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2011年9月

2011年9月22日 (木)

明治の作家・翻訳家&『仙台自由新聞』、原抱一庵(福島県)

  卓球一筋の人には叱られそうだが、試合場でブログアドレスを交換、話に花を咲かせる事がある。「English-1collection」http://blog.alc.co.jp/blog/3302827のバネさんとも卓球の試合で知り合った。
 English-1collectionは殆ど毎日更新され内容が深い。そればかりか膨大なアクセス数から英語の読み書きが達者な人が多いと知れ、感心するばかり。自分には遠いが、現代は趣味に仕事に英語が身近にあるのが感じられる。
 しかし、140年以上昔は辞書や教材を手に入れるのは大変。でも、英語をものにしたばかりか西欧文化、文学迄も理解した若者たちがいた。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』でいえば、
“会津の三郎(山川健次郎赤羽四郎柴四朗)”はアメリカのエール大学、ペンシルバニア大学を卒業、学位も得た。

 こちらは会津の三郎と同じ福島県出身だが二本松藩士の家に生まれた原抱一庵(俳人原袋蜘(たいち)の養子)という人物の話。抱一庵(ほういつあん)は上海の亜細亜学館(東亜同文書院)に留学し帰郷後、札幌農学校に入学する。農学校ではクラークの教え子から聖書・シェイクスピア・バイロンなどを学び夢中になり、他の教科に興味を失い退学してしまう。

 22歳ごろ森田思軒(明治のジャーナリスト・文学者)に認められその縁で報知に入社、『郵便報知新聞』に小説「暗中政治家」を連載する。17歳頃、河野広中の『福島自由新聞』に短文をのせ福島事件の巻き添えで未決監に入れられた事があり、河野を素材にしたようだ。
 『暗中政治家』(1891春陽堂)は人気を得、以後、創作や翻訳小説を発表、和漢洋の学を兼ね備えた作家として西欧文学を漢文調の美文で表現し名を知られた。

 26歳で森田思軒とともに報知を退社し、仙台に赴き『仙台自由新聞』主筆となった。『仙台自由新聞』は1894明治27年創刊で自由党機関誌。
 当時の地方新聞は中央のように中立主義の新聞は成り立ちにくく、政党色があった。日清戦争中は宮城県下で『奥羽日日新聞』『東北新聞』『東北日報』と、4紙で報道合戦を演じた。

 その後、妻子を福島において東京に出、『東京新報』に文学作品の評論を書きつつ、同じ二本松出身の高橋太華の雑誌『少年園』にユーゴー『レミゼラブル』の翻訳「ABC組合」リットンの「聖人か盗賊か」などのせた。抱一庵の翻訳は逐語訳でなく文章は流麗で人気があったという。
 ちなみに高橋太華は東海散士・柴四朗に縁があり、四朗も高橋に頼まれ『少年園』に寄稿している。
 
 創作作品も残し業績はあるが、晩年は不遇であった。みるからに才気あふれた青年だったというから早熟過ぎたのか、生来の大酒ゆえか、精神に異常をきたし不遇の内に東京下谷の根岸精神病院で日露戦争さなか1904明治37年8月23日、39歳で没した。和漢洋の学問、文芸の才能がありながら精神を病んだまま、40歳にも満たず世をさったとは、何とも傷ましい。

参考:福島の児童文学者列伝5、コンサイス人名辞典

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2011年9月18日 (日)

与謝野鉄幹、居を靖国神社のほとりに

 前に「六分の侠気四分の熱、与謝野鉄幹・晶子/2011.6.18」を記し、また「朝鮮の土となろうとした鮎貝槐園/2011.6.9」では与謝野夫妻の住居跡の写真を載せたが、芸術家夫妻の暮らしぶりを想像することもなかった。
 それが、たまたま目にした
 <去年の冬に、居を靖国神社のほとりに、写しける折の歌。二首>
飯田橋の逓信病院の側に住んで、外堀辺りを歩いていたんだ!

 うち見てハ、膝を容るるに、足らねども、やがて野山も、容れむ宿かな。
 神垣の、さくらの紅葉、拾ひあげて、むかしの人の、血潮とぞみる。
         (『天地玄黄』(明治30年、鉄幹25歳)

 それから4年後、(鳳)晶子は大阪堺の家をでて東京の寛(鉄幹)の許にはしる。その夏、寛の協力をえて最初の歌集『みだれ髪』を鳳晶子の名で刊行した。29歳と24歳の情熱と才能は、雑誌『明星』など次々に開花、明治人は無論、今も人を惹きつけてやまない。
 
 下記は実際の暮らしぶりが垣間見える、長男の与謝野光「父母を語る」の一部(『明治文学全集51』月報より)。

―――父母は文学一辺倒で世俗的なことは嫌う風でありましたので、私の子どもの頃はまことに貧しい生活でありました。
 私が生まれました頃は渋谷に家があり、毎日のように大勢の社中の方々が出入り・・・・・・啄木白秋光太郎など・・・・・・賑やかでしたが、暮らしの方は随分苦しかったようで、母が嫁入りの時に祝って貰った二棹の箪笥は跡形もなくなくなってしまったそうです。
 父は芸術至上主義で経済のことは全く考えない人でしたから、台所を預かる母の苦労は大変なものであったでしょう

―――母は父に先立たれ気の毒なくらいに悲しんでおりましたが、その中から奮い立って「新々訳源氏物語」を書き上げました。そして最後まで、子どもの世話にはならないと頑張って居りましたのも、全く子どもへの愛情からだと思われます。 

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2011年9月 9日 (金)

たとえ小さな愛の灯でも――福島県飯舘村

 今から31年前、1980.12.3「新日本紀行」は、飯舘村のママさんコーラスが「たとえ小さな愛の灯でも」を合唱するのを映していた。以下はNHKライブラリー冊子の番組紹介
―――福島県飯舘村はこの年(昭和55年)、自分たちが食べる米にも困るほど凶作だった。その中で農家の奥さんたちはカンボジア難民に救援の手をさしのべようと、チャリティーコンサートを開く。山間の村の秋を追った・・・・・・

 その飯舘村は今、原発事故直後の風向きで放射能に見舞われ全村避難になっている。
  (2011.9.2現在)福島第1原発周辺の累積線量結果
浪江町赤宇木手七郎(31キロ北西) 67.99ミリシーベルト
飯舘村長泥(33キロ北西) 36.59
葛尾村上野川(31キロ西北西) 9.66 
  *()内は福島原発からの距離だが、地形や風向きで数値がかなり違う。

 同じ毎日新聞に飯舘村から福島市の仮設住宅に夫婦で避難している女性が載っていた。77歳というから31年前のチャリティーコンサートに携わったかもしれない。そのお話は
―――18歳でタバコ農家に嫁いで、何十年とタバコの葉を育ててきた・・・・・放射能はおっかないけれど早く戻りたい・・・・・・自宅の無事を確認すると少しは安心できる。

 食べる米が不足するほどの冷害にあっても、カンボジア難民を救うことを止めなかった。何故なんだろうと、NHKライブラリーに行って観た。

 チャリティーコンサートが開催された前年、飯舘村は大豊作だった。そのとき、カンボジア難民の事を知り、救う会を発足させたのが飯舘村の人々だ。全国から寄付もあり医療施設を備えた大型バスを送った。
 ところが翌年は農家が米を買わなければ成らないほどの凶作だった。
 飯舘村の昔は3年に一度くらい冷害に遭い、その都度助け合ってしのいだという。その
“困った人がいれば助ける”が脈々と受け継がれ、救う会をやめなかったのだ。しかもごく自然にやっている所がすごいと思った。
 この度の大震災原発事故で日本人が見直されているが、飯舘村民のような東北人がいっぱいいるからだと感じた。

 飯舘村・岩手県田野畑村はNHK特集「新日本紀行ふたたび」でも取り上げられた。
 震災後の飯舘村の豊かな緑と風情は一見変わりないが、人がいない。菅野町長、村の人たちの
まけねど飯舘」「もう一度ふるさとへ」が重い。

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2011年9月 5日 (月)

日本鉄道会社/東北・高崎線敷設

 9月はじめ日本列島にのろのろ台風がやってき、上陸した紀伊半島や通り道になってしまった地域に災難をもたらしている。今年ほど自然の恐ろしさを実感したことはない。

 台風ともなれば交通機関ストップは当たりと思うが、状況がどうだったのか1899明治32年10月台風下、スピードを出しすぎた列車が鉄橋から川に真っ逆さまに転落した。
 日本鉄道の列車20両編成のうち8両が栃木箒川鉄橋から転落、使者14人、重軽傷38人という大事故である。嵐の中を乗客同士が助け合い、命がけで救助までもした様子が明治の新聞(時事)に詳しい。

 日本鉄道は1881明治14年旧大名・公卿らの*金禄公債を資本として創立された最初の民間鉄道会社である。東京・青森間鉄道建設を目的にし、政府は鉄道用地の供与、建設資金利息・利益金の補給・保護を与え、5~8パーセントの配当を続けた。政府の補助による安定した経営は、以後の私鉄開設時代展開の基礎となった。

 明治15年から現在の東北・高崎線の敷設にかかり、明治24年青森まで開通した。
明治31年鉄道争議がおこり経営の実権は三井に移るが、日露戦争後に国有化された。今はJR東日本となったが、東北地方を貫く重要幹線であるのは変わらない。

 *金禄公債:  明治政府が旧来の禄制(家禄など)廃止のため交付した金券。翌年,、禄の奉還を命じ代わりに公債を交付した。当時、鉄道会社は明治20年代の投資熱を刺激、公債は生産、運輸など産業資金になった。しかし、多くの士族は生活が苦しく、公債の多くが高利貸しの手に落ちた。

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2011年9月 1日 (木)

大正の関東大震災

    1923大正12年9月1日、突如として関東一円をマグニチュード7.9の大地震が襲った。湘南には大津波があり、建物はほとんど倒壊したうえに火災が発生、烈風が火勢をあおって東京を焼き尽くした。横浜もほとんど全滅した。一瞬にして約十万の死者をだすという大惨事であった。

 電信電話・無線電話も不通となり東京は大混乱に陥った。余震がおさまらない中、「富士山が大爆発した」「朝鮮人や社会主義者が暴動」といった流言飛語が東京全市に広がり、治安確保と罹災民救護のために戒厳令がしかれた。
 流言を信じ込んだ各地域の住民たちは自警団を組織し、多数の朝鮮人に迫害を加えた。三日後ようやく朝鮮人暴動は事実無根とわかり、警察当局は自警団の行き過ぎを抑えようとしたが、完全には抑えられなかった。
 殺害された朝鮮人は数千人にも及んだ。また、日本人の労働運動・社会主義者も迫害をうけ、労働者が官憲の手で殺害されるという亀戸事件や甘粕事件が起った。
 震災により生糸の暴騰、物資の不足、失業者の激増など混乱は11月になっても続いた。そのさなか虎ノ門事件がおこった。無政府主義者の難波大助が皇太子(昭和天皇)を狙撃したのである。皇太子は無事であったが、山本内閣は引責総辞職した。

 震災まもなく、政府は復興計画推進のため帝都復興院を設置し後藤新平を総裁に任命した。後藤は台湾の民政局長として、また満鉄総裁として腕をふるい、シベリア出兵を推進した人物で話が大きく、大隈重信とともに「大風呂敷」とあだ名された。壮大な計画をたて東京市復興を積極的に進めようとしたが、枢密院などの反対にあった。

 関東大震災は東京の下町を焼け野原にして、かわって丸の内ビル街を発展させた。自動車・活動写真・カフェーなど都会主義の風潮が広がり、大量生産・大衆消費・大衆娯楽がすすんだ。
 また、軍国主義が後退し、身体を傷つけたりして徴兵忌避をするなど徴兵検査で成績不良者がふえるなどということもあった。こうした風潮に加えて民衆の解放を求める動きがあり、政府は言論の弾圧を強めた。

 このような時代にあって民本主義を説いて大正デモクラシーに貢献したのが吉野作造である。吉野は関東大震災の朝鮮人虐殺事件に取り組んで、被害者の人数を地域別に表示し、官憲・軍隊の責任を追及する文章を『大正大震火災誌』(改造社)に寄稿した。しかしこれは内務省の検閲により公表を禁止された。(『明治の兄弟 柴太一郎東海散士柴四朗柴五郎』より)

 関東大震災で家を失った多くの人々が東北の郷里をめざし続々避難したという。当時、東京から青森へは20時間もかかったという。
 それから88年後の平成の今、交通は便利になり情報も大正時代とは比べものにならない。が、原発事故という恐ろしい事までも起こった。被災された人に「頑張って」の励ましが酷な惨状で言葉もない。しかし、何時の災害も「何があったか」を記憶し教訓にしなけれと思う。

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