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2011年5月

2011年5月28日 (土)

野沢雞一、星亨の伝記編著者 (福島県)

 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を執筆中、いろいろ史資料にあたるうち興味深い人物に出会い、そっちに深入りしたくなることがあった。その一人が星亨である。

 星亨は江戸の出身。自由民権運動で自由党幹部として活躍した。1892明治25年衆議院議長となるも不信任案で議長除名。その後、伊藤博文内閣の逓信大臣になるが汚職容疑で辞職、明治34年暗殺された。ざっとみても毀誉褒貶相半ばの人生、好き嫌いがはっきり分かれそう。

 この星の伝記を編纂したのが野沢雞一陸奥国河沼郡野沢村耶麻郡西会津町)に1852嘉永5年に生まれた。
 野沢は京都で英学を学んでいたが、戊辰戦争のとき会津出身のため薩摩藩士に捕らえられ獄につながれた。
 大赦で解放されると、大阪開成所、次に横浜修文館で学んだ。その修文館の教頭が星でここから交際が始まった。やがて星の東京宅の食客、横浜税関で上司と部下となり野沢は星の門人となったばかりか、星と野沢の夫人は姉妹で二人は義兄弟でもあった。なお、野沢については
『星亨とその時代』東洋文庫)の解説に詳しい。

 星亨くらいの人物になると他にも伝記があると思うが、野沢雞一は星の伝記編著者にふさわしいと分かる。どんなに人格高潔、立派な業績があっても伝記作者がいないと、広く世に知られ難い。坂本龍馬だって、司馬遼太郎という作家を得て、いっそう愛すべき傑物として知られるようになったと思う。そういう出会いって運命なのだろうか。  

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2011年5月21日 (土)

幕末の大阪で塾を開いた漢学者、岡鹿門(仙台藩)

 歴史好きは戦国時代か幕末が好きという人が多いように思う。時代の変動とエネルギーが感じられるからだろうか。自分も若い頃は戦国武将が好きだったが、今は幕末明治以降の有名無名の群像が好きだ。
 近代は古文書が読めなくても当時の雑誌や新聞、資料をかなり読むことができる。自分は図書館を利用しているが、とくに明治期の書籍がならぶ書庫に入れる早稲田大学の図書館が好きだ。

 早稲田という場所も、けやきのブログ2010.2.8「英語塾と山東一郎(直砥)」でとりあげた北門義塾があったと知り縁を感じる。
 東海散士の縁から山東一郎を知り興味を抱いたが、今度は山東から松本奎堂と岡鹿門を知った。二人のうち松本奎堂は「天誅組」で有名、東北に目を向けている折から、岡鹿門を記してみたい。

 鹿門はロクモンと読み、名は千仭。父は仙台藩大番士。1832~1913(天保3~大正2)
 江戸昌平黌で学び同窓の松本奎堂、それに松林飯山と岡の3人で大阪に双松岡という塾を開いた。双松岡塾ではさかんに尊攘論を説き、清川八郎ら志士が出入りしていた。
 そこに山東一郎が学僕として入塾したのである。のちに山東が早稲田に北門義塾を開くと、岡は英語授業を参観に行ったこともある。かつて自分が教えた坊主頭の少年が、塾を開き人を教えているのを見学、感慨深いものがあっただろう。

 岡は大阪はもとより京都などあちこち遊学していたが、金がなくなると地方へ行き、漢詩などを書いて報酬を得たりした。双松岡塾を開くときも仲間より多く出資している。
 やがて藩命により帰国、戊辰戦争を迎える。いよいよ会津藩が追い詰められ東北諸藩は同盟するのだが、岡は奥羽列藩同盟に反対して投獄された。尊攘論を唱える岡にしてみれば当然の意見だが、生きるか死ぬかの戦を前にして大勢に反対するには勇気がいっただろう。

 明治になって岡は大学教授、東京図書館長などを歴任。1884明治17年には中国を遊覧、李鴻章と中国改革を論じるなどして旅行記を著した。他に著作、翻訳あり。

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2011年5月13日 (金)

ドナルド・キーン『明治天皇』 / 柴太一郎(福島県)

 大震災に沈んでいる日本から外国人が滞在をとりやめるニュースが相次ぐなか、アメリカ人で日本文学研究者のドナルド・キーン氏が日本永住をきめたと報道された。うれしいニュースだ。かなり前に公民館か図書館だったかで講演をきいたことがある。
 キーン氏が外国人なのに日本語が達者で日本文学に造詣が深いのに驚き、また包み込むような温かい笑顔が印象に残っている。その国の人間でなくても、他国の文化を愛し理解できると教わった忘れられない講演だ。
 ニュースを聞いてキーン氏の講演を思いだし、著作『明治天皇』(角地幸男訳・新潮文庫)を読みだした。幕末明治期でバラバラに知っていることがつながるようで、興味深い。まだ途中だが「そういうことなんだ」という場面があったので引用してみる。これから先も同じ事がありそうで楽しみだ。

 1862(文久2)年11月、三条実美は勅使として攘夷督促・親兵設置を将軍家茂に伝えるため京を出発するに先だち柴太一郎
「攘夷の実行を督促しに江戸に行く。ついては勅使の待遇が不都合千万であるから、容保は上京する前にこの件について改正するように」と沙汰書を渡した。太一郎が江戸に持参し、松平容保が幕府に持出したところ
「陪臣が出先で重大なご沙汰を受けるのは不都合である。幕府の威厳に関わる」と議論になったが、勅使の待遇は改善された。その結果、実美が江戸に着くと将軍みずから玄関に出て迎えるなど丁重を極めた。
 (『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』京都守護職より)

 天皇と将軍の立場が入れ替わったことを如実に示す出来事が、文久2年11月27日、江戸城で起きた。この日、勅使権中納言三条実美、副使右近衛権少将姉小路公知は、将軍家茂に宛てた孝明天皇の勅書を携えて江戸城に入った――(中略)――
 勅使が将軍に拝謁するに際し、これまで将軍は大広間上段に着座するのが慣いだった――(中略)―― 当日、まず勅使たる三条実美が大広間上段に進んだ。中段で勅使の会釈を待ち、しかるのち上段へ進み、勅書を拝受したのは将軍家茂の方だった。両者の立場が入れ替わったことを示す決定的瞬間だった。
 (『明治天皇』第1巻・征夷大将軍より)

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2011年5月 4日 (水)

心はひとつ、なれど一つではない東北

 3月に雨戸、シャッターの工事を頼んだが、工場が震災被害のため部品がなく5月になっても工事にかかれない。でも、被災地を思えば文句どころか無事平穏に暮らせてい、住むに事欠く避難所生活で「がんばります」という人たちに申し訳ないくらいだ。
 常ならライバルの同業者や漁師さんたちが、一つになり立ち上がったという明るいニュースも伝えられるようになった。東北人は辛抱強く粘り強いというイメージがある。動き出せば復興は遠くないだろう。
 東北について前述のイメージしかなかったが、『対話「東北」論』1984(樺山紘一ほか著/福武書店)を読んで、東北を一纏めにイメージするのは偏っていると思った。
 『対話「東北」論』は、東北について外から内から談じ(樺山紘一・岩本由輝)(樺山紘一/米山俊直)、さまざまな東北論を展開している。そうなんだと感じる事が多多あった。

     <一つではない東北>

―――1982(昭和57)年は東北新幹線開通、井上ひさしさんの『吉里吉里人』など、東北がいろいろ話題になった年・・・・・・原子力船むつ」の問題をふくめて、
―――東北という呼び方は日本の近代と切り離せない。東北以外の人びとから一つの纏まった地域と思われてしまって、一つのイメージでとらえられている。実際は東北の中でも南と北のちがいがあり、太平洋側日本海側ではうんとちがうにもかかわらず、後進とか辺境といった一つのイメージがつくられてしまった。
―――東北の東と西出羽の国、つまり日本海側の東北というのは越の国をふくめて直接上方につながっていた。それにくらべて東側の陸奥の国のほうは、上方とつながりはほとんどない。東国の延長かもしれないし、ことによると蝦夷北辺の地にもつながる。歴史的には、東北ははっきり二つに分かれている。

    <外からの東北像>

―――芭蕉『おくのほそ道』が作り出した東北のイメージが、300年後のわれわれを拘束しているところがある。
―――(正岡)子規以後の俳諧の人びとが近代日本の意識にとらわれて芭蕉を読むものだから、『おくのほそ道』が結果として東北辺境認識を植え付けてきた
―――柳田国男遠野をはじめ東北に接するところから独特の民俗学が出発した。『遠野物語』がつくっている東北像、東北のイメージには独特の偏りが
―――東北を外から見た人に菅江真澄がいた。菅江は東北人の生活諸相に理解力があり、景色をはじめとして本当に写実的に写しています・・・・・・菅江真澄の仕事がもっと早く理解されていたら、東北に対する一般の見方がずっと変わっていたかも知れない。
―――遅れた東北のイメージが定着、昭和30年頃、政府は、東北地方は日本の食糧基地であるとか、電力基地であるとかいう考え方をとり、東北も受け入れた。

    <小盆地宇宙から>

―――東北の暗いイメージを根底から考え直そう・・・・・太宰治にみられるように、思い詰めていながらどこか余裕があるところとか、宮澤賢治のような魔術的な発想、斎藤茂吉のようなシュールリアリスティックな存在感、いろんな資質が東北の人間にはあるのです。
―――野口英世金田一京助本田光太郎我妻栄、ユニークな人材をたくさん生んでいます。

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