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2013年7月

2013年7月27日 (土)

ああ上野駅

 いつも行く御茶屋さんで、タウン誌『うえの』(上野のれん会発行)が手に入る。読むたび、懐かしさと発見がある。実家の墓が谷中にあり日暮里駅から歩いてお寺へ行くが、帰りは、東京芸術大学の前を過ぎて上野公園に入り、奏楽堂、さらに動物園を右に見ながら園を抜け上野広小路に出る。広小路が火事の多い江戸の火除け地と知ったのは後のこと。
 ともあれ墓参は外食、見物、買い物がセットで楽しみな家族行事。用が済めば上野駅からJR、父親は省線と言ってたそれに乗って帰る。

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 今では上野駅もすっかり様変わり。薄暗い地下道にあった、映画の寅さんが何かと立ち寄った古びた飲食店はとうにない。構内の至るところに今風のしゃれた店が続々開店、昔の面影は消えたよう。でも、中央改札頭上の壁画を見上げるとウン十年昔が蘇る。やっぱり上野駅。東京の「北の玄関口」正面に、都電もレールもないけど外観は昔ながらの、ああ上野駅。
 感傷的になっていたらテレビで大人気「あまちゃん」が上野駅ペデストリアンデッキで、岩手県に帰る「ストーブさん」を見送っていた。平成の今、上野駅待ち合わせはここ?ともあれ、上野駅あれこれ拾い出してみた。

 

 『うえの』7月号巻頭は、天満裕一・上野駅内勤総括助役「上野駅の日々」――開業一三〇周年を迎えて――
 そもそもは1883明治16年7月28日に日本鉄道会社の始発駅として開業し、列車は上野-熊谷間を2時間24分で二往復走りました。(後略)

 日露戦争後の1906明治39年鉄道国有法により鉄道庁の管轄となる。
 1923大正12年の関東大震災で駅舎焼失、1932昭和7年現在の駅舎を落成。
 以来81年間、鉄道は兵士をどれだけ運んだろう。駅舎はどれだけの悲喜交々を見ただろう。終戦後、上野駅周辺や地下道には多くの罹災者が集散した。戦後も暫くの間、西郷さん銅像近く、階段の両脇に白い服の傷病兵の姿があり、子供心にももの悲しい光景にだった。

   <上野駅今昔>

 今では従業員が勤務中に酒を嗜むことを禁じてあるが、1894明治27年ころ(日清戦争前か)、正月になると客車だけ運転して貨物列車は三が日休み、会社から酒肴料がでた。
 客車にトイレがない頃、老人が家から古瓶を風呂敷に包んでもってきてイザ、用を足そうとしたら虫が這い出して来て老人大いにたまげた話がある。
 当時、上野駅は日本鉄道の本社があり、倉庫課、経理課、運輸課などすべての機関が纏まってい、官舎もずいぶんあった。
(『鉄路』清 計太郎1943輝文堂書房)

 ちなみに『鉄路』出版は1943昭和18年の戦争さ中である。
 序。・・・・・・鉄路は兵器である。鉄路は戦っている(鉄道博物館にて・清 計太郎)
 本文はのどかな思い出話より―――鉄路と戦争/鉄路建設秘話/鉄路も躍進する/大東亜を結ぶ鉄路/鉄路の万華鏡―――が本題である。
 鉄道生活40年の著者がいうように鉄道建設史、鉄道戦記であり、<シベリア鉄道の軍隊輸送/汽車に乗った西太后>等など、列車は国家権力を乗せて走ったのである。

  参考:『鉄道ゲージが変えた現代史――列車は国家権力を乗せて走る』(井上勇一・中公新書1990年)

 <上野駅前櫻亭>

 「若し東京駅を帝都の表玄関とすれば、上野駅は裏玄関である」。これは「良い国良い人」の書き出し、裏も表もないだろうと思うが、その意識今もあるのかな。
 当時、東京駅は東海道線一本に対し、上野駅は東北本線、海岸線、奥羽線、信越線、成田線など線路が蜘蛛の巣のようにあり、乗降客が多かったから休み所、待合所が必要だった。東京駅一帯はハイカラできびきび、というものの
―――東京駅付近の待合所のだらしなく、しかも暴利をむさぼるのに比し、櫻亭(上野の待合所)はその場所の便利なる上に、設備が能く整い、利益本位よりはお客本位を以て営業の方針とせるが如き、おそらく全国に於ける模範的待合所とすべきである。
(『良い国良い人――東京に於ける土佐人』澤翠峰尾崎吸江・青山書院 大正6年)

     <田中義一暗殺未遂事件(上野駅)>

 原敬が東京駅で暗殺されたのは1921大正10.11.4、その7年後上野駅で暗殺未遂事件があった。1928昭和3.6.8田中首相は宇都宮の政友会支部大会出席のため上野駅に行き、貴賓室に入ろうとした刹那、白さやの短刀で切りつけられた。が、角刈り頭、下駄ばきの犯人(静岡県の25歳)は巡査に取り押さえられ上野署に引致された。
(『明治・大正・昭和歴史史料全集』暗殺編・有恒社1934)

    <東京駅と上野駅>

 東京駅と上野駅は昔から客種が違ったが、この違いがだんだん甚だしくなる。農村の窮乏を語るものは、上野駅である。
―――出征軍人の多い東北の窮状を察して、軍部は凱旋将兵への論功行賞を急ぐといふ。この報道に含まれる深刻性を思ふべし。
 大都市に喧しいのは騒音防止の問題である・・・・・・都市の膨張とは、農村から、その若さと勢力を吸取ることである・・・・・・農家戸数550万、10年来固定した人口である。それは相対的に減少した人口である。総人口に対し1920大正9年の5割から1930昭和5年の4割5分に減少した人口である。
―――農村に働く青年から嫁を奪ひ、老人から一人息子を奪ひ、家から燈火を奪ふような人口の都市集中は、決して健全な状態とは言えないのではないか。
『黒頭巾を脱ぐ』丸山幹治・言海書房1935)

 ちなみに著者・丸山幹治は明治・大正・昭和期のジャーナリスト、政治評論家。1880明治13~1955昭和30。大阪毎日新聞社に入り短評欄「余録」を執筆し続けた。昭和期の政治学者、丸山真男は次男。

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2013年7月20日 (土)

今は昔か師範教育精神

 ずいぶん前の話。小学校を2度も転校したがすぐ友だちができ学校は楽しかった。足が速い、絵が巧い、木登り、何かしら誰もが認められ、イジメは殆ど見られなかった。ところが孫が入学したとき、イジメられないか、逆にイジメないか心配した。今はそういう時代になってしまった。勉強だけでも面倒なのに、人間関係に気を遣わないと楽しめないのでは、生徒は大変。教える先生も、親もかな。ところで、小中学校の先生のはじまりは?

 前に「大敵先生」の項で引用した『師範出身の異彩ある人物』著者、横山健堂は1871明治4年山口県生れ、1943昭和18年没。東大国史科卒。
 『読売新聞』に寄稿家として、のち『大阪毎日新聞』記者として人物評論に新境地を開いた。その時の人間観察と駒澤大國學院大教授も勤めたこともあるせいか、教育の力、役割について感ずるところがあったらしい。
 『文部大臣を中心として評論せる日本教育の変遷』(中興館書店1914大正3年)を著し、*森有礼から一木喜徳郎(第二次大隈内閣)まで、各文部大臣を論じている。
 中でも明治憲法発布の日に暗殺された子森(子爵・森文部大臣)の教育への熱意を詳しく記している。かなり肩入れしてるので健堂と同郷、長州出身だからと思ったが森有礼は薩摩だった。その学制改革、近代学校制度の熱意に同感してのようだ。

 * 森有礼
   1847弘化4~1889明治22年、薩摩藩士、明治前期の政治家。藩校に学び藩から命ぜられイギリスへ留学。帰国後、官についたが廃刀論で免官、のち清国公使、イギリス公使など歴任、結婚制度改良の為契約結婚を唱え実行した。1885明治18年第一次伊藤内閣・初代文部大臣

文部大臣を中心として評論せる日本教育の変遷』より一部抜粋

● 子森は、師範教育の価値及び其の必要を自覚し、*高等師範学校を以て、「教育の総本山」なりとし、他方に、出来るだけの節減を敢てしても、この学校を改良発達せしむる為に経費を減ずるは、尤も有力に、国民教育に資益する所以なりと信じたる也

● 子森が高等師範学校に重きを措き、之を監督し、干渉することも、他の学校より甚だしく、校長、教授の人選にも十分注意を払い、親(みず)から学校を視察したる事も少なからず、参観の時、教育法を批評し、或いは自ら試験問題を提出せしことすらあり

● 森文部大臣が九州巡回中、郡区長の責任に属する教育事業について説示したる演説中に、師範生徒は、省令を以て、その一部、郡区長をして推薦せしめ、一部は志願生を募集するの制に定めたれども、其の意は、皆、郡区長の推薦に出でしむるに在りと明言し、今迄の師範教育は、生徒その者の為に学校を開きたるが如き実況を現せり。法令の新精神は、之に反して、全く、郡区の教育の為に、生徒を養成するを以て主眼とするものと云へり

● 府県師範生徒を郡区長推薦する法の精神は、全く彼が国家教育主義に本づくものたること明白也。

高等師範学校:尋常師範学校長及び教員を養成、文部大臣の管理に属し、東京に1校。
  尋常師範学校:公立小学校長及び教員を養成し、府県に各1校。生徒の学資は、皆学校より支給し、順良、親愛、威重の三気質を以て教員たる者、必ず備ふべき者と(『日本教育史2』昭和48.7.27東洋文庫)

    余談
 前記の『日本教育史2』に海軍機関学校の記述があり、芥川龍之介の短編『蜜柑』を思い出した。
 1916大正5年、嘱託教官になり英語を教えていた龍之介は通勤の横須賀線で「窓から投げられるミカン」を目にしたらしい。
 大正時代は何かしら明るいイメージだが『蜜柑』を読むと、皹(ひび)だらけの頬をした少女が奉公にでなければならない現実がかいま見える。むろん文学だから登場人物の心理が手に取るよう、何度読み返しても切ない。

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2013年7月13日 (土)

函館氷、中川嘉兵衛略伝

 猛暑。連日35度以上をどうやって耐えてる?節電したいけど「熱中症で老女倒る」も情けなくクーラーが頼り。水分補給にフルーツジュースに氷を浮かべる事も。氷は冷蔵庫にいくらでもあり、コンビニでも買える。昔は氷屋さんに注文していた。東京の下町。氷屋さんのリヤカー、荷台のゴザをめくると大きな氷塊、鋸を引くシャッシャの響きが涼しい。
 氷、昔は貴重で高価だった。幕末にアメリカのボストン天然氷がアフリカの喜望峰を経由、半年以上かけて横浜に運ばれていた。その氷に着眼したのが中川嘉兵衛である。

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 中川嘉兵衛(1817文化14.1.14 ~ 1897明治30.1.14、愛知県伊賀村生)

 嘉兵衛は16歳で京都に出て巌垣松苗翁の門に入り漢学を学ぶ。横浜開港を知るとまず江戸へ出、外国人の嗜好品や日常を知ろうとイギリス公使館のコックになった。その頃、アメリカ人宣教師ヘボンと出会い、氷が医療用や食品の保存にとって非常に有益である事を教わった。嘉兵衛は氷の安値販売事業に一生をかけようと、資金作りにかかった。

  1861文久元年牛乳販売所を開業、福澤諭吉に「これからは皆が牛乳や牛肉を食べるようになる」と聞いたこともあり牛肉も売った。毎日、横浜から牛肉を買い取り、江戸高輪・東善寺の英国公使館へ納めた。ただ、当時は京浜間に鉄道はなく暑い盛りは牛肉が腐敗することもあったので幕府外国掛の許可を得て1867慶應3年、と(屠牛)場を設立した。

 嘉兵衛は日本の新聞広告をだした人物第1号といわれる。*『萬国新聞紙』創刊号(慶應3年1月)に「パン、ビスケット、ボットル」の広告を、同6月に「仙薬熱病丸」と「牛肉販売」(牛肉部分図と等級)などを出している。いろいろな商売をしていたようだ。
 さて、嘉兵衛は牛肉商売を堀越藤吉に譲って、氷事業に取りかかった。ちなみに、堀越は中川という名義をそのまま用いて牛肉を販売した。
 *萬国新聞: イギリス領事館付宣教師べーリーの翻訳新聞、邦字新聞の祖といえる。外国新聞を訳出して英仏米露など国別に海外の概況を知らせようとした(石井研堂 『幕末明治新聞全集 2』文久より慶應まで)

 いよいよ氷事業にとりかかったが、なかなか思うようにいかない。はじめ富士山麓、富士川沿い鰍沢に氷池を作り100トンの氷を作った。木箱におが屑をつめ氷を包み馬で今のJR身延線沿いに運び、帆船をチャーター清水港から横浜に輸送した。しかし盛夏の折から航海中に大半溶けてしまい、多額の借金が残った。2年後、諏訪湖、次いで日光、榛名湖も失敗。1865慶應元年、東北・釜石、翌年、青森・理川でも行ったが又も失敗。失敗の連続だが、驚くことに嘉兵衛はまだ諦めない。

 輸送がうまくいけば成功すると確信する嘉兵衛、今度は全財産をつぎ込み北海道に渡る。アメリカから製氷技術者を呼び、榎本武揚の援助、のち北海道開拓使・黒田清隆から五稜郭における7年間の採氷専取権をも獲得した。
 1867慶応3年に6回目、250トンを輸送したが暖冬で失敗。それから3年、五稜郭の榎本は政府軍に敗れる。
 五稜郭の外堀は、水質が非常に良好で函館からの船便もよく、嘉兵衛はついに500トンの天然氷の採氷に成功、京浜地区への輸送販売にも成功した。
 1871明治4年には、函館豊川町に貯氷庫を建設、6年には日本橋箱崎町に開拓使御用地を借り、本格的な大型氷室を建設した。生産量は1200トン、3500トン迄の生産が可能となり、安く品質も良い五稜郭氷は外国産の輸入ボストン氷を完全に駆逐した。
「五稜郭氷」(函館氷)と中川嘉兵衛の名前は、文明開化のサクセスストーリーとして全国に知れ渡った。以後、氷ブームに沸き、関西方面でも新規の池や、氷結する湖で天然氷の採氷が盛んに行われた。東京では岸田吟香横浜氷室商会を起こした。嘉兵衛とヘボン、吟香とヘボンの関係を思えばありそうな事だ。

 さて、氷に夢をかけた男嘉兵衛は、製氷の他に苹果(りんご)の栽培、鱈肝油の製造なども行った。
 『中川嘉兵衛伝』には1874明治7年、宣教師ジェームス・バラより受洗。教会へ寄付、事業の献金をし、次男愛咲は東京新栄教会執事、日曜学校でも教えたとある。

 氷について、ボストン氷との軋轢、氷水商売、福澤諭吉と氷のエピソードなどあるが、長くなるので割愛。興味のある方は『明治事物起源』『明治東京逸聞史』、また横浜の初めて物語などいかが。

参考: 『氷の文化史』(田口哲也・まな出版企画1994)  『中川嘉兵衛伝-その資料と研究-』(編集・香取組臣国臣・関東出版社昭和57.9)  『北海道史人名辞彙』(河野常吉編・北海道出版企画センター・昭和54)

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2013年7月 6日 (土)

14歳大敵先生のち福島県選出代議士、鈴木寅彦

 はじめて聞く名は人名事典にあたってみる。それに人物評論があるとなおいい。明治・大正・昭和期のジャーナリスト横山健堂は維新前後の人物評論が得意で『新人国記』『旧藩と新人物』など著書も多い。その著『師範出身の異彩ある人物』に福島師範・鈴木寅彦が秋田師範・佐藤義亮(新潮社創業者)等と並べてあり逸話がおもしろい。でもそれでけでは足りないから手元の人名事典をみたが、載ってない。
 横山の鈴木編文末は「トントン拍子に出世して、遂に代議士になつた」である。ということは明治の衆議院議員、ならば何かあるだろう。探したらあった。吉野鉄拳禅『時勢と人物』でとりあげているが、かなりの辛口だ。
 ちなみに、鈴木寅彦と吉野鉄拳禅(臥城)は、ともに東京専門学校(早稲田大学前身)出身、鈴木が吉野より3歳上である。
 同じ人物が「愛嬌ある元気者」、かたや「金力が事業の上に働いて今日の基礎を築いた」と描写されている。その二編、並べてみる。

 鈴木寅彦:1873明治6年~1941昭和16年、会津若松市。1908明治41年、衆議院議員に福島2区から立候補、以後4回当選。東京瓦斯・朝鮮鉄道各専務を務めた(『明治大正人物辞典 Ⅰ』2011日外アソシエーツ)

  * 師範:師範学校。1872明治5年に教員養成機関として東京に設立し以後、各府県に開設。1886明治19年師範学校令により東京に官立の高等師範学校、府県に各1校尋常師範学校を置いた。

  『師範出身の異彩ある人物』より

 福島県河沼郡金上生れ鈴木寅彦は、14歳で福島師範に入学したものの小学以来の腕白が嵩じ余りに乱暴が激しく退学になった。しかし師範の門をくぐったその履歴で若松小学校の代用教員に採用された。受け持った高等科の生徒はみな年長で、年下の先生に難問をかける。だが、鈴木は参ったと言わず「研究して見ても分からなければその時教えてやる」と宿題にして生徒を煙に巻き、自分は夜を徹して調べた。
 翌朝、「ドウダ分かったか」。生徒が「分かりません」というと「ナンダこれぐらいのことが分からなくてどうする」という調子。又何かにつけて油断大敵の一語を金科玉条として講釈していたから「大敵先生」のあだ名がついた。

 習字に堪能で2年間小学校の卒業証書を一手に引き受けていた。しかし、いつまで代用教員でもないと辞職、裏磐梯山檜原銀山に事務員として住み込んだ。
 18歳の時、鬱勃たる壯志を抱いて東京に飛び出す。東京では親戚先輩を頼り、東海散士柴四朗の玄関番などもして就職口を見つけたのが、上野駅の改札係であった。
 あるとき高官が切符なしに改札口を通ろうとするのを咎めて、どんな身分の方でも切符なくては通しませんと頑張って、意気地ある駅夫と認められた。後に上野駅の庶務課長になり、トントン拍子に出世して、遂に代議士になった(1933横山健堂著・南光社)。

 


 『時勢と人物』より

▼ 権勢に渇する少壮派は何かと云ふと騒ぎ立てる・・・・・・鈴木なども年齢が若いだけに、素破とばかりに廃税減税の旗指物を押立てて楽屋中を触れ回った。そんな事で世間が喝采すると思ふのが間違だ・・・・・・商工業者にのみ媚びんが為に、営業税全廃を進物に遣ふ抔は以ての外だ。現下第一に全廃すべき者は、社会多数の苦痛を感ずる通行税だ。次には或る種の織物税だ。財源があらば兎も角、無ければ営業税は減税、地租は軽減に止むべきものだ。彼は多少新しい教育を受けてるのだから、旧式の扇情的机上論は止めて、実際的に真剣に掛かるべき筈なのだが

▼ 日本鉄道国有の際(1906明治39)には、清算事務嘱託を命ぜられ能力を実業界に認められた。以後、実業界に頭を突っ込んで今日に至ったものだが、日本鉄道会社解散時に報酬やら慰労金やら、しこたませしめた金力が事業の上に働いて、今日の基礎を築いたのだ。

▼ 関係する事業は、まず北海道瓦斯の専務だ。固より敏腕家であるから、東京に居て北海道に手を伸ばすくらいは朝飯前の仕事だそうだ。儲かりそうなのは成田鉄道で、此の方は取締役になっている筈だ。**鉄道は彼の最も経験を積んだ事業だけに・・・・・・

  ** 帝国議会会議録データベースhttp://teikokugikai-i.ndl.go.jp/cgi-bin/で鉄道委員会・鈴木寅彦を検索できる。

▼ 実業家なる以上は、何かの頭取位にはなって居ないとで、名も知られない泰平銀行の頭取に、更に頭を保険界に突っ込んで、日清生命の監査役にもなってる筈だ。彼は何種の事業に限らず手を出す(1915吉野鉄拳禅・大日本雄辯会)。

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