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2010年10月

2010年10月31日 (日)

国勢調査、内地と外地の人口

 もう10月も終わりだが、今年は国勢調査があった。わが家にはご近所の調査員がきた。子どもは独立し夫婦二人暮らし知られて困ることもないが、知り合いで何となくかったるい。
 近ごろ調査に協力しない人もあると聞く。それは面倒だから?国勢調査ってなに?だから、それとも深い考えがあるからか。こうした疑問に応えるような本がある。
 『国勢調査を調査する』(山本勝美・岩波ブックレット)で、<揺れる「調査神話」><“される側”からみた素顔><プライバシーが危ない>などの項がある。1995年発行で15年前に書かれたものなので変化してる事もありそうだが考えるよすがになった。

 次の説明と数字は、『近現代史用語辞典新人物往来社安岡昭男編/『近代日本総合年表岩波書店から抜き出したもの。2010年の調査結果がでたらこれに続けると興味深いかも。

 国勢調査:近代国家において行政の基礎資料を得る目的で実施される統計調査。日本では人口調査のみを行う。1902年(明治35)に法律化され、1920年(大正9)に初回調査を実施。以後10年ごとと中間に調査。

1920(大正9)年10月1日
第1回国勢調査実施(内地人口5596万3053人・外地人口2102万5326人)
 *外地:敗戦前の我が国の内地以外の諸地域。すなわち朝鮮台湾樺太南洋群島および関東州などの総称(『広辞苑』)。

1630(昭和5)年10月1日
第2回国勢調査実施(内地人口6445万5人・外地人口2594万6038人)東京市207万529人。失業者調査も実施(全国32万2527人・東京都6万2597人)。

1955(昭和30)年10月1日
国勢調査実施(人口8927万5529人)東京都803万7084人。

1965(昭和40)年10月1日
国政調査実施、総人口9827万4961人。東京都1086万9244人。

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2010年10月28日 (木)

バリ島の米は五期作

 バリ島でウブド観光をした。ガイドは何かにつけて「任せなさい」を連発するバリ人のおじさん。ヌサドウエリアを出発して間もなく青々として実りが近そうな田んぼがあった。広がる田園は「懐かしい日本の風景」のようで、とてもインドネシアとは思えない。
 ガイドさんが言うには、バリではお米が5回も獲れるという。気温が高いからありそうとは思うけど・・・暫く車を走らせていると水田が見えた。大勢で田植えをしている。また暫く行くと、今度は稲刈りをしていた。これも人手がたくさん賑やかだ。2時間も走らないのに田植えから稲刈りまで見られるなんて、所変わればだ。
 地区ごとに順番に水を回したりして作っているという。稲刈りや田植えの写真を撮りそこなって残念だった。五期作といっても良質の米や餅米は二期作だという。

Photo_2

 バリの米作りに驚いたが、バイクにも「えーッ」だった。車とバイクとどっちが多い?というぐらい何台ものバイクが車に伍して走っている。しかも二人乗りは当たり前、3人乗りを見つけて「ほら見て」と言ったら「4人乗りがいるよ」という。
 家族4人乗りバイクが、車の間をぬって走っているのだ。バイクは結構スピードをだしていて怖いぐらいだ。感心にもヘルメットだけは被っている。

Photo_3


 インド洋に望む高さ70mの断崖絶壁に建つウルワツ寺院、王宮、その他を見学して戻り道、ガイドさんに銀細工の工房に連れて行かれた。父親を手伝っているという中学生の女の子がいろいろ勧める。「東京へも行くがそのときはもっと高いです」だって。鈴が入ったストラップを買った。

 次は大きなお土産屋さんにも連れて行かれた。道理で途中にマーケットがあっても立ち止まらなかった訳だ。日本で安いツアーだとあちこち連れて行かれるが同じよう。ついついあれこれ買った。
 支払いはやたらの場所でカードを使いたくないのでインドネシアルピアをだしたが、足りない。そこで以前の海外旅行で残ったドルを持ってたので出した。が、まだ少し足りなくて今度は日本の千円札を一枚足した。高額でもないのに三ヶ国のお金で買った。

 インドネシアルピアと言えば、クラブ・メッドリゾートに泊まったのだが、チェックアウトで精算のとき日本円でOKだった。ただし、おつりはルピア、日本円では出せないと言われルピアでもらい、ホテル内で買い物をした。
 入国の時は一人25USドル払った。日本円やドルで支払いができるのは便利だけど、インドネシアにとってどうなんだろう。

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2010年10月19日 (火)

明治のスポーツ、『明治日本発掘』から

In  バリ島のリゾートで若い人たちが太陽をいっぱいに浴びてストレッチ、ランニング、ラフティングやクルーズを十分堪能していた。かと思うと、併設のスポーツセンターでバドミントン大会を楽しんでおいしい食事をお腹いっぱい。
ピラティスをしても体重増加は免れないが、心配は帰国してからね。
 整備された海外のリゾートで、くったくなくスポーツに汗する皆を見ていると、自分の若い頃と様変わりを感じる。ボーナス貰ったらスキーに行くのが贅沢な遊びだった。

 ところで昔のスポーツは?誰が何をしていたのだろう?“生の報道で読むドキュメント明治”『明治日本発掘』第9巻(河出書房新社)の見出しを見ると、蓮っぱ娘なんていうのがあった。100年前は体育、運動に励む女子は「態度や行いが軽はずみな女」「身持ちが良くない」なんて言われたのだ。

慶応ラグビー部が試合34.12.8 時事

女子体育に"蓮葉娘"38.2.16 東京朝日
単に体育を目的として女子の得点を失わぬよう優雅温厚なる方法は少ないのである。(中略)世の女子教育家が勝手な真似をするとも、父兄等はこれに対して深き注意を払わぬが今日の状態であるから、蓮葉娘は得たり賢しと新式遊技や旧式舞踊で飛んだり跳ねたり(後略)

テニスも早慶戦 38.5.14 国民新聞

遠泳十マイルに杉村陽太郎優勝 38.8.21 大阪毎日

小島烏水山岳会創設 39.11.5 時事

器械体操の試合 39.11.5 時事

学習院でクロスカントリー 41.1.27 時事

卓球大会開催 42.5.3 東京日日 

最初のスポーツ記者は歌人の窪田空穂 43.3.26 読売
 新聞、雑誌に運動記事を書き初めた元祖は、実は野球についてまだ何も知識を有せぬ窪田空穂君が(後略)
  *空穂は電報新聞社(のち東京毎日新聞)社会部記者だったことがある。

新渡戸稲造
(一高校長談)野球熱批判44.8.29 東京朝日
  *教育者で「武士道」の新渡戸としては塁(ベース)を盗もうなど目を四方八方に配る野球は巾着切りのゲーム?

野球は害毒のキャンペーンに天狗倶楽部反発 44.9.2 読売 
 天狗倶楽部代表者押川春浪中沢臨川山田敏行三氏より、全国学生を侮辱するものなれば、我等はあくまで大々的反抗運動を(後略))

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2010年10月13日 (水)

三浦襄、インドネシア独立のために

 昨日、インドネシア・バリ島から帰ってきた。 [ アディダス契約アドバイザー 中野ジェームズ修一と行く“スポーツキャンプinバリ島”6日間コース]
バランスボール教室の縁で参加した。 ツアー名からスポーツウーマン?と誤解されそうですが、頑張ってないので大丈夫。帰国翌日のバランスボール教室、夫婦とも出席した。

Photo
 海外だからせめてバリの歴史をちょっとでもと、ガイドブックを手にした。バリがオランダの植民地だったと知っていたけど、日本がバリ島を過酷に支配したのは知らなかった。まして三浦襄というすばらしい日本人がいて、バリ人に慕われていたことも。 手元の人名辞典に見当たらないが、いつか三浦襄を調べてみたい。

 写真はバリの町を走るバイクを車の中から写した。バイクが縦横に町を走り、3人乗りも珍しくない。 次は「地球の歩き方から引用。

   太平洋戦争独立闘争

 太平洋戦争がはじまり、旧日本軍は蘭印(オランダ領インド)侵攻作戦の一環として1942(昭和17)2月にサヌールに上陸し、バリ島を支配下においた。日本の支配はオランダの支配より過酷なものだった。

 ただし、日本人の中にはバリ社会の向上やインドネシア独立のために尽力した三浦襄のような人物もいた。彼は民政官として調整に奔走したが、バリ島民に占領下の無理強いを謝罪し、日本敗戦後に自殺している(彼の葬儀には1万人ものバリ人が集まったという)。

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2010年10月 4日 (月)

後藤象二郎の半生―――「明治の兄弟」より

 今夜のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は、幕府を廃する議論が公然と行われるような情勢にいよいよ大政奉還の話であった。
 1867(慶応3)年、土佐藩士後藤象二郎は二条城に登城、大政奉還をすすめた。建白の主旨は坂本龍馬が作成したものである。将軍慶喜はこれを受入れ、幕府の諸役人、五十余藩の重臣を集め政権返上を告げた。
 ドラマの後藤象二郎を初めて見た。後藤は『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の東海散士柴四朗と交流があり、たびたび登場しているので抜き書きしてみた。

          龍馬と京へ
 紀州に山東直砥なる人物がいる。はじめ高野山の僧となるが感ずるところあり幕末維新の日本を駆け回る。志操が右に左にぶれるまま行動、波乱の人生をキリスト教に帰依して終わる。
 その山東が樺太開拓が急務であると考え、海援隊の力を借りようと長崎に赴き坂本龍馬に面会した。折しも龍馬は後藤象二郎と京都に赴く所だったので、山東は汽船に同乗した。龍馬と象二郎、名ある人物に会い期待したと思うが目的は果たせなかった。
 
     民選議院設立建白書
 さて、江戸は東京と改称。明治のはじまりだが新日本大急ぎの改革に不平不満を抱く者が多かった。西郷隆盛と同じく征韓論に敗れ下野した板垣退助・後藤象二郎らは民撰議院設立建白書を提出した。「政府を公然と批判し民選議院設立を要求した建白書」は注目を集め、自由民権運動の口火をきった。
 政府が取締りを強化しても世間には不穏な空気がただよい佐賀の乱、西南戦争がおきた。大西郷を担いだ西郷軍には決死の勇気があったが、軍隊を輸送する船舶がなかった。政府に船舶を提供したのが岩崎弥太郎である。

     板垣と洋行
 自由民権運動が盛んになると、各政党は地方遊説など運動を展開した。そうした中、板垣が襲われ「吾死スルトモ自由ハ死セン」は民権運動の合い言葉ともなった。
 その板垣が後藤象二郎とともに洋行することになったとき、「自由党はやっと結成されたばかり、政府の金で洋行するなど以てのほかである」と馬場辰猪らに反対されたが聞かなかった。

     朝鮮の改革派を応援
 1884(明治17)年、朝鮮ソウルでクーデター甲申事変おこる。急進開化派の金玉均らが日本に亡命、親日政権を樹立のため福沢諭吉や後藤象二郎らと連絡をとりあった。
 朝鮮の改革を応援する日本人は、現状のままでは朝鮮も清国もヨーロッパの強国のために侵略され属領となる。そこで朝鮮が独立を全うし文明を開発し相当の武力をそなえ日本と提携し、侵略を未然に防がなければならないと援助したのである。
 当時、国権派も民権派もこぞって政府の対外軟弱を非難し、朝鮮進出を企てた。大井憲太郎らの渡韓計画や後藤象二郎らによる壮士募集もあった。国権拡張の意識が強烈で政府は抑制しようとするも、政府もまた富国強兵をすすめていたので押し流された。

     熱海に別荘
 話はそれるがこのころ後藤象二郎は熱海に別荘を建てた。熱海は古くからの保養温泉地であるが、明治になって維新功臣の遊楽地としても発達した。明治二十年代になって上流階級の別荘熱がおこり、「東京の本邸を抵当にして別荘を作る」という奇談もあった。
 また東海散士が『佳人之奇遇』第二編を出版すると、象二郎は暘谷(ようこく)居士の名で序をつけた。

     大同団結運動
 「行政整理、政費節減」は百年河清を待つのと同じ、達成できない。そのころ幕府が結んだ不平等条約を対等条約とするため政府が交渉をはじめたが反対運動が激しかった。外国人裁判官の採用を反対したのである。「地租軽減、言論の自由、対等条約」が掲げられ民権運動が復活した。
 そのころ自由民権運動は四分五裂、沈滞していたから、「小異を捨てて大同につき一大勢力を形勢しなければ、とても政府に対抗できない」と全国有志大懇親会が開催された。大同団結運動である。それに大政奉還の立役者後藤象二郎が担ぎだされた。
 後藤は長崎に行って樟脳を外国人に売り、土佐藩の蒸気船を買うなど才覚があったが、同郷の谷干城は「あのとおり機敏な人であるから」と、後藤と行動をともにする東海散士にいい顔をしなかった。

    東北遊説
 いよいよ運動がはじまり、福島で「東北七州有志大会」が開かれた。この日の懇親会は後藤象二郎と柴四朗を迎えて300人も集まり盛況だった。会場の外を巡査が固めていたのは、保安条例で東京退去させられた者がいるし、懇親会とはいえ雰囲気がいつもと違い警戒したのだ。
 後藤と四朗ら一行は東北各地を巡回し、甲信地方を回って帰京した。大同団結運動は関東・東北にとどまらず九州までたちまち全国に広まり、団結が強められた。

    高島炭鉱事件
 当時、日本は先進国に追いつこうと産業の発達を急ぐあまり、各地の炭鉱などでは低賃金で強制労働が行われ、囚人労働まであった。
 もと肥前藩の高島炭鉱は明治期に長崎のイギリス人グラバーと共同経営、殖産興業の一環として開発が進められた。その後、官営となり後藤象二郎の蓬莱社に払下げられた。しかし事業は失敗、負債が増加した。今度は福沢諭吉の仲介で三菱が炭鉱を買収、やがて三菱のドル箱事業となる。
 炭鉱では官営時代も囚人を使用したが、三菱経営後も過酷な労働は継続され、六回も暴動が起きた。「三千の奴隷を如何にすべき。世論は何が故に高島炭坑の惨状を冷視するや」(三宅雪嶺『日本人』)と大きな問題となった。

     大同団結の決意はどこに
 獄中にあった政治犯が憲法発布の大赦で解放された。出獄した河野広中に三宅雪嶺らが福島県まで会いにいった。後藤の要請で大同団結のため上京を促したのである。ところが当の後藤は黒田内閣の逓信大臣として入閣。
 大同団結に集まった者たちは悲憤の涙にくれ「後藤に売られた」と叫んだが、後藤は「大同団結の目的を内部より達成するために入閣した」と平然としていた。“大同団結の親分が籠絡(ろうらく)"され政府の思うつぼにはまったのである。
 後藤の行動に柴四朗、陸羯南らみんなで不満を言ったが、谷は「後藤は国のために尽す心がなく、政党を自分のために利用する人物だから怪しむに足らない」という。“大同団結の決意は何処”である。

 大隈外相が条約改正問題に関し襲撃されると黒田内閣は総辞職、山県内閣が成立した。山県内閣は議会操縦のため後藤象二郎、陸奥宗光を入閣させた。第三議会は冒頭から波乱のすべり出し、政府提出案は殆ど否決、追加予算案は削られやっと成立した。
 閉会後、松方内閣は総辞職、伊藤自ら出馬しトップレベル元勲総出の重みで議会を圧しようとした。このとき後藤は農商務相。

 明治20年代、民権諸派統一の盟主と仰がれた後藤だが、晩年はひそかに韓国顧問をつとめ、不遇のうちに没した。 

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