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2010年8月

2010年8月28日 (土)

日露の将帥若かった

   この夏は猛暑、酷暑の日々で熱中症で病院に搬送される人がかなりいる。亡くなった人は高齢者が多いという。高齢者と言えば近頃は100歳以上の戸籍生存者の記録更新が続いている。
 もう一つのブログ「けやきの便りhttp://blogs.yahoo.co.jp/keyaki_natu10 に「武者小路実篤が生きていれば125歳」を書いたら、次に149歳が・・・今度は149年前はどんな時代か書いてみた。でもまだ止まらない186歳だって!あきれるしかない。
 年金詐取で逮捕者も出る騒ぎになっている。お役所の怠慢なのか、人間関係が壊れてしまっているのか、それこそ非道い話だ。人の死ってどういうことなのか、考えさせられる。

 いま106歳、生存者もおられる1904(明治37)年日露戦争のさなかであった。夏8月から9月にかけて黄海海戦、第1回旅順総攻撃遼陽会戦、10月沙河会戦、再度旅順総攻撃と戦い続ける。
 翌年8月、ポーツマスで日露講和会議開催、講和に至るまで日本、ロシア双方とも戦死者は12万人前後になる。この数だけ父や兄弟を喪った家庭があるのだ。きっと戦場となった朝鮮や中国の人々の被害も大変なものだろう。

 年齢の話から日露戦争を指揮した将官はその時何歳だったのだろうと気になり見てみた。
       「参戦陸軍将校当時の職務と年齢」明治37.7.1

 参謀総長         元帥  山県有朋   66
 満州軍総司令官   元帥  大山巌     61
 満州軍総参謀長   大将  児玉源太郎 52
 陸軍大臣・教育総監 中将  寺内正毅  52
 第四軍参謀長     少将  上原勇作   49
 野砲第一旅団長   少将  内山小二郎 44
 第一軍参謀長     少将  藤井茂太   53(43)
 騎一旅団長       少将  秋山好古   54(44)
 野砲十五聯隊長   砲大佐 柴五郎    43
 第三軍副官       歩少佐 町田経宇  38
                       『機密日露戦争』より()内数字は筆者

 ちなみに1894(明治27)年8月1日清国に宣戦布告、日清戦争である。夏と戦争はいつの時代もなのか。

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2010年8月22日 (日)

三浦理一郎(毎日新聞「木語」より)

   “三浦文庫とは何か”の見出し。何だろうと思ってそのコラム「木語moku-go/金子秀敏」を読んだ。中国の古典籍研究の話で難しいが、若い日本人学者の感動的な逸話に惹きつけられた。
 文中に「今から90年前、義和団事件賠償金などで基金が作られた」とある。義和団事件と言えば柴五郎!その活躍に国内外から賛辞が送られたのが思い起こされる。中でも八カ国連合軍の総指揮者イギリスのマクドナルド公使
「籠城した外国人たちの命を救った功績をたった一人に帰するとしたら 、それは物静かで、冷静で、決意にみち、そして機略縦横の日本将校だった」と五郎を賞賛している。

 賠償金を得ると軍事に費やすことが多いだろうが、この時は基金を作り、日本と中国の学者を集めて東方文化事業総委員会が組織されたという。日中共同の大がかりな文化プロジェクトだった。しかし日中関係が悪化したために中国側が委員会から脱退する結末になった。

  以下“三浦文庫とは何か”より

 三浦文庫は上海で客死した三浦理一郎の記念する基金によって出版された書物である。慶応大東洋大中国古典学を学んだ三浦は上海復旦大学に留学、古典籍研究所に移り古典文献学の博士号を取得した。
 以後、毎年春と秋に復旦大を訪れる。中国の学者たちも酒杯を交わして学問を語り合うのを楽しみにしていた。だが2007年上海を訪れた直後、突然体調を崩して42歳という若さで不帰の人となった。
 葬儀の後、三浦氏の母堂は蔵書を基金とともに復旦大へ寄贈した。古典籍研究所は8000冊にのぼる蔵書で三浦文庫を作り、基金によって双書の刊行をはじめた。  

 木語の筆者は研究のため購入した“王芑孫の年譜”が三浦文庫の一冊でネットで詳しいことを知ったようだ。そのネットの文章は
晁衡阿倍仲麻呂)ついに返らず。遺献は後学を恵む」と題されて、古典文献学という地味な学問に取り組んだ日本人への敬意に満ちている。

 自分には三浦文庫に納められた書物など、とうてい理解できそうもない。しかし、歴史問題その他で摩擦のニュースが絶えない日中間、こうした地道で尊いつながりの紹介にはほっとする。
 それにしてもネットの文章は中国語だと思うのでコラムの筆者が漢文も中国語も自由自在のようで感心するばかり。また何か教えてほしい。

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2010年8月18日 (水)

千島占守島/夏草の間に戦車

   今朝NHKが占守島を映し青々とした夏草の間に戦車の残骸が散らばっていた。ここでは遺骨の収集ができていないと元戦車隊歩兵だった方が語っていた。戦車に乗った兵士たちの写真、そのうちの何人が祖国日本に帰還できただろうか。
 夏は戦争を振り返り、戦死者や負傷した人々を想い祈りを捧げる季節でもある。戦争を忘れてはならないと、新聞やテレビが様々の形で伝える。
 小学生の孫のいる年代でも戦争について親から聞いただけで実感がない。だから戦争に関する話を見たり聞いたりしたら心にとめておかなくてはと思う。

 占守(シュムシュム)島の歴史を明治に遡ると、以前「南極観測船しらせと探検家白瀬矗」に書いたことがあるが、1893(明治26)年には千島開拓に幸田露伴の兄・郡司成忠一行が赴いている。郡司はいったん引き上げるが、残されたのちの南極探検家白瀬矗(のぶ)らは悲惨な孤島生活を三年間もする羽目になった。
 それから117年後の占守島の映像が、夏草が生い茂るなかの戦車の残骸である。この千島列島には開拓のはじめから昭和の戦争までいったいどのくらいの日本人が眠っているのだろう。

 『コンサイス日本地名辞典』によれば千島列島は以下である。
 国後択捉2島を松前藩の領域または幕府直轄領として、1869(明治2)千島国設置、北海道と合わせてクルミセとよんだ。国後・択捉・紗那蘂取振別クナシリエトロフシャナシベトロフルベツ)の5郡をおいた。
 1875年 中・北千島が含まれ得撫新知占守ウルップシムシルシュムシュ)の3郡をおく。1945(昭和20)以降、全域をソ連が占拠。

 ちなみに1875(明治8)年 駐露公使榎本武揚と露国首相ゴルチャコフの間で樺太・千島交換条約が結ばれた。この条約で樺太島をロシア領とし、ウルップ以北の千島が日本領となる。

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2010年8月15日 (日)

光復映画/韓国の8月15日

Photo_37  今年は日韓併合100年にあたり首相談話が発表された。その内容についてそれぞれの立場から議論があり新聞テレビなどで報道されている。恥ずかしながら「日本が韓国を植民地支配した事実を避けて通れない」と思ったのはそう昔ではない。
 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を執筆中、朝鮮半島へ渡った兄弟それぞれの目的や意味を知ってからである。当時かなりの日本人が朝鮮へ赴いた。役人、浪人、商人などなど。

 その当時の日本は朝鮮半島を圧迫し、ついには支配してしまう。その併合条約が結ばれたのが100年前の8月22日で、日本が戦争に負けた1945年8月15日に解放される。韓国はこの日を光復、奪われた主権の回復を光復節とし現在でも祝日としている。
 この解放を主題とする映画を光復映画というと『韓国映画史』(キネマ旬報社)にある。

 何気なく手にした『韓国映画史』だが、「開化期から開花期まで」の副題通りさながら日韓の近代史となっている。韓国映画、今のも昔のもあまり見ていないがこの本は分厚さにも負けず読み通し、人にも勧めたくなった。韓国から日本が見える、それも善い日本とはとはいえない。けれど、日韓双方のこれからのため、知っておいた方がいいと思う。

 光復映画が登場した時の映画制作の環境は劣悪だった。しかし、36年にわたる日本帝国主義の植民地統治から解放された感激と民族の矜持を映画で表現しようとする情熱は止められなかった。そのため民族の気概をとどろかせた人物や義士、烈士など、独立闘士に関するもの(『安重根史記』『ユン・ボンギル義士』など)と、解放と新しい祖国建設への期待を劇化する映画(『自由万歳』など)が先を争うように制作された。

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2010年8月12日 (木)

『静かな大地』と歴史の裏表

   少し前に北海道に行き「松前城と開陽丸」「江差を歩けば歴史がよみがえる」を書いた。歴史ツアーで与えられるまま?古くからある屏風絵や復元された街並みを楽しんで帰ってきた。
 ところで何気なく手にした『静かな大地』(池澤夏樹朝日新聞社)を読み、見学した松前、江差は歴史のほんの一部だと気付かされた。

 『静かな大地』は本土の淡路から北海道に移住した宗形三郎兄弟がアイヌの智慧と協力を得て開拓に励み、牧場を開き共に生きていく物語。でも、その結末は<今はなき大地を偲ぶ島梟(しまふくろう)の嘆きの歌>が虚しい。

――あの頃は山に木が生えていた。(略)千島笹は北の風にさわさわと鳴り、日当たりのよい丘の辺には柳蘭が赤い花を散らした。 (中略)
――今はみないなくなった。山に木はなく、川にははなく、山には鹿はなく、狼もなく、アイヌもいない。誰もいない何もない山に風が吹くばかり。今はわたしたちの嘆きの歌がこだまするばかり。

 江差町郷土資料館は「旧檜山町爾志郡役所」で瀟洒な洋館二階建て、その前身は支庁と警察署を兼ね行政と司法が同居していた。次は『静かな大地』の一場面。
 アイヌの葬儀で亡くなったアイヌのチセ(家)を焼く習いがあったが、明治政府は禁じた。が、あるとき実行された。疑われたアイヌは戸長役場に呼び出され同居の警察で拷問を受ける。そればかりかアイヌをかばった和人、静内の戸長まで勤めた宗形三郎も追いつめられ、やがて死を早める。

 話が前後するが物語のはじめはアイヌの生き様がいきいきと描かれ、三郎、志郎兄弟とともに読者の私も感心することが多かった。自然を敬い溶け込んで暮らしていたアイヌ、だが日露戦争がおきると兵隊にとられ、出征させられた。
 2泊3日のツアーでアイヌのアの字もなかったが、北海道はもともとアイヌが先住していたのだ。歴史の事実は変わらない、でも知ることは難しい。そして伝え方はなお難しい。うかうかしてると観光の歴史観?で満足してしまう。
 ともあれ歴史を見る、語る、その立ち位置に注意しようと考えさせられた『静かな大地』だった。

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2010年8月 6日 (金)

柴五郎の8月15日と12月13日(アインシュタイン)

   1945(昭和20)年8月15日柴五郎は正座して玉音放送に耳を傾けた。日露戦争で負傷し耳が少し遠かったので聞き取りにくく、家族に「何とおっしゃった」と静かに尋ねた。五郎は敗戦を覚悟していたが、戦に負けるとどんな目に遭うかを知るだけに心が沈んだ。
 気力が衰えたのかその4ヶ月後、12月13日に87歳でこの世を去った。軍国主義を捨てた時代、陸軍大将の死亡記事は短い。朝日新聞はかんたんな経歴と末尾に一行、「宮中杖を差許された」と記すのみ。

 五郎の死と同じ12月13日、ニューヨークノーベル賞祝賀会があり、原子爆弾製造への道をひらいたアインシュタイン博士が注目された。
 かつて来日し大歓迎された博士は広島長崎の惨状を知ってか、この日、
恐怖から解放せられるべき世界は戦後に却ってその恐怖を増大した。諸国が相互に対する態度を改めないならば、これによって惹起せらるべき惨害は筆舌に絶するであろう」
世界に警告した。

 柴五郎の死について自殺説がある。筆者は五郎の次女西原春子さんをお訪ねした折、確かめたかったが切り出せなかった。
 五郎は亡くなる前日まで麦踏みをしていて、ごく普通であったのに翌朝、長女みつが気付いたときは既に亡くなっていたという。
  日本の敗戦を知り日ならずして静かに逝きぬ祖父柴五郎 (西原照子)

   広島平和記念式典の日に寄せて『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より

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2010年8月 2日 (月)

薩長連合なり会津は「長州正面の敵」に

 NHK大河ドラマ龍馬伝」はいよいよ佳境に入り昨夜は“西郷はまだか”の巻だった。実は大河ドラマをしみじみ見ない。登場人物や人間関係について、知ったかぶりするので家族からうるさがられる。つい、説明したくなっちゃうので遠目にちらっとね。でも今回は当時の会津の立場を話したくてたまらない。興味ある方は『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』京都守護職、戊辰戦争あたりの抜粋、読んでみてください。

 京都守護職・会津藩主松平容保の手足となって働く柴太一郎、京都の住いは三本木にあって会津藩公用方の上司・秋月悌次郎らと同居していた。
 ある日、その家を将軍上洛の供奉をする藩主に従い上京した米沢藩周旋方宮島誠一郎が訪れた。宮島は漢詩人・藤井竹外宅で開かれる漢詩の賦会に行く途中、秋月の許を訪れ、会合の場に来合わせたのである。漢詩を通じて藩をこえた交友、公用方、周旋方などの交流によって情報を入手していたのだ。
「文久三(1863)年七月十六日。秋月悌次郎、広沢富治郎(安任)、大野栄馬柴秀次(太一郎)・・・・何れも会藩士有名なり、然に肥前藩長森伝次郎来り、楼上会飲始り、甚だ面白し」当時の京で会津藩士は人気があったようだ。

 このころ攘夷をめぐり、公武合体派と長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京を舞台に主導権を握ろうとして暗闘が繰広げられていた。
 ある日、太一郎らの三本木の宿所に突然、薩摩藩士高崎猪太郎らがやってきた。二人は会津藩士広沢富次郎・柴太一郎・手代木直右衛門らを加えて密議、「武力で長州藩士を京都から追放する態勢をとったうえで、一気に攘夷派公卿の一掃」をはかろうとした。
 続いて秘密裏に、薩摩は高崎佐太郎、会津は秋月悌次郎の二人が中川宮のもとに走った。中川宮をとおして勅許を得ようとしたが勅許はすぐにはおりず、薩摩と会津は毎夜のように秘密裏に会合を繰返した。
 やがて内勅が伝えられ八月十七日夜、薩摩と会津は人数を繰出して御所九門を固める。会津と薩摩の藩兵は蛤門から皇居に入り、夜が明けると他の御門守備の藩兵も集結した。
 長州藩は河原町の屋敷から軍装して御所に詰めかけた。

 戦争開始の流言がひろまり、市民は郊外へ逃出した。公卿屋敷・御所の婦女子は風呂敷の様な物など背負い裸足のまま出ていった。
 夕方になって御所に詰めかけた長州藩は引返す(八月十八日の政変)。会津・薩摩両藩を中心とする公武合体派が、長州を中心とする尊攘派を京都から追放したのである。このクーデターで長州藩は追い落され、三条実美ら尊攘派公家七人は都落ちした。

 しかし、公武合体派の勢力は長く続かず、そのうえ会津は長州から「会津は正面の敵」とされてしまった。このことが維新後、「実直に任務を果した会津の人々に辛酸をなめさせた一因」ではないかという説があるが同感である。

 朝敵となった長州藩だが薩摩とひそかに連携する。土佐坂本龍馬の斡旋で薩長の提携が進み、武器購入などで外国に接近していったのである。また朝廷でも議論の末、開港をやむを得ないとして長州に寛大の処置をとることになった。これでは藩主みずから藩士をひきいて上京、難局に当ってきた会津はおさまらない。

 会津藩は薩摩の挙動がおかしいと気づき、柴太一郎は薩摩の知人、内田仲之助のところへ話合いに行ったが、水掛論に終ってしまった。それどころか、薩摩藩士が会津邸内を窺い、それを咎めた会津藩士と小競り合いになったりした。
 そんなある日、見張番所付近に現れた薩摩人数人と会津藩士が斬り合いになり、柴五三郎はその中の一人に深手を負わせた。後でそれが村田新八とわかった。つい先日まで協力して長州を追い落とした会津と薩摩の関係は険悪になり、太一郎は容保に「薩摩は出兵を断る」という話を復命、慶喜にも具申された。

 薩摩と長州はそれぞれ領土を外国軍艦によって砲撃されていた。外国の武力の優秀性を認識させられた薩長両藩の結びつきが倒幕勢力の主体となってゆく。幕府はそれを把握せず、ついに第二次長州征伐を決定する。
 六月、幕府軍艦は長州藩領を砲撃し戦闘が開始されたが、戦況は幕府に不利であった。第一次長州征伐で幕府側だった薩摩藩は西郷隆盛が幕府の出兵命令を拒否、そのうえ朝廷および諸藩にも再征反対の空気が強かった。

 この長州戦争のさなか、幕府にとっても日本にとっても重要な問題が起きていた。まさにこの年末、安政五ヶ国条約で定められた兵庫新潟江戸大坂を開く時期が迫っていたのである。イギリス公使パークスはじめ各国が兵庫に軍艦を差向け、大混雑がはじまっていた。

 たまたまこの日「龍馬伝」のすぐ後の放送はNHKスペシャル「日本と朝鮮半島」日韓会談舞台裏に迫る竹島密約か?だった。二つの番組の間にあるダイナミックな歴史の動きを思うと、今の日本の元気のなさが気にかかる。ただし戦争は嫌だ。

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