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2013年4月

2013年4月27日 (土)

山口千代作(福島)、金森通倫(熊本)、新島八重(福島)

 歴史の楽しみ。歴史上の人物を一人でも好きなると発見があり興味が広がる。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を執筆中、山口千代作という人物が気になった。
 明治日本初めての衆議院議員選挙(1890明治23年)に、「福島四区」から東海散士柴四朗山川浩も出馬したがあえなく落選。
 候補者8人のうち東海散士は『佳人之奇遇』人気で有名、山川浩(大山捨松・山川健次郎の兄)は会津藩家老の家柄という名門、しかし1人区を制したのは山口千代作であった。千代作が何者か判らなかったが、『東北自由党員列伝』(自由閣1883)「山口千代作君伝」によって福島事件にも関わる自由党員と知った。

 自由民権運動がまだ名残をとどめていた時代、人は国会が開設すれば藩閥政権は打倒され税も軽くなると思い込んでいた。自由党は優勢だったのである。
 ちなみに第一回の総選挙は取締る政府に経験がなく、選挙人もその知識が浅かったので真剣かつ公正に行われた。
 ところが第二回総選挙で政府は激しい選挙干渉を行った。この選挙、山川浩は貴族院にまわり、無所属の柴四朗と離党した山口千代作の二人が当選した。三区は河野広中が当選。選挙運動中に板垣退助が来て歓呼で迎えられたが、演説会は解散させられた。

 山口千代作
 
1848嘉永元年2月~1906明治39年2月。
 福島県河沼郡尾野本村(森野村)名主の家に生まれる(『明治新立志編』は尾野本村/ 『北海道史人名辞彙』は森野村)。
 父親が早く亡くなり13歳で名主を継ぐ。県会が開かれると議員になり、県会議長のとき福島事件がおこり東京に奔ったが京橋で逮捕、処罰された。
 1890明治23年、衆議院議員。1897明治30年、若松と地元の森野村に機業所を開く。のち「福島県絹織物組合長」に推され就任するも事業は振るわなかった。
 1902明治35年、北海道江差機業会社に招かれ江差へ行く。翌年、北海道庁嘱託となり蚕糸事業を担当。そのころ金森通倫の勤倹貯蓄に賛同、推進して一時は注目を集めたが嘱託を辞めさせられる。
 翌年、札幌郡篠路郵便局長。
 1905明治38年、同志と北洋貿易商会を組織してカラフトに渡ったが、翌39年2月12日、病気で死去。

 金森通倫かなもりつうりん
 1857安政4年~1945昭和20年。熊本県。
 1872明治5年熊本洋学校に入り*熊本バンドに参加、迫害され、京都の新島襄を訪ねる。同志社で3年間学び岡山教会牧師になる。のち同志社に招かれ社長代理となるが翌年辞任、東京番町教会牧師となる。
    * 熊本バンド: 1876明治9年熊本の花岡山で盟約したプロテスタント集団。熊本洋学校で米人ジェームスに学ぶ生徒たちで浮田和民・海老名弾正・徳富猪一郎(蘇峰)・金森通倫ら35人。

 1892明治25年自由党に入党、翌年脱党、以後信仰を離れる。
 1902明治35年『貯金のすすめ』翌年『勤倹貯蓄実験談』を著す。千代作との縁はこの当時か。他に『金持ちになれる道』(安田善次郎翁・金森勤倹堂)などの著作もある。
 明治末年、信仰に回帰し、1914大正3年、救世軍入隊。1927昭和2年、ホーリネス教会にうつる。ホーリネス教会から著作『天国貯金のすすめ』『基督教三綱領』など出版。
 『同志社倶楽部講演集』No.2(1929)に、金森通倫の講演記録「私の観た新島襄先生」がある。次はその一節、新島八重について

―――新島先生に初めてお会いしたのは明治9年7月・・・・・・寺町の借家にいらしたので訪ねて行ったのです。その途中御所の中を通るとき一人の妙な御婦人に会った。妙なといっては可笑しいようですが、その頃では実に妙でした。頭には麦わら帽子をかぶり、足には靴をはき、胴だけが日本婦人で、どうもその頃の京都では一寸見られない御婦人でした。ははあ、これが新島先生の奥さんだなと。果たして然り。寺町のお宅で、まずその御婦人にお目にかかった・・・・・・

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2013年4月20日 (土)

かつて図書館(書籍館)に求覧券・閲覧券

 ちかごろ国語辞書が話題だ。辞書に個性があると知ったのは点訳の先輩に「古い辞書も大切」と言われてからである。点字はひらがなの分かち書きのようなもので漢字の読みは大切、なるべく原本に合ったその時々の辞書がいい。そんな事もあり読み方、語釈もさることながら辞書そのものに目がいくようになった。
 また、言葉は変化する。ある言葉が誤用だとしても世間一般が使い周知すれば新語、造語として取り入れる辞書もある。だから辞書は何冊もあった方がいい。しかし個人でそろえるには限度があるから図書館を頼る。
 図書館には国語辞書に限らず歴史・地理・外国語・その他辞書があり、もちろん多様な分野の本があり見放題、しかも無料である。わざわざ無料といったのは、閲覧さえも限られた人間しかできなかった時代があり、閲覧料金が必要な時代があったのだ。

 明治20年代(1887~1896)は、日本における新しい文学の開花時期であり、雑誌の発行も盛んだった。『女学雑誌』などの婦人雑誌、『早稲田文学』・『志がらみ草紙』(森鴎外)など文学誌、哲学・宗教『六合雑誌』、『少国民』(石井研堂)・『少年園』(山県悌三郎)など少年雑誌も人気があった。
 古い雑誌は近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ で読めるので、“図書館(書籍館)”を検索したら、少年園発行『東京遊学案内 明治25年』1892黒川文淵・編<各書籍館一覧>があった。次は【東京書籍館】の項より

 本館は上野公園緑樹鬱蒼たる閑天地に在りて、十二万六千冊の和漢洋書を蔵し、其毎年の閲覧人員四万八千に余れるを見ても、読書社会に尠からぬ利益を與ふること知るべきなり。
 凡そ本館の図書を借覧せんとする者は、左の求覧券の内一種を購求して登館すべし。
但し十五歳に満たざる者には、本館蔵書の内通俗なるものを *大日本教育会に貸与して、その付属の書籍館に於て閲覧せしむることとせり。

 尋常求覧券 一回分 一枚 金2銭、 十回分 一枚 金12銭
 特別求覧券 一回分 一枚 金5銭、 十回分 一枚 金30銭

 特別閲覧人は閲覧所内の別室で通常閲覧人の3倍、和装書30冊、洋書は7冊閲覧できるとある。かの樋口一葉も東京書籍館に通ったようだが、閲覧回数券を購入したのだろうか。ちなみに『東京遊学案内』は地方の少年らの受験案内のようで人気があったらしく版を重ねている。

 *大日本教育会: のち帝国教育会。会長・辻新次(長野県・教育行政家、歴代の文相を補佐し明治期学校教育の基本体制確立に貢献)。大日本教育会書籍館も閲覧料は東京書籍館に同じ。

Photo

福島県『会津若松市立図書館百年誌』(野口信一・2004平成16.10.8)に「閲覧回数券の発行」の項あり、「閲覧料徴収簿・収入簿」の写真と説明がある。以下参照すると

―――1899明治32年図書館令公布。図書館行政の基本を規程、その第7条に「図書館は閲覧料を徴収することを得」とあり、会津図書館では閲覧料、館外貸出料を取った。
 図書の閲覧券は1回1銭。1905明治38年から回数券を発行(10回分8銭)。

 なお学生および現役兵はこの半学。図書館評議会や市長から許可を与えられた者や金品の寄付者には優待券が発行された。前出の東京書籍館の閲覧料からすると半学で安いが、7年の隔たりがあり単純に較べられない。
 会津図書館にも優待閲覧室があり、その2階窓から会津鶴ヶ城が眺められた。館外貸出も行われたが本は貴重品であり、優待券持参者、市立学校教員などに限られ、教員は教育書に限り無料であった。ほかに優待券保持者の保証がある者は1回5銭で借りられた。

 今や図書館の蔵書は自宅パソコンで検索でき予約もできる便利な時代、閲覧料が必要な頃とは大違い、隔世の感がある。筆者の活字中毒症状は薄れつつありもうちょっと読まないと。

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2013年4月13日 (土)

明治初期、郡山小学校教師・御代田豊(宮城県・福島県)

 NHK大河ドラマ【八重の桜】いよいよ時勢は転変、会津藩が追い詰められている。戊辰戦争へのゆくたてが展開しているが、筆者は主人公の活躍もさることながらチラチr映る周辺の人物が明治期にも登場するかが気になる。たとえば、ラフカディオ・ハーンに「神のような人と讃えられた秋月悌次郎(拙ブログ2012.6.13)」、山川浩・健次郎兄弟とその姉妹などなど。
 ところで戊辰戦争に敗れ「白河以北一山百文」といわれた東北、ことに福島県は三島県令が大規模な土木工事を計画、県民を夫役に狩りたて弾圧したから自由民権運動が拡がった。
 しかし、郡山は県や政府と密着した開拓事業を行い、人や金の面からも政府への依存度が濃かった。郡山盆地の安積疎水開鑿事業は内務卿・大久保利通の建言により士族授産・開墾を目的として着手、工費は40万円とも。県中央部に位置する郡山は交通の要地であり商工業都市として発展、自由民権運動に関しては空白地帯であった。

 1876明治9年、郡山(金透)小学校は第一次東北巡幸の明治天皇をお迎えする。立派に建てられた学校を木戸孝允は「金透」と命名、御代田の斡旋によるという。ここには賊軍とか賊地といったイメージはまったくない。自由民権運動もみられない。同じ福島県といってもその風土は、郡山と会津は異なる。
 『明治事物起源』石井研堂(拙ブログ2013.1.5)は郡山の出身で、古い物はもちろん新しい事物にも好奇心いっぱい。それは郡山という土地柄か、それとも郡山小学校の恩師・御代田(みよだ)先生の影響が大きいのか。
 御代田について調べたが、木戸考允は東北巡幸の翌年死去してい、御代田は中央に縁がなかったのか資料が見当たらず『石井研堂――庶民派エンサイクロぺディストの小伝』(山下恒夫・著/リブロポート)から殆どを引用させてもらった。

 御代田豊 1851嘉永5年~1905明治38年。宮城県名取郡に生。父は仙台藩士。

 前出「石井研堂~~」によれば、御代田は6尺豊かな眉目秀麗な青年で、武士的な気骨あり士魂の持ち主という。士魂は師魂に通じ1875明治8年、郡山小学校に赴任すると、まだ寺子屋風であった学校の改革を図った。御代田は校長として授業方法はもとより校舎の改築もすすめ生徒は一時、陣屋跡の校舎に移った。

―――(研堂)この陣屋の学校に夜学があって僕らは毎晩御代田先生の授業を受けた。学校ができても夜学をやめなかったので、毎日8時間以上御代田先生の授業を受けた。
―――金透黌(郡山小学校)は当時一千戸弱の郡山町の学校としては立派すぎる学校であった・・・・・・御代田先生の功績の一つとしてもよかろう。年僅かに26歳で学校の設計や建設や経営をしたのならば、先生は確かにえらい人であった。先生は多少フランス語の本をも読み、漢学は岡鹿門(千仞)先生の門に、仙台で1873明治6年新聞に関係して・・・・・・新しい頭脳の方であって、此の一学校に長たる如きは、鶏を割く牛刀であったかもしれない。
 御代田は自分で教えただけでなく、福島師範に生徒を赴かせ、近代的理科教育を受けさせた。それは研堂はもちろん、少年生徒らに大いに役だったのである。

 1882明治15年、研堂は15歳で退学、まもなく御代田も退職したが宮城に帰らなかった。研堂は御代田の仕事、郡山の市区改正計画で測量や図引きなど手伝う。そのうち御代田が校長に復帰、研堂は代用教員になったが二人の学校勤務期間は短い。
 研堂は上京し、御代田は1886明治19年県会議員に当選、郡山の県庁誘致運動に尽力する。やがて、事情は判らないが御代田は妻子を連れ帰郷、宮城県・松島の観瀾亭の管理人になった。
 1905明治38年東北地方は大凶作にみまわれ、御代田も不遇をかこっていたその年末、病没。行年55歳であった。

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2013年4月 6日 (土)

日就社・読売新聞創業のジャーナリスト、子安峻(岐阜県)

 前回は「芝麻布共立幼稚園設置」出願者が山東直砥・富田鉄之助・子安峻の3人と知り、東北出身の富田をとりあげた。大震災、原発事故が起き、せめて被災地に目を向けようとなるべく東北なのだけど“けやきワールド”、自分の為になってる。人物発見があったり、そこから明治人繋がりにと興味が尽きない。
 その3人の関係、とくに山東との縁を知りたくて、子安峻(こやすたかし)を調べてみた。すると、何で知らなかったのだろうという経歴、業績の持ち主だった。
 山東と富田はある時横浜に居て子安も横浜で活躍をしたからおそらく横浜つながりか。また、山東は神奈川県役人、子安は外務省役人として *マリア・ルース号事件に尽力している。

 * マリア・ルース号事件: 1872明治5年、ペルー船マリア・ルース号が修理のため横浜に入港した。その際、船底に監禁されていた清の苦力(クーリー)が逃亡し英国艦に救助を求めた。日本側は奴隷売買事件として裁判、苦力全員の釈放、本国送還を決定。これに不服のペルー国はロシア皇帝に仲裁裁判を依頼したが日本の主張が認められた。

 子安峻 1836天保7~1898明治31年。岐阜県。美濃大垣藩士・子安宗重の長男。幼名鉄五郎。号は悟風。

 子安峻は14歳で藩校・敬教堂の句読教授。のち江戸の下曽根金三郎の門に入り砲術、佐久間象山の元では蘭書(オランダ語)と舎密術(科学)を学んだ。藩に帰り子弟に教授するも又江戸に出て長州藩士・村田蔵六について蘭書と兵学を修める。
 1862文久2年、幕府の洋書調所教授手伝い。次いで横浜運上所の輸入検閲官・翻訳係となり明治維新後、神奈川裁判所翻訳官をへて1869明治2年外務省翻訳官。
 マリアルース号事件で副島外務卿のもとで外務少丞として清国苦力の開放に奔走しロシア皇帝から神聖アンナ第三等勲章を贈られた。

 1870明治3年4月、子安は横浜に活版印刷所「日就社」を創立、横浜在住の外人を雇い入れ技術の導入を図った。木版の時代で鉛活字もなく印刷事業は困難であったが、日就社は同年12月、わが国最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を発行した。井関神奈川県令の援助を受けて、日本字の鉛活字を発明した長崎の本木昌造の弟子・陽基二と子安峻が創刊したのである。

Photo  当時、英和辞書と言えば岸田吟香が手伝ったJ・C・ヘボン和英語林集成』などあったが数が少なく、語数も多く体系的な辞書が待たれていた。
 子安は日就社事業として柴田昌吉と外務省の同僚らの助けも得て、公務の余暇に英語辞書の対訳にかかり『英和辞彙』(写真)を日就社から刊行。初版5千部を売り尽くした。増補改訂の第2版を明治15年、普及版を明治20年刊行、鹿鳴館時代の英語人気もあって売れた。日就社はまもなく東京に移転する。

 1874明治7年「読売新聞」創刊。子安峻・本野盛享・柴田昌吉3人は、一部知識層のものであった新聞を一般大衆を対象として傍訓(ふりがな)新聞を創刊したのである。
『読売新聞百年史』に子安峻以下日就社編集陣の写真(明治9年)がある。

 1877明治10年、子安峻は退官、士族籍も返上して読売新聞社長に就任。かたわら扶桑貿易商会、貯蓄銀行、三田農具製作所、炭鉱事業などを経営、芝に紅葉館をつくり実業界にも重きをなした。
 1882明治15年日本銀行開設と同時に監事に推される。ここで日銀副総裁の富田とつながる。1889明治22年,日銀監事をひき、読売新聞社長も辞す。
 1893明治26年「勇新聞」を創刊したが125号で廃刊。この1898明治31年1月15日、62歳で死去。

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