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2013年8月

2013年8月31日 (土)

グーテンベルグの活版印刷

 大学の夏休み、通信生はスクーリングで忙しい。大学図書館を利用したくて再び通信教育生になった。 大学図書館は宝の山、近ごろ一般人でも閲覧させてもらえるシステム、学校もあるが、K大は不可なので入学した。その甲斐あって探し物、資料は見つかったが、学費がつきる来年3月まで履修することにして、「図書館・情報学」と「日本政治史」をとった。未知の事が知れ視野も広がるとはいえ、この猛暑にご苦労、物好きだと自分でも思う。

 さて、読書好きにとって本はよい友だちだが、本の物理的な面、形態や素材、歴史など考えたことがない。「図書館・情報学」はその方面を網羅するばかりでなく、著作権や年代、社会にまで踏み込んでい、思ったより興味深かった。しかし、にわか勉強ではこなしきれず纏められないので、一部分だけ書いてみる。

 今、活字離れがいわれて久しいが新刊本は年々7万冊以上、そのうえ電子書籍も登場し紙の本の運命やいかにの状況だ。その本、歴史を遠く遡ると素材は、粘土板、石、金属、絹、木、パピルス、獣皮、紙などさまざま。授業でパピルス(エジプトみやげ)を触らせてもらったがパリッとして紙のしなやかさはない。綴じて冊子にでなく巻物にしたのを納得できる。

 2世紀に中国の蔡倫(中国、後漢の宦官)が、紙の製造方法を改良、和帝に献上したのが紙の始まりと言われる。日本へは7世紀初め製紙法が伝わり和紙に発展した。
 西洋へ紙が伝わったのは、751年、イスラムと唐のタラス河畔の戦による。唐の捕虜から製紙技術がサラセン帝国に伝播したのである。その後スペイン、12世紀末にはヨーロッパ各地に伝播し、王侯貴族がパトロンとなって写本が作られた。

 1455年頃にドイツ・マインツ市のヨハン・グーテンベルクが印刷機を発明。火薬・羅針盤とならび世界3大発明の一つといわれる。
 印刷術の発明により、それまでの写本時代より書物が大量に(200~500部)作られるようになり識字率の向上にも役だった。
 西洋最初の活版印刷、『グーテンベルク42行聖書』は上下2巻で1セット。1頁が40×30cmと大きく、7kgもあり重い。48部が現存し、うち12部は羊皮紙の豪華版である。慶應大学図書館に紙の本、上巻一冊がある。

 ちなみに、グーテンベルク聖書を最初にみた日本人は、福澤諭吉とも。ロシアのサンクト・ペテルブルグ国立国会図書館の訪問者名簿1862(文久2).8.25にサインが残されている。

 48部の聖書は印刷物であっても素材、装飾、製本、印刷文にも違いがあり、同じ本はない。当時、本を買うと「印刷した紙の束」で渡され、それを個個に装幀を職人に依頼したから同じ物がない。
 本の中身、本編についても、別紙で渡される見出し文を本文冒頭に書き写す方式であったから、ついでに書き込み、彩色を施す、或いは何もしなかったりと一冊一冊みな違ってくる。

 こうして作られた本(おもに聖書)は家が買えるほど高価で、買えるのは貴族や大きな修道院に限られた。貴重な本は、個人が所有して黙読するものではなく、音読が普通だった。音読する者を囲んで聞く光景を描いた中世の絵画を見たことがある。
 黙読していると何を読んでいるか解らないので異端の書を読んでると疑われ、また女子の読書も警戒された。

 そのような中世の写本、印刷本の写真をみると、横文字が切れ目なしにびっしり繋がっている。西洋中世の人と雖もこれで読めたのかなと思うが、ラテン語が分かる聖職者たちは不自由なく読めた。
 しかし、時移り読者層も広がり、本の形式や機能(空白、改行など)がふえ、木版による挿絵を入れたり新しい手法がとりいれられ現在の形へと至る。
 また本の種類も増えて、挿絵を取り入れ図版を含んだ科学書、ギリシャ・ラテンの古典など刊行された。

 初期刊本の言語。
 1470年、活版印刷が盛んなグーテンベルクの生地マインツで反乱が起き、印刷職人が各地に散らばった。すると、それまでラテン語がほとんどだった本が、その土地の言語(オランダ、ドイツ、イギリス、フランス他)で出版されるようになった。
 書体も増えて、ルネサンスの人文主義者たちはグーテンベルクのゴシック書体を嫌ってローマン書体の活字を用いて出版した。
 ちなみに、印刷所で活字を拾う職人は形で活字を拾えたから、文字が読めなくても仕事ができた。 

 初期の刊本には著作者や出版、製作年代など今の奥付・刊記にあたるものはなく、それら本をとりまく広範囲の研究がある。グーテンベルク聖書にもグーテンベルクの名はない。それを特定できたのは、グーテンベルクとフストの裁判記録、ピッコローニ(のち教皇)の手紙、装飾職人いれた日付など、さまざまな研究からである。


 

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2013年8月24日 (土)

幕末動乱、志士に御師、探偵までも東奔西走

 大河ドラマ「八重の桜」、舞台が会津から京都に移った。知り合いが「柴五郎が出てこないねえ」。自分もドラマは柴兄弟を避けているようだと感じる。
 八重の夫川崎尚之助が北海道へ米の買い付けに行き商人にだまされ、支払いができなくなり牢に入れられ、斗南藩は涙をのんで尚之助を見殺しという場面があった。実は尚之助の上司は柴太一郎、もちろん太一郎も牢に入れられた。
 己一身の責任として斗南藩に類を及ばさなかった為に長い裁判に苦しみ、五郎少年は辛酸をなめた。その事は『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』で読み、涙した人もあるだろう。
 柴五郎は北辺に追いやられた会津人、餓えと寒さに苦しんだ斗南藩を体現した少年ともいえるが登場しない。柴四朗と山川健次郎は藩校・日新館で机を並べた仲である。西南戦争後、柴四朗はアメリカ留学をする。その壮行会に山川健次郎も参加、四朗と共に元気があまった連中の喧嘩騒ぎにまきこまれたりしている。
 ドラマと歴史上起こった事は別だが、『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の筆者としては、柴兄弟の誰も登場しないのが不思議。そこで推測してみた。穿ち過ぎかも知れないが、柴四朗東海散士の経歴が問題なのだと。
 帝国日本と韓国の間には負の事件があった。それらの中に柴四朗が関わった事件もある。そうなると避けて通りたい、だから柴兄弟は登場しない。その意味で明治は遠くない。

 あれこれ思い巡らし柴兄弟が頭から離れなくなった折しも『坂本龍馬大事典』で、柴太一郎関連で気にかかっていた「山田大路」を見つけた。知る人が少ない人物を識るのは楽しい。来し方を辿って意外な人物、また有名人物にいきつく事もあり歴史の輪が広がる。

 
 話は幕末期に戻る。誰も彼も藩を思い日本の行く末を考え東奔西走していた時代1861文久元年、将軍徳川家茂と孝明天皇の妹和宮内親王の婚儀が決まった。
 その翌年、坂下門外で老中安藤信正が水戸浪士ら攘夷派に襲撃された。権威の衰えた幕府は、京で脱藩の武士や徒党を組んで横行する浪士も抑えられなくなっていた。治安維持のため京都守護職を設け、会津藩主松平容保を任命した。
 断り切れず覚悟を決めた会津藩は、まず準備のために家老田中玄清と公用方(外交役)野村直臣柴太一郎らを京に先発させた。太一郎ら公用人はそれぞれ情勢を視察しながら京へ旅立った。

 命を受けた太一郎は、浪士の宇野東桜と二人で江戸を出発した。途中、紹介者があって伊勢山田に寄り京の情勢に詳しい*御師の山田大路を訪ねた。そしてここからその家に潜伏していた安積五郎という浪士が同行して三人で京へ向った。その途中、今度は伊勢松阪の世古格太郎を訪問した。

 *御師:寺社に祈願するときに仲介をする祈祷師の称。宿坊を経営し、信仰の発展、普及にも寄与。山田大路は伊勢神宮神職。

 宇野・山田・安積・世古、4人ともよく判らないままだったが、『坂本龍馬大事典』で、山田大路の経歴が判ったので他の3人についても資料を探してみた。
 すると、幕府の密偵・宇野東桜、松平容保と同じ公武合体派の山田大路、という具合に会津藩士・柴太一郎が接触した理由がみえてきた。次は4人の略歴またはエピソード。

   宇野 東桜(八郎)  ?~1863文久3年
 

摂津高槻(大阪府)藩士。脱藩して江戸にいく。坂下門外の変、老中安藤信正襲撃事件で幕府側に通じていたとして、1863文久3年1月13日江戸新橋で尊攘過激派に殺された。その辺りの事情が『松陰とその門下』(高橋淡水1922現代堂)に出ている。

   <探偵宇野東桜

 伊藤俊輔(博文)桂小五郎に従って尊王攘夷運動に挺身し、高杉晋作久坂玄瑞井上聞多(馨)らと品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加した。晋作は、尊攘有志者の仮面をかぶって仲間に交り、大橋順蔵を捕へしめた宇野東桜といふ幕府の探偵を憎み
「宇野といふ奴は生かして置けぬ。アレはどれだけ我ら同士を苦しめるか知れぬ」
と殺害を決議した。白井小助が東桜を有備館に連れ込み、晋作が刀の目利きにこと寄せて東桜の腰刀を受けとるなり切っ先を東桜に向けて突き刺した。小助が留めを刺し、死骸は菰につつみ、伊藤その他が担いで、屋敷の門を出て暫く隔たった所に棄てて仕舞った・・・・・・。

    

   山田 大路 1815文化12年~1869明治2年 伊勢国神戸村生れ、父・飯高雄一郎。

 坂本龍馬とともに連名簿に名を連ねるが、尊王攘夷論者というより公武合体論者。伊勢の御炊太夫。従五位下。1850嘉永3年山田の前野町御師職山田大路三太夫の家督を嗣ぐ。
 妻・納子の実家は中山大納言家と姻戚にあたり、また薩摩・大隅・日向を壇所とし薩摩侯の信頼が厚かった。ために中山家に仕える田中河内介や清川八郎とも昵懇だったという。
 のち斎宮の再興を建議し、また遷都に異議を申し立て要路を批判したことから *神祇官から処罰され、幽閉中に没した(『坂本龍馬大事典』新人物往来社2001)。
 *神祇官:明治維新直後の政府機関。神祇・祭祀およびその行政をつかさどった。

 「三重県下幕末維新勤王事跡資料展覧会目録」「山田大路親彦事跡資料」より抜粋。
 著作「道の大綱」万延元年刊/ 山田大路親彦和歌短冊幅「よの中のしつかりならぬをなげきて」/ 神嘗祭復興東京遷都諫止の事など四ヵ条願書写ほか。

 
安積 五郎  1828文政11~1864元治 幕末期の志士。江戸出身。

 飯田忠蔵の子、名は武貞、五郎は通称。売卜者安積光角の弟子となり後を継いで占いを職業としていた。後に儒学を東条一堂に、剣術を千葉周作に学んだ。
 清川八郎と親交をむすび尊王攘夷をとなえ同士を糾合し1863文久3年 *天誅組大和挙兵に参加した。敗れて津藩兵に捕らえら、京都六角獄中で惨殺された(『コンサイス日本人名事典』三省堂)。

 *天誅組: 天忠組とも。脱藩士が結成した倒幕尊攘の最激派。

     世古 格太郎 1824文政7~1876明治9年 幕末・明治期の志士、神職。諱は延世。

 伊勢国松坂の豪商の子。斎藤拙堂に儒学を、本居内遠と足代弘訓に国学を学んだ。
 1854安政元年、三条実万(実美の父)と接触し禁裏に仕え、また尊皇の志士らと交流した。また、薩摩の大久保利通高崎猪太郎などと懇意であった。太一郎はのちに薩摩と会津が協力して長州を追い落とすとき(禁門の変)、高崎らとその方策を談合している。
 世古の周旋によって野村直臣(会津藩留守居役)と共に三条実美に面会することができた太一郎は、それより後、実美と藩主容保の間をたびたび使いしている。

 世古は水戸藩への降勅に際し密使として活動、安政の大獄に連座したが、維新後は徴士、権弁事、京都府判事など歴任した。
 また宮内権大丞となり古社寺や古文書、宝物の保存を訴え、大隈重信に申し出て古社寺保存会を作っている。墓所は青山霊園。
 著書は、「唱義聞見録」(『吉田松陰全集』岩波書店)/『銘肝録』 /『安政文久日記』ほか。

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2013年8月17日 (土)

末の松山(宮城県と岩手県と)

 卓球の友だちに、35度にビビって練習休むとメールしたら「了解。自分は行く」と返信あり。友は猛暑に負けず大汗、根性なしは家でごろごろ。きっと、その差は秋に歴然、でも足が出ない。
 今夏は日本全国猛暑、四万十市などは41度とか、風呂の湯と同温!呼吸するさえ辛そう。ところで、“末の松山”は何度?
 いきなり「末の松山ってどうよ」ですよね。実は、枕詞としか思わなかった末の松山が実在、しかも津波の被害に遭ったと「末の松山と津波」(毎日新聞2013.6..30)を読み気になったのです。次はその一部

―――百人一首 「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」(約束しましたよね。互いに涙で袖をぬらしながら、末の松山を浪が越えないようにと)
・・・・・・波が末の松山を越えないように、私が心移りすることなんてありませんよ、そう永遠の愛を誓っているのです。古典では大げさな表現がしばしば見られ、違和感を覚えながらも、誇張表現なのだろうと思っていました。・・・・・・一昨年の3月、その認識はがらりと変わりました。実は、末の松山は宮城県多賀城市周辺にあったとされています。
 末の松山があった場所は、東日本大震災で津波の被害を受けた地域だったのです。・・・・・・末の松山が東北にあったことは知っていましたし、三陸海岸大津波のことも少しは知っていました。でもその二つを結びつける発想はまったくありませんでした。あの日以来、末の松山の和歌は、私にとって忘れられないものに生まれ変わりました。
 (東 俊也、専門は「源氏物語」)

 末の松山、念のため『コンサイス日本地名辞典』(三省堂)でひいてみた。
 表記は“末ノ松山/すえのまつ-やま”、岩手県二戸郡一戸町北部の小丘。別称、浪打(ナミウチ)。一帯は折爪馬仙峡県立自然公園に属する。
 ここを手元の地図を見ると「あまちゃん」人気の岩手県久慈市から、秋田県のほうへ真横にほぼ一直線に行った内陸に位置する。宮城県多賀城市よりよほど海から遠く、津波が来るように思えない。しかし、貝・海中動物の化石が出土しているからここなのかな。そう思いつつ他も当たってみた。

 72年昔の『岩手の産業と名勝』(岩手県書籍雑誌商組合1941)に、“末の松山”の短い紹介文と古い写真があった。

――― 一戸町より北方福岡町にある浪打村地内、旧国道にあり馬淵川の右岸に位し、古人より末の松山に擬せられて「末の松山」と呼ばれているが実は浪打峠である。即ち坂道をなす左右の岩石は波濤状の層をなす砂岩中に海産貝類の化石を包含しているので古歌に附会せるものだろうといふ。

 前書より詳しいのが『地理趣味から知識へ』「末の松山の遺跡」(地理研究会編・岡田文精堂1926)である。

――― 果たして海であったでしょうか、今の松山といふところは海岸まで十里以上も隔たりがあり、高さも海抜数百メートルの処に在って、峠から俯瞰した一面は展望やや開けて、風光絶佳なるところではありますが、とてもそれが海であったとは地形上肯かれるものではありません。この疑問は久しきものではありましたが、今日の科学では容易く説明することができます・・・・・・この土地は数千万年の昔、海の底であったものが、隆起と云って(以下略)。

 ほかに目先の変わったところで『政海膝栗毛』 「末の松山」(九遍舎一八(今野弥治)・東京出版社1903)。
 十返舎一九をもじったペンネーム、時は日露戦争前、当時の政友会を皮肉っているようだが、誰誰、何事をあてつけているのか調べてみないと分からない。ただ、“末の松山”が用いらた例としてあげてみた。

――― 末の松山浪打峠は、陣笠波・直参波の押し寄する処なり。奇巌乱礁、断岸千尺、水落ち石出づるの勝観あるにあらずと雖も、瀟洒にして平和なる風色、宛として是れ墨画の山水、春宵秋日、文人詩客の逍遙に適す、政友会八景の一にして、滄浪閣を去る遠からず。

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2013年8月10日 (土)

ニンゲンの詩人・草野心平(福島県)

 題名は忘れたが山本周五郎の本を電車内で読んで涙が止まらず困ったことがあった。ほんとうに山周はたまらない。そして珠玉の物語の主人公と作者は距離がないと思っていた。ところが『周五郎伝-虚空巡礼』(斉藤愼爾・白水社2013)を読み、安易な思い込みは吹き飛ばされた。胸せまる物語は平坦な生活、円満な人格から創造されたのではなかった。
 孫の授業参観、小学生が「蛙の詩」を暗唱すると、教室は明るい空気に包まれた
 子どもも喜ぶ“蛙”は一見やさしい、けれど深い。それを生み出した草野心平も又、恵まれない境遇、戦争の時代、あふれる詩心のはざまで葛藤していたのではないか。「周五郎伝」に刺激され、作品と作者の関係が気になった。

 草野心平 1903明治36~1988昭和63年。福島県上小川村(いわき市)の旧家に生れる。

 父は東京に住居し、1910明治43年、祖父母の家から村立小川尋常高等小学校入学。
 1916大正5年、福島県立磐城中学校入学、3年で中退。9年、慶應義塾に編入するも退学、日本脱出を志し、正則英語学校で英語、善隣書院で北京語を学ぶ。10年、中国広州の嶺南大学(アメリカ系ミッションスクール)入学、ただ一人の日本人学生。詩作を始める。

――― 南京で逢った草野心平は中国の藍色の長衫が身に合っていかにも大人のふうがあつた・・・・・・私は草野君等と蘇州や上海を遊んで歩いたが、蘇州では草野君は土産(どさん)の藁靴を四、五足も購ってそれを履き、それまで履いていた靴を手に下げて歩いていた。
(『現代詩』 *百田宗治著・白井書房1948)。

* 百田宗治:詩人。児童生活詩運動を提唱した。詩論集・随筆も多い。

 1923大正12年、徴兵検査のため帰国、結果は第二乙種。14年帰国、同人雑誌「銅鑼」を創刊。7月、排日運動激化のため卒業を前に帰国。九段下の寄寓先で高村光太郎を知る。

 1928昭和3年、25歳で江島やま20歳と結婚、前橋に移り貧乏生活を送る。詩集『第百階級』刊行。庶民の生活感情やバイタリティがよくでていると評される。蛙の詩が多く、擬声音をよく使うのが特色。

    [序] 
蛙はでっかい自然の賛嘆者である
蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである
蛙は明朗性なアナルシスト
地べたに生きる天国である

     [生殖 Ⅰ]
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる

 1931昭和6年、上京して麻布十番で屋台の焼鳥屋「いわき」開業、のち新宿角筈に移転。7年、「いわき」を閉め、実業の世界社に入社。すさまじい貧乏生活が続き都内を転々とする。この間、次男が生まれたが産婆代も払えなかった。
 1933昭和8年、高村光太郎が工面してくれた旅費で宮澤賢治の初七日のため花巻に。9年、「帝都日日新聞」編集部に移り、口述筆記をしたり記者として記事を書いた。
 1935昭和10年、「歴程」創刊。庶民的人間感情・諧謔と風刺の精神をすぐれた詩的造詣でうたい続けた。13年に2ヶ月間、中国に出張。詩集『蛙』刊行。
 1940昭和15年、嶺南大学の同窓生、*林伯生の要請で南京政府宣伝部顧問として中国に渡り、以後5年間居住。
 *林伯生: 中国の政治家。日中戦争で汪兆銘の和平運動に参加し、傀儡政権の行政院宣伝部長となる。第2次大戦後、南京で銃殺された。

Photo


 1943昭和18年、詩集『富士山』刊行。

  [作品第質(しち)]
  地球とともに。
  夜をくぐり。
  ああ。

  最初の日本。
  薔薇の山嶺。

写真。草野心平パステル画「不尽山」、現代詩読本より。

 
 敗戦の翌年1946昭和21年3月、帰国。福島県の郷里に引き揚げる。23年~26年、詩集『日本砂漠』、『牡丹圏』、童話集『三つの虹』など。一連の「蛙の詩」によって第一回読売文学賞。随筆集『火の車』


―――[上小川村
ひるまはげんげと藤のむらさき。/ 夜は梟のほろすけほう。/ ブリキ屋のとなりは下駄屋。/ 下駄屋のとなりは小作人。/ 小作人の隣は畳や。(以下略)

 1952昭和27年、小石川に居酒屋「火の車」開店。29年、汪精衛をモデルにした小説「運命の人」を読売新聞に連載。31年、訪中文化使節団副団長として中国を訪問。
 1963昭和38年、胃潰瘍で2ヶ月入院。英訳詩集『Selected Frogs』刊行。東村山南秋津に転居。
 1966昭和41年、福島県双葉郡川内村に名誉村民としての褒賞「天山文庫」が落成。
 1968昭和43年、ソ連作家同盟の招きで訪ソ、ヨーロッパ各地、インドを巡り帰国。44年、胃の3分の2を切除。6月、ハワイ大学に招かれ、日本近代詩史を講義。45年、韓国ソウル・国際ペン大会に出席。53年、対話形式の自伝『凸凹の道』。56年、詩集『玄玄』随筆集『口福無限』刊行。
 1987昭和62年、文化勲章受章。63年没、85歳。

 草野心平は詩人。せっかくだから、これと思った詩をきっちり引用したいと思ったが、選べなかった。詩心が無くても感ずるものが多多あり、その世界が広大、作品も数多く、迷うばかり。各詩集の解説に頼ろうとしたがかえって難しく、選ぶのをあきらめた。ただ、次の解説に共感、文章も気に入った。その一部を引用すると、

―――草野心平の詩を読むと、人間が好きになる。心平さんという人間を、という意味ではなく(それももちろんのころだけれど)、人間全体を。会ったことのない人たちも、遠い村・遠い国にいる人たちも、死んでしまった人たちも、これから生まれてくる人たちも。そして人間のつづきとして動物も植物も、だから地球も、だから宇宙も。

(<現代詩文庫1●24 『草野心平詩集』思潮社「ニンゲン詩人――「天」「地」「人」「蛙」の輪舞(ロンド)」 吉原幸子

 その他参考にしたもの。
 現代詩読本『草野心平るるる葬送』(思潮社1989)/  『日本の詩歌21』(中央公論社・昭和54) / 『コンサイス日本人名事典』(三省堂1993) / 少年少女のための日本名詩選集10『草野心平』(あすなろ書房1986)

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2013年8月 3日 (土)

『山行』 槙有恒(宮城県)

 7月の三連休初日、家事都合で長野県に行った。新宿から朝一番の高速バスに乗って直ぐからのろのろ運転。中央高速にのっても渋滞は世界遺産・富士山人気もあってか富士五湖辺を過ぎるまで続いた。
 富士山は平安朝の頃にもう登られていたらしい。深田久弥によれば『本朝文粋』の「富士山記」に頂上の様子が記録されているという。まあ、そんな遠い昔はさておき、大正期に12歳で富士山に登った槙有恒少年は、富士登山をして以来、山が好きになってあちこちの山に登り、ついに世界的登山家になった。

                       槙有恒 1894明治27.2.5~1989平成1.5.2。仙台に生まれる。
Photo      写真:槙有恒(『世界教養全集22』より)

 1911明治44年慶應義塾予科入学。1914大正3年日本山岳会入会。慶應義塾大学山岳会創設、近代登山初期は学校山岳部に属する学生らが活躍した。
 1917大正6年慶應義塾大学卒業。翌年アメリカ・コロンビア大学に1年余り留学、次いでヨーロッパに赴きスイスに滞在、2年間にわたりアルプスをくまなく登山した。

 1921大正10年、スイスアルプスのアイガー東山稜初登頂に成功。
 それまでのワラジ履き、掛け鞄、登山杖で一種の旅の延長であった日本の登山に新しい技術を導入、登山界に刺激と影響を与えた。
 その登山記 <アイガー東山稜の初登攀> は槙の著書『山行』にある。登山家はよく読み、思索し、文章がかける。読むと、アルプスの自然、アルプスに生きる人びとが立ち現れ、長く愛されているのを納得。読めば、アルプス1万尺に連れていってもらえる。
 ところで今、本書は古い全集に納められているだけのようで、図書館でも手にとる人は少ないかもしれない。

―――(槙有恒) アルプスにおいての先人未踏の山頂を極めることは、*ウインパーによるマッターホルンの登攀を以て、だいたい終わりを告げたものといってよかろう。
 その後の登山者に残された問題は、同じ山であっても前人未踏の山稜から登ることであった。
 このことは未踏の山頂を極めるのに較べて、華々しくはないが、残されたものだけに実際の登攀の困難はまさるとも劣らない。
(注:東山稜は50年もの間、犠牲もあり誰も成功していなかった)

 1923大正12年1月、まだ冬の登山がまれなころ立山に登り松尾峠で暴風雪のため遭難、同行者板倉勝宣を失う。同年7月、『山行』を改造社から出版、登校精神、山の歴史、技術、山村生活など山の世界を総合的に著した。扉に「此の微いさき書を板倉勝宣君の霊に捧ぐ」と献辞、松尾峠での遭難についても詳しく報告している。
 1925大正14年、日本で初めての海外遠征隊を組織し、カナダ・アルバート峰初登頂
 1926大正15年、秩父宮を案内して、再びヨーロッパ・アルプスに登る。
 1930昭和5年、「アルプスの開拓者・クーリッジ」を書く。『世界人の横顔』(朝日新聞社編・四条書房1930)に掲載された短い文章だが、すぐれた二人の登山家が出会い、高い志と情熱に共感する様が心に響く。山に魅入られた者の心意気に少し触れた気がした。
 1956昭和31年、第3次マナスル遠征隊隊長として初登頂を成功。この年、文化功労者、仙台名誉市民となる。

 槙有恒の文はいろいろな所で引用されている。「山頂の空」(『現代文解釈の要領』千代延尚寿1925)/「アルプスの秋」(『現代文新鈔参考』光風館1926)/「山と或る男」(『中学新国文備考』」(大島庄之助・黒羽英男1926)。
 ほかにも、内務省編纂による『運動競技全書』(朝日新聞社1925)に「登山」を執筆。登山熱の勃興、登山の方法から山案内人、用具などを丁寧に記述(近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ )

 参考: 「北海道大学山岳部・山の会-山行/槙有恒」    http://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/Center/Review/meiji/sanko.html 
『世界教養全集22』 山行(槙有恒)/エヴェレストへの長い道(E・シプトン)/山と渓谷(田部重治)/アルプス登攀記(*E・ウインパー)/ 解説深田久弥・平凡社・1969)

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