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2010年7月

2010年7月27日 (火)

韓国併合/伊藤博文と安重根

   2010年8月で日本が韓国を植民地化してから100年になる。韓流ブームはまだ続いているのだろうか、それとも定着したか。お互いを知るよいきっかけになったと思う。
 近くて遠い国が文字通り近い国になってきている。いつか行ってみたい。東海散士(「明治の兄弟」)を描いた者としては閔妃(明成皇后)の墓に詣りたいと思っている。

 韓国併合に至る前、日本はロシアと戦争した。日露戦争参謀本部の予定では一年も続かないはずだったが、戦闘は長引き戦費は底をつき、将兵の激しい消耗でこれ以上の戦闘は困難であった。しかし国民は「薄氷を踏むような勝利」の事実を知らされず、また交渉にあたった日本全権の困難な立場を知る由もなく、ポーツマス講和条約に不満で暴動事件がおきた。

 ポーツマス条約調印から2ヶ月後、第二次日韓協約乙巳保護条約)が調印された。朝鮮は国号を大韓と改めて近代国家への脱皮を目指していた。しかし第一次日韓協約により財政・警察・軍隊など広い部門の日本人顧問を認め、支配されていた。そして第二次協約で外交権をにぎった日本は韓国を保護国化した。
 このため朝鮮国民は一斉休業などさまざまな形で怒りを爆発させたが、イギリス・アメリカなど列強は、東アジアでの自らの権益を保障させるかわりに日本を黙認した。
 日本政府は台湾につづいて持つことになった事実上の植民地・韓国を重要視し、伊藤博文みずから初代統監の地位についた。

 当時、朝鮮各地では抗日闘争が続けられていた。しかし日本軍の作戦で義兵活動は次第に弱まり、伊藤博文は併合強行への一歩を踏み出していた。
 1909(明治42)年10月26日、伊藤は中国東北地方の満州視察とロシア蔵相と会談のため中国へ向かう途中、ハルビン駅頭で暗殺された。

 暗殺者の安重根には日本人官選弁護人が二人ついた。検察側の死刑求刑に対して弁護人・水野吉太郎は、安重根の動機が
「誤解にいでたりとはいえ、伊藤公をたおすにあらずんば韓国を如何せんという赤誠から出たもの」として懲役三年を主張した。しかし、死刑を言い渡され翌年処刑された。この暗殺事件は併合を強行させることにつながった。

 1910年8月、韓国併合に関する日韓条約が李完用韓国総理と寺内正毅統監の間で結ばれた。日本は併合と同時に「韓国」として日本・清と対等であった国号を「朝鮮」に改め、朝鮮総督は陸海軍大将から選んだ。総督は天皇に直属し、軍隊を統率、立法・司法・行政のいっさいの権力をにぎった。以後、36年間にわたり朝鮮を支配した。

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2010年7月20日 (火)

“けやきのブログ”冊子にしようと思ってます

   2010年7月、けやきのブログ1周年です。
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を出版、読者を得たくて“けやきのブログ”  http://mykeyaki.cocolog-nifty.com/bloghonhon/ はじめました。

 始めてみたら結構おもしろく、ほかにも[Yah00のセカンドライフ]に参加しました。きっかけは爽舟さんという方が、拙著をとりあげてくださってたからです。爽舟さんを中に交流の輪ができていて“三本けやき”として仲間入り、楽しんでました。しかし閉鎖になってしまいました。
 そこで次にFC2ブログ鴉の本棚さんに拙著を見つけ、FC2ブログに参加しています。“三本けやき”  http://09keyaki.blog104.fc2.com/  がそれです。読書、歴史中心の“けやきのブログ”と別に暮らしやスポーツの事まどあれこれ書いています。
 
 マニュアルを読むのが面倒な質でともかく始めたけやきのブログ。形式文体ともバラバラ、文章もついつい長くなりがちです。短くと思うのですがままなりません。
 それでもせっかく書いたものが閉鎖によって消えてしまうのは惜しく、雑多なままでも冊子にしようと思い立ちました。これを読んで柴兄弟や幕末明治に興味をもってもらえたらうれしいです。

           2010年夏

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2010年7月13日 (火)

足尾鉱毒事件/左部彦次郎のなぜ?

 読み書き大好きカルチャーおばさん、話を聴くのも好きで講座や講演会に足を運ぶ。とくに歴史講座は知らない事はもちろん、何となく知る事件や事柄の繋がりが判ったりとおもしろい。また同好の士が集まる講座は知り合いができる。そこで友人になった人から一枚のお知らせをもらった。テーマは
「足尾鉱毒事件 運動初期からの支援活動家 左部彦次郎は谷中村事件のさなかになぜ離脱したのか」(講師・赤上剛田中正造記念館学芸員)
 足尾鉱毒事件といえば田中正造である。伝記(由井正臣・著)を読んで、こんなにも立派な人がいたのかと感動した。しかし左部(さとり)彦次郎ははじめて聞く名で、それも正造から「今 悪魔」とまでいわれた人物だという。興味津々、後で資料を見せてもらった。果たしてかんたんではない、重い。

 足尾銅山から鉱毒渡良瀬川に流入し魚類や農作物に異常が発生した。大きな被害にも拘わらず、社会問題化したのは田中正造が国会に質問状をだしてからだという。
 この質問状の資料調査や要旨を作成したのが東京専門学校(現・早稲田)を卒業したばかりの左部(さとり)であった。左部は早くから鉱毒事件にとりくみ正造と行をともにし、他の幹部らと共に兇徒として逮捕され裁判にもかけられた。
 正造の伝記にも登場する活躍ぶりで、鉱毒反対運動に情熱を傾けていた。しかし、その間に家は没落し愛妻までも喪ってしまった。

 はや40歳をこえた左部はやむを得ず鉱毒事件から身をひき、お互い子を連れて再婚する。となれば職を得て家族を養い生きなければならない。しかしなぜか栃木県庁の土木課に勤め、工事反対派の切り崩し、買収工作に従事した。ために「悪魔」とまでいわれ厳しい非難にさらされる。正造の右腕だったのに、なぜ、敵方の土木吏になったのか。

 左部彦次郎を知ったばかりで知識も浅いがなぜか左部に“寂寥感”を覚える。鉱毒事件支援に上流の村人や支援の学生が多く来たが、だんだんに足尾から離れ自分の場所に帰っていった。
 しかし左部は家を失うまで運動を続けたものの退いた。そしてその先、左部の行動は被害農民にも自分自身にも無惨なものとなった。

 勝手な思いこみだが、左部は運動に身を投じていた時も、正造が敵とする県の陣営に移ってからも孤独だったのではないか。いつも人中にいながら村民でないという遠慮、根っからでなくそこで生まれ育っていない人間は“旅のヒト”なのである。その感情はどうしようもない。
 順調なら表れないズレが生じると微妙な視線を投げかけられる。正造との間にも思想や闘い方の違いから隙間ができつつあったかもしれない。いつしか運動の外に追いやられ、気付けばさびしさと孤独に陥っていたとしたら、その場を離れたくなるだろう。そんなとき誘惑があったら、どうする。

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2010年7月 7日 (水)

江差を歩けば歴史が見える

  「江差いにしえ街道」復元された歴史の街並みを歩くまで江差のイメージは“ニシン”と“江差追分”のみでした。
 “追分”は立派な追分会館があり、その日はスクーリングとかで会場には高校生が大勢、若者の雰囲気は東京と変わらない。情緒豊かな民謡を隣り合わせで聴き、もしかして高校生の中に江差追分の伝統を伝える将来の名人が居るかもしれない。そう思ったら館内に響く江差追分がいっそう味わい深い。

 昼に美味しいニシン蕎麦を食べましたが江差で獲れたニシンではないとか。ニシン漁全盛時代は当時の回船問屋(旧中村家住宅)に名残をとどめるのみです。
 家屋は北前船が運んできた越前石を積み上げた土台に総ヒノキ造りの大きな二階建てで、元の主、近江商人の財力が偲ばれます。

 よみがえった開陽丸で幕末、戊辰戦争を実感したら次は明治です。明治20年に建てられた江差町郷土資料館「旧檜山町爾志郡役所」、瀟洒な洋館二階建てがそれです。
 建物に入らなかったので「あれが郡役所」と指差されただけでは忘れそうですが、ボランティアガイド・山田さんの説明を聞いてしっかり記憶に残りました。
 郡役所、現在の支庁の前身は江差警察署を兼ねた建物だったそうです。行政と司法が同居していた訳で、郡長は殿様状態ですね。どんなにか権力があったことでしょう。
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』柴太一郎はその当時、青森県下北郡長のち福島県南会津郡長をつとめました。賊軍と言われた会津人としてはなかなかの出世、太一郎の力量のほどが窺がえます。

Photo_35   ところで江差には松前と同じように寺院が幾つもあり全国各地から来た人々が自分の宗派を祀りたいと思う気持ちがくみとれます。それらは江戸の昔に建立されたものが多そうですが、泊観音寺はいつ頃でしょうか。
 その泊観音に円空仏木喰仏が並んで安置されています。ふつう尊い仏は暗い祭壇の奥に奉られているかガラスのケース入りです。
 しかし此処ではすぐ側に寄って見放題、もちろん写真も撮り放題です。でも、自分は粗末にしたら罰が当たりそうで写真は撮りませんでした。そのかわり観音寺と目の前に広がる江差の海を写してきました。

Photo_36

 江差の人口は一万人を切るそうです。でも大がかりに復元された街並みを郷土資料館の学芸員さん、ボランティアさんの案内で歩くうち、江差の歴史を大事に思う気持ちを強く感じました。歴史を伝えるには偉人や学者だけでなく、その地に住んで生きてる人たちの熱意が大事ですね。地味な二泊三日の観光旅行でしたが、なかなかでした。 

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2010年7月 1日 (木)

松前城と開陽丸

 北海道で30度が記録された6月、同行20人余と松前郷土資料館の学芸員さんに連れられ松前城阿吽寺(あうんじ)ほか寺巡りをした。暑さにもめげず江戸時代へタイムスリップだ。

 “松前の春は江戸にもない”再現の「松前藩屋敷」は広くて見所いっぱいだった。武家屋敷を見学するだけと思ったが、その一郭には「沖の口奉行所」からはじまって商家、漁家、回船問屋、もちろん武家屋敷に旅籠もあった。郭内を案内してくれたボランティアガイドさんは東京出身だという。そういえば学芸員さんも東京出身だそう、きっと松前はいいところなんだろう。
 貴重な説明がたくさんあったと思うが、印象に残っているのがイカ煎餅自身番小屋の傍らに再現された“火の見櫓”。
 その昔、江戸の町も火事が多かったが松前もそのようだ。その火の見櫓を作るのに材料の木材がとても高価だったとか。再現は学問的な見地はもちろん、費用や維持などいろいろ苦労が尽きないだろう。
 ちなみにイカ煎餅はいまどき安い一枚20円でイカは入っていない。でも焼いているおじさんが飄々として味があり楽しい。写真撮る前に食べちゃって紹介できないのが残念。

Photo_32

 松前城はコンクリートで復元されたものだが、石垣は昔のままで戊辰戦争時、榎本武揚開陽丸に砲撃された。その時の砲弾跡が三つ(写真)、どれもソフトボールくらいの大きさで穴は深くない。学芸員さんの説明がなければ見逃すところだ。

Photo_33

 
松前城を攻撃した開陽丸は江差沖で暴風雨のために沈没したが、復元されて江差の海に浮かんでいる。この地では北前船の昔から冬は運行しないそうだ。戦時ということもあるが気候風土、地理に暗いと痛い目に遭いそうだ。
 松前城と開陽丸とに戊辰戦争の傷跡を見、思いがけず北海道で幕末維新の昔を振り返ることになった。
 ところで開陽丸に近づいたら「釣り禁止」の看板がある。岸壁と船の間に目をやると魚がウヨウヨ、釣り堀状態だ。なるほど釣ってみたくなるだろうと思った。座礁した開陽丸が住処になっている魚もいるだろうか。

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