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2011年3月

2011年3月29日 (火)

福島県新地町『ひびけ天高く 鈴木正夫一代記』

110329_141207_2      ♪ ハアー
         あの空あたりは 相馬の空かよ
         ナンダコーラヨート
         相馬恋しや なつかしや
         ナンダコーラヨート

 昨年9月福島県相馬を歴史講座の仲間と訪問、新地町在住の目黒美津英さん企画<戊辰戦役見学>であちこち案内していただいた。一行は翌日仙台に赴いたが、自分ともう一人は日帰りで目黒さんに新地町駅まで車で送って頂いた。電車の待ち時間があったので二人して駅前でお茶した。
 その新地町駅が津波に呑まれて電車が横転している東北関東大震災の映像!言葉もない。しばらくして目黒さんと連絡がとれたと仲間から電話があった。
 詳しい様子は判らないながら無事でよかった。どうかご家族もお家も神社も被害に遭っていませんように、祈るばかりだ。
 前のように相馬駅から新幹線で東京・早稲田に通い受講されるのを仲間と待っています。その日がその日が一日でも早く来ますように。

 目黒さんは昭和一桁生まれながら様々な方面でご活躍、学問もされて著書もある。その中からご紹介する表題の『ひびけ天高く』(原案・目黒美津英、漫画・青葉ゆたか)は民謡の父といわれ昭和前期に活躍した鈴木正夫の伝記である。
 漫画仕立てで、正夫の生い立ちや人となりがとても分かり易い。その時どき正夫が唄う民謡の歌詞がきちんと載せてあり、子どものころ手回しの蓄音機で聴いた民謡もあり懐かしい。
 唄い手の背景が判るせいか歌詞を読むと情景が浮かび、メロディーが聞こえるよう。民謡っていいものなんだなあと感じる。平成2年刊行なので手に入りにくいかもしれないが、いつかどこかで。
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 『一陣の風』平成14年、目黒さんの思いの数々を綴った一冊。
 『諏訪 目黒家の歴史』平成9年 斉藤仁(東京農大教授)、発行目黒美津英。目黒家の歴史を通じて修験活動、古くは文禄に始まり江戸期から昭和に至るまでの地域の歴史が垣間見える。 

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2011年3月10日 (木)

柴四朗、五郎の卒業

Photo    春三月、卒業シーズン。身近なところでは孫が二人小学校を卒業する。卒業ソングはなんだろう。昔の“仰げば尊し”や“蛍の光”はとうに歌われない。
 授業参観で題名は忘れたが12歳の合唱“ゆず”の曲が教室に響き、涙ぐむお母さんがいた。ちびっ子から少年への変化を目の当たりにして私もウルウル。もうすぐ卒業式、その佳き日、今どきの詩や曲が流れるだろう。

 ところで12歳といえば、柴四朗は京都守護職となった会津藩主松平容保に従い、幕末の京にいた。五郎が12歳のときは戊辰戦争に敗れ、下北半島で餓えに苦しんでいた。そんな柴兄弟にとって卒業は?
写真:柴四朗のペンシルバニア大学創業証書(会津若松市立図書館蔵)

 1875(明治8年)柴五郎陸軍幼年学校でフランス語で授業を受けている頃、四朗は横浜で書生をしながら英語を勉強していた。2年後、西南戦争がおこり西郷隆盛の軍と戦うため四朗は志願して九州に出征する。

 風雲急を告げ戦いが始まると士官学校生徒は見習士官に任命され、校長に率いられて鹿児島に向かった。
その補充として選抜した幼年学校生徒を士官学校に繰り上げ入校させることになった。五郎はその入試に合格したが、卒業、入学式は行われただろうか。

 西南出征中に四朗は知己を得、三菱、岩崎家の援助を得られることになりアメリカ留学した。まずはサンフランシスコに至り、商法学校に入学、2年で卒業する。

 同じ年、五郎も士官学校を卒業、砲兵少尉となり大阪鎮台に赴任。以後、軍人として活躍、清廉潔白よき日本人として海外にまで名を馳せる。

 四朗はサンフランシスコからマサチューセッツ州に移り、ケンブリッジハーバード大学に入学する。が、一年足らずでやめてしまう。「当時の日本にとって必要な経済学を学ぶため」ペンシルバニア州に移りファイラデルフィアペンシルバニア大学に入学し学位を得て卒業する。
  そして四朗が帰国した日本は政府が率先して西欧化を急いでいた。洋行帰りだが日本に強い愛情をもつ四朗、アメリカの政治、経済を観察し、世界の大勢をみた目には憂うべき現状と映る。このままでは西欧列強に呑み込まれ亡国すると『佳人之奇遇』を著して警告した。その後、ベストセラー作家衆議院議員として活躍、名を残す。

 柴兄弟にとって、学校は祖国に何を為すべきか考え、力をつける。卒業は行動への第一歩を踏み出す事のようのだ。

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2011年3月 1日 (火)

柴五郎再婚そして清国赴任

 NHKテレビ「蒼穹の昴」柴五郎がなにかと登場している。ドラマとどこで交錯するか判らないが、1899(明治32)年、五郎はロンドン英国公使館勤務をおえ、東ヨーロッパ、インド地方を視察しつつ帰国する。

  イギリスから帰国した五郎は参謀本部に出仕していたが、ちょっとの間という内命で清国公使館付となった。五郎の前任青木宣純はいったん帰国したのち、別途、秘密裏に袁世凱のもとに派遣された。
 五郎は6年にわたる二度目のイギリス駐在から帰国したが、僅か半年でまた海外赴任となったのである。まさに南船北馬であるがこの短い国内勤務の間に五郎は再婚する。

Photo_2 陸軍武官結婚条例により勅任官(天皇が任命)が結婚する場合には勅許が定められていたので、五郎も結婚願をだした。
 

        「結婚願」

佐賀県佐賀市大字松原百三十一番地
士族無職業 鍋島半八郎妹 
      ミツ 明治三年一月一日生 
                        五郎儀
今般熟談ノ上 右に記載ノ者ト結婚致度依テ
別紙身元証書相添差出候間御許可被下度此段奉願候也
 明治三十二年十二月十八日
                陸軍砲兵中佐 柴 五郎
   陸軍大臣子爵 桂 太郎殿

 資料写真:国立公文書館(防衛研究所陸軍省大日記類)より

 陸軍省参謀本部の受領番号がある結婚願に「身元保証書」が添えられているが、五郎は参謀総長侯爵大山巌、ミツは佐賀市長石丸勝である。ちなみに森林太郎森鴎外)の結婚願も桂太郎に出されている。

 鍋島文武六女で明治三年生れのミツ30歳は41歳の五郎のもとに嫁いできた。柴家にはすでに「みつ」がいるのでミツは花子と改名、谷干城家に預けられていた七歳の長女みつを引き取った。間もなく次女春子が生まれた。柴花子は二人の娘を育てながら軍人の妻として家を守り、夫の長い留守にも耐えた。
 谷干城夫妻は四朗ばかりでなく、五郎にとっても恩人であった。谷も五郎も共に清廉、実直の人であり、無欲で国の為に働いた軍人として通い合うものがあったのである。

明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』 第六章 義和団事変(北清事変)より

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