官暦より売れたという。暦が変っても太陰暦は農作業や行事、暮しと深く結びついているので、旧暦として使い続けられ今に至っている。
 また改暦まもなくの1月10日、徴兵令が公布された。このときは各種の兵役免除条項が設けられていて国民皆兵主義はつらぬかれていなかった。その後、数回の改正をへてほぼ国民皆兵が実現する。士族にとって国民皆兵令は衝撃で為政者への不満から不穏な動きがみられた。

 ちなみにこの年3月、柴五郎は陸軍幼年学校に合格した。また、徴兵された兵士らは5年後の明治10年、西郷隆盛西南戦争に駆りだされる。

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2010年6月 6日 (日)

勝海舟の父が書いた自叙伝『夢酔独言』

 テレビの「龍馬伝」が人気で近ごろは勝海舟がたびたび登場している。勝海舟はその活躍と共に数々のエピソードでも幕末のドラマに欠かせない人物といえそう。
 その勝海舟(麟太郎)の父は勝左衛門太郎、通称小吉といい幕府の御家人であった。彼が今に名を残しているのは海舟の父であるのもだが、自叙伝『夢酔独言』(東洋文庫ほか)の著者だからかもしれない。小吉が49歳で死去した3年後にペリーが黒船でやってくるが、伝記は当時の庶民の記録にもなっている。

 江戸で有数の剣客だった小吉だが不良旗本、放蕩児、あばれ者、顔役、露天商人の親分で刀剣のブローカー、ついには隠居謹慎を仰せつけられ、隠居仕事に『夢酔独言』を書いた。
 おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ・・・・と本人も認める「あんまりくだらない生涯」だから子々孫々のいましめの為にと淡々と綴っている。こんな主をもったら実家へ逃げ帰ると呆れたり、でも感心することも。ほんとにめちゃくちゃだが憎めない。

 ・・・・・生涯不良で一貫したご家人くずれの剣術使いの伝記、行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つある。それは実に「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった(坂口安吾)

 ときに、『夢酔独言』に18歳の小吉が「兄と越後蒲原郡水原の陣屋へ行った」というくだりがあるが、それから50年後に戊辰戦争があり「水原」に軍議所が置かれる。
 会津藩、柴太一郎は越後方面総督一瀬要人の軍事奉行添役として出陣、水原にある軍議所に参謀として詰めたのである。弟の柴五三郎も越後詰を命ぜられ、五十人をひきいて越後に赴いた。このとき兄弟の叔父柴守三も出戦した。

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2010年6月 2日 (水)

寺田寅彦、大塚楠緒子

 

 「生活を快適にする目と脳の活性法・藤川陽一」講座に付き合いで参加したが、情けは人のためならず、何かと刺激を受けておもしろい。ある日、速読のテキストが寺田寅彦だったので、帰宅して本棚にある文庫本を取り出してみた。パラパラめくっていたが気が付いたら座り込んで読みふけっていた。
 その『寺田寅彦随筆集』第3巻(岩波)の「読書の今昔」で大塚楠緒子の名を見つけた。
 大塚楠緒子(くすおこ・なおこ)、今はあまり知られてないが日露戦争の当時詠んだ「お百度詣で」は有名、与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」とともに反戦の歌として並び称されている。その嘆きは今も過去になどなってない。戦争が止むことはないのだろうか。
 
 寅彦は「夏目漱石先生の追憶」で、漱石が絵はがきを書いて親しい人に送っていた、大塚楠緒子とも絵はがきの交換があったと記している。
 楠緒子の夫・大塚保治は東大の美学者で漱石の教え子であるが、楠緒子は「漱石の初恋の相手」とも伝えられる。漱石と楠緒子、二人がやりとりした絵はがきを見てみたい。
 ときに、樋口一葉は貧しい暮らしにもめげずは作家として自立しようと苦労しつつも珠玉の作品を生みだして早世した。これに対し大塚楠緒子は恵まれた家庭の妻として小説を書き、翻訳、作詩をすることができた。美貌でも知られている楠緒子だが早36歳で没した。
  棺には菊抛げ入れよ有らん程
訃報を聞いた漱石が手向けた句である。(『現代日本文学大系5』月報・明治の女流作家井上百合子)

  お百度詣で

 一足踏みて夫(つま)思い
 ふたあし国を思えども
 三足ふたたび夫思う
 女ごころに咎ありや

 朝日に匂う日の本の
 国は世界に只一つ
 妻と呼ばれて契りてし
 人はこの世に只ひとり

 かくて御国と我夫(わがつま)と
 いずれ重しととわれなば
 ただ答えずに泣かんのみ
 お百度詣でああ咎ありや 

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