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2010年12月

2010年12月31日 (金)

広瀬武夫、与謝野晶子、東郷平八郎

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   年末のテレビ“坂の上の雲”は広瀬が「杉野はいずこ?」と部下を捜し戦死で終わっている。それではと広瀬武夫について「近代デジタルライブラリー」で見てみた。
 『軍神広瀬中佐壮烈談』剣影散史・明治37年/『偉人の跡』三宅雪嶺・明治43年など。『百字百人評』湯浅観明・明治38年は一人1ページずつ簡潔に記してある。広瀬の項をを見たついでに他もクリックしてみると与謝野晶子と東郷平八郎が左右ページに並んでいた。

 何しろ東郷は日露戦争でバルチック艦隊を撃破した連合艦隊長官であり、晶子は戦地・旅順にいる弟の無事を願い“君死にたもうなかれ”を詠んでいる。英雄と反戦の歌人、並び順はたまたまかも知れないが、二人が見開き並んでいるのは興味深い。内容については写真『百字百人評』を読んでみてください。Photo_12 写真をクリックすると文字が大きくなります。

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2010年12月23日 (木)

裁き裁かれる師弟:河野敏鎌と江藤新平

 孫からジングルベルの音付きカードが届いた。想い出のクリスマスがある。十数年前の年末、夫と娘と三人でオーストラリアに行った。Tシャツに短パン軽装でシドニーの街を楽しみ、南十字星を仰ぎ見てホテルに戻ると、お揃いの白と赤を着た合唱隊がずらり。ロビーはクリスマスキャロルに満たされていた。おお、グリーンクリスマス!素敵!

 ところで日本最初のクリスマスは? 年表をみると1874(明治7).12.25築地東京第一長老教会で初の祝会開催とある。この年代辺りを徳富蘇峰は「維新史の山」といい、開国以来の動揺が治まってなかった。
 以下『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』と『維新後の人物と最後』(求光閣・明治35)より。

Photo_4  明治政府になって戊辰戦争から凱旋してきた兵隊のエネルギー処理のために、征韓論を主張する動きがあった。木戸孝允は国内の混乱を転嫁するため兵士の朝鮮派兵を唱えた。
 朝鮮制覇は将来の「万国経略進取の基本」、西郷隆盛板垣退助らはすぐにも征韓を実行しようとした。
 これに対して内治優先を主張する大久保利通らは強硬に反対した。すでに侵出している列強と戦えば負けることを知っていたからである。結局、韓国派兵は中止となり陸軍大将・西郷隆盛は辞表をだし政府は分裂する。

 明治7年1月、西郷と同じく征韓論に敗れ下野した板垣退助・後藤象二郎副島種臣江藤新平ら八人が民撰議院設立建白書を提出した。
 「政府を公然と批判し民選議院設立を要求」は世間の注目を集め自由民権運動の口火をきった。政府は取締りを強化したが世間には不穏な空気が漂い、西郷は薩摩に帰り今にも何か事が起きそうな情勢になる。

 やはり事がおきた。政変に敗れて下野した元参議・江藤新平が蜂起し、佐賀県庁を襲ったのである。この佐賀の乱に政府は迅速に対応し、ただちに熊本鎮台司令長官谷干城に出兵を命じた。
 まもなく政府軍は佐賀県庁を奪回する。江藤新平は高知で捕えられ4月、処刑された。
 イラスト: 『佐賀の夜嵐 江藤新平』近代デジタルライブラリー

 
  それにしても余りに迅速な政府の対応。<ライバル・江藤新平の抹殺狙い「大久保利通らの陰謀だった」>(毛利敏彦・毎日新聞)は説得力がある。同時代人も江藤を惜しむ。

「時の政府を転覆して以て自己の意見を実行せんと真意に至りては亦た已む可らざるなり」と。そして新平の一句を書きしるす。

大丈夫の涙は袖にしほりつつ迷ふ心はただ国のため
国を思う人こそ知らめ武士(もののふ)の心つくしの袖の泪は」

 捕らえられた江藤新平に斬刑を言い渡したのは、江藤に法学を学び彼を敬慕する河野敏鎌(のち枢密顧問官、憲法審議に参加)である。恩師を裁いたその心情は・・・・そのとき敏鎌30歳、新平40歳であった。

 勇敢なる恩師の情を追想するや思わず二三歩を退き悲然として嘆息せりといふ。子弟の情や又興りしなるべし。然れども公事須らく至誠ならざるべからず。私情の為に公を曲げ誣を以て天下の大義を誤るが如きは元より敏鎌の学ばざる所也。箕資師新平の断頭台上に見ゆる当時を追想せは情あり。涙ある吾人の感や果たして如何。敏鎌の心中深く察諒せさるを得ざる也。
 (『維新後の人物と最後』岩崎徂堂須藤靄山近代デジタルライブラリー

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2010年12月18日 (土)

日韓の映画史から見える時代

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 2010年秋、“中野ジェームス修一と行くスポーツキャンプinバリ島”若い人に交じり参加した。一行は水中、陸上の様々なスポーツを楽しんだが、私たち夫婦は観光目当てだ。ちなみに中野氏はテニス伊達公子選手ほか有名選手トレーナー。海外のリゾートでスポーツを楽しむ世代に交じると、映画が娯楽だった昭和と隔世の感がある。
平成の今、テレビやDVD、雲の上でも映画が楽しめる。ガルーダインドネシア航空ジャッキー・チェンベスト・キッド」を見た。英語も中国語もさっぱりだが、ストーリーは単純で楽しめた。

     映画とことば
 英語と中国語がとびかう映画を見たが、一口に中国語と言っても北京語、広東語など地方ごとに発音や語彙が異なる。佐藤忠男映画の真実』(中公新書)によると、中国では映画のトーキー化が始まったとき、国民党政府はすべての映画は標準語としての北京語でセリフを話さなければならないと決めたという。国民党政府は映画のセリフで標準語の普及を図ったのである。
  また台湾の場合、日本の植民地時代は日本映画と北京語による中国映画は見ることが出来たが、地元の台湾語による映画はなかった。日本の統治を離れてはじめて台湾語で映画を作る自由を得たのである。

 さて、映画が写しているのは何?現実それとも絵空事?現代劇といえども現実そのものでなく、美化したものも多いだろう。時代劇でも制作時の社会の風に吹かれ、時流や思考、当代の現実らしきものが画面のどこかに見え隠れしていそう。
 映画に限らず表現は自由になっているが無制限ではないから、時には問題が起こる。でも現代は「制限された事物」を社会に訴え、議論もできる。しかし、戦前の日本や前述の中国、植民地の韓国や台湾だとそうはいかない。そもそも映画作りのはじめから強い縛りがあり、完成しても検閲を通らなければ観客の目にふれない。

      日本と韓国の映画史
 映画から日韓の近現代をかいま見ようと思ったのは“開化期から開花期まで『韓国映画史』”(キム・ミヒョン責任編集・キネマ旬報社)を手にしてである。この映画史で日本が植民地韓国に何をしたか、それに対し朝鮮の人々がどんな思いであったか、その一端を知った。又、興の赴くままに観る映画、作り手の志を知ればいっそう興味がわくとも感じた。
 ひるがえって日本の映画史をと『映畫五十年史』(筈見恒夫著・鱒書房)を読んだ。戦中の本で紙質は悪いが実に多くの映画を見、驚くほど映画と制作に造詣が深い著者に感服した。
 著者筈見は映画の脚本も書き、25歳で東和商事(現・東宝東和)の宣伝部長となり、ヨーロッパ映画の輸入宣伝のかたわら、評論活動を続けた。財団法人川喜多記念財団HPに淀川長治らと一緒の写真や著書の紹介あり。ちなみに同HPの資料探訪には戦前の宣伝、検閲の項がある。
 『韓国映画史』は2010年刊で新しい。朝鮮戦争と南北分断、軍事独裁政権による過酷な検閲、その先の現代まで記述がある。しかし『映画五十年史』は1942(昭和17)年刊、太平戦争までで終わり。そこでこの2冊の時代が重なる1942年頃までを見てみる。

     映画の始まり
 日本に映画が来たのは1896(明治29)年で映像はアメリカ市街の風景、火災消防などであった。大阪南の演舞場で活動写真を公開の時、警察の許可が下りず、交渉の末やっと興行の許可がおりた。浅草では大火後のバラックで活動写真を興行した。
 活動写真が全盛のころフィルムの提供は全国でわずか三人、その一人が孫文との交流で知られる梅屋庄吉であった。動く写真、欧米の風俗は当時、日清戦争の大勝利によって、一流国民の圏内に近付こうとする日本国民の心を捉えた。
  天然色活動大写真顕微鏡映画「蛙の血液循環」「腸窒扶斯菌(ちようちふすきん)」、劇映画「ナポレオン一代記」「馬鹿大将」(ドン・キホーテ)など輸入封切りされた。また映画館の誕生と共に映画説明者“弁士”いわゆる“活弁”が現れた。

 1910年、悪の英雄「ジゴマ」(フランス)に観客が殺到、子どもの遊びにジゴマごっこが現れ上映が禁止されたりした。
 当時、映画の検閲は各府県別になされ統一的でなかった。ジゴマの上映禁止は第二回目で、第一回は1908年、神田・錦輝館「仏蘭西革命ルイ十六世の末路」である。しかしこの時は「北米奇譚巌窟王」として同一映画を上映、事なきをえた。
 ルイ十六世をアメリカの山賊夫妻とし、その豪華放埒な生活も悪運尽き民衆に捕らわれ、儚い末路を遂げることにしたのである。
 “弁士という重宝なもの”がいて、どうにでも都合よく変えられた。西洋ものは一人の弁士、日本映画は鳴り物囃子入りの演出だった。
 明治期みるべき記録映画として、白瀬矗中尉の南極探検と日露戦争・旅順開城の実況がある。劇映画ははじめ歌舞伎の舞台を実写したものだったのが、尾上松之助の出現など映画が変わり、興行も軌道にのるようになった。明治末期には五つの撮影所があった。

      1910年代 日本映画
 大正時代、映画がようやく企業として成り立ち、Mパテー会社・梅屋庄吉の提唱により有力4社で「大日本フィルム機械製造株式会社」(日活)を創立した。日活は「尼港最後の日」(1920年)シベリア尼港(ニコライエフスク)でパルチザンの捕虜となった日本人将兵・居留民が虐殺された事件を映画化した。映画中の日本領事夫人には女形の衣笠禎之助が扮した。
 歌舞伎に代わって登場した新派映画だが、女形を用い現代の服装をした旧派を繰り返した。いっぽう若い知識人は手当たり次第に借り着の思想を身につける。浪漫、自然、享楽主義、そしてシェークスピアやゲーテが新しいものとして登場する。
 松竹は女優を採用。蒲田映画の傑作の一つ「山の線路番」を1923(大正12)年封切った。そこには自然主義的な人物の描写「生まれざりしならば」というような暗い絶望が見られた。同じ伊藤大輔作品「女と海賊」も従来のヒロイズムや勧善懲悪一点張りとは異なり、人間が人間であろうとして、不安と焦燥にかられて行く近代の苦悶が伺える。
 当時の日本映画について演技、演出、作劇法などは新劇派、新派的、アメリカ映画的の三つに分類される。

 第一次世界大戦によって未曾有の好景気がもたらされ、軍需工業が興り、庶民も小遣い銭の廻りがよくなった。しかし、好景気の反動で憂鬱な世相、見通しのつかぬ不安時代へと移り、やがて関東大震災に見舞われる。
 震災を背景とした劇映画が作られるが、粗製濫造の際物で出来映えは今ひとつ。だが、大震災は映画作家たちに「人生の無常、形式的なものの破壊」を感じさせたのである。
 鈴木謙作大地は揺る」は大震災で焼け出された富豪一家が、若いコックの腕一本の力強さに屈服する。日本映画として最初の階級的な対立が意識化されている。

     植民地時代(1910~1945年)の韓国映画
 韓国でも1897年ころ活動写真が入ってきたが、儒教的な閉鎖構造のため、近代化された西洋文化を受け入れる条件が整っていなかった。
 外国映画が興行を主導し1910年から外国映画全盛だった。映画は日露戦争を描いた「決河屍山」(1913年)などの実写物からフランシス・フォード監督の連続活劇「名金(金貨のかけら)」のような劇映画が好まれるようになっていた。韓国映画はまだ芽を出せずにいた。
 1923年、朝鮮総督府逓信局による貯蓄奨励用の啓蒙映画月下の誓い」(ユン・ベンナム脚本監督)は日本人の太田同の撮影と編集で完成した。
 翌年初めての純粋な韓国映画「薔花紅蓮伝(ちやんふぁほんによん)」が制作された。韓国の映画は朝鮮半島の植民地化とともに始まったので、日本の検閲を避けられなかった。
1924年「海の秘曲」悲恋物語は俳優陣を除いたスタッフ全員が日本人であった。植民地時代約150本の映画を制作、無声映画の傑作もある
1926年「アリラン」(ナ・ウンギュ監督)は当時の韓国人を衝撃と興奮で包み込んだ。植民地状態から出発した韓国映画は民族のリアリズムを直視した。
 「アリラン」は何年も持続的に全国を巡回上映され、状況、弁士の政治的傾向により幾通りものテキストがあった。
 当時、弁士はスターであり、観客は弁士の解説を楽しんだが、内容は固定されていなかった。たとえば臨席する警官がいるのと、いないのとでは、解説が違ったのである。

      検閲と国策映画
 1925年、府県別に行われていた映画検閲内務省に統一された。東京で禁止された映画が、京都では公然と上映という現象は一掃された。
 1936年日独防共協定調印。日独提携「新しき土」が日本側から監督伊丹萬作原節子早川雪舟らで制作された。
1937年、盧溝橋事件勃発、ニュース映画が激増し前線と銃後をつないだ。1939年、映画法実施で制作本数の制限、シナリオの事前検閲、情報局案の臨戦体制に添う国策映画が制作された。
「指導物語」鉄道省後援、「わが愛の記」軍事保護院後援、「八十八年めの太陽」海軍省後援、ほかに「元禄忠臣蔵」「大村益次郎」など。

 韓国映画を統制下に置いた朝鮮総督府は、朝鮮人志願兵制の宣伝のため「志願兵」や「君と僕」(松竹配給)を朝鮮軍報道部の全面的な支援で制作した。民間映画社の「新開地」(ユン・ボンチュン監督)を最後に朝鮮語の映画は禁止された。以来、韓国では植民地から解放されるまで“日本語”の映画だけが制作されたのである。
 親日派監督は、日本の映画会社から派遣された監督および技術陣と合作する中で、朝鮮人俳優とスタッフを動員し、宣伝映画を制作することもあった。
 今井正演出、チェ・インギュ補佐の「望楼の決死隊」、豊田四郎演出の「若き姿」などがそうである。ちなみに今井正は戦後の1949年「青い山脈」、翌年「また会う日まで」と恋愛を肯定した映画を制作している。
 現在の韓国映画の活気は、歴史的背景と危機、外部の脅威を創作の力に転換してきたからだという。映画の元気はその制作国の文化が元気といえそう。いま現在、日本映画の活況は如何に。

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2010年12月12日 (日)

清廉潔白の人、柴五郎

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 テレビ「坂の上の雲」に柴五郎が登場しない(原作は登場)と嘆いたが、同じ日、やはりNHKで「蒼穹の昴(初めての取材)」が放映されこちらには登場している。
 写真は北京日本公使館(『東洋戦争実記第二十編・北清戦史(下)』明治34年発行)

 あるシーンで西太后の動向について、万朝報記者(配役・小澤征悦)と柴五郎(田中隆三)が会話していた。その岡記者が実在の人物か知らないが北清事変(義和団事変)後、「万朝報」に興味深い連載があった。その50回にもおよぶ連載の担当者は公表されていないが、幸徳秋水がキャップとなり、清国特派員堺利彦小林天龍の二人と内村鑑三も関与していたと推測される(『義和団戦争と明治国家』小林一美)。

 ちなみに記事の多くは投稿によるもののようだ。記事が実名・時・場所を記しているところから参戦した兵士の内部告発ともいえそう。その新聞が五郎に対する間違い記事を訂正し「清廉潔白の日本軍人」と太鼓判をおしている。いきさつは以下『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』からの引用でどうぞ。

 
 事変後に日本国内である噂がたった。「日本軍は天津馬蹄銀百二十万両を得たが、この一部が第五師団幹部の一部によって横領された。それぞれ商人に売り払ったり隠し持っている」と。
 *馬蹄銀: 中国元代から出現した馬蹄(馬のひずめ)状の銀塊で、大きな取引に用いられたり、隠し持たれたりした。
 議会では柴四朗の同志竹内正志が疑惑を取りあげ、第五師団軍人に調査が及び山口師団長宅も捜索されるという不祥事に発展した。幹部は無罪となったが、『団団珍聞』など各紙がこの事件をとりあげ、なかでも『万朝報』は【日清分捕りの怪聞】と題し連載した。
 記事は軍人を名指し、分捕りの仕方や浅ましい行為を暴露するなど追求が激しかった。このような芳しくない記事にとんだとばっちりで五郎の名がでた。以下、記事を抄出。

      【日清分捕りの怪聞

 第4回: 略奪の激しさを耳にした師団長は略奪を禁止したが、略奪は依然として続き、難を訴える清国人が多くて、「柴中佐と森田大尉の困難一方ならざりし。のみならず遂に第五師団付き将校との間に感情の大衝突」を起こした。

 第24回: 北京陥落後、警務衙門長官となった砲兵中佐柴五郎は訴えを聞くこと公平なり。柴中佐は世に名高き『佳人之奇遇』著者として代議士として世に名高き東海散士柴四朗の弟にして北京の籠城に偉大の勲功あり。柴は機密費に充つべきの名義をもって自己の手元に保管。一人の男が柴の命を受けて香港上海銀行・北京支店で日本に送金をした。
 その額は六万円とも八万円ともいいはっきりしないが、ただ一佐官にして余りにも巨額の為替・・・・・・果たせるかな、帰朝後まもなく地所を麻布笄町(青山)に買い入れ、家屋はその地上に建築されたり。

 第26回: 訂正記事。
 柴が上海銀行に預金したのは事実であるが、それは山口素臣福島安正と協議の上、とくに柴の名を借りて預けたもので、一厘たりとも柴自身の貯金にあらず。柴五郎の外国駐屯中の俸給は谷干城三菱銀行に預けて六千円ばかりになったが、邸宅を五千七百円で買い入れ、なお諸雑費を合わせて貯金全部を使った。買い入れの周旋をなせしは頭山満

 北京駐在中、清廉潔白、真に日本帝国軍人たるの名誉と威信を全うしたるは、福島安正柴五郎青木宣純由比光衛の四人のみなり。
(万朝報は柴五郎の記事を全面取消し、逆に「柴は清廉潔白なる日本軍人の鑑」と太鼓判を押したのである。)

 また記事にある青山の柴邸について五郎の次女西原春子さんから次のようなお話を伺った。
「任地が遠いとき家族も一緒に赴任したので、空き家となった邸を秋山(好古)さんに貸したことがあった。また内山(小次郎のち侍従武官長)さんは原宿に住んでいたのでよく遊びに来た」。しかしこの青山の邸は第二次世界大戦のとき焼失、「軍人の家だから早々逃げ出す訳にいかず、また何も持ち出さなかったので何もかも焼けてしまった」と。

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2010年12月 9日 (木)

義和団事変における柴五郎の活躍

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   NHKテレビ「坂の上の雲」第2部が始まった。いよいよ秋山兄弟の活躍が佳境に入ってきた。日清戦争が終わり、秋山真之米西戦争に海軍から観戦武官として派遣される。そして真之の才能と努力が描かれ、戦術や海戦などテレビならではの表現があり見入ってしまった。でも、柴五郎の登場がなく淋しかった。
 歴史を描くとき知り得た事柄を全部書き尽くせない。また、史観もあるから事象の取捨選択をする。枚数にも限りがあるし、的を絞らなければならない。だからよって立つ側の人物中心になるのは仕方がないと思う。自分も柴五郎を書くに当たって陸軍中心だった。

 米西戦争には陸軍から柴五郎が派遣され彼も又優れた諜報報告(写真・ワシントン発)を提出している。そればかりか、陸士同期の秋山好古の弟、真之の面倒を見ているのだ。
 そしてもっと惜しかったのが義和団事変(写真・北京発)にナレーションでは触れているが、これまた柴五郎のシの字も無かったこと。テレビ画面には秋山好古が清国人をかばう場面があったが、好古の前に柴五郎の業績があった。
 少々長くなるが、『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』筆者としては柴五郎の名声が世界に知られた義和団事変、ここら辺りは愛着がある。以下、読んでみて下さい。
 ちなみに、諜報報告は防衛研究所図書館蔵。筆跡は柴五郎ではない。

   

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     義和団の乱

 イギリスから帰朝した五郎は参謀本部に出仕していたが、ちょっとの間という内命で清国公使館付となった。
 当時、清国は日清戦争に敗北して日本に賠償金を払うため、ロシア・フランス・イギリス・ドイツから借款をし、その見返りに鉄道敷設や利権を求められ西欧列強の餌食となっていた。
 そうした中「扶清滅洋。清朝を助けて西洋を滅ぼそう」と叫ぶ義和団の乱がおこった。はじまりはドイツの山東鉄道敷設工事に対する山東省民の反抗からで、鉄道を襲いキリスト教会堂を打ち壊した。反乱はたちまち?西・四川・広西・福建・雲南に波及し、北京を包囲するまでになった。

 北京公使館区域の東交民巷は紫禁城を背にして天安門の左手にある。その一画は公使館、諸外国の商社、銀行、邸宅などがあり治外法権を享受していた。北京在住の外国人たちはここに立てこもり、軍艦から水兵を呼び寄せ防衛しつつ援軍と救出を待つことにした。各公使館より出迎えを出すことにし、日本公使館から杉山彬書記生が行ったが、人力車に乗り永定門を出たところで敵の騎馬隊に撃たれて即死、ドイツ公使も殺害された。

 日本は清国臨時派遣隊(司令官福島安正少将)を清国に派遣、続いて第五師団、野戦砲兵第十六連隊などが宇品を発した。
 天津に上陸した日本軍はイギリス・ドイツ・ロシア・フランス・アメリカ・イタリア・オーストリアの8ヶ国連合軍を編成した。これまで西太后はこの反乱を国権回復に利用しようとして手を施さなかったが、ここに至り清朝は硬化して列国に宣戦布告をした。
 北京救援に向かった陸戦隊は義和団と清国官兵の激しい攻撃にさらされ退却。これにより天津・北京間の鉄道および電線を破壊され、交通は断絶、北京は孤立してしまった。

   北京籠城
 さて籠城となり各国公使館はそれぞれ守備隊を編成し武官会議を開いた。全体の指揮はイギリス公使マクドナルド(のち駐日大使)であるが、籠城がはじまって少しすると、作戦用兵の計画は柴五郎砲兵中佐の意見できまった。
 それは外国人たちが認めるほど能力があったのはもちろん、人柄もよく誰からも好かれたからである。五郎は英語・フランス語に堪能であったから外国人武官に作戦をよく説明できたし、また指揮官マクドナルド他への連絡文もみずから書いた。
 軍人が少ないので義勇隊が組織され、日本人は公使館書記官・学者・留学生・電灯会社技師・新聞記者から写真師まで33人が参加した。列国それぞれ守備隊が組織され、義勇兵の一人にロンドン・タイムス北京特派員のモリソンがいた。
 オーストラリア人ジャーナリストG・E・モリソン(映画「北京の55日」俳優チャールトン・ヘストン)は五郎(俳優伊丹一三)を認め、二人は友人になる。

 東交民巷に籠城した人員は11ヶ国の外交官・居留民・8ヶ国の護衛兵・教民・清国人召使いなど計4千人以上、しかし義和団の兵は何万であった。
 6月中旬、義和団が北京城外にまで迫るとモリソンはイギリス兵や義勇兵を率いて教民を義和団の虐殺から守り救出した。500名余の教民は粛親王府に保護された。粛親王府は公使館区域の端にあり、柴五郎が離れた所に避難している粛親王の許に危険を冒して行き、借用の許可をえた一郭である。
 五郎率いる日本の籠城軍は水兵、義勇軍33、原大尉、安藤大尉の計61人であった。義和団と清国軍の砲撃は休みなく続き、次第に城外の様子も分からなくなった。東交民巷の防衛線はオーストリア公使館の焼失から将棋倒しに崩されてきた。
 そこで五郎は各国公使に粛親王府を守るべき事を説き、もっとも攻撃の激しい粛親王府を兵力最小の日本が守ることになった。

 北京籠城中における五郎の事歴と勲功は彼の生涯の圧巻で、人望あつく連合国の軍民に頼りにされ、北清事変の花とうたわれた。外国人の目に映った五郎の活躍は、「戦略上の最重要地・粛親王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。
 日本軍を指揮した柴中佐は、龍城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつき合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。

 日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、龍城者一同の賞讃の的となった。籠城戦に関する数多い記録の中で、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。ピーター・フレミング」(『北京燃ゆ/義和団事変とモリソン』)

 外国人女性も、「柴中佐は小柄な素靖らしい人です。彼が東交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。なぜならば、第一回朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。
 でも、今ではすべてが変わりました。柴中佐は粛親王府での絶え間ない激戦で怪腕を奮い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです。
 日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後に勇敢にかまえています。その様子は、柴中佐の下でやはり粛親王府の守備にあたっているイタリア兵とは大違いです。北京に来ているイタリア兵はイタリア本国の中でも最低の兵隊たちなのだと私はイタリアの名誉のためにも思いたいくらいです(P・C・スミス嬢)

 このような苦しい状況にあって北京では一日も早い救援を待っていたが、天津居留地の連合軍は防御に追われ、進軍するどころではなかった。北京からは天津に向け各国公使館がそれぞれ救援を願う密使を出したが、誰も使命を果たせなかった。ただ一人五郎が出した捕虜中から選んで天津へ赴かせた密使、張徳盛だけが届けることができた。
 「今や全く糧食欠乏し、籠城者の身命旦夕に迫れり、敵の攻撃は日一日と激烈を加えぬ、故に事情の如何に拘わらず、一日も速やかに援軍の来たり救わん事を熱望す」。実際、馬も食べ尽くしてしまっていた。

 驚いた連合軍は急ぎ前進を決定、返書を託し、金を与えようとしたが「国家のため、この使節をまっとうしたり」と賞金を断わり、返書をもって敵陣の中を北京に戻っていった。 
 天津の連合軍は五郎の密書によって籠城者の困難を知り、後方輸送の都合を顧みず北京へ猛進、そして8月ついに4万の連合軍は北京城外にせまり総攻撃をした。籠城63日にして待ちに待った連合軍の北京入城、日本軍も日本公使館に到着した。西徳二郎以下公使館員はみな笑顔で出迎え、五郎は救援の福島少将と固い握手をした。

 五郎は第五師団の指揮下に入り、日本の受け持ち区域で軍事警察衙門長(警務長官)として軍政を担当することになった。戦い終了後、第五師団の兵站監として出征していた秋山好古が清国駐屯軍司令官になり、五郎は久しぶりに秋山とも顔を合わせた。

    略奪は許さない
 列国の軍隊が北京に入城すると清国皇帝西太后、政府要人らは北京を脱出した。そのため北京市内は無政府状態となり、連合軍兵士の略奪事件が続出した。しかし柴五郎は日本兵の徴発・押買・略奪を許さず、清国人をよく保護した。ために五郎の徳を慕って外国軍の管区から移住する住民が続出した。
 五郎は清国内を探査した経験もあり中国語もよくでき清国民の訴えを理解できた。日本の管轄地は商店が多数ならび旅館や劇場まで作られたほど栄えた。
 五郎は温厚な武人であり、手柄を自慢せず、籠城のときの清国教民の献身的な協力に感謝の念を忘ず情のある軍人行政を行った。戦えば強いが、民政も立派にこなした。
 五郎への賛辞は内輪の日本からだけではない。義和団事変から数年後、総指揮をしたイギリス公使マクドナルドはロンドンで講演、柴中佐の北京籠城における偉大な功績を
すべての者がよく働いたが、かりに籠城した外国人たちの命を救った功績を、たった一人に帰することができるとしたら、それは、この物静かで、冷静で、決意にみち、そして奇略縦横の日本将校だった」と讃えた。

 北京の連合軍はそれぞれ持ち場区域を守備しながら、城外の各地を掃討しては占領していった。中でもロシア軍満州各地、黒竜江省城・吉林省城・瀋陽を占領し東清鉄道を手にした。
 籠城から4ヶ月たった秋、柴五郎は警務長官として騎兵一中隊を率いて、清国皇帝に従い難を避けていた慶親王を迎えに行き、無事に北京の邸宅に送り届けて感謝された。

 1900(明治33)年10月、義和団事件に関する第一回北京列国公使会議が始まり、清国側全権と交渉を開始する。翌年9月、「義和団事件最終議定書」が日本・アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・オーストリア・イタリア・ベルギー・スペイン・オランダ11ヶ国代表と清国側全権の間で調印された。
 その結果、清国は11ヶ国に対し賠償金4億5千万両を39年間で払うことになった。それのみならず、北京の公使館に護衛兵をおき常置する権利をはじめとした駐兵権を認め、植民地化がいっそう進んだ。

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2010年12月 5日 (日)

道の駅みさわ斗南藩記念観光村【先人記念館】

2006    2010.12.4東北新幹線が全線開通、東京から“3時間20分新青森”に到着!
 テレビも新聞も青森をとりあげている。それらを見るにつけ6年前の夏、その方面へ出かけたのが思い出される。
 「明治の兄弟」を纏めるにあたって史資料に頼るだけでなく、柴兄弟を身近に感じたくあちこち出かけた。青森県へは2泊3日の旅で浅虫温泉に泊まって良かった。細かいことはすっかり忘れてしまったが、斗南藩史跡、野辺地、広澤牧場(先人記念館)など訪ねた。
 新幹線は八戸まで、乗り換え迄1時間あり駅の外へでたら図書館の分館があった。さっそく資料探し、現地ならではの資料をコピーした覚えはあるが、何だったか思い出せない。

 この旅で印象的だったのは、1872年(明治5)元会津藩士・広澤安任が開いた我が国初の民間洋式牧場、現先人記念館までのバスだった。
 途中の三沢空港、青森県立三沢航空科学館までは乗客がいたが、その先から終点の記念館まで私たち夫婦のみで1時間以上走り続けた。やっと着いた記念館は休館、仕方なくとんぼ返り。以下『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』から。

    北辺の洋式牧場

 広澤安任は、幕末の京で活躍し交際が広く政府内にも知己があり、進取の気性に富んだ人物であった。斗南人の生計の道を開こうと、現在の三沢市小河原沼の東、谷地頭に酪農主義農場の開拓をはじめたのである。

 そしてイギリス人技師ルセーマキノンの二人を雇い、彼らの指導のもと農具などをイギリスから輸入することにした。その二人を通訳兼案内人として連れてきたのが柴四朗東海散士)である。“陸路を二十日余りで青森”三沢の牧場に着いた。
 開墾村牧場は現在「斗南藩観光村」になってい、JR三沢駅からバスで1時間以上走った所にあって、当時の建物も再現されているが小さい。

 技師の一人マキノンはスコットランド出身、農学校で畜産学を修めた勤勉な農夫であった。その御雇い外国人二人が狭い住居で、下北の冬に耐えて働いたのかと感心すると共に、粗末な小屋に開墾の厳しさ、困難が思われた。
 それにしても、バスが町中を抜けると道は何処までもまっすぐで人家は見あたらず、まるで原野を行くようだった。視界が開けていいが冬は吹きさらしで寒さは厳しいだろう。夏のやませといい、農耕に厳しい環境のようだ。
 明治初年は未だ交通が不便で大変だったろう。ここまで徒歩で来るのは容易でない。ましてこの地に骨を埋めるにはよほどの覚悟がいったはずである。

 ところで、当時の四朗はまだ通訳としては英語が十分でなかったようであり、勉学の志も強くまもなく牧場を離れた。家にもどって開墾の手伝いをしていたが、しばらくして箱館に渡った。あちこち放浪して就学の道を求めたが見つからず、次に弘前に出て東奥義塾に入った。

 ついでながら、この広沢牧場「開牧社」に弘前から東奥義塾を再興した本多庸一メソジスト派宣教師ジョン・イングがしばしば訪れて集会を開いた。明治初年はまだキリスト教が公認されていず、宣教師たちは公式に布教活動ができなかった。
 そこで英語塾を開いたり、学校教師となったりして若者をひきつけた。原敬なども学資に困ってフランス人の神学校に入ったり、新潟でエブラル神父学僕となりフランス語を学んだりした。
 当時、東奥義塾が外国人教師を招聘して教育しているのはかなり知られていた。斗南藩、旧会津藩の人々の中にも評判を聞いて学びに行く者があったから四朗もそのようだ。東奥義塾に入った四朗は学資がないので塾の雑用をしながら学んだ。

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