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2013年5月

2013年5月25日 (土)

江戸から東京へ、義勇消防組の移り変わり

 火事と喧嘩は江戸の華。いったん火災が発生すると大規模になることが多く、江戸城や武家屋敷を守るため大名火消、定火消が組織された。いっぽう一般の町屋は自主防災、かけつけ消火だった。
 将軍吉宗は南町奉行大岡越前守に命じて自治消防を組織させ、「いろは48組」町火消が誕生した。
 町火消を構成するたちは身を棄てて義につく任侠、義勇の美風があり江戸町人に高い人気があり、江戸の「粋」の一面を代表した。しかし時移り

―――花のお江戸に異彩を放ち、勇敢と侠気とをもって誇った消防組も今時著しく衰退の状を示し、科学的進歩の為ではあるが1917大正6年器械消防の整理期に入りて以来いっそう消防組の意気は消沈した。今は唯余韻を残してわずかに昔の面影を偲ぶに止まるが、最近噂に上れる消防旗が実現してを廃さるる暁に至らば殆ど消滅運命に陥るかも知れぬ

 明治新政府は富国強兵の近代国家を目指し、まず軍政、警察制度を改革した。しかし消防は町奉行の付属から東京府庁消防局になったものの目立った改革はなされなかった。

―――特設消防署が五大都市(大阪・京都・横浜・神戸・名古屋)に施行された今日でさえ警察官からの消防転任を左遷の如く心得、消防を警察の付属物視してとかく忌避する傾向がある

―――明治の大岡越州と云はれて裁断流るるが如き玉乃世履(東京府権大参事・のち大審院長)氏も消防については越州式の聡明を欠いて全く零であった。

―――(大正期)警視庁官制5部長の席次中、消防部長を最低位に置き、俸給も他の部長に比して差があり・・・・・・義勇消防の凋落を痛嘆せざるを得ない。

―――明治10年代の出初め式の錦絵では、消防夫の姿が和服と洋服と混交。
     以上、『新舊時代』<義勇消防組の変遷盛衰・荒木三雄>より

 法政と早稲田の図書館を活用しているが、古い雑誌を手に取ることができありがたい。ただ古い雑誌類は合冊されていても、殆ど索引がなく地道に頁を繰るしかない。もっとも時間はかかっても探索記事意外の興味深い文に行き当たると愉しい。「義勇消防組」もそれで、消防の歴史、また玉乃世履や沼間守一など人名にもひかれた。
 読んで、世の中大転換するとき政治世界に目が向きがちだが、消防など実務畑は変化を受け入れ行動するしかなく大変だと思う。

      <消防 略年表>

 戊辰戦争から明治維新にかけ幕府が衰えたとき、町火消が江戸の治安維持活動の一翼を担った。

 1870明治3年10月 武家諸藩の火消を廃し、町火消48組本所深川16組を東京府(壬生基修知事)へ属し、町火消改め消防組となる。局長柳田友郷(種子島出身のち北海道開拓使赴任)

 明治7年1月 消防局は、新設の東京警視庁へ移管、安寧課・消防掛(澤井近知掛長)となる。次いで消防課(永田盛庸課長)と改められた。

 明治13年に消防本部が設けられるまで方針が定まらず、消防事務の主管は様々に変遷し幹部も警視からの兼任で専任ではなかった。

 明治8年1月4日 中断されていた消防出初め式が「人心を収攬し、その職を挙げしむ」として復活。地方へも普及、今日まで続いている。

 明治14年1月 官制をあらため本署とする。川端種長消防司令長は、沼間守一(元幕臣・政治家言論人)東京府会議長の諒解を得、イギリスから4組の蒸気喞筒(そくとう・ポンプ)を輸入したが、この時はポンプの扱いに不慣れで道も狭く使えなかった。

 明治17年本署に蒸気ポンプ(動力)、各分署にドイツ製腕用ポンプ(人力により操作し放水)を配備。

 明治22年 警視庁官制が改正されて機関士(消防官)がおかれ、放水を指揮した。

 明治32年 近代水道の開通により、蒸気ポンプは水利に困らなくなった。

 明治末期から大正にかけてガソリンポンプの国産化に成功、そして消防自動車が登場、威力を発揮した。当時、消防組の運転手は花形であり、羨望の的であった。

 参考: 『新舊時代』(明治文化研究会・大正14~15年)/ 『消防団120年史』-日本消防の今日を築き明日を拓くその歩み- 日本消防教会(近代消防社・平成25.3.7)

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2013年5月18日 (土)

織田(丹羽)純一郎 文学者・新聞記者

 世の中広い!この地味ブログを読んでくださる方が思った以上で驚いている。感謝しつつ張り切りすぎず地道に書いていきたい。幕末明治を知るのは楽しい。
 時勢もあろうが明治人は個性豊かで行動範囲も広く興味がつきない。新聞草創期の記者らもその例にもれず、中でも硬軟両端の織田純一郎・朝日新聞初代主筆は小説にもなりそうだが、あまり知られてない。それは三条実美(幕末・明治の政治家、公爵)に憎まれたから?それとも素行?

 織田純一郎 1851嘉永4~1919大正8年 本姓若松。京都府生れ。
 父は京都所司代与力大塚猪蔵、幼名は幸之助。一条家の諸太夫若松備前守に養われ、のち三条家の用人丹羽氏の養子になり名を純一郎に。さらに曾祖母の姓・織田氏を名乗る。
 織田は昭憲皇太后(明治天皇皇后)がまだ一条家の姫君のころ、時どき学問のお相手をしたと伝えられる。1869明治2年昌平黌に遊学、のち高知の藩校致道館に入学。

 1870明治3年末、西園寺公望(明治・大正・昭和期の政治家、公爵)、尾崎三良(官僚)らとイギリス留学、エジンバラ大学で政治経済を学んだ。1874明治7年卒業し、いったん帰国、今度は三条実美の子・公恭(公美とも)のお付きとして再びイギリスへ渡った。

―――新日本は人材を必要とし海外留学を推進していたから洋行の若様のお供をし西洋文化を吸収、活躍した者も少なくない。明治のジャーナリスト池辺三山はその一人で、旧藩主細川護成に従ってフランスに留学、その余暇に書き送った「日本新聞の巴里通信」パリからの海外事情は好評を博した。
 他方で大名・公卿・華族の子弟中には
「一人はロンドンの業平となり一人はパリの助六となりつつ、ひっきょう一道も貫かず、国に帰りて役立つ貴公子は甚だ少なし」も(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。
 三条公の若様はお付きの織田が役目を果たさず遊里に出入り、ロンドンで羽を伸ばしすぎたらしい。父実美は補導よろしきを得ない織田を憎み、終生仕官を差し止めたとか。

 パトロンから見放された織田だが、帰国後、翻訳小説『花柳春話』(イギリス・リットン原著の抄訳)や『龍動ロンドン繁昌記』など著し、当時広く読まれた。

 しかしその暮らしぶりは『明治事物起源』石井研堂が友人から聞いた話によると、
―――俗客を集めて花札をしたり書画を売買・・・・・・狭斜(色町)にて戯れの文を読み物にし・・・・常に黒縮緬の羽織を着流しぞろっとしたる身なり、黒縮緬の先生のあだ名あり・・・・日夜留守がちなりし為に妻女は他の男に奔る。
 のち「大阪朝日」に入社、その頃に17歳の雛妓を娶り後年まで琴瑟相和す。しかし、研堂は一度訪ねたきりで会いに行くのを止めている。

 朝日新聞は娯楽と雑報が主の小新聞(こしんぶん)から政治経済が主の大新聞(おおしんぶん)へと変貌1885明治18年、初代主筆に織田を迎えたのだ。織田の仕事ぶりは『朝日新聞社七十年小史』によると、

―――諸外国の法制に精通、漢学の素養もあり、識学共に卓越した名記者で特に大阪府政に対する忌憚なき論評は、府の当事者や一般府民を覚醒する警鐘となっていた。また欧化主義全盛の時代に織田は西洋文明の長短、利害を截然と区別し批判して、欧米の皮相文明にかぶれた短見者流を戒め、条約改正問題も国際法と各国の法理に照らして条約締結の根本原則を明らかにし、改定すべき要点を懇切明快に解説して余すところがなかった。

 1888明治21年、織田は欧米新聞事業の視察を命じられ、アメリカに赴任する陸奥宗光公使と同船し渡米。帰国後、「大阪公論」主筆、翌年廃刊になり朝日新聞通信員として東京に出張していたが退職して陸奥の「寸鉄新聞」主筆、1892明治25年廃刊。
 その後、調査事業にうちこみ1900明治33年「社会新報」発刊、貧民問題に力を入れたが思うに任せず明治末期には根岸の侘住居で肺を病み、1914大正3年京都にひきあげた。69歳でそこの高野玉岡町で没(『現代日本文学大事典』)。 

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2013年5月11日 (土)

旧水沢緯度観測所(岩手)、木村栄(石川)、宮澤賢治(岩手)

 卓球をしているが百回注意されてもできない事が、痛い思いしたらできた。試合中、ひどい捻挫で一歩も動けなくなり病院直行。捻挫は足幅が狭いせいもと言われ、やっと足幅がとれるようになった。スポーツは頭と身体の両方だから難しい。じゃあ、脳みそ使うだけなら簡単?どっこいそうはいかない。とくに理数系はさっぱり解らない。親切丁寧な説明も素通りして残らない。どうでもいい話をしたのは<国立天文台水沢VER観測所>が気になったが「緯度変化」とか理解できない。でも、この観測所のこと書いてみたい。という訳で苦手、生かじりのまま書く言い訳です。

 1898明治31年、当時、地軸の位置に変動があることが発見され世界の学会で大問題となっていた。そこで、その正確な測定をするため万国測地学協会は緯度観測所を6カ所に開くことを決議、田中舘愛橘(拙ブログ2012.11.3)はその一つを水沢に設置することに尽力する。
翌年、臨時緯度観測所が開所し木村栄が初代所長に就任した。木村は国際緯度観測を開始、以後40年以上にわたり緯度変化の観測・研究に没頭した。
 最初のころ、他の観測値に比べて水沢での差が大きく、観測値に不規則な誤差が生じた。これは日本の観測技術が未熟なものと疑われた。木村栄所長と職員らは天頂儀を解体して点検したが、機械に誤差の原因を見いだせなかった。
 地球の自転軸の移動にもとづく緯度の変化は観測地の経度によってちがうものであるが、緯度の変化のうちには経度に関係のない部分も含まれる。そこで木村は、自然現象の中に誤差の原因があると考えた。
 1902明治35年、木村は緯度変化を示す式に「Z項(木村項)という季節的変化を示す項を加えねばならない」ことを発見、日本の観測技術の水準の高さを世界に示した。

 木村栄(きむらひさし)
 1870明治3年~1943昭和18年。明治・大正・昭和の天文学者。
 東大卒業。大学院に進んだころから地軸変動を調べるため東京天文台で観測調査をはじめ、岩手県水沢に創立された緯度観測所の所長となり1941昭和16年までその職にあった。Z項/木村項の発見により第1回帝国学士院恩賜賞を受賞。大正期に万国緯度観測中央局が設置されるとその所長になる。1937昭和12年第1回文化勲章を受章。
 その後、旧臨時緯度観測所は木村栄記念館として測地学資料の展示など行われている。

 緯度変化の観測は、地図作成、天体の精密位置測定などに必要であり、地球の内部構造、近くの移動の研究などに重要である。日本及びアジアにおける国際測地学研究の拠点として、測地学に関連する研究及び測定を行ってきた観測所は組織変更により国立天文台VERA観測所となり、現在も国際緯度観測事業を行っている。
 また、観測に用いられた機材開発技術を応用して、月測地学探査に必要な機器開発を実施し、現在月探査計画での観測データ解析も行われている。

 ところで、水沢緯度観測所には花巻農学校(岩手県立花巻農業高等学校)の教師をしていた宮沢賢治がたびたび訪れた。この観測所で『風野又三郎』や『銀河鉄道の夜』の着想を得たともいわれる。それにもまして賢治が観測所を訪れたのには切実な理由があった。
 岩手県下に寒害・水害・風害・旱魃・病害などの予想があるごとに盛岡測候所や水沢天文台を訪れ、対策を考えて農村をめぐったのである。

  参考: 『岩手県の歴史散歩』山川出版社 『コンサイス学習人名事典』三省堂 『コンサイス日本人名事典』三省堂 『世界大百科事典』平凡社 『現代日本文学大事典』  <ja.wikipedia.org/wiki/水沢VLBI観測所>

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2013年5月 4日 (土)

靴のはじめ、桜組&紀州の靴製造

 皇太子ご夫妻オランダ訪問のニュースに、風車やチューリップ、かわいい民族衣装と木靴が思い浮かんだ。木靴、木の履物とはいえ下駄とは大違い。同じ素材でも文化風土でまったく異なる。しかし現代は何処でもほとんど靴だ。ここに到る迄、たとえば明治初期の履物は、
―――木履(ぽっくり)、下駄、雪駄(せった)、草履、麻裡(麻裏草履か)、草鞋(わらじ)、沓(くつ)、西洋沓、わら沓と9種類〔1871明治4・新聞雑誌〕
 時代小説愛好者なら判りそうだがイメージできないのもある。靴を沓とは、公卿の用いた「沓」からだろう。当時、靴は高価な輸入品で軍靴も同様だが、こんな話が、

―――維新前、徳川幕府は兵士の調練用に外国へ多数の靴を注文したが、戦乱中に荷物が到着して新政府に引き継がれた。ところが荷物は横浜の倉庫に積まれたまま。商人(伊勢勝)西村勝三がそれを知り1足1円で払下げを受け、軍の大村益次郎(村田蔵六)に1円半宛で転売、数万円儲けた。そのうえ、靴は外人の足型で作られたものだから日本人兵士の足に合わず、廃物になった。

  桜組製靴会社

 前出の西村勝三は軍靴製造が急務と考え1870明治3年東京築地入舟町に製靴工場を設けた。せっかくの日本初の洋式製靴業だったが製靴技術がなく上手くいかなかった。やがて横浜のオランダ人レマルシャンを雇い、軌道にのせることができた。以後、製靴技術は大いに進歩し伝習生を募集するまでになった。ところが材料の革は輸入頼り、そこで製革工場(桜組製皮所)を設け、次に工場全部を向島に移転した。さらに1903明治36年に千住に移転した。ちなみに、西村が下総佐倉の出身なので桜組製作所という。

  紀州の靴製造

 西村が靴製造をはじめた同じ年、紀州藩は外務省の許可を得て外国人教師86名を雇い各教科で技術習得を図る。藩はその中の二人、プロシャ人(ドイツ)革細工師ワルデーとフラットミドルを雇うと靴製造及びなめし革製造を開業した。藩内の牛馬、その他の皮類を買い入れて精製、また修得希望者を多く採用して業務を広めた。 
 *兵員常用品はもちろん一般販売もした。紀州靴は評判となり *大阪鎮台の需要をも一手に担うほどであった。維新後の士族授産事業中もっとも結果がよく、靴製造業が盛んになる基にもなったのである。

 *兵員: 紀州藩は国より早く1869明治2年徴兵制度を実施、農工商子弟20歳の者はことごとく兵役に就かせることにした。
 *大阪鎮台: 廃藩置県と前後して鎮台(軍団)を設置。1873明治6年、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台を設置し徴兵令を発表した。のち師団。

     鳴革の靴〔1887明治20年4月〕
―――明治の初年、靴は歩くにつれて音を発するを善となし、わざわざ一種の革を底にはめて音を出さんと勉めたるもの也・・・・・・「鳴革入りの靴はいて」という俗謡は、明治中期青年立志の一標的なりし。いかなる間違いより鳴靴をよしとする流行の起こりしものやら。

    女教員・女学生の靴はいただけない〔1883明治16年・朝日新聞〕

   山形の女学生は靴・袴姿〔1881明治14年・東京日日新聞〕
―――浜尾文部大臣が東北を巡回のおりしも・・・・・・女生徒らの風体ありて半男半女の姿あり、靴を履き、袴をつけ、意気揚々として生かじりの同権論などなす者あり。それ故か心ある者は女子を学校へ出すをきらい、女生徒の就学少なき・・・・・・女の靴、袴はほとんど跡をたちたりしが、山形では一人の女教師服せざるあり。何か説をなしてその意を貫徹せんと

 参考: 『明治事物起源』石井研堂  『明治日本発掘』河出書房新社 『近現代史用語辞典』安岡昭男編

            *** *** ***

     日蘭関係から思ったこと

 オランダについて、長崎の出島、オランダ風説書など鎖国日本においても交際があった国として親しみを感じていた。オランダ人も同じかと思っていたが、オランダ人は違うと聞かされた事があり不思議だった。その訳は戦争。

―――大半のオランダ人は江戸時代の交流を知らず、日本に直面したのは第二次世界大戦時。オランダ植民地だったインドネシアを占領した日本軍はオランダの兵士と民間人を強制収容所に入れ、食糧不足などで約17%(約2万2千人)が死亡した(毎日新聞「金言」2013.5.3)

 そういえば、オーストラリアに住んだことがある知人にも、日本人を嫌いな人がけっこういると言われたことがある。これも戦争が原因。
 戦後68年、孫のいる年代ですら戦争は親の話の中でしか知らない。その親たち明治・大正世代はもとより戦争中に少年少女だった先輩方も減りつつある。戦争をまったく知らない人間ばかりになったら、この先どうなるのだろう。今日は憲法記念日、まずは平和憲法大事にしよう。
2013.5.3

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