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2012年2月

2012年2月24日 (金)

2.26事件、斎藤実(岩手県水沢)

 先に柳宗悦を記したが、柳は朝鮮民族美術館開設にあたって
―――斎藤実朝鮮総督を訪れ、美術館建物として景福宮内の観豊楼ほかの建物を総督府から借用
―――ソウルの「李朝陶磁展」に斎藤実が訪れ寄付をしたなどで柳を[文化統治」に関わった、また利用されたのではないかと批判する議論があった。
 その議論はおいて斎藤実は宗悦の父、柳楢悦海軍少将の後輩であり、妹の夫は総督府官吏であったから、柳の行動は大目に見られ展覧会場の借用にあたって優遇されたかもしれない(『宗悦と朝鮮』)。

 斎藤実の名を覚えたのは、明治陸軍の財布を握り男爵にまで昇進した野田豁通(熊本)の縁から。野田は書生の面倒をよく見、後進の少年に倒幕派、佐幕派といった差別をしなかった。野田の世話になった者は斎藤実と同郷の後藤新平(南満州鉄道初代総裁)、柴五郎らが知られる。

 斎藤実(1858安政5~1930昭和5)は水沢藩士小姓頭・岩手県警察官斎藤耕平の長男。海軍兵学校6期。アメリカ公使館付武官の後、海軍参謀本部、侍従武官から秋津洲・厳島などの艦長をした後、海軍次官兼軍務局長と軍政畑を歩き西園寺内閣のとき海相に就任した。この頃、イギリス駐在武官として赴任する柴五郎とパーティで同席

―――(1906明治39年5月)林董外相公邸で催された午餐会。その日の出席者はイギリスの初代駐日大使マクドナルド、北京公使勤務を終えて帰国する途中に日本に立ち寄ったアーネスト・サトウ、ロンドン大使として赴任する小村寿太郎、寺内正毅陸相、斉藤実海相ほか日英の人々。

 斎藤は内閣五代にわたり海相をつとめ日露戦後の海軍の軍備拡充を推進、大将に昇進した。1907明治40年男爵、1919大正8年朝鮮総督。斎藤が赴任したのは三・一独立運動の盛んな朝鮮で、馬車が南大門にさしかかったとき朝鮮人から爆弾を投げつけられたが無事だった。斎藤は武断政治から文化政治へ転換を図ったが治安体制は整備強化した。

 日本国内では1932昭和7年5月15日海軍青年将校等による政府転覆事件がおきた。官邸に押し入った海軍青年将校と陸軍士官学校の生徒らは「話せばわかる」という犬養首相に「問答無用」と発砲したのである。この5.15事件により首相は斎藤実にかわった。斎藤は前朝鮮総督・海軍大将、政党政治家の犬養毅首相の死で政党内閣の時代はわずか8年で終わってしまった。
 斉藤首相は挙国一致内閣をつくり、満州国の承認を急いだが、政党・軍部・官僚三者の均衡をはかる政権維持はうまくゆかなかった。また、疑獄事件(帝人事件)に巻き込まれ大蔵官僚ら多くの逮捕者をだし内閣総辞職に至る。

 内大臣となった翌1922昭和11年、2.26事件がおこり「君側の奸」とされ暗殺された。
 2月26日未明、陸軍の皇道派将校によるクーデターで、青年将校らは「昭和維新」を唱え1400人を率い斉藤実内大臣や高橋蔵相らを殺害したのである。

 事件から71年を過ぎた2月26日、岩手県水沢の斉藤実記念館でアメリカ映画「浮かれ姫君」が上映された。斉藤首相は25日に葉山の別荘に行く予定だったがグルー・アメリカ大使に招かれ映画を鑑賞、帰宅が遅れ別荘行きをのばし難にあったという。
 ちなみに映画は公爵令嬢と傭兵隊長の恋物語。修行時代貧しかった斉藤は海軍の元勲令嬢と結婚しているので、つい身分違いの恋物語に見入って帰りが遅くなったのだろうか(毎日新聞/雑記帳)。

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2012年2月19日 (日)

『柳宗悦と朝鮮』

 柳宗悦に興味をもったのは『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』執筆中だった。
 近代史にさわると教科書では習わない「歴史」にぶつかる。記述中の人物がそれらに直接関わっていれば無論だが、そうでなくても物事には明と暗がある。
 たとえば、大日本帝国と中国・朝鮮との関係がそうだ。書きたくないが書かない訳にいかず、時どき筆が止まった。そんな折しも柳宗悦を知り、このような人物もいたのかと感動した。
 それにしても今日、日本のみならずアジアに広がる韓流ブームを考えると隔世の感あり、歴史の波動を感じる。

  
    朝鮮万歳事件(三・一運動)

 朝鮮では併合以前から反日義兵闘争が続けられていたが、ロシア革命の成功などで在外朝鮮人の間で独立運動が広がり、パリ講和会議にも独立請願書を送った。ウィルソン大統領の民族自決宣言に鼓舞され、アメリカなど列強の援助によって独立が実現されると期待したのである。
 独立運動のデモが計画され京城・平壌などで独立宣言書が発表された。示威運動は朝鮮全土に拡大し、熱狂的に「朝鮮独立万歳」が叫ばれた。1919大正8年3月1日、200万の朝鮮人が全道618ヶ所で官庁を襲撃した。独立万歳事件(己未(きび)事件)である。日本は朝鮮での強圧的な政治姿勢を改めざるをえず、朝鮮総督武官制を台湾と同じように文武どちらからも任命できるように改正した。(中略)
 朝鮮の人々を圧迫する日本にあって、独立が彼らの理想となるのは必然の結果であろう」と朝鮮の人情を愛し同情をよせる人物がいた。柳宗悦である。
 柳は李朝朝鮮の白磁の美に感動したことから、朝鮮をさげすむ時代風潮のなかで朝鮮民族に敬愛の念を抱くようになった。柳は民芸運動創始者・宗教哲学者として知られるが、
「朝鮮人を想ふ」(読売)など時局の問題にも筆をとり、三・一独立運動などに対する日本政府の政策を批判した。   (『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より)

  『柳宗悦と朝鮮』韓永大・明石書店)は日本が圧迫している朝鮮の芸術を敬愛し民族の力になろうとした柳宗悦その人をたどり、副題の「自由と芸術への献身」を描いて全体像に迫る。
 柳宗悦の父楢悦と勝海舟の縁は宗悦にも深く、また母の弟は講道館創設で知られる嘉納治五郎。宗悦はこの二人の先達から多く学び影響を受けた。
 著者は岩手県宮古市出身、美術史学会員。柳の愛した芸術への造詣が深く、柳が見たり触れたりした朝鮮の白磁や石窟の仏像などよく伝えている。その記述があって柳の朝鮮の芸術を愛する心が分かり、宗悦の「朝鮮民族美術館」(所蔵品はのち韓国国立博物館に)設立に至る思い、そして身命を賭して朝鮮を弁護するも信念をくみとれる。

  ―――私は久しい間、朝鮮の芸術に対し心からの敬念と親密の情とを抱いているのである。私は貴方がたの祖先の芸術ほど、私に心を打ち明けてくれた芸術を、他に持たないのである・・・・・・思えば私が朝鮮とその民族とに、抑え得ない愛情を感じたのは、その芸術からの衝動に因るのであった。芸術の美はいつも国境をこえる。
 ―――不幸にも人々は貴方がたを朋友として信じることを忘れている。彼らはただ征服者の誇りで貴方がたを卑しんでいる・・・・・・朝鮮代々の民族が、その芸術において何を求めているかを知り得たなら、おそらく今日の態度は一変されるにちがいない。
   (『民藝四十年』柳宗悦・岩波文庫「朝鮮の友に送る書」より) 

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2012年2月14日 (火)

続・柳楢悦「長崎海軍伝習所」「東京数学会社」

 
 1853嘉永6年、柳楢悦は長崎海軍伝習所以来の勝海舟のもと幕府海軍による津海岸-伊勢湾沿岸の測量に参加した。この年はペリーが軍艦4隻をひきいて神奈川・浦賀に、またロシアのプチャーチンも軍艦をひきいて長崎に来港した年でもある。
 柳楢悦(方二郎)が学んだオランダ海軍伝習は明治の科学技術近代化の核となったが、楢悦もその一角を担った。藤井哲博『長崎海軍伝習所』(十九世紀東西文化の接点・中公新書)は、幕府や諸藩から派遣された伝習生たちがオランダ教師団との文化ギャップをいかに乗り越え、咸臨丸の遠洋航海に漕ぎつけたか。伝習生の顔ぶれ、教科、伝習所の日々の生活をつぶさに写しだしている。
 『柳宗悦と朝鮮』では海軍に於ける柳楢悦と勝海舟の縁を強調。それもあろうが『長崎海軍伝習所』によると、何より楢悦の能力・学問が海軍での地位を高めたといえそう。以下、同書より。

 
 1883明治16年頃からイギリス式を仕込まれた海軍兵学校の士官の方が伝習所出身者より優勢になってきた。そこで海軍は1887明治20年「士官学術検査」で旧士官をふるいにかけ学芸・技術が不足する者をまとめて淘汰した。柳楢悦はむろん合格で、伝習所出身ながら榎本武揚川村純義らと同じくのち将官となった。
 柳楢悦は水路係、水路寮、水路局、水路部と水路畑を歩き、外人の力を借りることなく、日本の水路事業の基礎を確立した学者肌の提督である。水路図誌は軍艦はもとより商船の航行にとっても不可欠で、その初めから柳が管掌していた。

 また、水路業務の一環として天文・気象観測の必要性から柳は1874明治7年東京・飯倉に*海軍気象台を完成させた。明治17年には自らイギリス・グリニッジ王立天文台ほかヨーロッパの天文台を見てまわった。帰国後、英国製自記験風儀、ドイツ製大子午儀などを入れ、観象台の能力を高めた。

 海軍伝習所には柳と同じ和算家出身のもと幕臣の小野友五郎がいた。ともに学問もあり測量など実務にもすぐれていた。二人は*「東京数学社」に関わり、柳は社長をつとめた事もあり、小野も創立以来の社員となって明治の数学に指導的役割を果たした。

 
 *東京数学会社: 明治前期の数学専門の学会。神田孝平柳楢悦岡本則録らが1887明治10年、和洋算家を集め設立。菊池大麓(父は箕作秋坪)・長沢亀之助らも参加した。機関誌は問題集。のち東京数学物理学会となる。

 柳楢悦は1891明治24年59歳没。この年、楢悦の三男で民芸運動創始者として知られる柳宗悦はわずか2歳であった。

 ☆☆海軍気象台について参考になるコメントをいただきました。興味のある方は下記コメントをどうぞ。

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2012年2月 9日 (木)

房総湾岸警備の会津藩・富津

 今現在、私たちは思っている以上にたいへんな時代にいるような気がする。原発事故によりエネルギーに関することに敏感になっていて「富津火力発電所1基の供給停止・機器損傷」(2012.2.8毎日新聞)の記事を見ても不安感がただよう。訳もなく心配しても仕方ないのに大丈夫だろうかと思う。

 千葉県富津には会津藩の跡を訪ねて富津陣屋砲台があるのは知ってたが火力発電所は知らなかった。自分にとって富津といえば黒船来航・海岸防備である。なにしろ5kmも細長くのびた砂嘴(サシ)と三浦半島観音崎との間は10km足らずしかなく、目に見える距離だ。横浜まで見える富津の展望台に立つと“黒船江戸(東京)湾侵入!”すぐさま和船を出し、三浦半島に漕ぎ急いだと想像できる。その幕末の不穏・不安と現代の不安感と較べようがないが、昔も今も安心な暮らしはいつなんだろう。

                                  
 
 ペリーが来る前にもアメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に現れ通商を求め幕府はこれを拒絶した。そのいっぽう海岸防備を厳重にし、それまで武州忍藩が守っていた房総を忍と会津の二藩、相模は川越に加えて彦根藩も担当した。忍(大房崎~洲崎)・会津(富津岬~竹岡)・川越(走水~観音崎)・彦根(久里浜~三崎)いわゆる「御固四家」による防備開始。会津藩は人員はもちろん大小砲弾薬、兵器を房総の陣屋に送った。

 房総半島の富津砲台はJR青堀駅からバスで富津岬、松林を抜けたところに史跡として残る。東京湾フェリーで35分、千葉・富津と神奈川・観音崎を結ぶ湾口は、黒船を入れてはならない重要な防衛線である。
 会津藩は土塁を増築し砲を据付け、木更津の海岸に哨兵廠と武庫をつくり、江川太郎左衛門のヘキザン大砲、当時としては超弩級を安房の砲台に備えた。
 富津陣屋は敷地の広さは約7800坪、周囲を濠および土手で囲まれていた。現地に行ってみると住宅地に隣接、松林が僅かに面影をとどめている。陣屋の西南には鉄砲場とよばれる鉄砲の練習所がある。
 陣屋に赴任する家臣の多くは家族をともなっていたから、遺構からは女性の化粧道具や子どもの玩具、皿小鉢、土鍋した。東海散士・柴四朗はこの陣屋で生まれた。

 海防の先端で四朗が生まれた半年後、1853嘉永6年6月ペリー艦隊の一隻ミシシッピー号が江戸湾入り口、水平線の向うから煙をはいてずんずん侵入、防衛線の富津・観音崎ラインを越えた!会津藩はすぐさま久里浜に向け番船をくりだした。
  早鐘がなり注進の馬は江戸へ疾駆した。幕府は海外情報を得ていたものの、いざペリー艦隊がやってくると上を下への大騒ぎ。老中・若年寄はじめ諸役人が夜中に総登城、江戸府内にも動員令をだした。
 *和船・番線: ペリー久里浜来航の図」などでみかける黒船を取り囲む小船。
     (『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より
 

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2012年2月 3日 (金)

釜石港の水深図・柳楢悦(やなぎならよし)

 “日本初の水深図発見
 「海上保安庁の東京都内の施設から、日本初の海図の基になった明治初頭の岩手県釜石港の水深図など歴史的資料が多く見つかった」
 日本で初めてと見られる釜石港の水深図は「日本海図の父」とされる旧海軍水路局長の柳楢悦(ならよし)らが1871(明治4)年に測量。この水深図を基に日本初の海図が刊行された(毎日新聞2012.1.23夕刊)。

 今日は節分だが春は遠い。日本各地とも寒さ厳しく大雪に悩まされ、暮らしが困難になった地域さえある。日本初の水深図測量の港、釜石も大雪に見舞われただろうか。
 140年前、その地を測量した柳楢悦海軍少将の名に柳宗悦と縁がありそうと思ったらやっぱり、民芸運動創始者・柳宗悦(むねよし)は彼の三男。

 柳楢悦は1832天保3年~1891明治24年。水軍で有名な藤堂高虎を藩祖とする旧津藩士長崎海軍伝習所で学び、のち日本海軍省水路局の初代局長となった。
 勝海舟とは長崎海軍伝習所以来の師弟で、明治新政府でもその関係は続いた。楢悦の妻勝子の実家は「菊正宗」の蔵元、仲人は上司の海軍卿・勝海舟であった。沿岸測量図を多く残し、船舶の水路海図作成に先駆的役割を果たし、伊能忠敬にも並び称せられたという(『柳宗悦と朝鮮』)。

 『長崎海軍伝習所の日々』(カッテンディーケ・東洋文庫)を見てみたが、勝海舟など役職者の名しかなく柳楢悦の名は見当たらなかった。ただ、機関などの技術者を熱心ですぐれていると褒めていて、楢悦もその一人だったろう。

 柳楢悦は数学の大家でもあり『円理算要』(萩原禎助1878明治11年小倉文庫)に序をつけている。
   円理:和算の一算法で関孝和らに円の面積、球の体積その他一般の曲線の占める面積の計算を可能にした(広辞苑)。
 また和歌の道にも通じ、文学的才能があり子の宗悦に受け継がれている。早稲田大学図書館に『山陰落栗』(やまかげのおちぐり)という市島謙吉・書写本がある。その一頁に
「海軍少将柳楢悦伊勢の人 海産物に精通す 御木本真珠培養に少将負ふ・・・・・・先年 少将の海産に関する随筆を出版して頒布す 是れ其の原稿也・・・・・・」
 ちなみに市島謙吉は晩年、随筆に親しみ10数巻あり。新潟県、号・春城大隈重信の下に改進党に入り、衆院議員のち「読売新聞」主筆、東京専門学校(早大)創設に関わり発展につくした。また、国書刊行会をおこし膨大な未刊の珍籍を続刊した。『政治言論』ほか著作あり。
 
 柳楢悦が軍人と知って子の柳宗悦が朝鮮が日本の植民地であった時代に「朝鮮人を想ふ」を発表、以来、朝鮮の自由と独立を主張したことの意義、反骨をあらためて考えさせられた。次は韓永大柳宗悦と朝鮮―――自由と芸術への献身』を読んで柳宗悦に触れてみたい。

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