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2013年11月

2013年11月30日 (土)

台湾高等法院長 髙野孟矩(福島県新地町)

 講座、講演会を聴講する楽しみは、知識もさることながら講師の行間の言葉、余談、さらに受講生同士の交歓がある。早稲田大学オープンカレッジで新幹線で早稲田に通っていた80歳の男性、目黒さんに出会った。
 目黒さんは福島県相馬郡新地町にお住まいで、新地町駅から仙台駅に行って新幹線で上京されていた。その新地町が東日本大震災の津波に襲われた。海辺の家々、新地町駅も跡形もなく流されてしまった。横倒しになった電車の映像を覚えている人もあるだろう。目黒さんのお宅は幸い無事だったが、町の復興に奔走するなどたいへん忙しかったようである。その無理が祟ったらしく暫くして亡くなられた。とてもお元気な方だったので死去の知らせに驚いた。みんなで黙祷、ご冥福をお祈りしました。

 その新地町を震災前の秋9月受講生有志で訪れ、目黒さんに案内して頂いた。戊辰戦跡、文化財、史跡巡りをしたのである。その中の「観海堂」という1872明治5年学制頒布直前にはじまったという藁ぶき屋根の小学校が印象に残っている。新地町は現在福島県だが明治の初めは宮城県だったそうで、観海堂は福島と宮城の両県でもっとも古い学校といわれている。
 観海堂の最初の先生は仙台藩(伊達藩)養賢堂出身の氏家閑存(うじいえかんそん)。氏家は江戸の昌平黌で学び養賢堂教授となり藩主の侍講に抜擢された学者である。戊辰戦争時は奥羽列藩同盟の結成に活躍、そのために明治政府から1年間の徒刑に処せられたという。
 観海堂を開くに際しては町の人たちの惜しみない協力があった。また、学校は田んぼを持ち、とれた米を売るなどして授業料を取らなかったから多くの生徒が通学した。その一人に後の台湾高等法院長髙野孟矩(たかのたけのり)がいる。

    髙野孟矩 
        1854安政元年~1919大正8年 磐城国宇多郡(現新地町)生まれ。

 父は仙台藩士伊達五郎の家臣。戊辰戦争に14歳で出征。その後、観海堂で学び、角田県立学校助教、磐前県聴訴課三春出張所勤務を経て上京した。
 東京で大木喬任(東京府知事、枢密院議長)の書生となり、1880明治13年大木の推薦により検事に任用され大阪上等裁判所、島根県松江裁判所などの勤務をへて判事に転任、1891明治24年札幌裁判所長、明治27年新潟地方裁判所長などを歴任した。
 1896明治29年日清戦争後日本に割譲された台湾に総督府民政局事務官として赴任、5月台湾総督府法院判官に任ぜられた。髙野42歳。
 台湾の司法制度確立に赴いた髙野だが、水野遵総督代理(民政局長)ら行政官僚と台湾統治の認識に相違があった。髙野は台湾総督府の官吏の実態を批判、意見書を要路の高官に送るなどした。やがて台湾総督府内部の汚職が発覚、疑獄事件の摘発に至った。

 台湾総督府内での疑獄事件頻発に、乃木希典・第3代台湾総督は人事の刷新をはかり総督府の首脳者を更迭した。そのとき不正をただす側の髙野をも非職(官吏としての地位はそのままで職務だけを免)にしたのである。
 これに対し、髙野は司法官の身分は憲法に保障されていると主張して納得しなかった。そればかりか抗議書をそえて非職辞令を内閣に送り返し、高等法院に法院長として出勤した。ところが強制的に排除されてしまった。
 現職裁判官が公権力をもって法院の外へ排除された事件は、台湾総督府法院判官の身分保障問題、さらに帝国憲法の台湾への適用をめぐる問題にまで発展した。これが報道されるや大きな反響をよび、世間の注目が集まった。髙野に同情があつまり、一時帰国のときには激励会、歓迎会が行われた。次は報道の一部である。

 時事――― 髙野台湾高等法院長を非職処分、明治30.10.6
 東京日日――― 疑獄事件が絡む、捜査は中止、30.10.8
 日本――― 髙野法院長追放に強権発動 30.10.31
 東京朝日――― 非職は違憲として処理 31.7.12
 日本――― 軍人・官吏の横暴・不敗が端緒 32.10.4  
 

 髙野は政府の命令は不法だとして従わず抗議書を何通も内閣に提出、強硬な態度をとり続けた。世論も政府非難で盛り上がり、髙野はついに懲戒免官を申しつけられた。あくまで折れない髙野に対し、
「非は非としてそれは大抵に切り上げ、何か役に付いたがよかろう」と勧告する人もあったが、
「憲法擁護は命がけの仕事である」といって、大木伯から借り受けた二十畝の田畑を耕して生計の資にあてた(『最近社会百放談』1902 長谷川善作編)。

 髙野事件は国会でも議論され松方内閣も影響を受け、また他の問題もあり総辞職した。いっぽうの髙野は、東京の郊外で農耕をしていたが1902明治35年東京地裁検事局に弁護士登録をし、前後して宮城県郡部選挙区から衆議院議員選挙に出馬した。
 初陣の選挙は落選、第8回総選挙で当選を果たした。髙野はこの後も総選挙に出馬するが選挙費用によくない風説(政府よりの支出)があった。
 後年またも落選を経験するが次の選挙で当選、再び衆議院議員に返り咲いた。ところが、髙野が社長の会社に係わる詐欺事件が国会で審議され、賛成多数で退職するはめになった。
 不名誉な事件で議員を退いた髙野は1919大正8年、自己の経営する宮城県牡鹿郡稲井村金山金鉱を調査のため仙台駅に立ち寄ったところ駅待合所で卒倒、そのまま帰らぬ人となった。享年64歳。

 台湾高等法院長非職事件が起きた当時、髙野孟矩は時の人となりたいへんもてはやされた。しかし今知る人は少ない。自分なども新地町に行かなければ知らなかった。どのような事件でどういう人物だったのか見てみようと思ったが、資料が見当たらなかった。大学図書館で「明治三十年・台湾総督府高等法院長髙野孟矩非職事件・楠精一郎」を見つけていろいろ理解でき、この資料がなければ書きようがなかった。
 髙野孟矩がこれほど埋もれてしまったのは、晩年の生き方にありそうだ。歴史に名を残すのは難しい。

 参考:『近代日本史の新研究 Ⅲ』北樹出版<明治三十年・台湾総督府高等法院長髙野孟矩非職事件――楠精一郎> / 「新地町の文化財」(2007.3.30編集発行 新地町教育委員会) 

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2013年11月23日 (土)

寒風沢島の洋式軍艦「開成丸」と三浦乾也(江戸)・小野寺鳳谷(宮城県)

 松尾芭蕉が「扶桑第一の好風」と讃えた松島を構成する島々、その一つに寒風沢(さぶさわ)島がある。この島も東日本大震災の被害で現在も多くの島民が仮設住宅で暮らしているそうで、今なお厳しく大変だ。ところで寒風沢島では、江戸末期いち早く先進技術をとりいれた日本初の洋式軍艦が建造された。造艦を主導し支えた小野寺鳳谷、完成させた三浦乾也、ともに力を尽くした人びとの情熱は島民はもちろん後生を元気づける。

 寒風沢島の港は江戸時代には伊達藩の江戸廻米の港として栄えたが、船の遭難もあった。1793寛政5年、江戸廻米船が遭難漂流ロシア船に救助され、漂流民はロシアの首都ペテルブルグに送られた。ロシアは交易交渉を進めようと貴族で露米毛皮会社重役レザノフの派遣をきめた。
 レザノフは津太夫ほか4名の漂流民を連れインド洋、ハワイ、カムチャッカをへて1804文化1年長崎に到着した。うち津太夫と佐平は島の出身者、彼らは日本人で初めて世界一周したことになる。4人は幕府に引き渡され、通商は鎖国を理由に不調に終わった。
 レザノフは帰途、その報復として樺太・択捉(エトロフ)の番所・漁船を襲撃した。

 それから数十年して幕末の仙台藩は軍政改革を推進、西洋式新技術をとりいれた軍艦「開成丸」を寒風沢島山崎で造艦した。船名は「人がまだ知得してないところを開発し、人の成さんと欲するところを全うする必要がある」(「易経」開物成務)からきている。
 建造にあたって藩校養賢堂の兵学主任・小野寺鳳谷が藩命により相模・伊豆に派遣され、幕府の洋式軍艦を視察した。そして、オランダ人から軍艦製造を学んだ三浦乾也を総棟梁として招き、建造責任者を藩天文方・村田善次郎とし建造を開始した。

 1857安政4年、完成した開成丸は長さ33m、幅7.6m、高さ5.8m、2本マスト、大砲9門を備え、進水式には藩主伊達慶邦、東北の諸藩主も寒風沢に足を運び臨席した。この年、開成丸は寒風沢――気仙沼間の試験航海に成功した。
 しかし、開成丸は進水後数年ほどで米を江戸品川に数回回漕したのち石巻で解体された。「開成丸航海日誌」(『仙台叢書17巻』)によると、江戸まで片道1ヶ月かかっており、速力不足が軍艦としての評価を下げ廃船の憂き目を招いたと考えられる(『宮城県の歴史散歩』山川出版社)。
 寒風沢漁港の海沿いに「造艦の碑」が建てられ砲台跡と共に歴史を伝える。造艦の碑文と資料を合わせて三浦乾也と小野寺鳳谷の略歴を記す。二人の幅広い知識と前向きな行動力に感心する。

 
   三浦乾也 ( ~1889明治22年)

 通称は陶蔵。江戸の陶器師、造船技術家。
 江戸の尾形乾山に陶法を学び、精巧な技術と風流な絵でもてはやされた。はじめは極く小さな動物や植物を焼いて人目を驚かせ、次第にいろいろな「器械」も作るようになった。製作したという電気擬宝珠・横浜電気雛形などがどのような物なのか筆者には見当がつかない。
 ある年、江戸から長崎に赴いてオランダ人に付き従い造船術を学んだ。のち仙台に招かれ西洋式軍艦開成丸を建造したのは前述の通り。
 その後、水戸藩徳川斉昭(烈公)に招かれ反射炉を作った。

 三浦の性格は磊落不羈で極めて無頓着であったから奇行や逸事が多っかたようだ。江戸向島の長命寺近くに住んでいたころの逸話がある。
 昔なじみの家に運慶作の閻魔様の木像があり、頼まれてその閻魔を模した像を二体焼き上げた。現物通りに彩色したところ良い出来上がりで依頼者の昔なじみに喜ばれた。もう一体は素焼きのままだったので仕上げてから渡すことにした。
 ところが金に困ったとき好事家に買いたいといわれ、素焼きの一体を売ってしまった。後でそれがバレて、昔なじみに多勢の前で度々催促される閉口したという話が『現代百家名流奇談』(1903実業之日本社)に載っている。
 1889明治22年10月7日没。年齢不詳。築地本願寺妙泉寺に葬られた(『工芸鏡2』六合館)。

   小野寺鳳谷  ~1866慶應2年)

 名は篤謙、通称は謙治、号は鳳谷。松山邑主茂庭氏家臣。長じて石巻に住み学問を教える。のち仙台藩儒員に挙げられ養賢堂教授になる。
 小野寺は海防、殖産に志があり、命をうけて西九州から東蝦夷に至るまでの地理、風俗、民族を調べ記録。その著述は『仙台藩人物叢誌』によると、海防策・西遊諸記・鉱山小誌・北遊日箋・東海蝦夷海程図ほか多数ある。

 小野寺は造艦を指揮し完成させる一方で詩文書画をよくし、自ら描いた蝦夷全図・石巻図・松島図などがある。その興味はあらゆる方面に渡っていたらしく『赤穂事件の検討』(金杉英五郎・日本医事週報社)に「小野寺鳳谷の所見」が載っている。

 小野寺は達識の士として評価され交際も広かった。とくに斎藤竹堂(陸奥国)、南摩羽峰(会津)、重野安繹(成斎・薩摩)ら漢学者・歴史家と近しかった。斎藤、南摩、重野らは昌平黌で学んだので小野寺も同学と思いたいが、書いたものが見当たらないので判らない。
 1866慶應2年4月13日死去。57歳没。年齢から察すると1809文化6年生まれと思うが、満年齢か数え年かで1年違ってくる。
 小野寺鳳谷も三浦乾也もよく仕事をし当時は名も知られていたようだが、手元の人名辞典に名はない。歴史に名を残すのは難しい。

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2013年11月16日 (土)

山本覚馬、野澤雞一、殊勝な強盗犯

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 1867慶應3年末、王政復古の大号令。京にいた将軍慶喜は大阪に下り、会津・桑名の藩主もこれに従ったが一同憤激おさまらず議論沸騰、慶喜はここに至り薩摩を討つと決定。正月そうそう会津藩の精鋭は幕府の奉行所がある伏見に出陣、鳥羽・伏見の戦が始まった。と同時に、京で洋学所を開き英学・蘭学を教えていた山本覚馬と生徒の会津人子弟が薩摩藩の陣屋に幽閉された。他藩の生徒は見逃された。
 目が不自由な身で監禁の身となった山本覚馬だが屈することなく、維新国家経営の「管見」を口述筆記させ薩摩藩に提出した。その口述筆記をした者が野澤雞一16歳である(当ブログ2011.5.28<星亨伝記編著者>)。

 「管見」の政治・経済・教育・衛生・衣食住・風俗・衛生・貿易等の卓越した識見に西郷隆盛らが感心、幽囚中ながら扱いが丁重になった。この辺のシーン、大河ドラマ[八重の桜]にあった。これより覚馬は病院に移され療養、1869明治2年赦免される。

野澤雞一(1852嘉永5年~1932昭和7年)。父は岩代国河沼郡野沢村の名主。肖像写真、『閑居随筆』より。

 薩摩の捕虜となったとき野澤はまだ16歳、少年に厳しい現実が襲いかかるのは必至。1月5日薩摩の捕虜となった野澤は薩摩の陣所から4月二条城内*軍務官、6月六角通りの本牢に移された。六角獄舎は旧幕府町奉行時代のもので「幽陰冷湿鬼気せまり魂を消す」惨憺たるものであった。改革する暇はなくそのまま京都府庁に受け継がせたからである。
 そのうえ囚徒は強盗殺人の徒だから殺伐の気風、残忍の挙動は言語に絶し、私刑で死者が出ても監視の番人は知らぬ顔「嗚呼此境に入ては人命の価値、螻蟻に若かざること遠く*牛頭馬頭の阿鼻地獄今目前に展開し」であった(野沢雞一『閑居随筆』)。

 *軍務官: 軍事諸務を管掌。軍務官知事は嘉彰親王だが実権は判事・大村益次郎が掌握。
 *牛頭馬頭: (ごずめず)牛頭人身・馬頭人身の地獄の獄卒。

 【江戸伝馬町牢獄内の図】を見たことがあるが、牢名主は別にして囚人は満員すし詰め窮屈に並ばされ、身動きもままならない。衛生状態も悪く、獄内リンチに合わずとも病死しそう。牢はただ罪を懲らしめ罰を与える所、悔悟させ立ち直らせる所ではないのだ。
 1869明治2年イギリス人を殺した犯人が牢死、イギリスは日本を詰り政府に獄制改革を要求してきた。1872明治5年陸奥宗光が獄制改革を建議。同年「監獄則」制定。
 司法省の監獄行政責任者となった旧岡山藩士・小原重哉は「監獄」を創設。小原は自身の体験(幕末期3度入獄)もあり海外視察もし、新しい刑罰制度の実行に努め功があった。

 六角獄舎のある日。牢名主の次に威張り散らしている(タメ)という強盗犯が、腕の二本の黥線(罪人の入れ墨)を見せながら身の上話を始めた

―――俺はボテ振アキナヒ渡世なり賭場(ドバ)に出入りして博徒の同類となり賭銭に窮して窃盗を始め遂に本職の泥棒となり太く短く繰らし25歳を断末魔と定め其以上の寿命は入らぬものと考へたり。今度の逮捕で(黥線)三本目の暁には打首の御仕置なれども王政御一新で前科は切り捨て新規蒔直し、首の繋がること請合なり。スッカリ心を入替え、御放免後は真人間に立ち戻り正業に就く積もりなり

 1868明治1年9月明治天皇即位の大礼、明治と改元。それによる大赦で野澤は放免された。ところが8ヶ月余りの獄中生活で脚気を病み立つこともできなくなっていた。府庁の役人は野澤に看護人をつけ悲田寺に預けた。しかし看護人は金をとりあげ食べ物も持ってこなかった。餓死を待つしかない病人、そんな野澤の元へ為が表れた。為は
 「俺も大赦により出獄したり。今は真人間となりたれば最早俺を怖がる勿」といい病苦の少年を慰めた。お陰で餓死を免れることができたが、為のその後の消息は分からない。
 野澤は六角獄舎で自分を尋問した山田輹という人物に引き取られた。覚馬が野澤の赦免を知り頼んだのである。山田は野澤をドイツから帰朝した小松済治に預け、小松は学資をだし(おそらく覚馬が)大阪開成所に入学させた。野澤はこの学校で星亨と出会い、生涯の付き合いがはじまる。

 1871明治4年、星が修文館の英学教授に決まると、野澤も横浜に行き、英語や法律を学んだ。かたわら星とブラッキストーン著『英国法律全書』を翻訳した。当時、野澤は星亨ら数人と神奈川県令・陸奧宗光の家に居候したりした。
 翌年、星の推薦で大蔵省に入り、新潟税関長代理として新潟に赴任。しばらく官途にあったが、東京にもどり辞職した。
 1874明治7年弁護士に転身。アメリカ・エール大学に留学して法律を学んだ。帰国後は星と共に、あるいは陰で支え弁護活動をした。1889明治22年再渡米、ニューヘーベン法科大学で学んだ。帰国後は神戸地裁判事をへて公証人となり、銀座に公証人役場を設けた。

 神戸地方裁判所では隔年で刑事裁判を担当、次はその一部『閑居随筆』から

―――囚人の食餌をみれば飯には分量の限定あれども副食物は豊潤なり。魚肉獣肉も供せられて珍しからず。入浴は隔日ないし一週両度許され、病めば医薬十分にして、房室は採光通風の設備完ければ夏は涼しく冬は寒風を防ぎ・・・・・・満期放免の日には罪獄中の労賃として若干の金銭を給せられる。無資貧乏の者、監獄生活を眺めたらんには温泉場に遊楽し大ホテルに安息するにも似たらん。
―――狡猾惰なる者、警察署の近傍の人家に入り傘や下駄の類を窃盗、之を携えて出署し処刑を促す輩は自営自飯の労苦を厭ひ入檻して寝食するの安佚をねがうものなり。狂気と云わんや呆れて言葉塞がる。余は以て罪を成さずと叱て退けんと提議したれども・・・・・・同僚はかほどまで切ならば望みの如く捉えて飯せしむるも国法の慈悲なるべしと弁護しこれに決したり。ここに至ては罰は賞となり禁は勧となり法の効力転倒し威厳全く地に落ちたり。

 今もありそうな話、野澤の歎きは無理もない。次は呆れたコソ泥と反対の真面目に働く前科者の被告に温情判決を下したが、野澤の思いは叶わない。是非善悪の判断は難しい。

 山陽鉄道・下関駅の雇工は前科者だが信用されて、鉄道会社が政府に買収されても働けることになった。判任格の雇員として登用で戸籍謄本が必要になり取り寄せると前科の記入がある。幸い戸籍係が旧友だったので前科を取り除いた謄本を作らせ鉄道局に提出した。後でそれが発覚、雇工は官文書偽造の重罪で法廷に立つことになった。

―――余之を犯意なしとして無罪を主張、且つ若し之を罰せば改悛の道を閉塞して刑事政策不可なりと論じたれども、同僚は皆動機こそ悪意なければ所為は正に為すの意ありて行へるものなれば犯罪たるを免れずと多数決を以て軽懲役6年に処断したり。余は今も尚之を遺憾と・・・・・・。

  参考文献: 『閑居随筆』(1933野沢雞一)/ 『山本覚馬』(青山霞村1928同志社)/ 『高名代言人列伝』(原口令成1886土屋忠兵衛)/ デジタル資料:八重のふるさと福島県 http://www.yae-mottoshiritai.jp/ashiato/nozawakeiichi.html

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2013年11月 9日 (土)

『お国自慢:英傑名家の出祥地』岩代国(福島県)

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 歴史では出身地を「国名」で記したりする。古くは、紫式部・小野小町は「山城国」、近くは、川路聖謨・勝海舟は「武蔵国」、大河ドラマ[八重の桜]でおなじみ松平容保・山川兄弟は「岩代国」。
 以前、柴四朗の資料に出身地を会津若松・福島県でない岩代としたものを見、何かピンとこなかった。先日ふと思いだして岩代国を検索したら、表題の『お国自慢』や『改正小学日本地誌略字引』1879(左の写真)、『国別電報配達丁程表:附・電報島嶼配達表』岩代国(逓信省通信局 1895)など国別に記したものがいろいろあった。

 まずは<国><岩代国>を『日本史辞典』(角川書店)と、『福島県民百科』(福島民友新聞社)で見みてみる。

 大化の改新で国郡制が定められ国司、郡司が任命された。日本歴史で普通国といっているのはこの国郡制の国であり、奈良時代から明治維新まで続いた。維新政府もはじめは旧国郡制を継承したが、廃藩置県を機会に郡県制にきりかえた。
 岩代国は磐代国とも書き、1868明治1年12月陸奥国を磐城・岩代・陸前・陸中・陸奧の5国に分割し設置したなかの一つ。岩代国は会津・大沼・河沼・耶麻・岩瀬・安積・安達・信夫・刈田・伊具の10郡をその管下にしたが、翌年、磐城国伊達郡を併合、かわりに刈田・伊具郡を(宮城県に)割いて9郡となった。
 1878明治11年会津郡を北会津と南会津の2郡に分け、岩代国は10郡となった。この岩代国は奈良時代の石背国(いわせのくに)とだいたい領域が同じで、地名はこの石背にもとづくものであるが、制定のさいに石背を岩代と間違えたとされる。

 1871明治4年廃藩置県。岩代国は二本松・若松2県となり、次いで二本松県を福島県と改称。1876明治9年若松県を廃し福島県1県となった。
 こうして全国に誕生した3府302県に薩長土肥の官僚が府知事、県令として派遣された。旧薩摩藩士・三島通庸が福島県令時代におこした福島事件はよく知られている。
 あらゆる場で藩閥政府に偏った人材登用がなされるから、戊辰戦争敗者の立身出世は遠い。ただし、能力次第で実務的な役職にはつくことができた。行政に武士の素養、知識が必要だった。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の太一郎も南会津郡長を務めている。

 岩代国の成り立ちを知ったので、次は人材を見てみよう。『お国自慢――英傑名家の出祥地』(牧野柳三郎1911岡本増進堂)岩代編に12人の名がある。

       岩代

 南光坊天海 : 信玄、家康ノ欽信深シ、東叡山寛永寺開祖
 安積澹泊 : 史学家、博学能文、大日本史編纂総裁
 安積艮斎 : 碩儒、修身ノ著述多ク流布ス
 松本寒綠 : 篤ク宋学ヲ治メ忠孝ニシテ心ヲ辺務ニ留メ薩隅ヨリ蝦夷ニ入テ形勢ヲ講察ス
 松平容保 : 会津藩主、佐幕ノ魁首、大ニ志士官兵ヲ悩マス
 白虎隊 : 十五歳ヨリ十八歳ノ少年、同盟会津ヲ死守シ城陥テ皆自刃ス、小国民武門ノ花タリ
 山川 浩 : 維新会津方ノ戦将、陸軍少将
 今野三郎 : 樺太、黒竜江ヲ探検シ、後支那劉永福等ノ参謀ト成テ仏軍ヲ破リ印度ニ去ル
 鎌田 昴 : 印度コラプール王ノ寵児ニシテ其財政顧問トナル
 出羽重遠 : 海軍中将、日魯(露)役ニ第三艦隊司令官トシテ活動ス
 山川健次郎 : 大学総長、重厚ニシテ剛直、浩氏ノ弟   

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2013年11月 2日 (土)

早ソバ・ジャガイモ栽培、髙野長英(岩手県)

 江戸後期の蘭学者・髙野長英は*『夢物語』を著し幕府の対外策を批判、弾圧された「蛮社の獄」で知られる。獄中6年たまたま獄舎が火事になり脱走、各地を潜行しつつオランダ語書物の翻訳を精力的に続けた。この開国の犠牲になったヒーローは岩手県出身である。採りあげてみようと思ったが、教科書にものる有名人を書いてもなあと止めた。しかし、『岩手百科事典』(1978岩手放送)<髙野長英・ジャガイモ栽培>を読んで思い直した。
 *『夢物語』:甲と乙の問答体で、英国人のモリソンが日本漂流民を送り届けに来航したことを受けてイギリスの実情をのべ、幕府がその船を打ち払えば、恨みを買い取り返しがつかないことになるだろうと穏便な対処をすすめ、無二念打払令を戒めた。

  髙野長英 1804文化1~1850嘉永3。岩手県水沢出身。

 名は譲。号は瑞皐(ずいこう)・驚夢山人、潜行中は変名が多い。後藤実慶の三男。母方の水沢藩医・髙野玄斎の養子になる。蘭学の手ほどきを養父玄斎(杉田玄白門下)から受け、17歳で江戸に上り苦学して蘭学を習得した。
 22歳のとき長崎に赴き、シーボトルの鳴滝学舎で指導をうけてドクトルの免許を得た。1828文政11年シーボルト事件によりシーボルトは国外追放、門人らにも類が及んだが長英は熊本に難を逃れた。
 1830天保1年江戸に医員を開業。町医者として診療の傍ら蘭学塾を開き医学・科学書を翻訳。やがて渡辺崋山、小関三英らと交友がはじまり、幕臣・江川英龍ら当代の蘭学者と尚歯会を結成した。Photo


 長英は尚歯会グループにあって、『救荒二物考』(1836天保7年)を著し、天保飢饉に際し救荒作物を説いた。気候不順でも成熟する早ソバ・ジャガイモの二物について種類・性質・功用・栽培・調理法に至るまで詳細に述べた。この小冊子は各藩に珍重され、争ってジャガイモの栽培が進んだとされる。
 サツマイモ栽培法で知られる青木昆陽もオランダ語ができ著書もある。オランダ語は将軍吉宗の内旨をうけ、江戸参府のオランダ人と通詞を訪問、対話して習得した。
 写真の『二物考』は明治16年の群馬県勧業課翻刻、ジャガイモの図は崋山のよう。

 尚歯会は西洋の文物を研究、政治・経済論を交換する実践的な性格をもっていた。
 幕府はこれを弾圧、蛮社の獄である。長英は終身禁獄、永牢の処分を受けた。鳥井耀蔵ら朱子学一派によるでっち上げ弾圧事件は、その後の洋学者の活動に多大の影響を与えた。

 長英の生涯を通じた訳書は82部300巻に達するといわれる。訳書の分野は医学・薬学・衛生学・天文(星学)・地震火山・大気万Photo_2
物(窮理)・化学・農学・動植物(博物)・自然哲学・軍事科学(兵学)とあらゆる分野にわたる。髙野長運の長英伝記は書名を列挙、かんたんな説明をつけて親切だ。
 それにしても、外国語が読めるにしても内容を理解する知識・能力がなければ翻訳はできないと思う。また、長英の場合は書斎で落ち着いてではなく各所を転々としつつ訳述していたのだから驚く、素晴らしい頭脳だ。

 長英の理学に関する訳書「星学略記」「泰西地震説」、ヨーロッパ感、勝海舟など出会いの人びとを、水沢の緯度観測所技師・須川力が纏めている。

 入獄3年、長英は牢名主になり起居がそれまでより楽になった。その獄中で、『鶏の鳴音』を書き、自分が洋学を志したのは西洋に臣従するためではないと訴え、『夢物語』を書いた理由、尚歯会の学友を語り、蛮社の獄の口実となった無人島事件のねつ造に悲憤、また、老いた母の身の上を案じ和歌も詠んでいる。

 入獄6年目、獄舎が火事になった。囚徒は三日を限りに解き放されることになってい、長英も牢から出られた。そして、そのまま脱走、時に41歳。
 脱獄した長英は各地を転々としながら蘭書を翻訳、戦術兵器に関するものも多かった。それを宇和島藩主・伊達宗城が知り、ひそかに宇和島藩に招いた。藩士を選んで蘭学を修行させたのである。
 長英は宇和島で砲台の設計、多数の蘭書の翻訳をしていたが、滞在を幕府が知ったという噂がたち、宇和島を去った。その後、讃岐、広島、鹿児島、大阪、名古屋など転々としていたが、またまた江戸に戻る。
 青山百人町に住み沢三伯と変名。医業のかたわら翻訳に励んでいたが、突然幕吏に襲われ自害。1850嘉永3年、46歳であった。
 長英没後49年、1898明治31年正四位追贈される。郷里の水沢市(奥州市水沢区)に記念館があり、旧宅の一部は史跡に指定されている。

 参考:『髙野長英』須川力1990岩手出版 /『髙野長英伝』髙野長運1971岩波書店 /『我が郷土史』1933宇和島市和霊尋常小学校 /『コンサイス日本人名事典』三省堂

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