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2012年4月

2012年4月27日 (金)

明治:野球は巾着切りのゲーム?

 明治生まれの父は浅草育ち、麻雀もすれば大学野球を観に球場へいったりの楽しみをもっていた。もちろんお酒も。子どもに厳しい父だったが、巨人ファンでドームになる前の後楽園球場に家族をつれて行ってくれた。
 私の結婚相手も巨人ファンだったので、婿舅仲良く雀卓を囲み、時にはみんで球場へ。それにしても夫は長野県人なのになぜ巨人贔屓?すると、ラジオ中継が巨人戦ばかりだったという。なるほど、地方にも巨人ファンが多いのはそのせいかな。
 それからウン十年、2012年シーズン開幕するも地上波で野球中継は滅多にない。そのうえ、巨人ときたらイメージも成績もがた落ち。なのにスカパーで巨人戦をみてる。
 海の向こうメジャーリーグではダルビッシュ黒田投手が投げ合いカッコイイ。それに引き替え巨人は・・・・・・好きな事して生活してるんでしょ!頼みますよ。他所から4番獲るな。若手を育てよ、など文句は尽きない。でもファンやめられない。

 ファンといえば松井秀喜選手も好き。シーズン始まったのに所属が決まってなく残念。でもプレーする日は遠くない。マイナー契約でもメジャーにあがればいいし、上がれる。
 それにしてもメジャーリーグも身近になったものだ。アメリカ育ちの野球が日本に入ってきたのはいつだろう。年表をみるともう140年前にもなる。ふり返ってみよう。

近代日本総合年表』(岩波書店)

1873明治6年 開成学校米人教師ウィルソン、初めて野球を紹介。
1877明治10年9月24日 西郷隆盛城山で自刃、西南戦争終わる。
        この年、平岡凞、米国より帰国し野球の指導を始める。
   1878年、ベールボールチーム・新橋クラブを組織。 1882年、野球場新設。
1895明治28年2月19日 清国、(日清戦争)講和全権に李鴻章を任命の旨、米公使をへて通告。
         2月22日 中馬庚base ballを野球と訳す(従来、塁球・庭球・底球など)。野球の名付け親は正岡子規だとばかり思っていた。

 野球人気を『ニュースで追う――明治日本発掘』(全9巻・河出書房新社)より。

 * 一高野球部外国人チームに大勝(明治29.5.25 読売): 天下に敵なきより闘技を横浜の外人に挑み・・・・・・横浜公園においてヨコハマ連合倶楽部に大勝利。
 * 待ち焦がれる早慶戦、観衆2万/初戦は慶応に凱歌(36.11.22 時事)
 * 早大野球部がアメリカ遠征(38.6.28 国民新聞)
 * 手に汗握る観戦記・鉄骨童子(39.4.10 東京日日): “盛んなものは目下の野球界なるかな、分けても近来の大合戦は早慶試合”ではじまる観戦記(名調子で面白いが長いので割愛)。その終わりは“たちまちドウと挙がる早軍の勝ち鬨。早軍の狂喜は実にその極に達して、乱軍の光景は惨として譬うるに物がなかった。殺気は天に漲った”。
 * 新渡戸稲造が野球熱批判、野球は巾着切りのゲーム?(44.8.29 東京朝日): <新渡戸一高校長談>野球という競技は悪く言えば、相手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、塁を盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである(中略)ここに最も憂うべきことは、私立は勿論の事、官公立の学校といえども、選手の試験に手加減することがあり得ることである(後略)
 * 野球は害毒のキャンペーンに天狗倶楽部反発(44.9.2 読売): 天狗倶楽部代表は押川春浪(明治の冒険小説家・早大)・中沢臨川(明治・大正期の評論家・東大)。

新渡戸稲造 1862文久2年~1933昭和8年: 教育家、農学博士、札幌農学校卒。英文の著書『武士道』は有名。

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2012年4月21日 (土)

日清戦争と瓜生岩(福島県)

 “国際貢献 緒方氏の功績たたえる”(毎日新聞)を読んだ。
 国連高等弁務官を務め、今年3月末で国際協力機構(JICA)理事長を退任された緒方貞子氏を記念する式典が開かれたというもの。緒方さんの活躍を知ってからずっと尊敬している。人間的にも女性としても素敵だなあとミーハー的憧れも。

 現代はまだ十分とは言えないまでも緒方さんのように公の場で活躍する女性がいるし、女性作家をわざわざ女流作家と呼んだりもしない。しかし昔をふり返ると、明治・大正といった近い時代でも、女性が活躍する場は限られ狭かった。
 試しに各県史の索引から女性を探してみると、なかなか見当たらない。才能ある女子が居なかったとは思えない。前に出られなかったのだ。それでも行動をおこし名を残す女性はいた。
 たとえば幕末・明治期の社会事業家、瓜生 岩1829~27(文政12~明治30)もその一人。銅像が東京浅草、雷門から仲見世を観音様に向かう途中にあり、見たことがある。

 日清戦争がはじまると(1894明治27)、福島県熱塩村の瓜生岩は上京して、サツマイモ水飴を作って売り、その利益を傷病兵救助の資金にした。
 岩はすでに明治初期に東京深川の救養会所を視察し救済事業について実習。帰郷して福島県内に育児院済世病院を創設するなど社会に尽くしていた。明治も半ばを過ぎて瓜生のような女性社会事業家がでてきたのだ。

 その他、『小公子』の訳で知られる若松賤子1864~96(福島県・夫は岩本善治)、樋口一葉1872~96(明治5~29)など女流作家も登場してきた。
 一葉が「たけくらべ」を発表したのは日清戦争の終わり頃でまだ戦いは続いていた。女性が作家として自立するのが難しい時代、一葉は男性社会の文壇へ出た。幸田露伴などの作家たち、世間にもやっと認められるようになった。しかし、病のため短い生涯を閉じた。まだまだ女性が自立して生き抜くのはたいへんな時代だったのだ。
                        (『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より)

 ちなみに、瓜生岩の銅像制作は「有栖川宮像」などでも知られる大熊氏広、建設委員長は渋沢栄一。大熊作品のひな型や展示を出身地の川口市鳩ヶ谷郷土資料館で見ることができる。
 当ブログ200912.04、[大村益次郎像制作者・大熊氏広略伝]。

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2012年4月17日 (火)

猪苗代水力電気株式会社(福島県)

 100年前の『東京社会字彙』(1903大正2年)には明治・大正の人、学校、事業から東京の古戦場(一木原/今の赤坂)まであり、“東北”を探してみたら「猪苗代水力電気株式会社」(麹町区有楽町一ノ一)があった。

 猪苗代水力電気株式会社: 明治四四年十月設立に係る、総株数四十二万株にして資本金二千百万円内五百二十五万円を払い込む、最近年五歩の配当をなせり。社長千石貢、専務取締役白石直治、取締役宮川良平外六名、監査役朝田又七外二名の諸氏とす。

 猪苗代の地名から福島県人が主と思ったが、社長・専務とも高知出身、監査役は愛知、宮川は豊川良平の間違いではないか、そうなら彼も高知である。
  社長の千石貢(1857安政4~1931昭和6)、父は土佐藩士。東大卒。工部省、欧米視察、逓信省、鉄道局と鉄道の発展につくし実業界に入る。
 筑豊、九州鉄道各社長、猪苗代水力電気、日本窒素肥料などの重役になり財をなす。高知から衆議院議員に当選、第7代土木学会会長、鉄道大臣(雷大臣と)、南満州鉄道総裁として大陸経営にあたった。

  専務の白石直治(1857安政4~1919大正8)も東大卒、アメリカ留学。鉄道、橋梁会社、ベルリン工業大学、帰国後東大教授。
のち民間へ、関西鉄道、猪苗代水力電氣、北九州・若松築港に関与、高知県から衆議院議員に当選、第5代土木学会会長就任するも3ヶ月で死亡。 ちなみに次の会長、廣井勇(1862文久2~1928昭和3)も土佐。札幌農学校卒、開拓使、工部省をへて日本鉄道会社に入り東北線建設にあたった。

 社長ほか監査朝田又七も横浜船渠(ドック)社長、貴族院議員と、ここまで福島県人を見ない。どうして?と思ったら、電源開発は富国強兵の観点からも重要政策として促進された一大事業。地方でまかなえる規模ではなかったのだ。

 猪苗代水力電気会社設立の1911明治44年、電気事業法が施行されると、電気事業者の公益性が確立。同時に発電用水利権土地立入権山林伐採権などあらゆる権利が保障された。
 これによりすでに営業中の電灯会社、火力発電所など各地の電力会社は、競って大規模な水力発電所の建設を行った(日本発送電/ウィキペデアwikipedea――出典『会社四季報昭和26年第2集』p56)。

――― 今はやりのIPP(民間発電事業)ともいうべき事業にも久彌は情熱を注いだ。東京電灯会社への売電を目的として、猪苗代水力電気株式会社を設立、全体設計を三菱神戸造船所電機工場のエンジニアが担当した。水車はスエーデン製、発電機はイギリス製、変電設備はアメリカ製
(mitsubishi.com 岩崎久彌物語)。
 1914(大正3)年、猪苗代水力電気は福島県猪苗代第一発電所から東京都北区田端まで約225km区間におよぶ長距離高圧送電に成功した。

 明治・大正の昔から東京は福島から送られた電気で暮らしているのだ。今現在、自分たちは使ってない電気を東京圏へ送電する原発での大事故により、故郷に住めない福島県人が多くいる。何をどうしてよいか、せめて忘れず思い遣らなければ。
 ブログ紹介。一つはその思いに共感、一つは発電所写真が参考に。

「つぶやき古道(こみち)」
http://iwasironokuni.cocolog-nifty.com/komiti/2011/03/post.html
“大正4年、福島県の猪苗代湖から始まった”

エレクトリカル・パレード(28)」
http://island.geocities.jp/mayob_e_parade/ep28.html
 福島県は東北電力の営業エリアですが、猪苗代湖周辺や会津地域には東京電力の水力発電所が 15ヶ所あり、会津若松市にある東京電力の電力所が管理・保守。 

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2012年4月12日 (木)

山東直砥(一郎)の英語辞書

 新国立美術館の案内をもらい友人と乃木坂駅で待ち合わせた。駅の案内板に青山霊園とあったので、先にそちらへ向かうとすぐそこだった。しかも桜が満開だ。これは「よいときに来た」昔の乙女二人、桜につられて足の向くまま園内を巡った。

 大久保利通野津道貫といった政治家・軍人、外人墓地には御雇外国人宣教師、数え上げればキリがないほど著名人が葬られている。“明治”が眠っているのだ。
 それにしても三島通庸の巨大な墓には驚かされた。「土木県令、民権弾圧のイメージだけどお墓すごいね」二人して見上げると墓石が斜めだ。方角?それとも地震?

Photo  歩くうち「たしか山東の墓が・・・・」そこで管理事務所を訪ねると地図をもらえた。見れば、三島の墓から遠くない区画、直に見つかった。なかなか立派で山東昭子参議院議員の曾祖父というのが、なるほど。

 山東一郎(山東直砥1839天保10年~1907明治37年)
に興味をもっている。
明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を執筆しているとき、こんな面白い人物がいたのかと思わず略伝を載せたほどである。もし興味を抱いたら、“「明治の兄弟」p90第4章 英語塾と山東一郎(直砥)”をごらんください。
 当ブログでも何度か――左の検索[ ]をどうぞ。次は昔の人名辞典から。

  直砥: 紀伊の人、三栗と号す。*露語に通ず。維新の初め開拓使判官となり、*10年陸奥宗光に党して、政府を覆さんと謀る
 (『日本人名辞典』1914大正3年 文学博士芳賀矢一編・思文閣

  ロシア語:ニコライ堂でおなじみ宣教師ニコライに北海道で教わる。
  *明治10年:西南戦争の年。明治新政府を倒す計画がもれて陸奥は入獄、山東は逃れる。陸奥はかつて坂本龍馬の海援隊に加わる。その陸奥が許され神奈川県令になると、山東も従い神奈川県参事として働いた。二人とも和歌山県出身。

Photo_4    以前は山東が編纂した英語辞書をよく知らなかった。それを法政大学図書館でみることができた。漢和辞典に英語を挿記したもので
山東直砥増補新撰山東玉編英語挿入』(1878明治11年)>1084頁にもなりかなり分厚い。

 ちなみに、英和辞典発達史―――明治学院大学図書館・デジタルアーカイブスで知ることができる。たとえば「ヘボン辞書の特徴」「ヘボン式ローマ字への道」など興味深い。

追記: NHKで吉里吉里中学の生徒が郷土芸能・虎舞を披露する様が放映されていた。災害復興支援にきてくれた明治学院大学の学生に感謝の舞。衣装をつけて踊る中学生はもちろん見入る明治学院生も元気をもらった事でしょう。テレビを見た私たちもね。2012.4.13

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2012年4月 6日 (金)

鉄道院参事・佐々木安五郎(盛岡・仙台)

 漢字は意味が伝わりやすく便利だが同音異義語がある。点訳をしていた頃、古い辞書が役に立つと点訳の先輩に教えられた。
点字に点漢字もあるが殆どひらがなで表現されるから「分かち」と「読み」が大切だ。古い事典は助かるし歴史好きには時代が感じられていい。

 たとえば1913大正2年発行『東京社会字彙』復刻版・湘南堂書店・昭和62年(字彙ジイ。中国・明代。はじめて214部首をたて、各部のすべての字を筆画数順に)。
 東京在住の人物の生年、出身藩、経歴、軍人なら中将とか位、爵位や勲功、現住所に電話番号も。
故人に限らないので没年をみようと手元の人名事典をひくも掲載無しが多い。取捨選択の変化もあろうし、時がたつと埋もれてしまうことがあるようだ。表題の佐々木安五郎はどうだろう。

 佐々木を選んだのは、“待ちに待った再開”毎日新聞―――大震災で線路が流された岩手県沿岸の三陸鉄道、まだ全部は復旧してないが
陸中野田--田野畑間(北リアス線)が開通。 これを読んで、鉄道・岩手県つながりで「字彙」にあたってみると、佐々木安五郎という人がいたので下記に。エピソードがなく一見無味乾燥だが鉄道の歴史が見て取れる。

 佐々木安五郎君 君は鉄道院参事なり。
岩手県の人1879明治十一年十月二日を以て盛岡市生姜町に生る。盛岡尋常中学校仙台第二高等学校、東京帝国大学、1904明治37年政治学科を卒業し鉄道書記となる。
 文官高等試験に及第し爾来、鉄道事務官北海道鉄道作業局出張所庶務課長、帝国鉄道庁主事、鉄道院参事にのぼり総裁官房文書課に勤務し鉄道博物館掛を兼務。
1913大正2年、鉄道運輸規程改正調査委員。
正六位勲六等高等官四等たり(本郷駒込区西方町10に8号)

 
 鉄道は官営で新橋~横浜が開通したのがはじまりだが、私鉄援助も行い私鉄ブームが起こった。
 1892明治25年、鉄道会議(鉄道線路の工事・公債などの諮問機関)。第1回議長は川上操六軍参謀次長、軍部の発言が強かった。1906明治39年、軍事上の必要と私鉄の経営難もあり鉄道公有法を公布し、鉄道を国有化した。
 1908明治41年鉄道院が設置され、鉄道を管轄した。初代総裁は後藤新平、佐々木は同じ岩手出身の後藤の下で仕事をしたのだ。このとき佐々木29歳、後藤は51歳である。二人の交際や佐々木の人物像など今、手がかりはないが名前を覚えたから、気づいたら拾う。

 ちなみに、『コンサイス日本人名辞典』(1993年・三省堂)佐々木安五郎(1872明治5~1934昭和9)は山口県の人、明治・大正期の政治家。
 二人の佐々木安五郎、活躍の場も違うから同姓同名で困りはしなかっただろう。

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2012年4月 1日 (日)

ホイットマン・東海散士・ポウ(吉川幸次郎)

 吉川幸次郎エッセイ集『他山石語』(1955昭和30年・毎日新聞社)を読んだ。
若いころ吉川の『新唐詩選』李白杜甫に親しみ「国破れて山河あり」など暗唱した。又よくある友情の漢詩に憧れたが今は、真の友情は少なく貴重だったから謳われたのかなとも思う。
 吉川幸次郎(1904明治37~1980昭和55)といえば中国古典の大学者であるが、平易ですっきりした訳で漢詩の世界を拡げてくれた。
 『他山石語』で知ったが守備範囲が広く、ホイットマン東海散士ポウが並んでいても不思議でない。以下、「詩人故居」ペンシルバニア大学・中国哲学史ボディ教授を訪ね、合間に散策したフィラデルフィアより。

 まずペンシルバニア大学の附属博物館で大学派遣・探検隊の収穫、近東の発掘品「楔形文字」の文書などを見、翌日、地下鉄に乗り、ホイットマンの旧宅を訪れる。

       あなたに
  見も知らぬ人よ、あなたが行きずりに、私に遇って、話しかけようと望むなら、
  話しかけて悪い訳が何処にあらう、
  又私があなたに話しかけて悪い訳が何処にあらう。
               (有島武郎訳「草の葉」)
 ホイットマンの家では管理の老婦人に「70年前のホイットマン先生終焉の寝室」、『草の葉』日本訳の冊子など見せてもらう。エッセイにはWhitman詩一節あり。
 民衆詩人ホイットマン『草の葉』は自由・平等・友愛を謳い、従来の詩の形式と内容思想を革新した。

 次はインデペンデンスホール
―――東海散士一日フィラデルフィア(費府)にインデペンデンス(独立閣)に登り、仰いで自由の破鐘を観、俯して独立の遺文を読み、当時米人の義旗を挙げて英王の虐政を―――
 『佳人之奇遇』の書き出しそのままの地で吉川は、散士と紅蓮と幽蘭の出会いを思い感慨にふけっていると、美女ならぬ修学旅行の小学生たちに囲まれる。二美女に会えるわけでもなしと思った折しも一佳人、
「外国人の私にもくろうとと察せられるあだっぽい女が、亭のそばの家のドアをあけて入っていった」。

 フランクリンの墓にも行く
―――ああ、公(フランクリン)は自由の泰斗にして、学術の先進なり。児童走卒も、名を知らざるはなし。米国の独立、公の力に依るもの真に多しとす。而して墓碑わずかに芙蘭麒麟(フランクリン)の数字を刻する有るのみ、と。

 次は近くの教会や史跡を見、電車に乗りE・A・ポーの旧宅を訪ねた。
 場末めいた街角、赤煉瓦の二階屋「ポウが大鴉を書いた家」があった。吉川は中年女性の案内がいんちきぽいと50セント払ってすぐ去る
―――(案内人)部屋のここのところはポウが借家していたときのままです。あちらの部屋の方は、つけたしたもの。その辺にならんでいるものも、ポウがつかっているものではありません。しかし、あなたはそれを怪しんではいけない。ご承知のとおり、ポウは放浪の詩人です。
 *ポー(1809~49): 詩、推理小説まで後代に与えた影響は大きいが、酒と麻薬の乱れた生活、錯乱状態の中で死去。生涯を考えると「かつて住んでいた」と聞けばそうかと。

 次に市立美術館を見、デラウエア川の支流にそった公園を散歩し、ニューヨーク行きの汽車を待つ間、
「このあたりの風景は『佳人之奇遇』1885明治18年頃とあまりへだたりがないらしい」と。そうして、1885明治18年、ホイットマン66歳、ポウは死後36年目だと記してエッセイを結ぶ。ちなみに当時、東海散士こと柴四朗は33歳である。
 『他山石語』からさらに60年近い2012年、フィラデルフィアは変わっていそうだが、どうだろう。

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