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2012年11月

2012年11月24日 (土)

カラフト一周、北辺の守りを説いた岡本監輔

 慶應4年から翌明治2年(1868~69)にかけて戦われた戊辰戦争。江戸・上野で旧幕臣の彰義隊大村益次郎率いる新政府軍が戦うさなかにも福澤諭吉は英書で講義をしていた。いっぽう北辺では、岡本監輔(1839天保10~1904明治37)が、侵出するロシアから国境を守ろうと奔走、まずは奥地探検をしていた。時代は一色ではない。
 内戦は幕府方が敗れても続いていたが、新政府は「王政復古」を各国に告げ、早くも えぞ地開拓の論議がはじまった。1869明治2年開拓使がおかれ、えぞは北海道と改められる。開拓使長官、佐賀・鍋島直正に“北門の守り、国防体制の整備と殖民開拓”が課された。

 1861文久1年、阿波(徳島県)から江戸に出、杉原心斎の塾に寄宿中の岡本監輔は『北蝦夷図説』(間宮林蔵)を見つけた。それにより「北えぞ地すなわちカラフトはもともとわが国の領土であるのに、ロシア人が出没して重大な情勢である」と知り、北の守りを厳重にしなければと決心する。しかし混乱の時代に北に目を向けるものは少なく説得できなかった。
 でも、あきらめず、やがてツテを得、新潟から船で箱館に赴き探検に出発する。

 単身で陸路を北上し宗谷、シラヌシ、クシュンコタン、トンナイチャ、サカエハマ、ワーレ、山超えして西海岸クシュンナイ、ウショロ、ナヤシの北シルトタンナイまで行った。地形・気候・産物、原住民の風俗習慣、日本人・ロシア人の活動状況などを調査したのである。この探検で監輔はカラフトの地が肥え、資源に富み、寒さは厳しいが住めるのを確認した。

 翌年、海氷が解けるとふたたび探検にでた。船で東海岸のタライカ地方(アイロ、シッカ)を見、シララオロで越年、翌春、奥地探検に向かう。
 監輔は丸木舟を買い入れて北進、間宮林蔵が引き返したシンノシレトコを過ぎ日本人未踏のカラフト最北端ガオト岬に達した。ここで天照大神を祭り里程と氏名を記した標柱を立てた。岡本監輔27歳によってカラフト一周がはじめてできたのである。
 カラフトに多くのロシア人が住み石炭を掘り耕作するのを見聞した監輔は、おろそかに出来ない状況を広く世間に知らせようと行動を起こす。またこのころ知り合った山東一郎(直砥)北門社を結成、また山東の紹介でロシア人宣教師ニコライ(のち神田ニコライ堂を建設)を知る。

 さて、監輔は山東と二人江戸に赴いたが、辺境の事は顧みられない。あきらめず奔走するうち、箱館裁判所(清水谷公考総督・幕府からえぞ地経営を引き継ぎ新政府に定着させるために)が設置され、監輔は権判事に任命された。
 カラフト行政の全権を委任された監輔は各地に出張所を設け、警備を厳しくして漁場の開拓、山林の開墾、原住民の生活安定に努めていた。ところが、榎本武揚ら幕府脱走軍に箱館が占領されてしまった。新政府軍の総攻撃により榎本らが降服するまでの半年間、えぞ本島との航海が途絶え、通信も不通となった。その間、監輔らはじっと耐えていた。

 1969明治2年5月、戊辰戦争終わる。7月、監輔は開拓判官、8月、外務御用掛兼任となりロシア対策にあたるも、開拓次官・黒田清隆の消極的政策と意見が合わず辞職した。
 とはいえ、北の守りは急務であり有識者に呼びかけようと『窮北日誌』を刊行した。以上、『開拓につくした人々 2』(北海道の夜明け/北海道総務部文書課・編集より。
 著書多数、『義勇芳軌』『小学修身新書』『古今文髄』『国史紀要』『万国史記』etc。

 前出の事柄、またその後について『岡本監輔自伝』(徳島県教育委員会)に詳しい。次はその一部。

 室蘭において荒井氏と樺太の事を談ず・ 坂本龍馬に樺太の事を語る・ 三たび樺太に赴く・ 島民及露人に大政一新の旨を告知す 露人「ボーコーニク」と居留事件につき談判す・ 岩倉、大久保諸大臣に抵り北地危急の情を陳す・ 神奈川県雇員・ 長崎師範学校雇員・ 1875明治8~10年中国旅行・ 陸軍省参謀局編集課雇員・ 東京大学予備問教諭その他。 

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2012年11月17日 (土)

戊辰戦争スネルと横尾東作(仙台藩士)

Photo  幕末明治を辿っていて波瀾万丈を地でいく人物に出会うことがある。横尾東作(1839天保10~1903明治36)もその一人と思うが、あまり知られていない。
 しかし近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ 『横尾東作翁傳』(1917大正6年、編著・河東田経清)があるので、いつか歴史小説の主人公になることがあるかも。序・大月文彦(大月盤渓3男)。

 福澤諭吉の慶應義塾と横浜で英語を学んだ。戊辰戦争中は奥羽越列藩同盟で能力を発揮、そのときの活躍を、伝記は物語風に述べている。中にはホント?というような場面もあるが、列藩同盟の内情が垣間見える。
横尾の往くところ多くの人間が交錯。知る名前がかなり出る上にある者は臆病だと名指し、戦の混乱を右往左往する状況を浮かび上がらせる。

 安政五カ国条約により開港となった新潟で、軍資金不足の列藩同盟のために横尾東作はスネル(弟・兄弟で幕末維新期に暗躍)の元を訪れる。

―――蚕卵紙(蚕の卵が産み付けられた紙)を買って呉れるかどうか尋ねると、スネルは買うという。そこで金子入用の際であるから一万枚だけ売ろうともちかけた・・・・・・スネルは承知し、「二千両を差上げましょう。丁度相馬藩から鉄砲の注文があるので、相馬へ行き蚕卵紙もそこでお渡し願いたい」ということになり金策は成功。

 <借財二千両の跡始末>
―――(東軍が敗北)新潟の軍隊は散り散り見る影もない。スネルから借入れについては約束の蚕卵紙は引き渡せず、返す金も無しに。

―――(ところが)逃げ損なったスネルは西軍(政府軍)の捕虜となった。密貿易、武器輸入を糾弾されたものの、白状すると外国人なので放免されたばかりか、東軍に掠奪され無一物になったとして、損害賠償を求める始末。政府はやむなく支払ったという。

―――(横尾の話)1870明治3年にスネルを訪問した時、馳走してくれ貸金の話はなかった。とれる見込のない仙台藩に二千両の請求などして藪蛇をつつきだすよりも男らしく澄ましこんで居る方がよいと考えたからだろう。

 明治維新後、横尾は山東直砥北門社で英学を教えたが、まもなく仙台藩知事の招きで仙台に英学校(辛未館)を設立。しかし文部省令で廃止、次1873明治6年神奈川県庁に出仕。このとき修文館校長を兼職し英語を教え生徒も多かったが、又も教育令の改正で廃止。明治草創期、政治はもちろん教育制度も混乱があった。

 3年で神奈川を去り警視庁に外国係として10年間奉職、佐和正(当ブログ2012.7.22明治の少警視・青森県知事)を知る。
退職後、英書『童蒙教育問答』を翻訳出版。さて神奈川時代に次の話を聞いて大いに刺激を受ける。

―――榎本武揚ロシア公使たりし時、スペインから赤道以北の地を日本に売らんとするの交渉があった・・・・・・買ひ得るものならば買ったらよかろふと榎本に話をしてみたが、今ですら外交に懸けてはとかく退嬰主義の日本政府であるから、そこは南洋を我が版図に入れるなどといふ事は夢にも思ふていない

 そこで、自らのりだした横尾は、逓信大臣になったいた榎本に建白書を提出、灯台巡回船となっていた明治丸(2011.7.22明治丸と奥羽・北海道巡幸)で硫黄島探検の航海に出た。以来、南洋に興味をもち南洋貿易殖民などを企画した。
 ちなみに1893明治26年、榎本の主唱で殖民教会が設立され、発会当時の会員は400名。
 1899明治32年、横尾はふたたび南洋諸島航海に出る。その4年後、小石川の富田鐵之助(横浜火災保険社長)邸で没した。享年64歳。

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2012年11月10日 (土)

兵馬騒乱をよそに塾の課業はやめない

―――明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、わたし(福澤諭吉)はその戦争の日も塾の課業をやめない。
上野ではどんどん鉄砲を撃っている。けれども上野と新銭座とは二里も離れていて鉄砲玉の飛んでくる気づかいはないというので、ちょうどあのときわたしは英書でエコノミー(経済)の講釈をしていました。だいぶそうぞうしい様子だが煙でも見えるかというので、生徒らはおもしろがって、はしごに登って屋根の上から見物する。

―――こっちがこのとおりに落ち着き払っていれば、世の中は広いものでまた妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋のことを知りたいとう気風はどこかに流行して、上野の騒動が済むと奥州の戦争となり、その最中にも生徒は続々入学して塾はますます盛んになりました。

『福翁自伝』(慶應義塾)

         

 上野の戦争・奥州の戦争

 西郷隆盛勝海舟が高輪の薩摩藩邸で会見し、慶喜の恭順謝罪、江戸城明け渡しが決められた。江戸城は開城、新政府軍が入城した。しかし、旧幕臣の彰義隊と脱藩の武士ら二千余人はこれにおさまらず、上野の山にたてこもって抵抗した。この上野戦争で寛永寺の堂塔伽藍の殆どが焼失してしまった。
 上野広小路から動物園に向うあたりは最も激しい戦闘があったが、総攻撃され僅か一日で敗れ去った。この戦闘に会津人もかなりまじっていて柴五郎の従兄弟も討死した。生き残った者は新政府へ武器・軍艦を引き渡すことを不満として、江戸を脱走し各地に散った。そのため関東地方が抵抗の地盤となり、新政府軍は関東へと攻め寄せた。そうして会津へと迫るのであった。
 敗れてなお主戦論をとなえる幕府陸軍の大鳥圭介もまた日光を目指して江戸を脱走、海軍の榎本武揚は旗艦開陽に乗って北へ向い、函館の五稜郭に陣を構えた。

 鳥羽・伏見の戦いにはじまり、新政府軍の東征、江戸城無血開城、奥羽列藩同盟長岡・会津戦争と続いた戦いは、函館の五稜郭で旧幕府海軍が壊滅して終結した。この戊辰戦争は1868慶応4年1月から1869明治2年5月まで続いた。

 自分は会津人・柴五郎ひいきなもので、戊辰戦争の時節を戦争一色のように思い込んでいた。考えてみれば、日本も狭いようで広い。人の考え方も生まれや育ち、地域、学問知識からも異なる。同時代人でも生き様が違って不思議はない。先見の明がある側は偉い。とはいえ、人情としてはね。

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2012年11月 3日 (土)

文化勲章と断層発見物理学者・ローマ字論者、田中舘愛橘(岩手県)

 今年の文化勲章は6人、なかに山田洋次映画監督の名があり寅さん映画ファンとしてはうれしい。また、ノーベル医学生理学賞・山中伸弥教授のiPS細胞は難しくて理解できないが新しい薬剤や治療に役立つ研究というから希望が湧いてくる。そのうえ謙虚で爽やかな人柄が感じられ自然に頭が下がる。さぞ、協力者が多いでしょう。

 1937昭和12年2月制定された文化勲章。文化の発達に勲績卓絶な者に天皇が授与。等級はなく、称号制度との結びつきはなく年金も伴なわない。はじめは毎年でなく1948昭和23年以後、毎年11月3日(文化の日)に授与されるようになった。
 1937.4.28第1回9人。1940.11.10第2回4人、1943.4.29第3回7人。第4回は1944.4.29田中舘愛橘(地球物理学・航空学)等6人であるが、この年昭和19年は戦争さなか
―――1.7大本営インパール作戦認可、3.8作戦開始、10.9神風特攻隊編成、11.24B29東京初空襲、そして12.19大本営レイテ地上決戦方針を放棄へと至。ちなみに、第5回は終戦翌年の2月岩波茂雄(出版)等6人。

 文化の日。物理学者の田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)を選んでみた。幕末生まれは、福澤諭吉のような洋学者でもまず漢学を身につけ、語学を学び専門の分野に進んでいるが、田中舘も同様である。それで経歴に興味をもったのと、エピソードにひかれた。
 田中舘愛橘:1856安政3~1952昭和27年。明治・大正・昭和期の物理学者。
 父は南部藩士。8歳で武芸、11歳で盛岡藩校入学、さらに恒徳の塾で漢学を修めた。やがて一家をあげて上京、慶應義塾に入って英学を学ぶ。
 1876明治9年東京開成学校、1878明治11年東京大学本科。ここで専門を決定するとき、当時の学生は天下を治めてやろうという意気込みの者が多かったが、田中舘はそういう空気の中で、

―――西洋の修身治国を説いたものが在来の孔孟の教えに優ると思われるものがない。これに反して理科の方面は大いに学びたいものがある。それで理科の根本である物理学を修めて大いにわが国家の欠を補いたいと感じ願書を出すことに。すると友人が
「物理や天文を専修してどうして飯が食えるか?」田中舘はそれに答えて
「飯は茶碗と箸で食べます」

 東大理学部在学中は菊池大麓山川健次郎に師事、メンデンホール地球物理学を学び富士山頂の重力測定を手伝った。以後、日本各地、朝鮮南半の重力測定をした。 
 1882明治15年理学部を卒業して准教授、翌年東京大学助教授。その後イギリス・グラスゴー大学、ドイツ・ベルリン大学で学び帰国後、帝国大学理科大学教授となる。

 1891明治24年発生の濃尾大地震で震源地の岐阜・根尾谷の断層を発見、調査。この経験を元に地震研究の必要性を訴える。
 1910明治43年航空事業視察のためヨーロッパへ派遣される。この年ローマ字新聞を創刊。英語の発音に即したヘボン式の表記法対、日本式ローマ字の普及に努めた。

 田中舘の授業は「ぎょうぎょうしく俺は教えてやるぞというような態度ではなく、笑いながらひょいひょいと教えが出てくる。天衣無縫の人徳をしからしめる」風だったという。
 彼はまた、外国に行っても非常に無邪気で、宴会の席でもいくらブロークンなフランス語だろうが、ドイツ語だろうが、そういうことは頓着なく臆面もなくやるものだから外国婦人がとても歓迎したという。
 1916大正5年還暦祝いの会合で退職を希望し60歳定年制のきっかけになる。田中舘には多数の学術書があるが、ほかに随筆『葛の根』がある

 参考:『図説 教育人物事典』(ぎょうせい)・フリー百科事典Wikipedia・『コンサイス日本人名事典』三省堂(田中舘愛橘の項、第1回の文化勲章受賞とあるが第4回の誤りかと)。

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