« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2013年6月

2013年6月29日 (土)

缶詰のはじまりは?

 「缶詰の始まり」について、“つけまる氏”(服部撫松コメント)よりご案内があり当たってみました。纏めにくいので羅列しましたが、始まりはいつが適当でしょう。

   [罐詰の始]石井研堂 (『明治事物起源』1908明治41年橘南堂) 

――― 缶詰の始は1870明治3年中、工部大学雇教師米国人某が、四谷区津の守に住ひて、四季の果物類を缶詰と為し、自用に供したるを始とす。当時この外人に雇はれ、缶詰製造の手伝を為したるは、千葉県行徳の山田箕之助といふ者にて、同人先代喜兵衛(維新の際五稜郭にて戦死す)は、嘗て将軍家の漬物方を勤めしことあり、其の家記に拠れば、
 寛永年間、北条阿波の守天草征討(島原の乱)の際、軍中に副食物の乏しきより、握り飯には一切黄粉塩を用ひ、後品切れにて胡麻塩に改めたるも。是又不足を告げて、拠んどころなく大根を細かに切りて味噌溜りにつけて溜漬と称へ、軍用に供したり、然るに文化年間、露人北海道に乱入したる頃、近藤重蔵氏 石狩国紋別に於て、右の溜漬を醤油漬に改めたるより、これを紋別漬と称ふ云々とあり。
 斯くて箕之助は、1874明治7年前記米人の缶詰法に拠りて、この紋別漬を改良し、他の野菜類を用ひたるこそ、邦人の手にて缶詰を作りたる起源なれ。同年三井物産会社より、下谷池の端某店に托し、紋別漬200個を布哇(ハワイ)及び米国に輸送したるを以て、缶詰輸出の始とするよし。

 山田箕之助: 福神漬発明者「野田清右衛門表彰碑」建立に名を連ねる。浄光寺(雪見寺)に建立の者は風戸弥太郎(日本和洋酒缶詰新聞社社長)、村田与兵衛(京橋にあった缶詰漬物商)、山田箕之助ら16名。
 近藤重蔵: ご存じ蝦夷地探検家。旗本。
 黄粉塩: 筆者には不明だが、箕之助の出身地行徳は江戸の頃栄えて塩田があり(行徳塩)幕府の保護も厚かったという。明治にも農商務省の製塩場があった(参考:『東京郊外楽しい一日二日の旅』1925年/『東京から:最近実査』1921年)。

 

  『日本工業史』大観日本文化史推薦書(1942南種康博・地人館)より

 1871明治4年 松田雅典、長崎にて外国語学校広運館教師フランス人・ヂュリーから鰯油漬缶詰の製法伝授を受け試製した。
 1875明治8年 内務省勧業寮内藤新宿出張所に於て、果実や蔬菜の缶詰を試製。同年、米国加洲から帰朝した柳澤佐吉桃の砂糖煮缶詰を試製した。
 1876明治9年 米国帰りの大藤松五郎トマト缶詰を試製したが、製法幼稚なために大半が腐敗。
 それより先、関澤昭清はコロンビヤ州の鮭缶工場で缶詰技術を受けて帰朝、大久保内務卿に缶詰製造の必要を建言して容れられ政府は北海道開拓使に命じ、石狩川河口に缶詰試験場を設け、米国より教師としてU・S・トリートとその弟子を招いた。
 1877明治10年 フィラデルフィア万博の審査官として渡米した池田謙三、手動製缶器械一式を購入して帰朝し、新宿試験所農具製作所(内務省勧業寮内藤新宿出張所)で之をまねて製作し民間の求めに応じた。缶詰製造を続け西南戦争に於ては陸軍に360貫の魚肉缶詰を補給した。わが国軍用缶詰の始である。

 

  『中川嘉兵衛伝』(香取国臣編・関東出版社・昭和57年)より
    牛肉缶詰の創始者
 1872-1873明治5-6年:中川嘉兵衛米国人ウィートより缶詰の製法を伝習される。1880明治13年より嘉兵衛の子・中川幸七、外国より缶詰機械を購入、東京銀座に店舗を構えて、牛肉缶詰を発売し名声を博す(『日本食肉小売業発達史』昭和46.3.31発行)。

    缶詰の日/10月10日:
 1877明治10年、明治政府は北海道開拓使による官営の缶詰工場を石狩に設置し、石狩川をさかのぼってくるサケを原料に我が国で初めて缶詰の商業生産を開始。この日が明治10年10月10日であったという記録により、缶詰業界では「缶詰の日」に制定(日本缶詰協会ホームページより)。

 

      余談
 1879明治12年日本は不平等条約の改正を強く望んでいたから来日する外国人の接待には気を遣った。アイルランド選出の議員で香港知事ヘネシーが北海道巡回中、折しも缶詰のできはじめであったから、開拓使の役人は缶詰で饗応した。するとヘネシーがしきりに誉めるので毎日、鳥獣魚肉の缶詰が供され、ヘネシーが辟易したというエピソードが林董『後は昔の記』にある。この「ヘ氏缶詰責めに逢う」を林は次のように結ぶ。
―――相互の事情に通ぜざる他国人を遇すること、之に類すること多し。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2013年6月22日 (土)

イザベラ・バード旅行記とパークス卿夫妻の富士登山

 鎖国日本が開国し明治維新なるも至るところ不平不満の種はあって1877明治10年西南戦争がおこり、西郷隆盛を推したてた士族反乱は徴兵軍隊に鎮圧された。まだその余波がありそうな翌年、早くも日本各地を旅したイギリス人女性がいる。ロンドンで出版された旅行記はわずか1ヶ月で三版を重ねる人気だった。その本を東海散士柴四朗も持っていた。会津若松市立図書館に今もある。ヨーロッパ旅行時に購入したのだろうか。
 その原題は
Unbeaten tracks in Japan,an account of travels in the interior, including visits to the aborigines of Yedo and the shrine of Nikko,”(日本の人跡未踏の道、江戸、日光、奥地旅行記)。

 著者イザベラ・バード(1831~1904年)は、東京から北海道まで奥地を旅して記録した。その『日本奥地紀行』邦訳を読んで「昔の佳き日本人がそこにいるよう」な古い旅行記がなぜか新鮮だった。
 バードは街道筋の大きな町を避け、なるべく人跡未踏の道を選んで歩いた。ドナルド・キーンが「まことに気丈なイギリス人の女性がいた」というように、筆者もほんとうに女性なのか名を確かめたほどだ。それほど大胆に不便な奥地を旅している。バードは見たまま、感じたままを率直に記す。

―――「私に食べられるものといったら、黒豆とゆでたきゅうりだけ。私が泊まったところが、街道外れの、日本の標準から言っても小さな村が多かったことを思えば、全般的に宿の施設は、蚤も悪臭もなく、驚くほど優秀だったといっていい。世界のどの国の、同じくらい辺鄙な場所と比べて、比較にならないくらいましだと言わざるを得ない」
―――「暑いけれど、まことにうるわしい夏の日だった。会津一円の、雪を頂く峰々は、陽光に輝いて、少しも涼しそうには見えなかった。だが南には栄える米沢の町があり、北には賑わう赤湯温泉がある米沢平野は、まさにエデンの楽園と呼ぶにふさわしかった」。バードはよいものは惜しみなく称賛した。

 ところで、これまでの邦訳は関西と伊勢方面が省かれていたそうだ。このほど旅行記の完訳が出版されたと毎日新聞(2013.6.18手塚さや香)にあった。
 『完訳 日本奥地紀行』全4巻、訳・金坂清則(平凡社)
 金坂教授は原著に基づいてバードの旅の舞台へ足を運び、当時の地元紙や郷土資料を調べ、記述に食い違いがないか照合しながら訳したという。読めば、明治初めの日本庶民とその暮らしが眼前するに違いない。

 イザベラ・バードはイギリス駐日公使ハリー・パークス(1828~1885)の仲介で手に入れた旅券を持って日本国内を旅した。パークスもまたバードの旅とは異なるが各地に出向いた。土佐など大名の領地を訪れたり、富士山にも登った。
 <パークス夫妻の富士登山・1867慶応3年10月>(『ヤング・ジャパン 横浜と江戸』全3巻(J・R・ブラック)。
―――パークス卿は夫人と大勢の友人と一緒に富士登山をした。非常に遅い季節で、頂上は既に雪におおわれていた。しかし一行は、あらゆる困難を乗り越えて成功をおさめた。パークス夫人でさえ、最後まで頑張り、ついに日本の最高地の上に立った。彼女こそ、この神聖な高地に到着した最初の外国女性であった。・・・・・・寒気の厳しさは非常なもので、一行の中には、歩きながら手を振ると、手の皮がすりむけた者もあった。気温は華氏10度(摂氏零下12.2度)の低さだった。

 世界遺産・富士山は美しく気高い。遠い昔から人の心を掴んではなさない。どちらかといえば強権イメージのパークスが夫人と富士登山、彼も人の子。しかしながら駐日公使パークス卿として天辺から眺めたヤング・ジャパンの形勢やいかに。やがて日英同盟を結ぶまでに力をつけると予測しただろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2013年6月15日 (土)

63歳の老武士荒蕪の地を拓く、新渡戸伝(岩手県)

 明治期のジャーナリスト鳥谷部春汀(銑太郎1865慶應1~1908明治41)の人物評は、行届いた調査、情理兼ね備えた論評が好評だった。現代でも、同時代人の人物観察は興味深く、参考になる。たとえば『春汀全集』評論「東北の人物」、一部引用すると、

東北の人物>1899明治32年9月
―――  世間東北を評するや、或は曰く、其地形人物頗る大陸的風気あり。或は曰く、東北は日本のロシアなり。東北人は頑固なり。東北人は遅鈍なりと。而して是れ多くは西南人の目に映ずる東北の性格なり。余請ふ東北の代表者と認むべき人物に就て少しく語らむ。
 由来西南には多智多識の人物輩出したれども、冷静の思索に長じ、堅実の創才に長じたる人物は寧ろ反って東北より出でたり。例えば国防の予言者たる林子平氏の如き、開国の先見者たる髙野長英氏の如きは、西南地方に生まれずして、共に東北の仙台に生まれ・・・・・

――― (以下、論評を割愛、氏名のみ) 佐藤信淵、平田篤胤、大槻盤渓、那珂梧楼、照井小作、工藤他山、新渡戸(邊)伝、広沢安任、伊達邦成、後藤新平、柴四朗、原敬、高平小五郎、杉村濬、赤羽四郎、林権助、珍田捨巳、佐藤愛麿、本多庸一、河野広中、鈴木舎定、菊池九郎、工藤行幹、富田鉄之助、髙野孟矩

――― 東北人を以て与し易しと思はば必ず失算あらむ。後藤伯(象二郎)は曾て東北を遊説せり、西郷(隆盛)侯も又曾て遊説せり、而して東北人は毫も感服せざりき。東北人は義理には明なれども利害の為に働かず。正義の前には叩頭すれども、人物を愚弄せず、権力に屈従せず、是れ東北人の性格なり。故に東北人は、学者として曲学阿世の徒を出さず、実業家としては投機師御用商人を出さず、政治家としては権謀術数の策士を出さず・・・・・・

 百年昔の東北人評、現代とどこが同じでどこ違う。それはともかく東日本大震災、津波、原発事故で被災した東北に必要なのは元気と力。蘇ったなら元気を分けてくれそうな人物を春汀の人物評から探してみた。五千円札肖像でおなじみ新渡戸稲造の祖父、江戸後期の篤農家・新渡戸伝(つたう)はどうだろう。

――― (新渡戸伝) 独力を以て、広漠無辺の三本木野を開拓せしむとして十年、しかも耳順(60歳)後の事業なるを思えば、その精神気力の大いに常人に超ゆるを見るべし。行未だ半ばならずして死したりと雖も、その建設せる地は、今や青森県の一名邑として彼の霊祠と與に残り、計画せる上水工事は今や渋沢栄一氏の手に依りて継承せられ、その目的漸く成らむとせり。以て彼が創業の規模頗る遠大なりしを知るに足る。

 新渡戸伝 (1793寛政5~1871明治4)。盛岡藩士。名は常澄、通称次郎八。

 十和田湖から東へ流れる奥入瀬川の左岸に近く三本木町がある。1935昭和10年、人口6600人かなり開けた町となっているが80年前、新渡戸伝が開墾に着手するまでは荒れ果てた原野であった。

 新渡戸伝の父惟民南部藩士で祿百石、花巻に住み軍学に秀でていた。花巻城の防備について藩主に反対、清廉潔白の人だが硬直のため屈せず追放され川内に移った。
 伝は貧乏な家計を支える為に、木樵となり行商人にもなった。その間、茫漠無人の三本木原野の開墾を思い、十和田山中の深林の利用法を考えていた。
 やがて援助を得ることができた伝は、十和田の深林を切り出そうとしたが
「湖水には龍神がいる」
という迷信を信じる村民は手を出さなかった。伝は多くの杣人(きこり)を雇い自らも木材を伐りだし、奥入瀬川の急流を利用して八戸港に流下、さらに江戸へ回漕した。9年間で大いに利益をあげたが、父の帰参が叶ったのでやむを得ず帰国する。当時、南部藩は財政が窮乏、理財にたけた伝を藩の勘定奉行にすることにした。

 数年の間に藩の財政も整い、ついに藩主から三本木野の開拓許可がでた。
 伝は63歳になっていたが情熱は衰えず、まず水利から着手。奥入瀬川の水面は原野より低くかったので上流から水を引くのは難事業であった。他にも問題山積、資金集め、労働者、安住できる町作り計画等など困難があった。労働者が足りず藩主に請い囚人もつかったという。

 こうして伝は開拓に心血を注いでいたが、再び藩に呼び戻され、息子の十次郎が事業を継いだ。十次郎は野辺地一帯の灌漑をも考えていたが果たさぬまま病死。このころ七戸藩の家老となっていた伝は息子の死後、藩の事務をとりながら開墾に従事した。
 1871明治4年、新渡戸伝は自分の開いた町でなくなった。79歳。三本木開拓の恩人は、町の中央の東の森に葬られた(太奉塚)。

 参考: 近代デジタルライブラリーより『春汀全集』『自治経営美談』『郷土資料・修身科補充教材』(岩手県教育会)『百傑スケッチ・金言対照』。 『コンサイス日本人名事典』三省堂

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2013年6月 8日 (土)

服部撫松、宮城県中学校作文教師になる

 明治はじめの新日本は西洋文明の移入に忙しかった。この「文明」は西欧の武力、智力、技術が優先だったから「文学」は含まれていなかった。江戸時代からの戯作、風刺の雑文が社会の片隅にあったが夢中で読むような小説はまだなかった。
 当時、知識層に人気があったのは服部撫松『東京繁昌記』(1874明治7年)、成島柳北『柳橋新誌』(同)などでともに漢文体で時勢を風刺、開化の世相を探り人気があった。柳北は「朝野新聞」でも知られているが、撫松の名はあまり聞かない。自分も知らないのであたってみた。

 服部撫松(はっとりぶしょう 1842天保13~1908明治41)、家は二本松藩の代々の儒家。本名は誠一。戯文家、ジャーナリスト。

 『東京繁昌記』で好評を博した後、週刊雑誌『東京新誌』(明治9~)、『江湖新報』(明治13~)・『内外政党事情』(明治15~)など政論誌を興し、改進党系のジャーナリストとして健筆を振るっていたが、やがて中学校の教師として東北に赴く。

 1896明治29年、宮城県尋常中学校(のち第一中学校)へ作文教師として赴任。
 ちなみに『コンサイス日本人名事典』(三省堂)に「小学校の作文の教師」とあるが中学の間違いではないか。『現代日本文学大事典』(明治書院)には仙台第一中学校の漢文教師として赴任とある。
 吉野作造は中学5年生で服部先生の指導を受ける。思い出「服部誠一翁の追憶」(『新旧時代』)を残している。今の作文は好きな事を思いのまま綴るイメージだが、当時は与えられた課題を漢文くずし、難しい言葉を並べて書くものだったらしい。服部は吉野の卒業後、作文と漢文も教える。

 服部先生が来るまでの吉野ら生徒は
―――国学者・松本胤恭先生が新井白石の『藩翰譜』を読ませ、作文の課題は史論風のを与えられた。国文主任・今井彦三郎先生は枕草子徒然草などを奨励し、軽妙な短編を好んで作らせ、作文の風は和文体の傾向があった。所が之が服部先生の気に入らない。で、校長に報告をする。

―――私(吉野))は代表で湯目補隆校長に呼ばれた。お前方の作文をみると成るほどなっていない。今度来た服部先生というのは日本でも有名な文章の大家で、一体こんな所へ来て貰える方ではないのだ。こういう偉い先生につくのがお前の非常な幸福なのだから、これから身を入れて勉強しろ、こんこん説諭された。

―――服部先生は漢文くずしでなければ文章でないといふのであった。こそだの、けれどだのと書くと直ぐ朱線で消される。が、教場における先生の態度に面白味を覚えて心秘かに好愛し、先生にも可愛がられた。

―――私の郷里のさる人の碑文を有名な服部先生にみてもらいたいというので、先生に見せると無遠慮な朱筆を加えたので儒者が怒った。それから面倒が起こったが、先生の洒洒落落(しゃしゃらくらく)さっぱりしてわだかまりがない態度は大いに私をひきつけた。

―――先生の国訛りはひどい方でなかったが「どら程あるかと云えば、こら程ある」先生の「どらこら」と之に伴う手真似は有名で、生徒がどっと笑う・・・・・・白墨で真っ白になった手で衣服をいじり、顔も斑白にしたりを生徒が笑っても、平気であった。

 吉野は撫松が宮城県に来た訳を「先生の仙台に流れてこられたのは、多分落魄の結果であったろう」と察する。しかし「私共は曾て一言の不平を先生の口から聞いたことがない」と異彩の先生をなお敬愛する。

 吉野はのちに袁世凱の招き(拙ブログ2011.4.19 大正デモクラシーに理論を与えた人)で清国に赴く。
 1908明治41年7月一時帰国、その間に突然、服部先生が訪ねてきた。
 「老後の思い出に支那に行きたいから周旋しろ」と言われた。そのおり吉野は何を話したか忘れたが、服部先生が帰った後、座布団の周囲が煙草の灰でいっぱいだったのは覚えている。その翌月の8月15日、休暇で帰郷中の服部撫松は急病で没した。

| | コメント (1) | トラックバック (0)
|

2013年6月 1日 (土)

原野に道路を切り開いたのは(北海道網走)

 2泊3日道東の旅。紋別空港からはじまって1日目は観光バス240㎞糠平温泉泊まり、2日目413㎞温根湯温泉泊まり、3日目315㎞。それに一部の人は、ひがしもこと芝桜公園花火見物で往復180㎞プラス、帰りの女満別空港まで計1148㎞のバス旅。それにしても夕食後の花火見物地が片道90㎞も先だったなんて、北海道って広~い!

 くしろ湿原ノロッコ号から広い湿原と蛇行する釧路川を眺め、オシンコシンの滝、摩周湖、知床半島は船で見物。合間にクマ、シカ、キツネ、馬、牛、ツルやアオサギも見た。またツルのために電線にカバーがかけてあったり、牛が道路を横切るとき交通事故に遭わないようにと牛のトンネルもあった。北海道は動物と共存している。
 最北端ゴールの桜前線のピンクと紫のエゾツツジに北国の春を実感、でもそここに雪が残り山は雪景色、夏はいつ来る?
Photo


 道は何処までもまっすぐ、直線16㎞の道もある。車窓の景色はひたすら畑か牧場、しまいに飽きがきそう。でも、くしろバスガイド高橋美保さんのユーモアを交えた説明が上手で飽きなかった。生まれ育ったふるさと、北海道への思いがにじみ出ていたのもありそう。たとえば畑山葵の話。

 山葵工場を造ることになったが山葵を栽培してくれる農家が見つからない。何とか網走監獄の官園で栽培して貰えることになった。9年かかって目途が立ち、やっと農家に栽培を依頼できた。やがて北海道産の畑山葵は全国に出荷するまでになり現在に至る。そんな話を聞いたせいか昼食の海鮮丼、山葵の鮮やかな緑が舌ばかりか目にもピリッ。

 旅は天気に恵まれ、網走の町に入ると明るい日差しの下で静かな佇まい。網走番外地のイメージは全くない。しかし今は博物館になっている赤煉瓦の網走監獄に囚人がいた時、囚人は道路開削に駆り出され苛酷な労働を強いられたという。明治の昔、原野に道を開いたはじめは囚人労働だったのを知り、図書館で調べてみた。その項を読むと想像以上に残酷で怖ろしい。

 明治初期、ロシアが南下し領土拡大の動きがあって、政府は北海道を開拓して府県からの移民を送ることにした。そのためには条件整備が急務であり、道路開削や炭鉱開発の労働力を確保しなければならなかった。 次の引用は、1879明治12年、内務大臣・伊藤博文は太政大臣・三条実美に意見書、1885明治18年内閣大書記官・金子堅太郎「北海道三県巡視復命書」が引用されている『北海道の歴史60話』(三省堂)から

―――長期の流刑囚徒を北海道の未開の地に送り耕作させれば、内地における負担と危険が除かれる。徒刑・流刑の囚徒の労働力を活用して北海道の開拓にあたらせ・・・・・・

―――1881明治14年樺戸、空知、釧路、網走、十勝に囚人を収監する集治監が設置され、最大時で7000名以上の囚人が収監されていた。開拓の礎にされた囚人の酷使・虐待は目をおおいたくなるほど酷い。多くの囚人が犠牲になったが「死んでくれれば一石二鳥だ」監獄費支出が減る。一日の賃銭も一般工夫なら40銭だが、囚人を使えば18銭ですむ

 集治監: 囚人を収監する施設。囚人は殺人強盗など重刑者であったが、自由民権運動の国事犯も含まれていた。
―――(釧路集治監看守の話) 囚人が死んでも連鎖をつけたまま葬られた者が少なくなかった。
―――(同看守) 網走-北見150㎞の道路を開業するために遠く網走に囚人の宿泊所を設けてここを本拠とし・・・・・・早く完成させるために800名の囚人を各区域毎に配置、激烈な競争をさせた。時には暗夜の12時、1時までも松明をつけてやった。

 鎖塚
 端野町緋牛内に三基の鎖塚がある。1891明治24年4月に着工し12月に竣工した上川・網走間の中央道路(北見道路)の工事には1400人の囚人が服役させられ、死者は211人に及んだ。死亡した囚人は鎖をつけたまま土をかぶせられ、土饅頭の塚ができたため鎖塚の名がうまれた(『北海道の歴史』山川出版社)。

 釧路集治監庁舎はいま標茶(しべちゃ)町郷土館として釧路湿原国立公園内の塘路(とうろ)湖畔に現存する。塘路駅に案内板があった。
 釧路に石川啄木の歌碑が幾つもあるのは、啄木が1908明治41年に釧路新聞社で勤務した縁である。
 啄木が歩いた釧路の道路、観光バスで通った網走の道路、どの辺りが明治期に切り開かれた道なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »