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2011年12月

2011年12月29日 (木)

都心にのこる幕末明治、会津藩士の収容所跡(東京都・福島県)

 3・11から9ヶ月になる年末、被災地のお正月を思うとなんとも心が痛い。とくに原発事故で福島の方はさらに非道い目にあって、ちりぢりに非難している。自分のせいではないのに身の置き所がないような不自由な暮らしを強いられている。過酷な状況は戊辰の戦に敗れた会津人と同じ、いや、もっとかもしれない。
 ともあれ会津藩士も故郷を離れざるを得ず、謹慎場所が東京都心で皇居が目の前のところもあり、何を思っただろう。

 戊辰戦争で敗れた会津藩は領地没収、藩士は捕虜として越後高田や東京に送られることになった。柴家の三男・五三郎ら一行が「戸の口原」まで来ると白虎隊少年の死骸があった。村人が埋葬しかけたが新政府軍につかまった話を聞いて、五三郎は一命にかけてもと埋葬の交渉に向かうが通行切手がなく捕まった。しかし岡山藩の三宮耕庵が見過ごしてくれた。
 五三郎らは費用を出し村役に頼むと夜の闇に紛れて埋葬してくれた。戦に負けると野ざらしの死骸を憐れみ埋葬しても処罰されるのだ。

 いっぽう五男の五郎少年は「乞食の大名行列としか思われず」の惨めな行列に従い、負傷した長男・太一郎が乗る戸輿の後ろを猪苗代から東京まで歩いた。時には雨に濡れ十日あまりの苦しい旅の末、蒸暑い東京に着くと一橋門内の御搗屋(おつきや)に収容された。

 この御搗屋は幕府糧食倉庫で江戸城中ご用の米や餅をつくためのもの、250人が押し込められた。現在の毎日新聞本社(千代田区一ツ橋)地下鉄竹橋駅を降りてすぐの所。

 会津藩士は東京七カ所に分けて収容され、柴家も父佐多蔵は講武所、五三郎は真田邸、四男・四朗(東海散士)は護国寺に送られた。それでも監視つきながら外出でき、家族ばらばらに収容された柴家の五人は互いに行き来した。皮肉なことに、父子は収容されたこの時だけ近くで顔を合わせられたのである。

 佐多蔵ら700名が収容された小川町講武所は、JR水道橋駅から三崎神社日本大学一帯にあった。講武所は幕末に軍政改革のため、旗本や御家人の武術修練のため講武場として設置され、教授には男谷精一郎、榊原健吉、桃井春蔵らがいた。

 護国寺文京区大塚)には柴四朗ら314人が収容された。 護国寺は五代将軍綱吉の母桂昌院によって建立され、三条実美、大隈重信、山縣有朋、河野広中らの墓がある。

 山川大蔵(浩)もいた飯田橋火消屋敷は330名ほど。
 やがて会津藩事務所の新設を許され、旧藩の役員などで連絡統制に当ることになった。下北半島・斗南藩庁の前身とも。歩けるようになった太一郎はこの藩事務所に移り、松島翠庵と名を変え医者の姿になって行動した。京都・江戸詰時代の他藩の友人知人を訪ねて回り、会津藩の措置について助力を求めて歩いた。

 この火消屋敷跡(千代田区富士見町)はJR飯田橋駅から徒歩10分、靖国神社にほど近い九段高校や日本歯科医大などに囲まれた文教地区の辺り。

 ほかに山下門内松平豊前守屋敷(日比谷公園内)700人、神田橋門外騎兵屋敷(錦町)250人、芝増上寺350人、麻布真田屋敷など総勢2800人ほどであった。

参考: 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』2008年(中井けやき)/ 『紙碑・東京の中の会津』1980年 牧野登(日本経済評論社)

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2011年12月23日 (金)

歴史をつくる人人、岩手の座敷童子も?

   人気があっても読もうと思わない小説もあれば、難しいのに読みたい本もある。はじめて大江健三郎を読んだ時よく分からなかった。今でも解ってないが好きだ。難しいけど好きは中国古典の研究者・吉川幸次郎(1904明治37~1980昭和55)もそうだ。
 漢文を習った人は吉川幸次郎の『新唐詩選』『人間詩話』、「杜甫」についてなど読んだかも知れない。大きな業績を残し多くの後進を育てた学者はエッセイも深い。
 エッセイ集『他山石語』(毎日新聞社)を手にしたのは、米国フィラデルフィアにおける東海散士の跡を辿り書いているから。けれどもいまは巻末の対談(吉川幸次郎×尾崎雄二郎)に注目。

 吉川: (大学の講義)準備を忠実にやるのはなかなか苦しい。ところでこれは日本の先生が模範として学ぶべしと思った人があるんですよ。ドナルド・キーン君は,自分が次に講義をすることを一度テープに吹き込んでみて、自分で聞くというんですよ。ぼくは感心しましたね。

 つい先ごろ“日本国籍を取得したキーンさんが書斎を再現し記念館を新潟県柏崎市に復元”を読んだばかり。そこへまたキーンさんの人柄が伝わるエピソード。公民館の狭い講座室の若いキーンさん、あの笑顔ほんものだったと今さら納得。どうりで今でもはっきり覚えているわけだ。ほかに印象的だったのが歴史をつくる人人についての話。

吉川: 声なき多数者、多数者といっても反抗した多数者、農民一揆をおこした人のみがとりあげられることはないでしょうか。農民一揆をおこさない、しかし善良な庶民だった人たちをもっと採り上げていいんじゃないかと思う。

吉川: それはやはり大きな意味での歴史を進歩させている人だと思うんです。それは近くしていえば、われわれだってべつにことごとしくいまの歴史の進展にそう寄与していないですよ。(中略)しかし、多くの人間の日常生活の集まりは、やはり人間の進歩に寄与していると思う。 

 平凡な日常生活も吉川教授がいうと意味をもち、旧家の奥座敷に住むという精霊も多数者の仲間にという気になる。いきなり何の話と思うでしょう。実は、たまたま人名辞典を開いたら「座敷童子」の項が・・・・・・エッ、精霊も人と同列?粋な編集者がいるものだ。せっかくなので説明を読んだ。すると“ざしきわらし”は仲間かもしれないと思えた。3・11大震災でたいへんな目に遭っている人人を護ろうと出没していそう。

 座敷童子: 岩手県を中心に東北地方に伝承される精霊。寝ている人の枕の位置を変えたり深夜には家の中を歩き回ったりするが、一番の特徴は座敷童子の居る家は栄え、いなくなると没落すると信じられている点。家の守護神としての性格をもつ。
 ちなみに、座敷童子の次は「指原(さしはら)安三」。明治政治史のテキストともなる名高い『明治政史』を編纂・刊行した漢学者(『コンサイス日本人名辞典』三省堂)。

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2011年12月18日 (日)

続・真山青果(仙台)

 日本はいま落ちこんでいる。大変な時代の最中にいるという不安が先走る。そんな中、
「1969」の成功“日本はダメ”論を疑う>を読み、俯いてばかりではダメと思った。そのコラムの一部、

 いま由紀さおりのアルバム「1969」日本語にもかかわらず世界でヒット、古い日本の歌謡番組までインターネットで出回っている。他にも日本の知られざる良品がネットを通じ世界で「新発見」されている。「日本はダメ」論が多すぎる。
本当にいいものは、知られれば世界は評価してくれる。その「気づき」のチャンネルをインターネットが提供してくれる時代なのだ(毎日新聞2011.12.18[時代の風] 坂村健 東大教授)。

 気づき。東日本大震災で東北に目を向けるようになった。幕末~昭和の人名があがると出身地を調べるのが癖になった。そして岩手・宮城・福島の人物とわかれば紹介したく調べる。すると発見や繋がりが見えたりしておもしろい。そうするうち地方を身近に感じるのが観光した時だけとか、親身じゃない自分に気づいた。前回書いた真山青果に対しても親身が足りなかった。
 4人でランチ中「知らないかもだけど真山青果」、そう言った途端3人揃って「知ってるわよ。歌舞伎!」。知らないのは私だった。さっそく図書館へ、調べると前回ブログでは不十分、青果の本領が書けてない。

真山青果は1924大正13年の「玄朴と長英」、以後「平将門」から戦中にいたるまで60篇余り「大塩平八郎」「償金四十万弗」「坂本龍馬」「江藤新平」「国定忠次」「人斬り以蔵」「江戸城総攻」など青果史劇を発表、その頂点が「元禄忠臣蔵」であった。
 二世市川左団次をはじめ、沢田正二郎、井上正夫、前進座など広い分野に多くの名舞台が残されている。

  その作風は綿密周到な史実の考証の上に、相反する強烈な性格を対立させ、規模雄大な悲劇を完成して日本近代最大の劇作家となった。

 新派の作品、脚色に「たけくらべ」「酒中日記」、創作に「のわかれ路」「仮名屋小梅」などの名作があり、またこの時期「焔の舞」などの新聞小説をも書いた。
西鶴研究では『西鶴語彙考証』のほかに「小判拾壱両」以下の脚色があり、『随筆瀧沢馬琴』、『仙台方言考』に、江戸地誌から方言までの学殖の一端をうかがうことができる(永平和雄)。
 (『新版 歌舞伎事典』2011年・平凡社)から引用。

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2011年12月14日 (水)

明治・大正・昭和期の小説家・劇作家、真山青果(宮城県仙台市)

 2011.12.3「宮古港戦跡碑」を記した所へ、岩手県宮古市の「宮古に泊まってありがとうキャンペーン」観光で復興を目指す(毎日新聞)が目に入った。浄土ヶ浜には2度行ったが、いつの日か3度目。

 前回「フランス革命修羅の衝」の記事で大塩平八郎を題材にした小説にふれた。森鴎外『大塩平八郎』は読んだが、真山青果の作品は知らなかった。真山青果の名は昔にラジオか、本だったか忘れたが、最後の将軍慶喜が江戸去る場面が心に沁みて作者を覚えた。ほかに読んだが題名を思い出せない。真山が東北出身でもありどんな人物かみてみたい。

 真山青果1878~1948明治11~昭和23年。本名彬、仙台市。小説家・劇作家。家は代々伊達藩の大番組、父寛は*岡鹿門(千仞)の門下。東二番町小学校の名校長とうたわれた。
*当ブログ<2011.5.21「幕末の大阪で塾を開いた漢学者、岡鹿門(仙台藩)」
 真山は二番町小学校時代かなりの腕白小僧だったが、一度に三級も進んだほどの秀才。中学をから第二高等学校医学部に入学するが、移民熱にかられ家族の反対をおしきって退学、上京する。
 ちなみにそのころ海外移民が増加し、それまでの保護規則では不十分となり1896明治29年、移民保護法が制定される。

 ところで真山は上京したものの目的を果たさず仙台に帰郷、再び医学部に入学するも医者は元々の志望ではないとまた退学。以後、芸術で世に立つことを思いながら郡立病院の薬局生、開業医の代診、私立中学の国語教師など各地を転々した。やがて佐藤紅緑(詩人・サトウハチロー、作家・佐藤愛子の父)の門に入り寄寓、さらに小栗風葉(作家・尾崎紅葉門下)の弟子となった。

 こうして小説を書きはじめたがなかなか認められず、小栗の代作をすることも多かった。やがて「南小泉村」が好評を博し、一躍文名をあげ自然主義の新進作家として注目された。
 「茗荷畑」は自我が強い反面、自己反省に苦しむ人間像を描いて評価された。しかし強い個性を濃厚に出そうとするにつれ、作品は理解されなくなっていった。
 その一方で新劇に関心をよせ、イプセンの影響をうけた戯曲を発表、劇作家としての才能を認められた。ところが同じ原稿を別々の雑誌に売って避難をあび、気性の激しい青果もさすがにその後の作は生彩がなかった。そのころから西鶴や江戸の学者についての考証、経済学の研究に力を注ぐようになった。

 折しも新派喜多村緑郎(のち重要無形文化財保持者)と出会い、1914大正3年、松竹に入社。新派の作者となった真山は亭々生の筆名で佳作「陸奥もの語」を発表、また樋口一葉の「たけくらべ」など多くの小説を脚色、新派の世界で重きをなした。

 やがて1924大正13年、史劇「玄朴と長英」を発表して劇作家として復活。以後「大塩平八郎」「坂本龍馬」「血笑記」など歴史物にすぐれた才能をしめした。
 たまたま今日は12月14日、赤穂浪士討ち入りの日。真山の戯曲「元禄忠臣蔵」は、できるだけ史実を生かしながら、登場人物も武士道の傀儡とせず一人ひとりに個性をもたせて新生面をひらき、観客に深い感動をあたえた。娘の真山美保は演出家・劇作家。

 参考:『現代日本文学大事典』(明治書院)・『コンサイス日本人名辞典』(三省堂)

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2011年12月10日 (土)

ユーゴー『九十三年』/フランス革命修羅の衝

Photo_2    <フランス革命と自由民権と東海散士と>を書いた後、たまたま『近代日本総合年表』(岩波書店)の1884明治17年を見ていたら、下記の記事が目に入った。

7.25 ユーゴー作・坂崎紫灡 訳<仏国革命修羅の*衝>(《自由新聞》~12.12中絶)、『九十三年』の部分訳)。 
 *衝:かなめ・つきやぶる・うごかす

 坂崎紫灡1855~1914(安政2~大正3)、名は斌(びん)、旧土佐藩士、明治時代のジャーナリスト。
 坂谷朗廬(ろうろ)の門下に入り塾長となる。のち松本裁判所判事になったが征韓論を唱えて官を辞し帰郷した。
 また、板垣退助に従い、愛国公党の結成に尽力、自由党系の新聞「自由の燈」の主筆として活躍した。
 坂崎が<フランス革命修羅の衝>を連載していた半年を年表でみれば、清仏戦争(ベトナムで清国とフランスの戦い)・エジプト問題にロンドンで列国会議・カメルーン、ドイツの保護領となるetc

 坂崎がフランス語原本からまたは、散士蔵書のような英語版から訳したのか解らないが、自由民権家がフランス革命を知っていた。そして海外の情報からも明治人が、日本の運命を本気で心配していたのは察せられる。
 写真:坂崎著『陸奥宗光』 国会図書館近代デジタルライブラリー蔵

 坂崎が師事した坂谷朗廬1822~81(文政5~明治14) 備中、岡山県出身の漢学者で、 大阪に出て大塩平八郎に師事した。維新後、陸軍・文部・司法の各省に出仕したが、病により辞任。 
 フランス革命から興味のままに人物をひもといていたら、大塩平八郎がでてきた。
 ちなみに、大阪で近在農民らと決起し、船場の豪商を襲撃した大塩平八郎を描いた小説、森鴎外また真山青果(宮城県仙台)も大塩平八郎の苦悩を描き出している。
 その1837天保8年は飢饉、餓死者が多数出たたいへんな年であった。陸奥南部藩の農民一揆、新潟・石巻・大阪・兵庫などで打ち壊しと各地で騒動があった。歴史のつながりはどこまでも、キリがないからこの辺にしよう。

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2011年12月 3日 (土)

宮古港戦跡碑(岩手県)

111130_12495500    東北陸中海岸の景勝地、「さながら浄土のようだ」(霊鏡和尚)という美しい浄土ヶ浜を観光したことがあるが、近くで戊辰の戦があったと知らなかった。

 1869明治2年、榎本武揚の旧幕府軍がこもる函館五稜郭を目指し、明治政府軍が北上し宮古に入港するとの情報があった。榎本は函館から回天高雄蟠龍の3隻を宮古に向かわせた。
しかし出発後、暴風雨にあい回天のみで、最新鋭の装甲軍艦に舷側攻撃を仕掛けることになった。「敵艦に乗り込み、奪い取る」作戦だ。
 明治2年3月25日、宮古港で30分の激戦の末、回天艦長をはじめ多くの戦死傷者をだして撤退。高雄は東郷平八郎が士官として乗っていた春日に追いつかれ自爆・棄艦した。

 海戦に敗れた一ヶ月半後の5月11日、新政府軍が函館総攻撃を開始、一週間後に降服した。ここに1868慶応4年鳥羽伏見の戦いからはじまった戊辰戦争がようやく終わった。

 三陸鉄道宮古駅から浄土ヶ浜行き漁協ビルバス停近くに「宮古港戦跡碑」(大正6、題字・東郷平八郎元帥)。もう一つ、浄土ヶ浜お台場入り口に明治百年記念の「宮古港海戦記念碑」(昭和43、題字・鈴木善幸元首相)が立つ。

 また戦死者は官軍墓地と無名戦士の墓(幕軍墓地)に葬られている。二つの墓地に眠る死者たち故郷はどこだろう。花を手向に参る縁者はいるのだろうか。それにしても2011年は大震災があった、死者も地下で心配なことだろう。

 写真:国会議事堂横のイチョウ並木。議事堂側のイチョウはまだ緑、向かいの官庁街側はきれいに黄葉し日に輝いていた。道の両側で明暗を分けている。あまりに対照的、人間世界に当て嵌めたくなった。
 歴史を勝者が著せば明るい社会、敗者が記せば辛い記憶と暗い世相。たとえば、明治新政府の歴史と東北諸藩の歴史は?
  参考:『岩手県の歴史散歩』2006年 山川出版社

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