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2013年10月

2013年10月26日 (土)

〔鮭〕〔三島通庸三県道路改修抄図〕、洋画家・高橋由一

 明治の洋画家・高橋由一(ゆいち)の静物画〔〕はよく知られ、画集や図録で見た人も多いだろう。上野の展覧会で〔鮭〕を目にして「なるほど」と感心したが、何がなるほどか表現できず情けない。ただ、身近な魚が芸術家の手にかかり、活きて迫ってきた感が忘れられない。
 高橋由一の名をはじめて知ったのは〔宮城県庁門前図〕である。明治のモダンな建物が描かれているのに物静かな雰囲気が不思議で記憶の残った。
 次に由一に出会ったのは【激動の明治国家建設特別展】である。衆議院議員憲政記念館に〔耶麻郡入田付村新道〕が展示されていた。福島県の耶麻郡を描いた絵が山形県立図書館蔵とあるのは、会津三方道路土木事業の記録だからだと思う。

 かの土木県令・三島通庸は福島に着任すると会津三方道路開削工事を計画、その記録を洋画家・高橋由一に委嘱した。
 三方道路は、会津若松から山形、新潟、栃木三県に通じる道路で東北を東京に結ぶ。完成すれば東北の米作地帯を東京に直結、また内陸を横断して兵力の日本海沿岸への急速な展開を可能にする。
 ただし、道路建設にともない巨額の負担を会津地方人民に強いたから県民はこれを拒否、県会議長・河野広中ら自由党員が反対運動を展開した。
 1882明治15年、農民と警察の衝突を機に河野をはじめ多くが逮捕・処罰された。福島事件である。

 それから3年、128枚の〔三島通庸三県道路改修抄図〕が完成、その一枚が〔耶麻郡入田付村新道〕である。高橋由一はこのような記録のための風景画、〔鮭〕にみられる美術・芸術世界、双方に足跡を残した。どのような生涯か、見てみよう。

    高橋由一
 
1828文政11年2月~894明治27年7月。江戸の佐野藩邸生まれ。幼名・猪之助、号・藍川。
 

 弓術、剣道指南の家に生まれたが、病弱のため画業を志し、江戸に出て狩野派を学ぶ。あるとき友人から洋製石版画を見せられ
「悉ク皆真ニ迫リタルガ上ニ一ノ趣味ヲ発見」して洋画学習を思い立ったが、師はみつからず、方法も分からないでいた。
 1862文久2年、ツテを頼り幕府蕃書調所付属の画学局に入学できた。しかし「天ニモ地ニモ油絵ナド観ルコトナク」、海外人から学ぶしかないと、友人岸田銀次(吟香・当ブログ2013.3.23)を頼った。岸田が横浜でヘボンの『和英語林集成』を手伝っていたからである。
 1866慶應2年、由一は岸田やヘボンの紹介であちこち聞き回り、どうにか*ワーグマンに面会できた。次いで岸田の助言もあり通訳をつれて再訪、ワーグマンの指導を受けられることになった。未だ馬車や汽船がなかったから、由一は東京から横浜まで歩いて通った。この年、パリ万国博覧会に出品。
 *ワーグマン:イギリスの画家。横浜に住み「ジャパン・パンチ」創刊。日本女性と結婚。

 1867慶應3年、旧藩主堀田正衡の命を得て上海にゆき3ヶ月間滞在、洋画家たちと交流。
 1870明治3年、民部省出仕。翌4年大学南校に画科が設けられ教授になったが翌5年、辞任。
 1873明治6年、日本橋区浜町に天絵楼を開設、洋画を教えた。
 このころ南画・洋画が流行、川端玉章(日本画家)なども一時入塾して洋画を学んだ。
 ちなみに、明治14、5年ころ日本画が勃興し、洋画が衰えたが、浅井忠、小山正太郎らの奮闘により日本画と並進。
 1875明治8年、天絵楼を天絵社と改め、自作および門下生の作品の一般公開を始める。
 このころ由一は対象に迫ってその存在感にふれる表現を身につけ〔〕〔豆腐〕〔なまり節〕などを制作。また、洋画の先覚者として普及につとめた。
 1879明治12年、金刀比羅宮に自作を奉納、補助資金を受けて天絵社を東京府認可の天絵学舎とする
(1884明治17年廃校)。
 次は、『ふる里』(*正宗得三郎著1943人文書院)から抜粋、

―――四国に渡った時に、図らずも琴平図書館に高橋由一の作品が集まっているのを発見した。そしてその作品が明治時代に日本人の書いた画業の中で、こんな立派な作品があるだろうか、というくらいに珍しく感心した・・・・・・再び四国を訪ね、金比羅宮の障壁画の丸山応挙の作品を見た後で、図書館を訪ねて再び高橋の作品を鑑賞したのである。二度見ると、多くの場合悪く観える作品が多いが、高橋の作品はやっぱり立派であった。そのとき案内してくれた宮司の話によると、琴平で共進会があったときたくさん出品したが一枚も売れず、帰路の旅費にも困っていたので安く買い取ったというのである。

―――高橋の芸術は生まれ乍らに持っている写実力が非常に優れている・・・・・・静物画が面白い、実際のものが本当に前にあるような感じがする。見ている内に何の遮るものがない。絵でなく本物が置いてあるような実在がある。それはセザンヌの実在とまた異なっている。日本人として実に珍しい人が出たものだと私はつくづく眺めた。

 *正宗得三郎:大正・昭和期の洋画家。作家・評論家の正宗白鳥の弟。

 1880明治13年、雑誌『臥遊席珍』刊行。御雇外国人フェノロサ(アメリカ・日本美術研究家)が天絵学舎を訪れ、海外画道沿革論などを演説した。

 1881明治14年、山形県より拝命。大久保利通・上杉鷹山の肖像、県下の新道景色の油絵を描く。〔宮城県庁門外図〕も同年作。
 1883明治16年、豪農・山田荘左衛門の肖像。後年、長野県中野市でみつかり製作過程や制作費の記録がある(毎日新聞)。

 1884明治17年、栃木県より拝命。山形・福島・栃木三県下・新道景色石版画を上納。
 1885明治18年、三帖を表装して宮内省ほか諸官皇族大臣などへ配布。近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ で見られる。
  三島通庸三県道路改修抄図.「福島県」(図版53枚)/ 同「栃木県」(図版20枚)/同「山形県」(図版55枚)。
 この3県各冊、栃木県のはじめに重野安繹(歴史学者)の序、山形県の巻末には岡千仭(鹿門、当ブログ2011.5.21)の跋文、福島県は本編のみ。

 1889明治22年、日本最初の洋画団体、明治美術協会設立を後援。
 1891明治24年、岐阜県〔長良川鵜飼図〕制作
 1892明治25年11月、自伝『高橋由一履歴』私家版を印刷。筑摩書房『明治文学全集・79』に復刻あり。
 この自伝は子孫に一生のあらましを伝えたいと著したが、
「由一の死後高橋の跡は散々のことになった」と石井柏亭が『画人東西』(大雅堂1943)に書いている。石井は又、唐紙の裏打ちに水彩で描かれた漫画を次のように説明、評している。

―――「西画城印」と捺した朱印の上に、天狗の羽団扇をもった西洋人が望遠鏡を手に戦を観望。その傍らに「洋隊進め」とブラシやパレット・ナイフを振り回す洋隊の旗色がよく、日本画の一隊は刷毛や連筆などを担いでしどろもどろ逃げ出している・・・・・・「日本に於ける和洋二画派の争いを諷し明治初年の欧化熱につれて洋風画の羽振りが良かった時代が窺われて面白い」。

 1893明治26年、天絵学舎中の門弟とともに「洋画沿革展覧会」を東京築地で開催。近代日本洋画の先覚者の作品200点を展観。
 会場正面に司馬江漢(江戸後期の洋風画家・蘭学者)、川上冬崖(幕末明治期の洋画家・日本画家)、アントニオ・フォンタネージ(イタリア・工部美術学校教師)の肖像画を掲げて三人に敬意を表した。
 1894明治27年7月、死去。67歳。

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2013年10月19日 (土)

【福島縣成行家番附】前頭・服部宇之吉

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 今は番付というと相撲番付ぐらいしか思い浮かばないが、昔の人は何でも番付にして楽しんだよう。
 『福島県百番附』1922大正11年(大和久治編)を見ていたら、エッ、こんなのあり?
 例えば、福島県禿頭番附/(以下福島県略)素人美人/素人角力/社交家/国税納税者/活動弁護士/雄弁家/忘れられたる人/芸妓組合/出身画家/囲碁名手/美髭家/愛妻家/愛鳥家/剣道家/名物男/事業家/政治家/成功家などなど番付が100枚。

 写真は一枚目の「福島県成行家番付」(別に成功家あり)。
 東西の横綱、野口英世星 一(星製薬社長、作家・星新一父)。大関、林権助(外交官)と山川謙次郎(物理学者・東大総長)。関脇、仁井田益太郎と池上四郎。これら人物の職業は学者・実業家・政治家・軍人などバラバラ。また、取締は自由民権運動家・河野広中と禅僧・新井石禅師の二人。この組み合せや横綱・大関など格付け根拠は何か。訳を知れば大正期の世相が見えそうだが、説明なしだから察するしかない。

 番付を見、小結・柴五郎の並び前頭・服部宇之吉が気になった。二人はそれぞれの事情で中国に滞在中に義和団事件(北清事変)に遭遇、記録を残している。
 ちなみに、柴五郎『北京籠城』・服部宇之吉『北京籠城日記』を合わせた一書が東洋文庫(平凡社)にある。
 次は服部の籠城日記から、

―――籠城中、戦端がひらかれ義勇隊の一部が陸戦隊とともに、戦闘線に臨みし日より、数人の義勇隊員とともに我が日本公使館の留守の任にあたりたり。同夜、柴砲兵中佐の命により、公使館を引き揚げて、戦闘に従事することになり、柴砲兵中佐に属して伝令の任にあたりたり

 1899明治32年、服部は文部省から清国留学を命ぜられ北京在留中、1900明治33年義和団の乱に遭遇。日本や欧米の公使館がある北京の公使館区域が義和団や清兵に砲撃されたのである。反撃するにも各国公使館とも装備も軍人も足りず連合して守備することになった。食料も足りないが応援の各国軍隊が来るまで持ちこたえなければならない。
 日本公使館も武官は3人しかおらず、民間人で義勇隊を組織、留学生の服部も隊員になった。この難局にあたり、8カ国の公使館員、軍人、民間人は連合して守備についた。全体の指揮をとったのは元陸軍将校のイギリス公使マクドナルド、作戦用兵については柴五郎が主導した(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』中井けやき)。

  服部宇之吉 

 1867慶應3~1939昭和14年。福島県二本松藩士 服部藤八の三男。漢学者・東洋哲学者。号は瑞軒。
 1890明治23年、帝国大学文科大学哲学科卒業、文部省に出仕、のち第三高等学校教授、ついで東京高等師範学校教授となる。1897明治30年、文部大臣秘書官兼文部相参事官となり、さらに文部相視学官、高等教育会議幹事を兼ねた。
 1899明治32年、漢学研究のため文部相から4年間の清国留学を命ぜられ北京在住中、義和団の乱に遭う。籠城が終わりいったん帰国すると、教授法研究のためドイツ留学を命ぜられた。
 留学中に東京帝国大学文科大学(東大)教授に任命される。
 1902明治35年、清国政府に招かれ北京大学堂内の師範館主任教授となり中国教員を養成した。
 1909明治42年、清国から帰国後、再び東大教授となり、中国哲学、中国文学を担当。1915大正4年、ハーバード大学教授。1924大正13年、東大文学部長。1926大正15年、京城帝大総長。

  日華学会を主宰、中国人留学生の教育・研究上の便宜を図った。退官後は國學院総長、東方文化学院東京研究所長。
 著書は『清国通考』『支那研究』『北京誌』などが知られる。

 参考: 『コンサイス日本人名事典』三省堂/ 『新撰女子漢文備考』1936東京開成館。

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2013年10月12日 (土)

科学・数学女子、女性初の帝大生・黒田チカ

   科学、数学女子 <その一>

 リクルートスーツ姿の女子学生をみかけると「頑張って」と声をかけたくなる。学校から社会へ出たとたん男子優先社会、気持ちが躓かないようにと願う。自分は政治経済とか表立った世界に興味はないが、能力ある女子が進出、活躍できないと世の中ダメなんじゃないかと思う。むろん活躍している女性はいるが、多いとはいえない。
 所で百年前はもっとたいへん。教育の機会を得るのさえ、境遇やチャンスに恵まれないと難しかった。なにしろ女性は容姿や気立て、若さなど努力しようがないところで判断されていた。

―――与謝野鉄幹を訪ねた時に、取次に出た婦人があつた。束髪の箍が弛んで、前髪やら鬢やら蓬蓬と乱れて、扮装も素振も構はず、物柔らかに会釈された。暫く話して居る間に、此の方が晶子夫人なる事が分つた。
 ちょつと藪睨みのやうな眼、捩れた一枚の前歯が、触目(しょくもく)第一に気がつく。その眼か歯か、何かは知らぬが、和と笑ふ時に一種のチャームを有つて居るやうに感じた・・・・・・(中略)・・・・・・
 鉄幹の書斎を辞し去る時に、次の間で二人の児に二つの乳房を含ませて居る晶子さんを見た。芸術の為に努力する彼女は、一面母親としても、能く児をはごぐむ優しい女性であった(*吉野鉄拳禅『時勢と人物』大正4年)。 

 このように与謝野晶子でさえ、優れた歌人としてより妻、母としての有りよが褒められる時代にあって科学・数学の研究を志す女性がいた。
 中学(旧制高校)卒業男子のための帝国大学中、東北帝国大学は女性に入学の門戸を開放したのである。それまで女子を帝国大学に入学させた例はなく、関係者にとっては驚天動地の出来事、社会の注目をあびた。

 東北帝国大学(現・東北大学)は1907明治40年、仙台に設立され、理科・農科大学の2分科大学をもって発足、総長は*沢柳政太郎
 沢柳は文部次官時代から欧米の大学では女性への大学開放が進んでいるのを知っていたし、次のように考えた。
―――仙台に於ては高等学校の教員免許状所持者を持った者は語学だけを試験して理科大学に要れるといふ規則を設け、傍系入学を認めた以上、「女性の入学を拒否する理由はない」。まずは、1903大正2年度の学生募集広告を『官報』に掲載した。

 帝国大学を受験することになった3人の一人、黒田チカは「女子にも高等教育を」という旧佐賀藩士の父親の方針で、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)を卒業。「近代薬学の祖」といわれる長井長義に見込まれ帝国大学を志願することになった。そのいきさつを次のように回想する。

―――女子に対しても学問の門戸開放の沙汰が伝えられた。とくに東京女高師では数学研究科の牧田らく氏を同大学に進学せしむる意向であった。*長井先生は科学科からも志願するようにと私に熱心なご勧誘があり、*中川校長にも進言・・・・・・せっかく女子に門戸を開放されたのに志願者がいないのは、店を開いたのに買い手がないようで非常に遺憾であるからと、日本女子大においても長井先生のご指導により中等教員の資格を得られた丹下うめ氏が志願者となられたのであった。
 但し女子の大学志願は最初の企てであり心配の点が多かったが、勇気をふり起こして受験した(『東北大学百年史』女性の帝大入学)。

 *沢柳政太郎: 教育者。教授任免権をめぐる沢柳事件で京大総長を辞職。自由教育運動の先覚者。
 *長井先生: 長井長義。第1回留学生としてドイツ留学、帰朝後東京帝大教授、女性の教育に熱心で東京帝大の学生から講義されることもあった。当時は東京帝大から講師として東京高等女子師範学校へ招聘されていた。
 *中川校長: 中川謙二郎。東京女子師範高等学校長、仙台高等工業学校の初代校長。女子教育の振興に尽力した。

 大正2年8月16日「東京朝日新聞」は、女性3名が男性35名とともに入学を許可され、成績良好の旨を報じた。
 この時代海外留学に出た研究者たちは、ドイツ、ロシアなどで女性の研究者に接し机を並べて研究していたから性別を超えた研究者養成ができた。
  『東北帝国大学理科大学一覧』(大正2、3年)生徒名簿によると、
  数学科:牧田らく、京都平(東京女子高等師範学校・数学研究科修了、同校授業嘱託24歳)。
  科学科:黒田チカ、佐賀士。1884明治17年~1968昭和43年(東京女子師範学校助教授。29歳)。
  科学科:丹下むめ、鹿児島平(中等教員検定試験合格、日本女子大学校助手40歳)。

 はじめ地名の後にある「」「」の意味が判らず、後から平民・士族の略と気付いた。明治維新から50年余りを経た大正期でも出身区別があったとは、一体いつまで記載していたのだろう。

 黒田チカ・丹下ウメ(むめ)は、後に教授として母校に迎えられ研究者としての道を歩んだ。牧田らくは結婚後に東京女子高師をやめたが数学の研究を続けた。3名とも研究者として名をなし、その後、多くの女性研究者を育てたのである(『東北大学百年史』)。

 ちなみに、黒田チカの卒業研究は、高級染料の紫紺(ムラサキグサの色素)の化学構造を特定し、人口合成に道を開いた。英国留学をへて、理化学研究所(初代所長・菊池大麓)で、本格的に研究するなど84年の生涯を研究にささげ、生涯独身を貫き、養子を迎えた。  
 亡くなったあと遺品を保管していた遺族は、入学100周年の節目に遺品を東北大学に寄贈。遺品や論文など未公表資料を同大学史料館が整理・保管し記念展で紹介する予定という(「毎日新聞」2013.7.5記事・元村有希子)。

   数学女子 <その二>  
 

 
 前出の女子帝国大生らと、どこかで行き交ったかもしれない女流数学家について、『現代女の解剖』(*吉野鉄拳禅・東華堂1915)より抜粋。

―――亀田米子は本年37歳にして、清浄無垢の処女也。上野石子も29歳にして然り。数学の研究と育英の事業に全心全力を注いで倦まず、今時稀に見るの女女丈夫たらずんば非ず。
 上野石子は身長のすらりとしたる、華奢な体格の婦人也。顔に凄みはあれど、目元口元に愛嬌あり。快活に、談話する所、確かに東京っ児なり。 米子は仙台の産也。真率なる所、無邪気なる所、快活なる所、どうみても女流数学家なり。
 石子の父、上野清は麹町区土手三番町に数学院を設立、多くの青襟子弟の教養に勉め、彼女もまた同院に入りて米子と共に、算術、代数、幾何、三角法等を専修せし也。

 亀田米子は仙台に帰って私塾「数学教授所」を開いた。はじめ軍人と男子学生のみ、やがて女子も来るようになった。のち宮城県立高等女学校教諭、ついで東北中学校で教鞭をとった。
 上野石子は数学の教員免許をとり東京中学校講師になった。
―――二人とも女子にして中学生を教授するは、本邦稀に見る所たり。而して、その成績却て良好なりと云ふに至つては、女流数学家も満更莫迦にした者に非ざる也。

 *吉野鉄拳禅:吉野臥城。宮城県伊具郡角田町(角田市)出身、詩人・俳人・評論家・小説家。

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2013年10月 5日 (土)

童謡・唱歌・わらべうた、軍歌

      ♪ 野菊
 遠い山から 吹いて来る
 こ寒い風に ゆれながら
 けだくきよく におう花
 きれいな野菊 うすむらさきよ
 ②秋の日ざしをあびてとぶ とんぼをかろく休ませて しずかに咲いた野べの花 やさしい野菊 うすむらさきよ 
 ③しもがおりてもまけないで 野原や山にむれて咲き 秋のなごりをおしむ花 あかるい野菊 うすむらさきよ(作詞・石森延男/作曲・下総皖一)

 1955昭和30年頃の運動会、体操着とブルマーでダンスをした懐かしい曲〔野菊〕。掌でかたどった花を胸の前で咲かせ赤土の校庭に膝をつくと、赤とんぼが目の前をすーっと・・・・・・忘れられない。

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 たまたま図書館で『童謡・唱歌・わらべうた』(2013新星出版社)を見かけ借りた。見れば、大正・昭和世代の愛唱歌、ラジオできいた童謡唱歌、子守歌、絵描き歌、イラスト付き遊び歌〔なべなべそこぬけ〕など盛りだくさん。
 孫の授業参観、“ゆず”の〔栄光への架け橋〕を合唱してくれたが、そんなイマドキの子らもママ達も楽しめそうな歌もある。

 『童謡・唱歌・わらべうた』230余りの中には今でも耳にする〔鉄道唱歌〕に、なぜか軍歌も交じっている。

 ♪汽笛一声新橋を~ではじまる〔鉄道唱歌〕は、66番の♪明けなば更に乗りかえて山陽道を進ままし 天気は明日も望みあり柳にかすむ月の影♪まで歌詞を掲載。この鉄道唱歌、1900明治33年「地理教育鉄道唱歌」東海道編(66番まで)が三木書店から出版され、山陽、九州と全5集が出版され大人気を博した。

 軍歌の方は、一般にいう軍艦マーチ〔軍艦行進曲〕1905明治38年(作詞・鳥山啓/作曲・瀬戸口藤吉)と、〔広瀬中佐〕明治37年(作詞作曲・不詳)と、『尋常小学唱歌』大正元年に採録された〔戦友〕明治38年(作詞・真下飛泉/作曲・三善和気)が載っている。
 広瀬武夫海軍中佐は日露戦争旅順港の閉塞で戦死、以後軍神として慕われた。大正生まれの母が歌っていた
 ♪杉野はいずこ杉野は居ずや~~の題名が〔広瀬中佐〕だったと今ごろ判った。
 ♪守るも攻むるもくろがねの~~〔軍艦行進曲〕は軍艦マーチとして太平洋戦争中に演奏され、戦後はパチンコ店でよく流れた。
 ♪ここはお国を何百里はなれて遠き満州の~~〔戦友〕は日露戦争を描き14番まである。歌詞の「♪軍律厳しい中なれど」が陸軍軍法に違反していると、太平洋戦争では歌うのを禁止されたが黙認されていた。
 3曲とも日露戦争にかかわるが、かの文豪・森鴎外も出征の途次、軍歌を作詞し刷って軍隊、知友に配ったという。医学博士森林太郎が日露戦争第二軍軍医部長のそれは、

―――海の水こごる、北国も、春風いまぞ、吹きわたる、三百年来、跋扈(ばっこ)せし、ロシアを討たん、時は来ぬ。十六世紀の、末つかた、ウラルを踰()えし、むかしより、虚名におごる、あだひとの、真相たれか、知らざらん。 ぬしなき曠野(あらの)、シベリヤを、我が物顔に奪いしは、浮浪無頼の、 *エルマクが、おもい設けぬ、いさおのみ。 黒竜江畔、一帯の、地を略せしも、清国が・・・・・・(中略)・・・・・・
いざ押し立てよ、聯隊旗、いざ吹きすさめ、喇叭(らっぱ)の音。見よ開闢(かいびゃく)の、昔より、勝たではやまぬ、日本兵、その精鋭を、すぐりたる、奥○将の第○軍。(明治37.4.19 都新聞)

 * ロシアの伝説的英雄、シベリアの征服者、ドン-コサックの頭目。

 『童謡・唱歌・わらべうた』は1952昭和27年〔アイアイ〕から1910明治43年〔われは海の子〕まで230余曲、馴染みの歌が並び懐かしい。思わず音痴を忘れ、♪お手々つないで野道を行けば~〔「靴が鳴る〕を歌い童心にかえってページを繰ったら〔軍艦行進曲〕の登場。エッ!と思った。
 善し悪しは置いて、のどかな歌の本に軍歌を交ぜたのはなぜ?編集解説を探したが何もなかった。なにがなし軍歌には引いてしまう。しかし、戦前は戦争が身近だったから軍歌に違和感どころか、ヒット曲が生まれ愛唱された。
 父や兄弟が出征、残された家族も働き手をとられ苦労が多い。厭戦気分が満ちては困るし戦意発揚に軍歌が必要だ。明治期も戦前の昭和も国民から軍歌を募集している。公募の軍歌で有名なのが、
 ♪見よ東海の空あけて~~〔愛国行進曲〕で作曲者は軍艦マーチと同じ瀬戸口である。

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 〔野菊〕は1942昭和17年、文部省*『初等科音楽』に掲載され、同じ年〔海ゆかば〕(作詞・大友家持/作曲・信時潔)が大政翼賛会に国民の歌として指定されている。

 *初等科音楽: 第4集まであり教員向けもある。これに唱歌とともに君が代、明治節や軍歌など載っている。『童謡・唱歌・わらべうた』はこの方面から?

 ちなみに昭和17年はまさに戦時中、2月15日シンガポール占領、6月5日ミッドウエー海戦敗北。軍歌のかげで戦死者はいったい・・・・・・。

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