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2012年1月

2012年1月29日 (日)

柴五郎報告にみる資本主義列強なかま入り日本

 卒論「柴五郎とその時代」の諜報報告コピー綴りを見て、今さらだが“その時代=帝国主義時代”の認識が薄いと思った。西欧の第二次産業革命は資本を蓄積、軍事技術もまた飛躍的に進歩し、植民地分割争いをおこした。欧米帝国主義列強はアメリカとスペインの米西戦争にはじまり南ア戦争などでアフリカや太平洋諸島の領有を1900年代に完成させると、次はアジアに押し寄せた。
 日清戦争に勝利した日本が遼東半島を獲得すると、同じく中国に領土的野心を抱くロシア・フランス・ドイツが武力を背景に三国干渉してきた。続く日露戦争に勝利した日本は国際舞台に登場、帝国主義列強に仲間入りを果しすでに植民地も獲得した。

 柴五郎は列強に仲間入りした日本の軍人として、米西戦争はじめ世界各地の現場から参謀本部に諜報を送信した。それら極秘報告を世界の動きと照らし合わせて読むと世界のなかの日本が分かる。大げさかもしれないが、史資料を遠くから見ると理解が増すようだ。
 柴五郎極秘報告は日清戦争を前に朝鮮半島から中国国内を探索したもの、獲得したばかりの台湾上陸時の状況、上海における孫文の動静などなど防衛研究所図書館で閲覧できる。以下は当ブログ記述、その他報告。

  米西戦争: 「柴五郎の諜報報告/秋山真之」米西戦争カリブの海へ。観戦武官としてアメリカに派遣された二人、柴五郎砲兵少佐と秋山真之海軍大尉についての挿話(200912.20記)。
  義和団事変: 同上の「その他の諜報」(2009.12.20記)。
       「義和団事件における柴五郎の活躍」(2011.12.9記)

M31   ファショダ事件: ファショダ(スーダン南東部・コドク)1898アフリカでイギリス・フランス軍が衝突し、のちにフランスが譲歩して妥協が成立した。それを英国大使館付き砲兵少佐柴五郎は「ファショダ事件英仏葛藤の一段落」と題してロンドンから日本に報告(左写真)。
 同じ報告の中に「英国ノ東洋政策及日英同盟二関スル意向」。清国の威海衛に「*支那人ヨリ成ル英軍隊ノ新設」(右写真)について記している。*中国。今は用いない。
M31_2
 威海衛: 日本は日清戦争の賠償金支払いの担保として威海衛を占領していたが、イギリスは日本の保障占領が終わり撤退すると、すぐさまここを占領し威海衛の25年租借を清国に承認させた(『帝国主義の展開』中山治一)。この時イギリスが現地の中国人で軍隊を編成しようとし、五郎はそれを報告、日本も台湾でどうかと考察している。
 イギリスの威海衛租借はロシアの旅順大連租借、ドイツの膠州湾租借に対抗するためで、日本に負けた眠れる獅子中国は列強の領土分捕り合戦の場となってしまったのである。

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2012年1月25日 (水)

『佳人之奇遇』と高橋太華(福島・二本松藩) 

 夏目漱石や森鴎外の現代語訳がだされる現代、120年前の政治小説『佳人之奇遇』を読むのはたいへん。しかし明治青年には漢文調のリズムがうけて愛唱された。読者に南方熊楠・寺田寅彦・幸田露伴・秋山真之・堺利彦・山川均・幸徳秋水などなど幅広い。
 『佳人之奇遇』は著者・東海散士(柴四朗)が海外体験(アメリカ留学、ヨーロッパ巡回)、しっかりした観察眼による見聞、それを確実な知識とした地理歴史など三百冊近い洋書の蔵書(会津若松図書館蔵)、アイルランドやスペインなど各国の歴史を踏まえた上で「押し寄せる欧米帝国主義列強を前に日本の将来を案じて」描いた明治の大ベストセラーである。

 好評『佳人之奇遇』は批評の格好の材料となり批判もされた。高田早苗は東京専門学校(早稲田大学)「中央学術雑誌」で西洋風の批評を試み、坪内逍遥の「当世書生気質」に続いて「佳人之奇遇」を嫌みたっぷり「学士や政治家が戯れに小説を編もうとするには抱腹の限りだ」などと批判。しかし好意的な評が多い。以下は中村光夫「政治小説の季節」から。

 「佳人之奇遇が世界各国の風俗、政治事情などについて、かなり生きのよい知識を羅列していたことは当時の読者を喜ばせたに違いない。当時の欧米人が日本、あるいは東洋にたいしてもっていた蔑視の念は、今日では想像もつかぬほどで、現在もないとは言えないかもしれない。
 ところが日本側では、こういう外人の差別に現実に接しながら、それをあまり感じない、ただ物珍しさの程度が内地と違うという感覚もあった。海外へ行った者も、誰しも感じたはずの白人の蔑視には触れない。政府はその「文明」を摂取して、西洋に重んじられる国家を作り上げる計画をたてた。それがはっきり現れたのが鹿鳴館時代であった。
 「佳人之奇遇」第一編が発表された明治十八年はまさにこの時代で、鹿鳴館的な風潮を否定する意図のもとに書かれたのである。ただ、一方においてこの風潮を利用している。日本の青年紳士が白人の美人と出会い、すぐ深い友情で結ばれると言う設定は、はなはだ鹿鳴館的で、日本の読者だけが受入れることのできる空想であり、求められるものである。
 そして主要な人物はみな亡国の民といってよい人物で、彼らの革命の志は、帝国主義の支配する十九世紀後半の西欧による世界支配に反省と抗議を形作っている。不利な立場におかれた民族を憤らせずにはおかないのである。友情が憤怒に支えられて展開して行くところに、この物語の現実性がある」。

 佳人之奇遇が大ベストセラーになるにつれ実は、という話がでてきた。たとえば「作者は高橋太華とか西村天囚」というもの。文芸春秋・薄井恭一稿本『佳人之奇遇』との奇遇」によれば、
「古書店から買った『佳人之奇遇』の原稿を松雲堂の野田文之助老に見せたら、この部分は柴四朗の筆であろう。この評語は高橋太華の筆であろうなどと話してくれた」という。
 太華は漢文にすぐれ文章に手を入れているが、それで作者だとは言えない。当時
「漢文学者の常として文詩ともに先輩または同輩に批正を乞うのはその完全を期する所以でむしろ美風というべきものである」という考え方があった。それからすれば、「之をもって代作なりと評するは讒誣(ざんぶ)も亦甚だしいと言わねばならない」(秋村居士)のである。

 そしてまた「作者は東海散士ではない説」にかなり影響を与えたのが幸田露伴の弟、幸田成友である。自伝『凡人の半生』、次の一節が一人歩きしたらしい。
 「高橋太華氏は表面には出られぬが、裏面では色々な仕事をなされた。佳人之奇遇という漢文調の小説は木版の半紙本、挿絵は石版摺で、取材の範園甚だ広く、一時自分達青年の血を湧かしたもので、東海散士柴四朗作とあるが、実は太華氏の作といふことである。もっとも自分が噂に聞いただけで、証拠を握っている訳ではない」

 (高橋太華の来歴、著述など『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』に記述あり)

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2012年1月21日 (土)

 「三足のわらじを履いてた」昔に書いた作文

   初めて入った安田講堂、外見はただ古い感じだが中は半円の演壇を取り囲むようにソファーが放射状に並び、天井から昔風のシャンデリアがオレンジ色の光を投げかけている。学生紛争の名残りはないなと思いながら開放講座の始まりを待った。初回「夏目漱石と二〇世紀」は期待通りだったが、五回の講座、私にとって当りはずれがあった。偉い先生は主婦に理解されようとは考えないでしょうけど。

 その日読んでいたのが、西郷隆盛らと活躍した大久保利通の孫、大久保利謙日本近代史学事始め』。2階に上がり何気なく一室を見「あれっ」。さっき読んだ『東京帝国大学五十年史』の編纂を“安田講堂の一室”に毎日朝から夕方まで詰め・・・・・・その“安田講堂の一室”があるじゃない。こんな偶然もと一人うれしくその頁を開くと「大久保利謙著作集完結祝賀会」の写真、卒論でお世話になったY教授が著者と写っている。

 大学へ行きたいと思ってたが英語がだめで踏ん切りがつかなかった。40歳過ぎ久しぶりにパートにでた。なんと、そこで通信制入学のふんぎりがついた。パートは銀行の窓口。その支店では新入男子に各係をひととおり見習わせる。私の元にも来て諸手続きを覚えた。どの新人も一流大卒でも教わる身だからかパートのおばさんに神妙だった。
 ある日インド人留学生が来、新人A君が流暢な英語で応対、無事に受付できた。その時ひらめいた、大学へ行こう。A君に英語をみてもらおう。さっそく高校の成績証明書を取り寄せ、H大学通信教育文学部史学科に入学手続をした。それが主婦・パート・学生の始まり。三足のわらじを履いて時どき、一日が三十時間だったらと思った日々の始まり。
 夜にスクーリングがある日は、朝食の片付けをしながら夕食を作ってから出勤。忙しくても先生や若い人に会えるのが楽しみだった。

  スクーリング、英語は連日の授業ではついていけない。復習時間がとれる夜の週一授業にした。体育実技の卓球。ママさん卓球をしてる私は人気者?若い友だちができ、飯田橋や市ヶ谷の喫茶店でおしゃべりした。夜スクの日は帰宅が遅くなる。毎週タクシーを待つ姿を見かけた人がいたらしい。知人が「夜遊びしていると噂だよ」という。それで学校へ行っていると話した。そんなことから、大学で主婦学生にきいてみると「夜に旦那をおいて学校にいってるというけど何をしてるんだか?」など嫌みがあるようだった。
  
 卒業論文。なんか学問という趣、大学生気分だが何にしようか迷った。そのころ読んでいたのが『日露戦争を演出した男ウッドハウス英子著、ロンドン・タイムス記者モリソンの話。ここに「柴砲兵中佐」がたびたび登場する。
 ずっと前『ある明治人の記録』会津人柴五郎の遺書>を涙しながら読んだ。その時、“歴史を書くのは勝者、だから悲惨な話は伝わりにくい”と考えさせられた。なのに飢えに苦しみながらもけなげに生きた五郎少年を忘れていた。その少年と柴中佐が同一人物だったのだ。柴五郎が「軍人」ということでためらいはあったが、清廉潔白、略奪しない軍人、安政から昭和20年まで87歳の生涯は近代日本の激動と重なりテーマに選んだ。
 以来、暇さえあれば国会図書館や有栖川宮公園内の都立図書館通い、ひたすら柴五郎である。テレビに日清・日露の戦争が写ると「五郎が出征した」。鳥羽伏見の戦いがでると「長兄の太一郎が活躍した。四兄は衆議院議員」などと聞かれもしないのに話すので、娘に「柴五郎はお母さんの恋人ね」とからかわれた。
 さて、柴五郎の生地、福島県会津若松へ行くことになり娘が同行してくれた。駅前でレンタカーを借り行き先を聞かれ、会津若松城、寺に博物館、図書館など言ったら「娘さんの勉強にお母さんが付添いですか?」私たち母娘は外に出ると大笑い。後先考えずにとりかかってはつまずいたりする母、娘は休暇をとって興味がないのに付きあってくれた。 

 H大の川向こうに息子のR大があり学年は同じだが、そっちは化学なので私にはさっぱりわからない。母子とも4年で卒業、息子は社会人となった。私は元気で動けるうちに好きなことをしようと、パートをやめた。わらじを一遍に脱いで暇かというと、今朝も夫を送りだすなり、洗濯物を干しに階段を駆け上がった。やっぱり、朝からドタバタとせわしない。安田講堂の講座は先週でおしまい。今日は市立図書館の「史跡と植物をみる会」、市内巡りをする。遅れるとおいていかれてしまう。急がなくちゃ。

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2012年1月15日 (日)

『日本教育小史 -近・現代-』(山住正己)

 年が明け受験生はもう大変、センター試験のさなかである。明治維新後、良くも悪くも勉学に励めば身を立てることができるようになった。
 家を継げない次・三男らは養子先がなければ部屋住みでくすぶっているしかなかった。戊辰戦争に敗れた賊軍の子弟。そんな士族の若者、町人も勉学に励めば立身の糸口をつかめる世が来た。必死の勉強ぶりは察してあまりある。
 それから150年近くたつも教育熱は衰えない。2011.3.11で考え方に変化が出ているようだけど、そういう間にも受験はある・・・・・・あれこれ考えていたら昔読んだ教育の歴史を書いた本を思い出した。以下1997年に書いたお勧め文、今でも通じるような気がして。

 長い休みに生徒さんは「課題図書」を読む宿題があるでしょう。例えば『ヨースケくん』(那須正幹著・ポプラ社)“小学生はいかに生きるべきか”というのがあります。
今どきの学校は? ヨースケくんの悩みは? 読んでみたいけど、感想文を押しつけられると嫌になりますよね。けれど
「読まないともったいない」ある新聞にあった女優木村佳乃さんのことばです。感想文のせいで、本を読まないとしたらもったいないです。

 いい文を書こうとするとおっくうな作文ですが、今は立派なことを並べたてるのではなく、見たまま感じたままをありのまま書けます。これは何でもないことのようですが、こうなるまでには歴史があります。作文を綴方運動として教育の場に血を通わせようとした教師たちがいました。

 無着成恭編『山びこ学校』(山形県)を知る人は多いでしょう。生活綴方をたどっていくと、夏目漱石の弟子・鈴木三重吉主宰の雑誌『赤い鳥』、大正デモクラシーへと行きつきます。
 戦後、教師が学校周辺の地域に足を運んで、子どもをめぐる問題に目を向け、教育計画をたてる試み、川口プランが全国の注目の的になったそうです。

 作文一つとっても社会と学校は、時代と深くに関わっているのがわかります。関わりどころか学校は戦争など大きな時代のうねり、社会の荒波にさらされます。江戸幕府が倒れて明治に身分制度が廃止され、学問で世に出られるのはよいと思いました。しかし、日本全体が貧しく誰にでもチャンスが巡ったのではなく、また学歴社会はここから始まったわけで考えさせられます。
 『日本教育小史』を読んで、今のよいとは言えない社会状況は「なるべくして」そう感じました。問題が大きすぎるけれど時にはこうした本、幕末維新から昭和まで教育の歴史を読んで、来た道をふりかえってみませんか。ここから行く道の手がかりが得られるかもしれません。

 知人が中学校の先生になりました。その彼女に誰もが「大変ね。気力体力とも大丈夫?」まるで荒野に旅立つ人に言うよう。先だって彼女に会いました。どう?
「一年生の担任。みーんな可愛いの」と笑顔でした。教育の荒れがいわれて久しいですが、皆がみな真っ暗でもないようです。          

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2012年1月 8日 (日)

江戸の地理学者・箕作省吾(岩手県水沢)

 岩手・宮城・福島の人物に目を向け立派な人物に出会う楽しみをもらっている。自分は東京生まれだが転校2度、結婚後も2度の引越で「人生至る所青山あり」だ。強いて故郷を引っ張り出せば隅田公園の盆踊り東京音頭か。そんなようで「故郷」に実感がないが、盆暮れの混雑にもかかわらず帰郷する人々を見ると「故郷=いいもの」に思えてくる。そしてそれは本当のよう。東日本大震災で辛い状況にある人たちの絆に教えられた。

 3・11後、日本は海外の目を集め助けも得ている。現在、外国は地図では遠くても遙かではない。しかし鎖国日本において外国は遠い異域だ。その時代に立派な世界地図を発表、外国事情を紹介したのが陸奥国水沢生まれ箕作省吾(1821文政4~46弘化3)である。

 父は仙台藩士佐々木氏であるが疑獄事件に連座し揚り屋で世を去った。次いで母も喪い遺された少年、佐々木省吾は蘭方医・坂野長安のもとに寄寓。坂野は学塾を開いており一時、髙野長英も教えを受けた。
 勉学に励んだ省吾はやがて江戸、京都に遊学、蘭学を志し箕作阮甫に入門する。その勉強ぶりは
「箕作省吾ほど、異常といっていいほどひたむな研究者に遇ったことはない」(『箕作省吾』編著半谷次郎)というほどで、阮甫に認められ養子となる。

 1844弘化元年、阮甫の娘と結婚、この年はフランス船やオランダの軍艦が来港などで外患こもごも至る有様であった。これを憂えた省吾は、優れた世界地図「新製輿地全図」を発表し世界の形勢を知らしめようとした。同年、髙野長英は脱獄し逃亡生活をはじめる。

 1845弘化2年、『坤輿図識』『坤輿図識補抄』を刊行。
  注: 坤輿/輿地: 大地、地球。  輿地図/輿図: 領土、国土
 これらの著作は福沢諭吉の『西洋事情』以前のこの種の名著といわれ、鍋島斉正井伊直弼らが本書を外交の指針とし、また吉田松陰桂太郎が大志を立てたことでも有名(『コンサイス日本人名辞典』三省堂)。

 箕作省吾は地図のほか国名目録「亜細亜(アジア)誌総括」や「阿弗利加(アフリカ)誌目録」ほかに「閣竜(コロンブス)小伝」「亜理斯多得列氏(アリストテレス)」「那波列翁(ナポレオン)」など著している。
 おことわり:武士が読んだコロンブスやナポレオンはどのような人物像か興味あるが、漢文なので筆者には読めず列記するのみ、至りません。
  
 箕作省吾は各地を遍歴し西洋地理書をあさり、地理学に興味を持ち研究を重ねたが、病に勝てず25歳(or26歳/津山洋学資料館)で死去。早すぎる死であるが、一子遺した。

 その子、箕作麟祥は祖父阮甫(蕃書調所教授)に洋学を学び、祖父を継いで幕臣になり外国奉行翻訳方につとめる。
 1867慶応3年、パリ万国博覧会派遣使節・徳川昭武一行に従いフランス留学、帰国後新政府に招かれ活躍する。訳書『万国政体論』『仏蘭西法律書』。
ちなみに水沢市(現・奥州市水沢区)は、髙野長英の他にも後藤新平斉藤実など人材を輩出している。

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2012年1月 3日 (火)

和算を教えた藩校・養賢堂(仙台藩)&山川健次郎の九九

 年始めだが受験生は正月どころではないだろう。また中高生は勉強ガンバルゾ!と気合いをいれてるかな。それともゲームに時間をとられて、なかなか机に向かえない?
 ところで昔は、誰彼なく進んで学問所に通ったのだろうか。江戸時代諸藩が設立した藩士の教育機関、藩学(藩校/藩学校)は約280校。岡山藩花畠教場会津藩日新館など寛永(1624~43)ころに創設されたものが最も古いという。
 教育内容は文武両道の理想から武術と漢学・習字などに限られていたが、幕末には洋学(蘭学)・算術・天文学・兵学など拡大していった。

 日新館の秀才「会津の三郎たち」は戊辰戦争のさなか、会津に脱走して来て戦っていた沼間守一に英語を学ぶよう命じられるも果たせなかった。しかし四朗と健次郎はのちに沼間の塾で学ぶ。ともあれ3人とも明治初期にアメリカ留学する。
 柴四朗(東海散士)は、はじめハーバード大学のちペンシルバニア大学を卒業。
 赤羽四郎は、エール大学に留学、のちに外務省入り。ドイツ・ロシア・アメリカ公使館勤務、清国特命全権公使のとき、柴五郎大活躍の北清事変に遭遇する
 山川健次郎もエール大学で物理学を専攻、帰国後東大で教える。高田早苗らに物理学の初歩を教えた。のち東大総長、貴族院議員。物理専攻の健次郎だが、
「十六歳で初めて東京で九九の呼び声を習った」。
 武士に算術のようなものはいらないと考えられていたのだ。

 算数が百姓町人のものと考えられていた時代に *和算を正課に加えていた藩校があった。
 仙台藩の養賢堂で明治維新まで続いた学問所。大学・中庸・論語など漢学のほかに新蔭流などの剣技・種田流など槍術・八条流の馬術など教えた。宮城県庁議会棟の前に「養賢堂跡碑」がある(『郷土資料辞典・宮城県』ふるさとの文化遺産)。碑は3・11大震災で無事だったでしょうか。 

 *和算: わが国古来の数学で関孝和ら俊才を生み独自の発達を示した。しかし自然科学、物理学の発展、また記述に不便な点があったので、明治になって輸入された西洋数学に圧倒された。現在では、そろばん算法のみ残る。吉田流、亀井流、関流などあるが、養賢堂は何流だったのだろう。

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