« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

2013年3月

2013年3月30日 (土)

剛毅清廉の実業家、富田鉄之助(宮城県仙台)

 卒業シーズン。大学生から幼稚園児まで今居る場所にさようなら、新しい陣地に向かう。社会人になる卒業生は希望と不安がない交ぜでも卒園児はピカピカの1年生になるからうきうき。幼稚園も明治の頃は限られていたから学齢に達しない子を入学させる親もいたのである。
 1884明治17年、文部省は幼稚園の設立を勧奨、学齢未満の幼児の小学校入学を禁じた。この年、芝麻布共立幼稚園設置願が提出された。富田鉄之助・子安峻・山東直砥(一郎)、3人の出願者はいずれも大物で(小林恵子【日本における最初の私立幼稚園とその背景】お茶の水女子大学)、その一人山東は当ブログに登場しているので富田鉄之助を見てみる。

  富田鉄之助 (1835天保6~1916大正5年)。父は仙台藩士。明治・大正期の実業家。
 鉄之助は安政元年1854江戸の下曽根金三郎に西洋砲術を学んで帰郷、1863文久3年再び江戸に出て勝海舟の門下生になる。
 1866慶應2年、勝の援助で勝の子息・子鹿とアメリカ留学、3年後に戊辰戦争がおこった。仙台藩も戦になり藩主と共に鉄之助の父や兄も出陣した。これを知った鉄之助は矢も立てもたまらず急ぎ帰国、師の勝海舟を訪ねると
「汝、何が故に帰る」と叱られた。
鉄之助は
「兵戦を以てし、之を大にしては主君の存亡、小にしては父兄の安危に罹る。何ぞ之を看過し去るを得んや」。
勝曰く
「汝、眼孔の小なる。そもそも維新の戦乱因って来る所あり。汝が父兄愚魯(ぐろ・おろか)にして事に通ぜずんば、或いは身を兵馬の間に斃(たお)すなきを保せず。主君の安危に至りては介意を要せざる事瞭然火を見るが如し。汝、修学多年未だ此般の小事を看破する能わざるか。今より直に米国に戻り静かに学を修めよ。然らずんば余復び汝をみるなけん」(『海舟言行録』1907)

 鉄之助はしぶしぶ再びアメリカに戻り学業を続けるうち1869明治2年官費留学生になり(官費留学生の初めとも)理財学を学んでいたが1872明治5年、岩倉使節団がアメリカにやって来た。そのとき、鉄之助はニューヨーク在勤領事心得、さらに副領事に選任されその職に努めた。
 1876明治9年帰国、次は清国上海総領事、さらに外務大臣書記官としてロンドン公使館勤務、1879明治12年には臨時代理公使になる。
 1881明治14年イギリスから帰国、大蔵権大書記官となり横浜正金銀行管理係になった。翌15年、日本銀行創立委員となり副総裁となる。
 1884明治17年、東京商業学校(一橋大学の前身)校務商議委員。幼稚園設立願はこの年。
 1886明治19年、私立東華学校の前身宮城英学校を設立。
 1888明治21年、第二代日本銀行総裁となったが2年後、松方大蔵大臣の積極財政に反対し退任した。退任後、貴族院議員に勅撰される。
 1891明治24年東京府知事に任ぜられる。在任中、東京の水道問題解決のため三多摩地方を神奈川県から東京府に編入(『忘れられた元日銀総裁-富田鐵之助伝』吉野俊彦)。

 『地方長官人物評』(大岡力)は、東京府知事・富田鉄之助を「剛毅清廉」極めて確かなる人物なりと評し、続けて
―――生活は質素で常に紺足袋をはき勝邸へ出入りは玄関でなく勝手口からであった。豪傑的風貌あってしかも精刻細心なり。世間を風動するの度量手腕なしと雖も、毅然自ら守るに至ては、当世希有と称せざるを得ず。東京府知事としての氏の適否如何、
 東京府は他府県と甚だ趣を異にす。皇城のある所、日本の首都、府政の大部分を占める警察事務(独立の警視庁がこれを管理)、警視総監の権力強くややもすれば府知事を凌ぎて威を振るうあり。
今富田氏は果たして・・・・・・

 藩閥の援護なしで、真面目至誠の結晶たる古武士と評される鉄之助に官界、政界は合わないようでまもなく府知事を辞め、以後、実業界に転じた。
 1896明治29年、森村市左衛門らと富士紡績株式会社を創立、初代取締役会長。
 1897明治30年、横浜火災保険株式会社を創立、社長になり晩年まで経営にあたった。
 上流社会や実業界に顔を出すようになれば華やかにするのが常だけれど、富田家の応接室は古屏風一式と勝海舟自筆の扁額あるのみという質素なもので、わが子にも奢侈を禁じた。
 こうしてみると冒頭の「幼稚園創立の出願」は単なるつきあいでなく真剣であったと察せられる。
 著書に『銀行小言』(上・下巻1885)、『海舟年譜』(編著1905)などがある。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2013年3月23日 (土)

明治のジャーナリスト・事業家、岸田吟香

 岸田吟香 (1833天保4~1905明治38) 岡山県。岸田劉生の父。本名銀次。諱は国華。

 幕末1867慶応3年5月:高知藩、長崎を本拠とする坂本龍馬の社中を海援隊と称し、同藩の付属とす。同5月:アメリカの宣教師でヘボン式ローマ字創案者Hepburn,James curtis(平文)が 《和英語林集成》 を上海で印刷した。その和英辞書の編纂を助けヘボンと共に上海に渡航したのが岸田吟香である。
 日本も昔から書籍出版はあり何で上海?と思ったら、当時は洋式活版印刷で大部の時は日本人の著作でも設備の整った上海のキリスト教宣教会印刷所で印刷したそう(『横書き登場』屋名池誠)。
 岸田は上海に2年いて日本で最初の和英辞書《和英語林集成》を仕上げて帰朝した。

 また岸田吟香といえば「精錡水」目薬が有名、どこでか忘れたが展示されてたのを見たことがある。目薬の縁か判らないが、中村正直(敬宇/『西国立志編』)・津田仙(津田梅子の父)らと楽善会を組織、1876明治9年東京教育大付属盲学校・聾学校の前身である訓盲院を創設、社会事業にも努力した。
 行動力があり事業家としても活躍の岸田を、陸軍軍人・荒尾精は言う。躯幹長大、美髭、風采立派な偉丈夫で弁舌も爽やか、押しも押されもせぬ大立者と(『東亜先覚志士記伝』「岸田吟香と楽善堂」・黒龍会/明治百年史叢書)。

 岸田は年少で津山藩儒・昌谷精渓について漢学を修め、17歳で江戸に出て林図書頭、ついで大阪の藤澤東畝に学び、当時、藤田東湖大橋訥庵ら幕末の志士とも交わったが病でいったん帰郷、再び上京すると藤森天山(弘庵)に入門した。
 師の天山はペリー来航のとき幕府に上書して建言、安政の大獄に連座し江戸追放となった。そのとき、岸田は天山の上書を書いた嫌疑を受け上州地方に逃れた。時期をみて江戸に戻ると素性を隠して深川の妓楼に住み込んだ。周囲から「銀公、銀公」と呼ばれ、自ら「吟香」と称した。
 やがて幕府の追求が緩むと横浜に赴き、同じ岡山出身の洋学者・箕作秋坪にヘボンを紹介された。岸田はヘボンの家に住み込み和英辞書の編纂助手となる。その傍ら、ジョセフ彦(浜田彦蔵)に英語を学んだ。

 こうして外交の事情にも通じ外国の新聞にも興味をもった岸田は、これもジョセフ彦に英語修得中の本間潜蔵と相談、『新聞紙』という新聞を1864元治1年発行。この日本初ともいえる新聞を定期的に発行していたが、和英辞書の原稿が完成したのでヘボンと共に上海に赴いた。
 上海から帰国した岸田は廻船会社を創設、江戸・横浜間の運送業に従事、また1868明治1年「横浜新報-もしほ草」発刊、さらに氷室商会を興し氷販売にも成功した。

 1872明治5年「東京日日新聞」記者になる。1874明治7年の台湾出兵時には日本初の従軍記者として活躍、岸田の戦地通信は人気で購読者がふえた。
 1877明治10年、日日新聞を退社、銀座に楽善堂を開業、精錡水を発売した。広告もあってか非常な売れ行きで、翌年には上海に支店をだし精錡水の他に守田の宝丹、雑貨も売った。以来、上海・東京を往復、その間、漢籍に詳しく書道にも長じていた岸田は清国の学者と交遊、書籍も販売した。

 清国には科挙があり受験生は試験場に参考書を持ち込めたが、書籍は木版印刷だったからかさばって自ずと限度があった。それが楽善堂のは銅板印刷で小型だったから多種類を試験場に持ち込むことができた。そのため楽善堂の書籍は各地で熱狂的な歓迎を受け、岸田は財力を積み上海の社交界で華々しく活動した。

 上海の岸田の家には多くの食客が寄寓、そこへ参謀本部から派遣された荒尾・陸軍中尉が乗り込み協力を求めた。岸田は快諾、荒尾は漢口に楽善堂を設け商人になりすまし岸田から送られてくる品々を商い、日清戦争直前の清国各地を調査した。
 以後、岸田は日中貿易の発展、友好関係の増進につとめ、興亜会、亜細亜協会、東亜同文会、日清貿易研究所の創設発展に尽力した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2013年3月16日 (土)

石川啄木(岩手県)とその時代

 かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川 (一握の砂)
  京橋の滝山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな (同)
 新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど (悲しき玩具)
 解けがたき 不和のあひだに身を処して ひとりかなしく 今日も怒れり (同)

 東日本大震災、地震・津波・原発事故から丸2年、あのとき生まれた赤ちゃんはもう歩いている。三度目の春が来ても被災地の復興はまだまだ。東北が近くなったのは交通だけなのか。
 1890明治23年に東北本線が盛岡まで開通した当時、上野-盛岡間は17時間55分もかかった。今は東北新幹線が走り抜け日帰りもできる。
 啄木少年は1902明治35年秋、文学を志して上京したものの翌年2月病のため帰郷。18時間近い汽車旅はさぞ心身に堪えただろう。

 石川啄木(1886明治29-1912明治44年)本名一(はじめ)。
 南岩手郡玉山村(現・盛岡市玉山区)常光寺住職の長男として生まれ、翌年、父・一禎が渋民村宝徳寺住職になりここで成長した。
 13歳で県立盛岡中学に入学すると上級生の文学活動に刺激された。「新詩社」の社友となって『明星』を愛読、与謝野晶子『みだれ髪』の影響をうけた。
 石川一は中学校を退学して上京するも病のため帰郷、その後、与謝野鉄幹の知遇をえて「新詩社」の同人となり、啄木と号して詩作に専念した。
 1905明治38年、明星派詩人として処女詩集『あこがれ』を刊行、才気縦横の少年詩人と評された。しかし、父が住職をやめさせられ啄木に一家扶養の責任が負いかぶさった。

 啄木は愛人堀合節子と結婚、盛岡市内に新居をかまえたが生活難のため渋民村に帰る。母校の代用教員となった啄木は、教育に精進しながら『雲は天才である』などの小説を執筆する。
 1907明治40年、啄木は新天地を求めて北海道にわたり、箱館、小樽、釧路と1年にわたる漂泊生活ののち上京、創作生活に入った。しかし自然主義風の小説は少しも売れず、生活は窮乏した。そのうち創作意欲は短歌に表れ、生活の現実に根ざした作品は歌壇に新風をふきこんだ。

 1909明治42年啄木は東京朝日新聞に校正係の職を得、翌年、朝日歌壇の選者となる。また、処女歌集『一握の砂』をだし、第一線歌人としての地位を確立した。
 その一方社会に強い関心を持っていた。当時、第二次桂内閣のときで
「憲政本党・大石正巳ら改革派は万年野党から抜け出そうと桂太郎に接近。これに犬養毅ら非改革派が対抗したので大石らは合同を拒む犬養の排除を決めた」
この騒動を外から見ていた啄木は『岩手日報』に次のように送稿

―――この紛争なるものは、大局の推移を見るの明なき同党の少壮連が、政界縦断、新党急成の熱に犯されて、大同派その他と握手するを肯ぜざる犬養氏を血祭に上げ、常議員会の多数を頼んで除名宣告を敢てしたるより起りたるものにて、要するに無用の争いを醸したる罪は彼等少壮者になしとせず。さればこそ除名されたる犬養氏が、それにて政治的勢力を失墜するかと思いの外、却つて天下の同情を集め得たりし訳に御座侯。
 ちなみに、除名された犬養は民党主義を主張しジャーナリズムの支持、世間の人気を得た。

1910明治43年大逆事件。この幸徳秋水の事件に衝撃をうけた啄木は社会主義思想に接近、事件の真相を知って国家権力への抵抗を感じる。次の時代への新思想の啓蒙に乗り出そうとするが肺結核のため、東京市小石川久方町の借家でわずか27歳で薄幸の生涯を閉じた。
 戦後、『石川啄木日記』全3巻が刊行され啄木の思想や作品を知る手がかり、また明治文壇の側面史としても貴重な資料となっている。

 参考:『世界大百科事典』平凡社・『現代日本文学大事典』明治書院ほか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2013年3月 9日 (土)

明治の光と影、兵士・輜重輸卒

   <その一>

 270円。明治の徴兵制度が始まったころ、270円を納めれば戦争に行かなくても済んだそうです。270円が明治の初めにかなりの大金であったと察しがつきます。でもどうして270円?これは兵士一人を養成する金額だそうです。
 当時は小学校も授業料が必要。元武士の子であっても金がなく学問を続けることができない。そこで、無料の軍人養成の学校へ入って軍人となったのが司馬遼太郎『坂の上の雲』の秋山兄弟。

 歴史をたどるとき、政治家、軍人、文学者などの活躍に目がいってしまいます。建築物も明治期なら銀座の煉瓦街、ガス燈や、ダンスパーティーに明け暮れた鹿鳴館とか目立つものに気をとられがちです。ところが、表通りから露地裏に入れば「東京はこんなにきたなき所かとおもえり」と正岡子規が書いたような有様だったようです。
 人間にしても光の当たる表通りで活躍できる者は限られており、貧民窟スラムで命をけずっていた者は1万とも2万ともいわれます。
 明治期「日日新聞」や「風俗画報」に掲載の貧民窟図をみると、浅ましく目をそむけたくなります。その惨状にしばらく手をつけなかった国には国の事情があったでしょう。
上から下まで全部、光と影も合わせて歴史」ある講座で教わりました(1998.3.17記)。

   <その二>

 日清・日露といえば何が思い浮かぶ。勝利に名を残すのは将官、しかし戦うのは徴兵された兵士、幾つもの戦闘をふりかえるとき戦死者の多さに驚く。今さらながら本当に兵士は命がけである。
 ところで命がけなのは戦闘員である兵士ばかりではない。戦闘をするには武器弾薬そして食料が無くてはならない。それら軍需品を輸送するのは輜重兵(しちょうへい)である。しかし、階級が低いため
「輜重輸卒が人間ならば電信柱に花が咲く」などと侮られた。
 たとえば日露戦争第二軍の輜重輸卒・西村真次の隊は沙河会戦さなか、大荒地から黄家嶺子という所まで輸送を命じられた。その状況はといえば、

「雨が降りしきって道は沼田、見渡す限りの泥の海!その中を車を引っ張って、毎日毎日六里の間を往復したが、道はどろどろになって深さが二尺も三尺もあるという風だから、とても車を引くわけには行かぬ。やむをえず車を捨てて、米なら米、麦なら麦を、一叺(かま)ずつ、箱に入った物なら一箱ずつ、背中に担いで雨の降る中を列を作って進む。泥の深い処は腰のあたりまで水につかり、蝸牛のようにぼつぼつ進むのを慣わしとした。
 ところが満州の土は粘土質で急いで歩けば滑る。風が強いと滑ったあげく、ぴしゃりぴしゃりと異様な音を立てて倒れる。米も服も何もかも泥にまみれてしまう。
 貨車輸送の時もあるが、貨車に乗って監視をするのとは大違い。武器、糧食その他を積んだ貨車を押してゆくのだ。戦地での苦労は戦闘員も輸卒も変わりはない。まして雪がふれば、言わずもがなである」。
(『血汗』西村真次・精華書院・明治40年3月)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2013年3月 2日 (土)

日清戦争従軍記者・横川省三(岩手県)

 《横川省三氏の銅像けふぞ除幕の式を》 昭和6.4.21東京朝日新聞岩手版
―――盛岡市高松池畔神庭山で盛大な除幕式を挙行する。この日は、横川氏が明治37年日露戦争の折から特別任務を帯びて満州の奥深く潜入し、不幸、露軍の捕らへるところとなって、ハルビンの野に消えた無念の日から二十六周年。(『怪傑伝』伊藤仁太郎・昭和10)

 前記、河原操子は無事帰還した。しかし敵の背後をつき兵站線を攪乱、鉄橋爆破の任務を帯び潜行した横川ら12士は茫々千里の危険地域に進み発見され、銃弾に倒れ処刑された。生きて帰れなかった殉国の志士たち。中でも横川省三は幾人もが伝記を著し銅像も建った。郷土の誇りとして「修身科補充教材」にもなった(『和賀郡誌』岩手県教育会和賀郡部会・大正8)。 毀誉褒貶は本人のあずかり知らない所だが、戦前もてはやされた人物の戦後は如何に?銅像は破壊されてないか、はたまた2011東日本大震災にも負けず今もその地に在る?

 「最後の同盟通信戦場カメラマン死去」(毎日新聞)の記事を目にした。1942年シンガポールで山下奉文――アーサー・パーシバル両司令官の歴史的会見を撮影という内容で、99歳で亡くなられたカメラマンは従軍取材経験をもつ最後の一人だという。
 従軍取材という言葉で、2012.7.04<明治の志士・日露戦争の軍事探偵>横川省三が記者だったのを思いだした。従軍通信員のエピソード、近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ で読める。

 小笠原長生『日露軍事断片』“横川省三君に就て”5月5日海軍省新聞記者集会室にて(春陽堂1905)より

―――日清戦争のとき、アノ人は朝日新聞の従軍通信員として初め「吉野」に乗っていましたが、威海衛攻撃のとき「高千穂」に乗っていたのです・・・・・・戦いが始まるとマストのトップに乗って仔細に戦況を視察していました。それですから降りてくると煙のために顔は真っ黒になって目ばかりパチパチさせていましたから、皆が横川はまた黒坊になってきたと言いました

―――横川は艦長の紹介で水雷艇に乗ることになりましたが、「定遠」(中国軍艦)などを沈めに行くときだったので水雷艇の艇長から拒まれました。それで攻撃が終わってから乗せてもらい、「ボートに乗って千島探検に行ったときヒドイと思ったが、とてもソンナものではない。水雷艇には実に驚きました」と語っておりました。

―――それから(海軍と)澎湖島より台湾にまで往き、のちに拱北の砲台を(日本が)奪ったときは、「高千穂」を降りて陸軍に従い、二、三日ずつ上陸していました。いつも危険を冒して真っ先にかけだし、一度敵に逐われて一目散に逃げ帰ったが、その内で地図を書いてきているのです。ここは自分の落ちた所だなどと語っているのです。その図は今も朝日新聞社に残っているでしょう。実に横川君は軍事に於ける通信員の模範です。・・・・・・いつでも危険を冒して戦闘の真っ先に立ち仔細に観察して綿密なる通報をしようと勉めていたのです。

―――当時「高千穂」艦長・野村大佐は豪傑風の人で、横川君を気に入り「達磨(横川のあだ名)を呼べ」といっては艦長室に招いていたのです。そこで英雄論が始まると、横川君は艦長にでも一歩も譲らないのでした。
―――横川君はある時、筆を以て世に立つ程つまらない事はないと語っていましたが、それより筆を執って世に立つことをやめたのでしょう。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »