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2011年4月

2011年4月30日 (土)

白河の関(福島県)から北は

 山口県に観光旅行、高杉晋作の生家をみて思っていたより立派だと思い、松下村塾を見、ここから近代日本をひっぱった志士たちが輩出したのかと感心した。伊藤博文、桂小五郎(木戸孝允)、井上馨品川弥二郎らの写真が展示してある場所では、本州のこんな西の方から遠く京や江戸に駆け上がったのかと、改めて国を思う志の強さが感じられた。

 ところが頭と気持ちは別、品川弥二郎を指して「この人明治期、すごい選挙違反を指揮したのよね」と言ってしまった。展示ガイドさんが嫌な顔をした。つい反発したくなったのだが大人げなかった。
 意識したことはなかったが自分は佐幕派らしい。でも、そうかといって関東・東北に詳しい訳ではない。東北諸藩だって佐幕派ばかりではなく、一つではない東北なのだ。「白河以北一山百文」なんて一括りにしてはいけないんだ。
 原敬「一山」を号にした。自虐的に使うのでなく発憤材料にした東北人も多いと思う。

    能因法師:都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関

 東北の中でも南と北の違いがあり、太平洋側と日本海側ではうんと違うのが本当だろう。ただし、大災害のあと東北新幹線が東京から仙台まで全線が再開され、いまは東北、ひいては日本の心は一つ。

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2011年4月24日 (日)

東北鎮台(軍団)

 東北は古代、エゾの国とよばれ、中央の力が届きにくい道の奥にあった。白河の関を越えれば、はや“みちのく”である。その歴史と文化を知りたいとき『東北歴史紀行』(高橋富雄・岩波ジュニア新書)がいい道案内になりそう。
 ただし今は、大震災、原発で東北はたいへん困難な状況に置かれている。少しでも早く日常がもどり、歴史の旅などできますように、祈るばかりだ。
 ときに、陸奥、みちのくを東北というようになったのはいつからだろう。東奥もあるし、気になっていたら『宮城県の歴史』(山川出版社)に載っていた。以下、抜粋。

 1871明治4年廃藩置県後、仙台は明治政府の行財政上において東北の拠点になっていった。そのころ政府は軍隊組織の確立を急ぎ東北・東京・大阪・鎮西(九州)の四鎮台を置いた。東北鎮台は伊達氏の仙台城二の丸に築かれた。
 公的機関に東北の名を冠したはじめで、その管轄地域に奥羽にかわる東北という新しい概念を定着させた。戊辰戦争以前には東北という語は、京都からみて東海・東山・北陸三道の地域であった。
 東北鎮台には、現在の宮城・福島・岩手の三県から壮兵ととよばれる旧藩兵ら、歩兵一大隊を集めることになった。青森には東北鎮台分営がおかれ青森・秋田から募兵、山形は新潟と共に東京鎮台の管下にはいった。ちなみに徴兵令は1873明治6年公布。
 その後、六鎮台制になり東北鎮台は仙台鎮台となり、現在の東北6県地域を統括する軍事機関となった。1884明治17年 新潟県編入、1888明治21年 仙台鎮台は第二師団となる。これから6年後の日清戦争、第二師団はどこに海外派兵されたのだろう。

Photo_2  写真:『北辺に生きる会津藩』(会津武家屋敷)p46仙台歩兵29連隊兵営内。

   『宮城県の歴史』コラムより

 1872明治5年、仙台城下の宿にいたフランス人宣教師ジャン=マランは、朝5時、フランスの行進曲を奏するラッパに驚いてとびおきた。見ると、フランス歩兵とまったく同じ服装の仙台鎮台の日本兵が600人ほど整然と行進していた。洋式軍隊、ラッパや鼓笛を演奏する楽隊は、すでに戊辰戦争のときからあった。 

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2011年4月19日 (火)

大正デモクラシーに理論を与えた人、吉野作造(宮城県)

Photo   吉野作造といえば民本主義でよく知られる。宮城県古河町(現大崎市)生まれ(明治11~昭和8年1878~1933)。仙台の学校をへて東京帝国大学、さらに大学院に進んだ。
写真:『世界大百科事典』より

 日露戦争後1906明治39年、東大を卒業すると中国・天津に赴き、袁世凱の子ども袁克定の家庭教師となり3年間教えた。
 帰国後、東大助教授になり翌年から欧米に4年ほど留学し帰国後、教授に就任した。
  1916大正5年、中央公論
<県政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず>を発表。政策決定に一般民衆の意向を反映させる民本主義を提唱、デモクラシー運動に理論的支柱を与える。

 1923大正12年関東大地震がおこった。山本内閣は復興計画推進のため帝都復興院を設置、後藤新平(岩手県)を総裁に任命した。
 後藤は壮大な復興計画をたて積極的に進めようとしたが枢密院などの反対にあう。ともあれ関東大震災は丸の内ビル街、郊外の住宅地など発展し、首都東京の様相を一変させた。

 大地震後に軍国主義が後退、民衆の解放を求める動きがあり、政府は言論の弾圧を強めた。またデマにより朝鮮人虐殺事件が続発した。
 吉野作蔵は朝鮮人虐殺事件に取り組み、被害者の人数を地域別に表示し、官憲・軍隊の責任を追及する文章を『大正大震火災誌』(改造社)に寄稿した。しかし内務省検閲により公表を禁止された。

 その後東大教授を辞めた吉野は朝日新聞に入社した。しかし筆禍事件あってほどなく退職、明治の思想・政治・文化の研究に入り<明治文化研究会>を作った。明治維新から半世紀以上が経過、古老の逝去、関東大震災などによる資料の隠滅などの危機を感じた学者、研究者らが集まった。研究会の『明治文化全集』(全24巻)は今なお明治を知るうえで欠かせない資料集である。

 なお、吉野の政治理論は民主主義を日本の土壌に育てる上で大きな役割を果たしたが、当時の権力による制約からも十分に徹底せず、社会主義理論においても妥協的な立場を多く残している。
 ちなみに吉野は『支那革命小史』(大正6年東洋文庫)を刊行している。それは頭山満らに依頼されて執筆したものだという。
 右翼巨頭の頭山と民主主義思想の吉野、結びつきにくいが、日本国のためという目的が共通なら組合せはいろいろあったかも。この縁からも異論を断ち切ることが出来なかったのではないか。
 現在、日本は東北関東(東日本)大震災により未曾有の困難に陥っている。このようなとき支柱となるべき人物の登場が待たれる。其は何処に?

 参考:『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』(中井けやき)・『世界大百科事典』(平凡社)・『近現代史用語事典』(安岡昭男編)

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2011年4月13日 (水)

釜石鉄山の基礎を築いた人、大島高任(岩手県)

   1871(明治4)年11月12日 岩倉使節団一行46名が横浜港を出発。使節団派遣の目的は外交儀礼、欧米諸国の制度・文物の見聞、条約改正の予備交渉であった。船には最初の女子留学生、津田うめら5少女の姿もあった。ちなみに使節団は後発組、現地からの新島襄などメンバーは一定ではない。さて岩倉具視(47歳)以下メンバーの誰をとっても興味が尽きないが、ここでは造船頭随行鉱山助・大島高任(おおしまたかとう)を見てみる。

 使節団一行は12月6日サンフランシスコ着。大島高任(46)は瓜生震(19)とともにニューアルマタンへ向かい鉱山視察をした。以後、各地の鉱山・鉱山学校・機械製作所を視察。
 帰国後、各鉱山局長や大蔵技官を歴任、近代鉱山業の発展に貢献し釜石鉄山の基礎を築いた。日本鉱業会初代会長(文政9~明治34年1826~1901)。

 “近代製鉄業・鉱山と大島高任”

 幕末、ペリーら黒船来航で海防問題が緊急性を帯びてきた。とくに水戸藩は大砲の鋳造を計画、大島・盛岡藩、竹下・薩摩藩、熊田・三春藩の3人を招請した。3人は日本の近代化を推進しようと藩の垣根をこえて協力、「強烈なる火力を以て銑鉄を溶解し鉄製の大砲を鋳造すべき機械」である反射炉を那珂湊に完成した。

Photo  大島高任によるわが国最初の溶鉱炉は、大槌通甲子村(釜石市)を流れる甲子川上流に大橋高炉が建設された。安政4年12月1日、溶鉱炉がはじめて銑鉄を生産したこの日、12月1日は「鉄の記念日」となっている。

 翌年、橋野高炉さらに慶応元年までのあいだに計10基の溶鉱炉が建設され、年間3750トンの銑鉄の生産が計画された。このうち4基は大島、他は大島の門人による。

 大島は釜石鉄山十輪田銀山小坂銀山阿仁銅山など各鉱山の近代化につとめたが、外国人技師の設計や計画は多くの場合不適当だったから、各鉱山の運営は困難をきわめ、大島はその修正、改良に奮闘した。
 その後、大蔵省支配下の佐渡・生野の鉱山を指導し、佐渡金山の技術の発展に力を尽くした。
 画像:国立公文書館アジア歴史センターより 
Photo_14  

       “大島の人となり”

 大島高任は盛岡藩(旧南部藩)蘭方医の家に生まれ、17歳から23歳まで江戸と長崎に留学。医術よりも砲術・採鉱冶金などを修め、蘭学を学んだ。
 大島高任を招聘した水戸藩は直接藩士に召し抱えようとした。しかし大島は
「自分の家は200年来南部藩に仕えており、厚恩を受け江戸・長崎に留学する機会さえ与えられた。このご恩に報いたい」と謝絶した。義に厚い人物である。
 大島は釜石で仕事をしながら、東北の片田舎での仕事がそのまま日本の仕事につながると自覚していたのである。果たして、彼は明治と世が変わっても日本の近代化にに力を尽くし、後進を育て指導した。

参考:特命全権大使『米欧回覧実記』岩波文庫、『岩手県の歴史』山川出版社、『世界大百科事典』平凡社。

 東日本大震災は釜石にも地震と津波で大きな災害をもたらした。その惨状は目を覆うばかりで言葉もない。どうか、少しでも早い日に日常が戻り、鉄の記念日を無事に祝えるようにと祈るばかり。

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2011年4月 4日 (月)

咸臨丸航海長・小野友五郎 (茨城県笠間)

Photo_2     東日本大震災の風評被害が起きている。原発事故区域から離れていても茨城県産野菜など“半値”という憂き目に。せめて一品でも多くと思うが計画停電もあり、生鮮品は直に食べる分しか買わず申し訳ない。有名な笠間焼も地震でたくさん壊れて散乱、さぞ無念だろう。せめて気持ちだけでも応援したく、被災各地の歴史的人物を順にとりあげる。

 常陸国笠間藩士、小野友五郎は学問に秀で、とくに数学に強かった。ペリー来航時には『渡海新編』を著し、海防を厳しくと幕府に献策している。長崎に海軍伝習所ができると選ばれて航海術、洋算を学び、幕末動乱期にあって最先端の学術を身につけたのである。

 海軍伝習所といえば、第二次団長カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』がよく読まれ、勝海舟ら伝習生のエピソードなど面白い。しかし彼らと友五郎はすれ違いで彼が学んだのは、第一次伝習所団長ベルス・ライケンからであった(藤井哲博『長崎海軍伝習所』)。
 友五郎は出島にライケンを訪ねて西洋式の微分・積分・力学などの特別講義を受けた。これが西洋の数学を学んだはじめで、友五郎は「和算家最後の人で、西洋数学を最初に学んだ人」である。どちらにも優れた稀な才能の持ち主であった。

    *和算:日本古来の数学。円周率、定積分など扱う円理ほか非常に高い水準で、江戸時代、関孝和の関流は特に盛んであった。
   *洋算:和算にたいして幕末に西洋から伝来した数学につけた名称。

 万延元年、友五郎は航海士として勝海舟艦長・咸臨丸で渡米、福沢諭吉も同船していた。( 写真、近代デジタルライブラリー)
『小野友五郎の生涯』(藤井哲博)によると、友五郎は麟太郎や諭吉を見る目がシビアだ。“歴史上の人物同士、同時代人としての目、好悪の感情”を知ると興味深く、人間性が垣間見える。

 幕府が倒れて後も友五郎は新政府・工部省に出仕し、東京・横浜間の鉄道測量にあたった(『民間学事典』三省堂)。
 友五郎はいつの時代にも必要とされよく仕事をしたが、人として幸せだったか? 『怒濤逆巻くも』を読み考えさせられた。あらましを2009.7.23ブログより再録。

 『怒濤逆巻くも』幕末の数学者 小野友五郎 (鳴海風著 新人物往来社)

  数学好きですか? 私はさっぱり。まして数学者など敬遠ですが小野友五郎の名にひかれて読みました。NHK[プロジェクトX]は、逆境を智恵と勇気で切り開く人々を紹介して人気でした。友五郎の生き方はそれを思い起こさせます。

 若き友五郎は黒船が押し寄せ開国への道を歩む日本のため、小栗上野介ジョン万次郎、長崎海軍伝習所卒業生らと働きます。高い数学力はオランダやアメリカの新知識吸収を容易にし、得た技術を実地にいかし成果をあげます。実務で身分の階段をかけ上り、笠間藩の下級武士から幕臣になりました。
 日本人初の太平洋横断を成功させた咸臨丸(艦長・勝海舟)に友五郎は航海士として乗船、福沢諭吉も軍艦奉行の従者として同船していました。勝と福沢には良いイメージが一般的ですが、友五郎が二人を見る目は厳しい。それは航海中の体験、または実務家の目からでしょうか。

 のちに友五郎は咸臨丸艦長となり小笠原諸島回収のため小笠原調査に赴きます。かと思えば再び渡米、南北戦争後のアメリカで軍艦の買い付けをします。その間にも蒸気軍艦の国産、製鉄所(後の横須賀造船所)設立など忙しく、家庭をかえりみる暇がありません。妻が心を病み友五郎は仕事を休みます。 が、遅かった。
 妻は自ら命をたち、さびしく悔いの残る日々を過ごします。しかし時代は彼を必要とし、仕事に戻った友五郎は昇進を続け、再婚もします。
 開港した日本、その変化は留まるところをしりません。ついに時代は暗転、江戸幕府は倒れ明治維新となります。新政府はいったんは友五郎を罰しますが、その能力を必要として官に招きます。友五郎は海軍への出仕を断り、鉄道建設測量技術を役立てました。

  明治の世。友五郎は道を開いてくれた恩人、小栗上野介が殺された水沼河原を訪れました。そこにはもの悲しい風が吹き、国を憂え身を惜しまず働いた小栗の悲惨な死を悼むかのようでした。たたずむ友五郎の声にならない詠嘆が胸に迫ります。あなたも小野友五郎とともに時代の波をかぶり波濤を越えてみませんか。(2003年記)

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