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2011年8月

2011年8月27日 (土)

大熊町(福島県)

Photo  ちょうど10年前、福島県に転勤中の息子夫婦に次男が生まれた。私は常磐線に乗って大熊町に出産手伝いに行った。さっそく双葉厚生病院に見舞いに行くと母子共に元気で一安心した。それからは町の保育園に一時預かりしてもらっている3歳の長男の送り迎え、家事を手伝った。
 はじめて行った大熊町、駅舎は立派で道巾は広く、緑豊かで水がきれい、時間があるとあちこち自転車で回った。橋の上から川をみると魚の泳ぐ姿があり、いつまでも見飽きなかった。

 保育園は芝生の庭が広々としてゆったりしていた。孫を迎えに行き、果樹園の傍らを手を繋いで歩いたのが今は懐かしい。立派な図書館もあった。ホテルのような外観、蔵書もさることながら広い館内はなかなか風情があった。それもこれも豊かな財政がしのばれる。が、3.11原発事故で一瞬にして何もかも失った。
 息子一家は再び転勤になり近くにいるが、まかり間違えば大災害に遭った。大熊町の苦難は遠くない現実。町の人が故郷に帰れる日はいつなのだろう。

 2011.8.27毎日新聞<「福島県産米 初出荷へ」早場米セシウム規制値下回る> に、せめてもの幸いだと思った。しかし、同じ朝刊に酷な現実が
<福島の農地 復旧厳しく>「政府工程表2120ヘクタールが警戒区域内。放射性物質による土壌汚染~~復旧の見通し、確かなことは言えない」

 東北関東大震災から半年近くになろうとしているのに復興どころか、仮設住宅にも入居出来ない人がいる!どうしてなんだ。よく分からずもやもやしているとき、
『福島原発人災記――安全神話を騙った人々』川村湊(現代書館)に出会い、一気に読み通した。読後の整理できず内容紹介できないが、お勧めしたい。

追記
“帰郷困難 20年超も  原発事故・政府試算”2011.8.28毎日新聞

 

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2011年8月21日 (日)

東北の自由民権 鈴木舎定(岩手県)

 東日本大震災と原発事故で、国の行く末はどうなるのだろうと不安をぬぐえない。ところで自国への不安、江戸から明治へと回転の時も強かった。農民一揆や士族反乱があった。そこで明治の若者は自分の足下、地方から行動をおこした。

 西南戦争では朝敵の汚名をそそごうと戊辰戦争で敗れた者たちが、政府の新撰旅団に参加し西郷軍と戦った。旧盛岡藩士鈴木舎定(いえさだ)も仇を討とうと勧誘されたが断った。
「われわれはもう南部藩士ではないのだ。日本国の人民なんだ・・・・・・最大の急務は民撰議院開設に一身をささげて闘うのみだろう」

 鈴木舎定は藩校の作人館、15歳で上京し築地のキリスト教学校、中村正直の同人社で学んだ。板垣退助に共鳴し、星亨河野広中らと接触し民権運動家に成長していった。
 前述の佐藤郁二郎は『感懐録』に「東北七州会」が仙台で開かれ、河野広中や鈴木舎定、藤沢幾之輔らの演説を聴いたと記している。
 鈴木は旧藩有志が創設した書籍閲覧所求我社」内に夜学校を開き機関誌『盛岡新誌』を発行、また独自の憲法構想を訴え、地域に根を下ろした活動を展開した。
 五日市憲法を発見した新井勝紘の一覧表「明治前期の憲法諸構想」に
盛岡有志憲法見込案・1881・7 求我社 民権社>が載っている。

 自由民権運動というと板垣退助自由党など中央でのイメージが強いが鈴木を通して、運動を理解するには地方の民権家の活動を知ることが必要と感じた。
 なお1881明治十四年の政変後、政府の弾圧や内部分裂により、自由党は弱体化し急進派は武力蜂起に傾斜していった。鈴木も運動の行き詰まりの中でテロリズムに向かったが、盲腸炎にかかり急死、29歳という若さであった。
 参考:『岩手県の歴史』山川出版社

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2011年8月15日 (月)

終戦の日に 続・佐藤郁二郎(宮城県)

   仙台でも東京でも学校を掛け持ち、翻訳のアルバイト、寝る暇もない郁二郎だが彼も人の子、吉原こそ行かなかったが楽しみはあった。団十郎菊五郎円朝、*伯円越路雲右衛門などを観た。そしてこれらは裁判官になった時に役だった。
 さて郁二郎の上京はまさに「明治14年の政変」の時。郁二郎は明治天皇が関西から還り大隈重信らが従う行列を見物した。その翌日、大隈は政府を逐われ、「国会開設の詔勅」が発表になり、郁二郎ただ一驚、世間一般そうだろう。

 学業を終えた郁二郎(25歳)は1887明治20年裁判官となり盛岡裁判所に赴任。以後、一ノ関福島(会津)、仙台、再び盛岡青森の各裁判所、宮城控訴院そして大審院判事に勅任される。佐藤郁二郎『感懐録』には裁判間時代の人間模様やグチ、東京での自由民権の演説会など興味深いものが多いが割愛する。今日は終戦の日、郁二郎の戦争と国家についての考えを抄出したい。

          (1932昭和7年・佐藤郁二郎)
 近年、記念行事がはやっている。日清日露の凱旋時はもちろんその後も、分捕り兵器その他を麗々しく飾り立て戦勝記念の祝祭が盛大にこれ見よがしに挙行されている。

―― 日本人からみれば祝すべき名誉の事に相違なく悪い事といえないが、立場を替えて敗戦の支那国(原文のママ・中国)魯(ロシア)獨(ドイツ)から見ると「如何有ル可キカ」。
 日本に大和魂があるようにその国々にも魂が有る。故に戦勝国のこの振る舞いを目にすれば敵愾心、報復心が生まれる。日本国民が敗戦者の立場にたったと想像すれば「思半ニ過クルモノ有ル可シ

―― 我国は欧米各国の嫉視を受けている。一朝事があれば孤立の扼に瀕す・・・・・・日米戦争など余は賛成せず、むしろ友邦となるほうが得策・・・・・・
本来なら支那国(原文のママ)は同種同文の間柄で地形上、歴史上も唯一無二の友邦として相親愛し共に東洋の平和を確立しなければならないのに、政事家が国民と共に支那国民を軽侮するなど対策を誤った結果、我が国を敵視するに至っている。

―― 我が将兵、奔走に疲れ且つ死傷者が続いている。これまでは大和魂一点張りで戦えても、今は機会戦争の世の中なれば・・・・・・
世間は内閣の更迭をいうが、廻り灯籠の回転の如く英雄豪傑が卓出する訳でなく、同じ力量の人物が互いに循環するに過ぎない。

*伯円
 明治10年2月『朝野新聞』。地方より上京して伯円を聞こうと柳橋の榎本亭へ三日間通ったが、聞けなかったという投書。伯円は一夜に5,6カ所掛け持ちするので、三日間に一度くらい回っていたという。
  

 筆者は『感懐録』を法政大学の図書館で閲覧したが、近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/index.html で見ることが出来る。この本には近代の有名人物が普通にでてくる。ふと、「有名と無名の境ってなんだろう」考えさせられた。
 3・11からこっち、せめてもと東北に心をよせて人物を掘り出しているが、いろいろな人物に出会えて良かった。今、東北は困難な目に遭っている。一日もはやく子どもが笑顔いっぱいになれるよう祈るばかりだ。

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2011年8月13日 (土)

仙台停車場事件 佐藤郁二郎(宮城県)

   東北新幹線は東日本大震災で一時運休、再開後も福島一ノ関岩手)など徐行中だが9月から通常ダイヤに戻る。そうなれば東京~仙台は最短で1時間38分。これほど近い仙台だが、鉄道はこれから敷設という1886明治19年停車場設置で 「郷里の興亡に関する一大事」があった。

 「日本鉄道会社」が東北貫通の幹線、仙台停車場を“宮城野原”にと発表すると、不便だとして官民合同で鉄道会社と折衝、繁華街の“仙台東六番丁”(現仙台駅)にすることになった。
すると東京の仙台人(仙台義会)がこの変更を
「将来の発展上、宮城野原を開拓して理想の市街を造り、道路、水道、ガスほか文明の利器を応用できる」と停車場変更を阻止する意見代表者を仙台に派遣した。その人物が司法省法学校に在学中の佐藤郁二郎24歳であった。
 郁二郎は県令(知事)松平正直をはじめ多数に説得をしたが、変更を阻止できなかった。もちろん賛成者もいて中には郁二郎を訪れ「白鞘の大刀」を贈ってくれるような老人、沼澤與三郎もいた。

 時が過ぎ、昭和になって都市計画が持ち上がり、郁二郎は
「改造よりも40余年前の主張のように別個の箇所を選び、新たに大仙台を造出する事が良策」と主張したが、街造りはどのような変遷を辿っただろう。そして今、大災害から復興と街作りに立ち上がっている。先人の説を顧みる暇はあるだろうか。

 佐藤郁二郎、仙台北五番丁の仙台藩士御徒目付の家に生れる。1862文久2年、安藤老中が水戸浪士坂下門外で襲われた年である。
 郁二郎は四書五経を習っていたが時代が変わり苦学して宮城師範学校に入り、卒業後小学校教員となる。その後、援助を得て上京し中江兆民の「仏学塾」でフランス語を学ぶ。
 郷里の人々の援助は
明治維新のさい東北は失敗し一山百文の悪名を負わされたから有為の者を都会に送って修学させ薩長の人物を圧倒し一日も早く雪辱を」との考えからである。

  郁二郎は必死で勉学に励む傍ら、「仏文会」に入り外国人の演説を聴いたり、賃訳(翻訳で収入)や夕方からは仏学塾から東京横浜毎日新聞社に通勤し校正をして収入を得た。
 板垣退助がフランスから持ち帰った政書の翻訳もしたが、名前は載らなかった。しかし、磯部四郎のジュールダン著『論理学』は独自の苦心の翻訳なので交渉して共訳者の名義で明治20年刊行。当時、政府はボアソナードを招いてフランス法制を研究中で、フランス語ができ将来にも役だった。

 その頃、司法省法学校官費生を募集していたので受験した。ただ受験科目が漢籍だったので仏学塾で公然と勉強しにくく、夜間ほかの学生が就寝してから押し入れに籠もって勉強をした。
 合格後は仏学塾から法学校に通学、必要な授業だけ聴講しすぐに帰ったので法学校生と知り合う時間がなかった。郁二郎は官費の学資を得るために入学したのである。
 それにしても郁二郎ばかりでなく明治人の勉強ぶりと修得能力には本当に畏れ入る。

 所であるとき、郁二郎は玉乃世履の裁判を傍聴する。その裁判は河野広中ら国事犯の事件で、弁護人は 星亨大井憲太郎らであった。郁二郎は玉乃裁判長の審理ぶりに感動して裁判官になろうと思い立ち、これより司法の道へ進み生涯を大審院判事として過ごした。
 ここまで佐藤郁二郎著『感懐録』により記述したが、次回もう少し紹介したい。手元の人名辞典になく没年不詳。
 ちなみに『感懐録』昭和7年12月10日 非売品、発行者本人・仙台市東二番丁92番地、印刷者宮城刑務所・仙台市古城町番外地。                      

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2011年8月 4日 (木)

がんばろう東北!こども&柴四朗ら明治人の囲碁

 宮城でこども囲碁「ゆうちょ杯ジュニア本因坊戦」全国大会の代表選手が決まった直後、3月11日に東日本大震災が発生、大会が中止となった。その代わり被災地の子供らを元気づける“子ども囲碁フェスタ”が7月末に開催された。

 会場は宮城県大崎市の東北大学、避難所ともなった体育館。宮城岩手福島山形の4県から、4歳~16歳の200人がプロ棋士と交流を楽しんだ。
 公開対局で小学5年の高橋慶輔君が、仙台出身の一力遼初段に挑戦、解説の結城聡天元に「これだけ打てれば十分」と激賞された。
 小学6年加藤彩杜君と安斎伸彰6段の対局もあり加藤君は「負けたけど、自分なりに打てた。満足です」。ほかに多面打ち指導碁、入門教室もあった(毎日新聞 2011.8.4)。

 シンプルで奥行きがありそうな囲碁、自分には難しすぎてサッパリ分からない。が、真剣に碁盤に向かう子供たちの姿が目に浮かんで感心するばかり。昔は幼いときから囲碁将棋が身近で、共通の楽しみ、素養だったと思う。

 1886年、谷干城(秘書官・柴四朗)がヨーロッパ巡回視察の航海中、船内では囲碁将棋をして楽しんだという記述がある。何しろ明治の昔は、アメリカまで3週間あまりの長い航海だ。

 ちなみに柴四朗・東海散士は代議士としては、国権伸張の立場から政府反対の態度を崩さず、ナショナリズムの一境地を拓いていた。四朗の得意は議会外の駆け引きや引きまとめにあり、派手な闘将というより、地味な黒幕、陰の指図役というところにあった。政治家として読書思索を好んだ一面の現れであろうし、芯はやさしい。その一端が四朗の碁にも現れているようだ。

犬養毅大隈重信は強く、ちょっと打つのが鳩山和夫、ついで大石正巳尾崎行雄それから柴四朗中村弥六ら。大石の碁はちょっと乱暴で、中村は覇気を帯びている。はまことに柔(や)さしい」
(『維新後に於ける名士の逸談』茶話主人)。

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