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2012年5月

2012年5月25日 (金)

「山形・福島・栃木 道路写生帖」(高橋由一画)

Photo  東京上野・東京芸術大学美術館近代洋画の開拓者・高橋由一展>に行った。
 高橋由一(1828文政11~1894明治27)描く、重要文化財「」は39.0×46.6cmと実際の鮭より大きく、素人眼にも立派ですばらしいと思った。が、絵より制作年代の1877明治10年の方が気になった。
 明治10年=西南戦争である。その同じ年の作品「墨田堤の雪」「愛宕山より品川沖を望む」などの風景画をみていて、鹿児島で西郷隆盛が明治政府軍と戦っていようとも、多くの人にとっては「昨日に続く今日の暮らし」が当たり前を感じた。

 更に興味を抱いたのが、表題の「山形・福島・栃木 道路写生帳」と「三島県令道路改修記念画帳」である。これら土木工事の記録画、米沢市と福島市の境「栗子山隧道図西洞門」は代表的なものである。

 土木県令三島通庸の道路工事強制ついては農民の怒り、暴動、逮捕のイメージが強く、記念画帳があるなど思いもしなかった。なにしろ、三島は「火付け強盗と、自由党とは、頭を擡げさせ申さず」と豪語した人物。反対する者を抜刀した警官が弾圧、逮捕している。
 三島は福島県令に着任すると県吏を腹心で固め、山形県、新潟県の二方から若松にたっし、さらに栃木県に延びるいわゆる三方道路建設を決した。
 それは、東北日本の日本海岸を東京に結ぶ道路網の建設は経済的にも軍事的にも重大な意味をもつものであった(『近代日本史の基礎知識』有斐閣ブックス)。しかし、農民の負担はあまりに重く若松裁判所へ訴え出たが受理されなかった。逮捕された自由党・河野広中らは宮城監獄に、明治憲法発布の大赦の日まで幽囚される。

 描く、「宮城県庁門前図」には見覚えがある。明治のモダンな洋画家のイメージだが、数多い作品をみると肖像画、風景画、静物画など作品は様々な分野にわたっている。また、人物・肖像も庶民から元老院の依頼で描いたという明治天皇、日本武尊まで実に幅広い。
 広い間口に感心する一方で、拡がりすぎではと思わないでもなかった。しかし、NHK解説委員室ブログ――視点・論点「高橋由一の画業と事業」を読み納得した。下記はその一節。

高橋由一の生涯は、洋画の普及というただ一つの目標のために費やされたといってよいでしょう。いまだ美術という概念が成熟していない時代、由一は美術を何よりも「実用」に供するものとして重視したのです。世の中に役に立つかどうかという基準が由一にはことのほか重大な意味をもっていました。洋画は、事物を記録に残すという点でもっとも優れた存在であり、人々の役に立ち、ひいては国の役に立つことにつながる。それが由一の考えていた洋画であり美術であったということができます。

 

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2012年5月20日 (日)

明治・大正期の英語学者、斎藤秀三郎(宮城県)

 1884明治17年、弱冠18歳の斎藤秀三郎仙台で英語塾を開いた。
 明治17年といえば国外では清仏戦争、ベトナム支配権のためにフランス艦隊が清国・福州を砲撃。日本の参謀本部は偵察の将校を派遣、清国差遣中の柴五郎砲兵中尉(会津)もまた福州に赴いた。
 朝鮮ソウルでは金玉均らがクーデターをおこすも失敗(甲申事変)、日本に亡命という事態。
  動揺するアジア近隣諸国と日本は無縁ではなく、むしろ積極的に関わっていた。
 また国内も、自由党員の挙兵計画が発覚(飯田事件)、鎮圧の軍隊が出動した秩父事件など動揺していた。しかしその一方で社会・学術では暮らしに近代化が浸透、

[警視庁、巡査派出所に天気予報の掲示をはじめる]
[東洋英和学校、東京麻布に開校]
[小学校の教科として初めて英語を加える]
[東京数学会社、東京数学物理学会に改組]―――当ブログ<続・柳楢悦「長崎海軍伝習所」「東京数学会社」>に関連記事。

余談。明治17.4.7 山本長五郎(清水次郎長)、賭博で懲役7年、罰金400円に処せられる。

 宮城県では明治政府の殖産興業政策として着手されていた野蒜築港が、この年の台風被害で廃棄となる。1887明治20年、第二高等中学校(旧制二高)が創立され斎藤秀三郎は助教になる。が、間もなく辞職。
 岐阜中学校長崎中学校愛知県尋常中学校をへて1894明治27年、28歳で第一高等中学校教授になるも3年で辞職。しかし斎藤秀三郎の本領はこの先にある。以下『民間学辞典・人名編』1997.6.10(三省堂)より

斎藤秀三郎(1866慶応2~1929昭和4)

 英語学者・正則英語学校の創立者。父は仙台藩士。
 藩の英学校辛未館宮城英語学校をへて東京大学予備門に入るが退学。ついで工部大学校に入るも退学、仙台で英語塾を開くも失敗。その後の経歴は前出のようにあちこちの中学校を転変。それは個性の強い非妥協的な性格を物語る。

 1896明治29年、東京・神田に正則英語学校を創設、一時は生徒3000人を集め、正統的な発音と文法理解に重点をおいた。
 英語慣用語学をうちたて、英文法の科学的研究をすすめ近代の日本のスクール・グラマーの骨組みを天才的な語学力により独力で築きあげた英語教育史上の功労者である。
 著書多数、うち『熟語本位 英和中辞典』は個性的な辞書として、改訂増補をへて現在も用いられている(寺崎昌男)。

                                                   

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2012年5月10日 (木)

続・瓜生岩子(福島県)

 5月の連休も終わりそれぞれ日常に戻ったが、スポーツ界は華やいでいる。ロンドンオリンピックが近付き、日々代表選手が名乗りをあげている。体操の田中3兄妹に拍手!卓球愛好家としては福原愛ちゃんはもとより、アジア選手権で世界ランク1位の中国・馬龍選手を破った高校生の丹羽孝希選手にワクワク!

 その丹羽選手と同じ毎日紙面に北京五輪代表・佐藤敦之選手「故郷福島を拠点に」の見出し。東日本大震災と原発事故で今なお苦しむ
「ふるさとを放っておけない。福島に戻って活動する」という記事で、福島での練習拠点は会津坂下(ばんげ)町だという。
 佐藤選手は地元の中高生らの合宿に参加するなど地域の競技力向上に努めるそう。合宿には会津に避難している大熊町中の生徒も参加するでしょうか。

 ちなみに、会津若松市第2庁舎には大熊町役場があるのです。先ごろ、
熊町小(大熊町)が読書活動で文部科学大臣賞を受けました”というお便りを頂きました。
 町ごと避難という何とも辛い境遇にありながら、前向きな町の子どもらと見守る大人たち、胸にせまるものがあります。楽しみでもあり生きる糧にもなる本、読書好きがこれからも増えますように。

 またまた前置きが長くなりました。少し前にとりあげた「瓜生岩子」の続きです。自分が見た浅草の岩子像にふれましたが、像は同じものが他にもあるそうです。
 『紙碑・東京の中の会津』(牧野登・日本経済評論社)によれば、喜多方市北町の公園、熱塩の示現寺、福島市の長楽寺と浅草の4カ所。以下は同書より、

 1891明治24年3月、東京市養育院長・渋沢栄一の懇望で上京し、約1年間、幼児世話係をつとめた。本郷帝大前で薬局を営んでいた孫の裕次郎のところに住んでいたこともあったらしい。

 銅像は宮内大臣夫人・土方亀子が自邸内に建設事務所を設け、全国的に基金を募って完成させた。1901明治34年9月の除幕式には、建設委員長の渋沢栄一ほか後藤新平河野広中ら政府高官に遺族も参列し、盛大に行われたという。

 岩子の像が建てられている敷地は、当時東京市市有の浅草公園の中央部二間(約3.6m)四方を銅像建立のため永代無料で貸与を願出、東京市議会で許可になったという。

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2012年5月 3日 (木)

明治の憲法草稿と小田為綱(岩手県久慈市)

 5月3日は憲法記念日。でも、憲法について考えるより祝日、連休、家にいようか出かけようかのありさまだ。せめて憲法周辺の歴史を見てみよう。

 現在の日本国憲法の前に明治憲法があった。その「大日本帝国憲法」の内容、国民は発布の日まで知らされなかった。しかし欽定憲法制定なるや東京はお祭り騒ぎ。それを見たドイツ人医師ベルツ――東京医学校(東大医学部)に招かれ退職後、宮内省御用掛――は日記に

「至るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じない」(『近代日本史の基礎知識』有斐閣ブックス)。
 新聞も、
[祝典準備に忙しい東京] 来る十一日は祝意を表せんとて、全府市の準備中なるが、府下各町より繰り出す花車、踊り屋台など・・・・・・当日は宮城二重橋内に挽きるるも差し支えなき由なれば各町々の意気込みも沸き立つばかりなり(明治22.2.7・時事)。

 明治憲法が制定される以前、盛り上がりをみせていた民権運動の国会期成同盟が憲法見込案を持参することを決議、民間在野で憲法案・私擬憲法が作成された。
 その数40~50という。後の発見も含まれ、その一つが人権保護規定で知られる千葉卓三郎(宮城県)起草「五日市憲法草案」であり、小田為綱によるとされる「憲法草稿評林」である。
 「憲法草稿評林」は小田為綱文書の中から発見され1880明治13年ころ作成されたといい、「国民投票による皇帝のリコールをも主張」という案で、政府内外からだされた憲法私案のなかでも独特で衝撃的である。

 小田為綱(おだ ためつな):1839天保10~1901明治34年。
 岩手県九戸郡宇部村(久慈市宇部町)出身の学者・教育者・政治家。昌平黌に学んだ後、盛岡藩の藩校である作人館の教授・寮長となり、原敬らを指導する。
 明治維新後、北奥羽開拓の構想を建白するが顧みられなかった。 西南戦争に呼応して、東北地方での士族挙兵「真田太古事件」に参画するが未然に検挙され、他の参加者らとともに禁固刑に処せられた。1898明治31年に衆議院議員に当選(フリー百科事典『ウィキペデア(wikipedia』)。62歳病没。

1989平成1年5月、『評林』が出てきた岩手県久慈市を訪れた。為綱の生家はすでになかったが、市立中央公民館の前庭に為綱の顕彰碑が建立されていた。1982昭和57年に地元顕彰会の手で建てられたとのことだった。為綱は没後八十余年にして郷土の誇る偉人として認められたのだった。(岩垂弘・ジャーナリスト http://www.econfn.com/iwadare/page230.html

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