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2013年12月

2013年12月28日 (土)

新井奥邃(おうすい)と田中正造(宮城県・栃木県)

 東日本大震災、原発事故から三度目のクリスマス前<最後の避難所閉鎖へ>という新聞記事を読んだ。福島県双葉町の住民が川俣町、さいたまスーパーアリーナ次いで埼玉県加須市に役場も移し避難所を設けていたが、年内に全員が退去する見通しになったという。
 双葉町は今なお全域が避難区域に指定されているので避難所を出ても故郷に戻れない。せめて温かくして冬を切り抜けて一日も早く安住できるようにと祈るばかり。そして笑顔を取り戻すよう願っている。
 自分に落ち度もないのに非道い目に遭い長く困難に陥った話は明治の昔もあった。足尾鉱毒事件である。その鉱毒事件田中正造と関わった新井奥邃(あらいおうすい)が気になった。波乱に富んだ前半生に驚くと同時に戊辰戦争中に知った著名人や同士らの縁、加えて学問もあり現実社会で立身できただろうにそっちに行かなかった。名利と無縁の世界に生き、後生を教え導き、田中正造の激烈な心にさえ休息を与えられた。その心はどんなに広く、深いのだろう。

   新井奥邃 (あらいおうすい) 1846弘化3年~1922大正11年。

 明治・大正期のキリスト教徒。名は常之進、奥邃は号。
1846弘化3年、仙台に生まれる。父は仙台藩士。7歳で藩校・養賢堂に入学。
1866慶應2年、抜擢され江戸遊学、昌平黌に入るも満足できなかったらしく*安井息軒の三計塾に移る。
  *安井息軒(そっけん): 儒学者、昌平黌黌長。ペリー来航に際し「海防私議」を著し国防論を展開した。

 徳川将軍慶喜が大政奉還し鳥羽伏見の戦いがはじまると奥邃は仙台へ帰った。奥羽越列藩同盟なり、加賀藩をも加盟させようと使者を派遣することになった。奥邃は副使として金沢へと出発したが、新潟から先へ進めず引き返した。次いで会津への使者に従い若松城で、藩主松平容保に謁するなど奔走した。しかし、藩主伊達慶邦は降服を決めた。
 折しも、仙台藩の寒風沢(さぶさわ)港に榎本武揚の軍艦が寄港し仙台藩の脱走兵や志士が頼ってきた。奥邃も脱藩してこれに便乗、函館へ赴き、五稜郭に籠城した。たまたま土佐の沢辺琢磨と出会ってキリスト教の教義を聞いて興味を抱き、ロシア宣教師のニコライを訪ねたりした。
 籠城するうちに奥邃は「新政府軍が攻めてくるのをただ待つより積極的に戦おう」と榎本に進言、用いられ仙台に募兵に行くことになった。奥邃と同志金成の二人は、ラッコ猟の外国船に乗り仙台で下船するつもりだった。ところが船は金を受け取りながら仙台へ寄らず房州に向かった。
 二人はやむなく房州に上陸、空しく過ごしている間に五稜郭は陥落してしまった。二人は秘かに仙台へ帰ったがお尋ね者となり京へ逃れた。翌年、金成は東京に残り、奥邃は函館へ戻った。(『新井奥邃先生』1991永島忠重、その他)

 函館の奥邃はニコライについてキリスト教を研究していたが金成の手紙で上京した。手紙には「森有礼・特命弁務使(全権公使)がアメリカ赴任に際し留学生を伴う。選ばれた自分に代わり奥邃を推薦した」とあった。奥邃は急ぎ上京し森金之丞(有礼)に面会、官費留学生としてアメリカに行かれることになった。

 1871明治4年12月、新井は岩倉使節団と同船して渡米、年末にサンフランシスコ到着した。船には多くの留学生に交じって山川捨松ら女子留学生の姿もあった。翌年春、奥邃は他の留学生のように普通の学校に行かず、森有礼の紹介でニューヨーク・ブロクトンの*トーマス・レーク・ハリスに入門。後、奥邃はハリスを中心とする一団に従い、サンタ・ロウザへ移り、54歳で帰朝するまで原野を開拓する労働に従事しつつ修養した。
 *ハリス: アメリカでも知る人が少ないが、横井小楠がハリスの風説を耳にして「この我利世界に頼むべきは実に此の人あるのみ」と感嘆している(小遺稿楠)。 現在、ハリスに対する評価は難しく評価が分かれている。

 1889明治32年、奥邃帰国。待つ家族もなく、住む家もなく、帰朝後しばらくは東京の神田、角筈、滝野川辺に仮住まいした。
―――先生は曽て何らの宗派にも団体にも属されなかった。所謂宗教家らしい様子は少しも無かった。又他人に調子を合わせ、俗世と妥協するような事は固より毛頭も為さらなかった。而して苟も学を衒い自ら是とするような風は些少だも無く、常に黙々として、徒に弁を好む如き事は全く無かった(『内観祈祷録・奥邃先生の面影』1984)。

 アメリカ生活30年、キリスト教を研究して帰国した奥邃は巣鴨庚申塚の二軒長屋に、少人数を集めて論語や孟子の講義をした。英語でなく漢学を教えたというのは、工藤直太郎(『新井奥邃の思想』1984著者)がいうように不思議だ。
 1903明治36年大晦日、東京市外巣鴨村に一棟を新築、20人ほどの学生と住んだ。その家を謙和舎と名付け他界するまで生活した。

 奥邃が帰国したころは足尾銅山鉱毒事件が表面化して大きな社会問題となっていた。帰国前年1901明治31年に田中正造が天皇に直訴という事件があった。 
 精錬所から出される鉱滓や有毒の汚水は渡良瀬川流域の被害を拡大し、収穫が皆無となる場合が珍しくなかった。しかし鉄と銅は軍需品生産の基礎となる資材であったから、政府は古河に適切な防災設備を採らせることを怠った。田中は衆議院議員として被害農民の陣頭に立って鉱毒運動を続けていたが、万策尽きて天皇に直訴したのである。長い戦いで家財を差し押さえられ私財を使い果たし、弁護士も政府の圧迫をおそれて訴訟を引き受ける者がいなかった。
 奥邃は田中の天衣無縫、闊達な人柄を愛し同情して、門人の法学士・中村秋三郎を弁護人に推薦した。中村は田中の義挙に感銘、報酬を受けず私財を尽くして運動を助けた。

 田中はクリスチャン巌本善治の紹介で奥邃と出会ったのである。奥邃の論語の講義を聞いて常に論語と聖書に親しみ、奥邃「語録」を持ち歩いた。また謙和舎の簡素、清閑な生活が気に入りたびたび泊まった。
 1913大正2年、田中正造は渡良瀬川沿いの他人の家で波乱の生涯を閉じた。72歳。

 密教的な原始キリスト教を信奉した新井奥邃は反戦と平和を支援、足尾鉱毒事件の他に日露関係と軍拡、シーメンス事件、女性解放などについての所見を「語録」に残している。また『読書読』を発行、詩人高村光太郎は何百回も読みかえしたという。
 1922大正11年6月16日、新井奥邃死去、77歳。世田谷の森厳寺内に葬られ、遺言により墓石でなく木標が建てられた。木標の記銘は内ヶ崎作三郎(ブログ・ある早稲田つながり2012.12.22)、のち石碑が建てられた。

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2013年12月21日 (土)

中国「演義小説」の英雄、誰が好い?

 スクーリング授業「中国文学」最終日、試験が終わって外に出ると雨だった。折り畳み傘を広げつつ『封神演義』中の仙人なら雨風を操るなんて簡単だろうなあ、突飛なことを考えた。その訳は中国文学といっても杜甫や白楽天の詩などではなく「演義小説、7作品」 3ヶ月間毎週、英雄たちに出会っていたせいらしい。

 家に平凡社[中国古典文学全集]全60巻があるが、未収録作品が『説唐』 『楊家府演義』 『説岳全伝』 『封神演義』と4つもあって「全集」と言っても網羅してる訳じゃない、当たり前なことに気付いた。せめて一作でもと『封神演義』を読むと、仙界と人界を英雄やら妖怪らが飛び交い戦っていて痛快、面白かった。
 たまたま遊びに来た息子に本を見せたら、これ「漫画になってる」といい、中学生の孫も知っていた。国境を越え、時代を超え若者に好まれる物語のようだ。

 ところで中国では、若くして『水滸伝』老いて『三国志』というそう。
 『三国志』は政治的な駆け引きが描かれ、『水滸伝』は造反物語。底辺の人は自分が喧嘩に負けても黒旋風李逵(りき)や虎退治の武松らの活躍で胸がすっとするのだ。ちなみに、『水滸伝』は明・清時代に禁書になったという。
 その『三国志』と『水滸伝』、背景の時代が900年ほど離れているが何も気にせず夢中で読んだ。それでもいいのだろうけど900年前は遙か昔だ。時代が違えば文化が違う、古典を読むならせめて年表をみようと思った。背景を知ればもっと楽しめるだろう。

 スクーリングの先生は日本に長く住み日本の古典を研究してる中国人でした。日中の考え方や様式の違いなど何かと刺激を受け楽しみな授業だった。次は印象に残った違いの一部、

 忠:
  本来、主君に専心尽くそうとする真心で見返りを求めない。「ただ」(無料)。目上目下の関係ではない。「忠」を要求する側に利益誘導する気持ちがあるときは本来の「忠」ではない。

 義:
  個人の利害を捨てて公共の道理に従い人助けや恩返しをする気持ち。上下関係はない。
  劉邦は蜀を建国したが国よりも義兄弟・関羽や張飛との義を重んじ、義弟張飛の弔い合戦に走り敗れた。国よりも義を結んだ兄弟をとるのだ。

 仁:
   思いやりの心であり博愛の精神、仁をもつ人は希まれるリーダー。

 孝:
  ファミリー、親に服従する心。中国や朝鮮では忠よりも孝が大切だと考えられた。
  たとえば、道に外れた君主を三度諫めても聞き入れられなかったら、君主の元から去るべき。それに対し、道に外れた親を三度諫めても聞き入れられなかったら、号泣して従わなければならない。
 中国の小説やドラマでなどで大事件渦中の政治家が親の喪に服すため帰郷、その間に政治が二転三転というのは、まさに「忠」より「孝」が大切だから。日本人の感覚と異なる。

 さて、ひとくちに英雄といってもタイプがある。『三国志』の格好いい関羽・明るい豪傑張飛・レッドクリフ赤壁の戦いイケメン周瑜、『水滸伝』宋江・黒旋風李逵(りき)・虎退治の武松、『西遊記』孫悟空、『封神演義』姜子牙(太公望)・仙人・道士、関羽と同じく神に祀られた『説岳全伝』岳飛などいろいろで、好みが分かれそう。あなたは誰が好き?
 試験に好きな英雄の英雄性について纏めよという出題があり、筆者は諸葛孔明にしたが芸がなかった。ブログでとりあげているような事績があるのに広く知られてない人物、英雄を探して自分なりの解釈をしたらよかった。今さらだ詮ないが。

         <蜀漢の臥龍、諸葛孔明の英雄性>

 蜀の宰相諸葛亮、字孔明は身の丈八尺、顔は冠の白玉のよう。容貌すぐれ、戦に出るときは羽扇、綸巾(かんきん頭巾)、鶴氅(道士の着物)をまとい、飄々として神仙の趣がある。
 自軍の将兵が少なくとも戦略を駆使して急接近する大軍を退け(空城計)、死してなお「生ける仲達を走らせ」退却させた。英雄の面目躍如である。

 しかし時に敗れる。敗軍の責が指示に背いた武将であれば、たとい愛弟子でも罰しなければならない。法は法として「涙を揮って馬謖(ばしょく)を斬る」も、その家族を憐れみ扶持を手配。やむを得ない決断ながら涙する孔明、その涙はみる者の胸をうつ。
 劉備亡き後、丞相として後主劉禅を忠実に補佐する孔明。学問知識があり「漢室の再興」を図り、国を治めるべく、病の身をおして全力で後主に尽くす。

 さて、いよいよとなり「後出師の表」を奉り魏の討伐に向かう。ところが時勢は味方せず、戦いは一進一退を繰り返す。百余日が過ぎたある夜「大星隕ちて漢の丞相天に帰す」 孔明終焉の地、五丈原は詩跡となった。
 志し半ばで空しく散った英雄を惜しむ杜甫の「八陣図」「蜀相」、日本の土井晩翠「星落秋風五丈原」などは今も愛誦され、孔明の名を耀かせる。
 英雄の最後は文学になり長く記憶される。諸葛孔明はその一人。

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2013年12月14日 (土)

教育に力を注ぐ小学校教師、花巻の歌人西塔幸子(岩手県)

 澄み透る空の青さよ掌にくまむ 水の清さよ美しこの村 
 声あげて何か歌わむ あかあかと夕陽が染むる野面に立ちて
 憂きことも束の間忘れ すなおなる心になりて山にものいふ
 生きることのせつなき日なり うつしみのすくやかなれと母はのちせど

 西塔幸子(さいとうこうこ) 1900明治33年~1936昭和11年 旧姓大村、本名カウ。

 岩手県紫波(しわ)郡不動村(現・矢巾町やはばまち)生まれ。実家の大村家は教員一家で、祖先に名の知られた南部藩砲術指南・大村治五平がいる。
 1919大正8年、岩手県師範学校女子部を卒業、当時としては珍しかった女教師の道を選んだ。幸子は郷里の岩手県内の九戸郡、下閉伊(しもへい)郡など各地の小学校で教鞭をとり、結婚後も子どもの教育に情熱を注いだ。6人の子どもを生み育て、わが子を題材にした歌も多い。

 幸子が教師をしていた大正・昭和初期、北上山地の人びとの暮らしは豊かではなかった。それに加えて世界経済恐慌、凶作、飢饉が重なり、子どもの出稼ぎという悲惨なこともおきた。幸子は日誌に記す

―――打ち続く農村疲弊、かてて加へての凶作、木炭業を生計とする此の地方では木炭の下落が如何にこの罪無き、爛漫の児童の生活まで脅かしゆく事か、はるばると通学してくる生気のない欠食児童の顔! 
 私は今日悲しいことを二つの目で見、耳で聞いた。私の曾ての教え子は(本年15歳)料理屋に売られたとの事・・・・・・細面の寂しみのあるきれいな子だった。私はその話を面白そうに話してくれた人の前で顔をそむけて目をふせた(『宮澤賢治のヒドリ』 )。

 1921大正10年、磯鶏(そけい)尋常高等小学校へ、夫は鍬ヶ崎(くわがさき)の尋常高等小学校へ赴任した。
 幸子は花巻の西塔家に請われて嫁入り。夫も小学校の教師でのちに校長をつとめたが、家庭は必ずしも平穏であったとはいいがたい。西塔家からすれば嫁の幸子が歌人として教師としてもてはやされ、ラジオ(盛岡放送局)にでるなど、一家して喜べないものがあった(『宮澤賢治のヒドリ』)。

 1933昭和8年3月、三陸大津波の大惨事を岩手日報に投稿して惨状を訴え、県民からの共感を呼び復興に寄与した。
 三陸は1960昭和35年のチリ津波でも大津波に襲われ、2011平成23年3月の東日本多震災は言葉にならないほど大惨事となった。あれから2年半になるが復旧未だし、被災地は今なお復興に励んでいる。そういった復興現場への応援サイトが見られる。その一つ「JR岩泉線復旧応援サイト」“ 西塔幸子の歌で辿る岩泉線沿線”がある。 http://www.town.iwaizumi.iwate.jp/~iwaizumiline/

 1935昭和10年、幸子記

―――前年に続く凶作にて村の疲弊甚だしく児童等の意気消沈せるをみて心には悲しみの歌を歌いつつ・・・毎日数十人の児童に給食をなす。

 給食の菜の代わりと折りて来し 蕗の皮むく夜のしじまに
 干鱈を数いくつかに切り終へて 給食の支度今日も終へたり

 幸子は子どもの教育に力を注ぐ一方、歌づくりに没頭し各方面へ投稿、女啄木といわれ注目を集めた。それにより家庭生活に不協和音が生じたが、歌への情熱は捨てなかった。凶作、出稼ぎにゆく婦女子、南米や新大陸へ移住をはかる人たちへの歌もある。

  凶作に衣のうすきにふるゐる 生徒にはかなしこの校舎はも
  ストーブに小石あたためふところに抱く 児等あり校にきたりて
  みちのくの閉伊の郡の冷えしるく 障子なき教室に児等ふるへゐる
  南米に長子も次子もありといふ 病み重る人見るにせつなき
  訓練所卒へてきたれる教え子の 肌の黒きが嬉しかりけり

 
 1936昭和11年6月22日、川井村の江繋えつなぎ)尋常小学校に在任中、病を得て短い生涯を閉じた。36歳という若い死はいたましい。遺稿歌集『山峡』(やまかい)。

 最後の赴任地、下閉伊郡川井村江繋(現・宮古市)に「西塔幸子記念館」があり、歌碑が村の人たちと苦楽を共にした思い出の地、川井村・新里村・岩泉町・田野畑村・矢巾町に建てられている。

 参考:『宮澤賢治のヒドリ』2008和田文雄著・コールサック社 /『岩手県の歴史散歩』2006岩手県高等学校教育研究会地歴・山川出版社/ インターネットは歌碑のある町村、田野畑村ほかHP参照。

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2013年12月 7日 (土)

1928ワールドシリーズ、ベーブ・ルースと会った 河野安通志

 先日、県予選を勝ち抜き全国大会出場を決めた卓球コーチが、自分以外の代表がみな平成生まれだったので「昭和60年代生まれは若くない」と思ったという。昭和も遠くなりにけりか、戦中派は感慨に耽ってしまった。何にしても昭和は長い。昭和初期の青年は明治生まれだ。明治も半ばを過ぎるとスポーツが盛んになり熱中する若者も多かった。昭和のはじめ、ワールドシリーズ観戦にアメリカに行った野球人は明治生まれである。往年の早稲田大学エース河野安通志(こうのあつし)その人である。

 河野安通志 (1884明治17年~1946昭和21年)石川県加賀市生まれ。

 父は旧加賀藩士で妻は学生野球の父・飛田穂洲(とびたすいしゅう)の妹である。河野は一家で横浜転居し旧制横浜商業高校、明治学院、早稲田大学と進み野球を続けた。第1回早慶戦に先発、試合は敗れたがその後はエースとして活躍、日本一に貢献した。監督の安部磯雄は日本一の褒美としてアメリカ遠征を大隈重信学長に願い出て叶い1905明治38年早大チームは渡米。アメリカ各地の大学や軍のチームと対戦し成績は7勝19敗、エース河野は24試合に登板した。
 この遠征で24試合を投げぬいた河野はIron Kouno(鉄腕河野)と相手から称賛され、今では珍しくはないがスローボール、ワインドアップの技術を伝えた。ワインドアップ投法はファンを魅了、画家・竹久夢二も「夢二画集―春の巻」で河野に触れている。
 ところで帰国してすぐ早慶戦が行われ、早稲田は5:0で負けた。次は河野の談話

―――翌日の新聞で河野は手をぐるぐる廻してプレートの上で踊ることばかり覚えてきた。あれでは何になるのかと悪口を書かれました。22年後の今日(昭和3年)では、ベースボールをやるところの人は中学生は無論のこと小学生の小さなところでもピッチングをやる時は手をぐるぐる廻している。あれは僕が元祖なんだ(笑い)。

 明治も半ばを過ぎ、野球人気は過熱気味で新渡戸稲造の野球熱批判や、東京朝日新聞の「野球は害毒」キャンペーンが展開されたりした。これに対し読売新聞主催「野球擁護の大演説会」が開かれ、千名を超す聴衆が集まった。小説家・押川春浪、早稲田野球部長・安部磯雄、河野安通志らが野球の効力や必要性を述べた。河野は野球害毒論の「野球をやると利き手が異常に発達するので有害」説に自らの両手を挙げて反論もした。

 1920大正9年、河野は橋戸信らと日本初プロ野球チーム・日本運動協会(芝浦協会)を創設、芝浦球場を造り本拠とした。アマチュアチームや当時人気の古巣、早大野球部と対戦していたが1923大正12年6月、初めて同じプロ天勝野球団と京城の竜山満鉄球場で対戦した。日本運動協会が勝ち越し意気上がるも9月、関東大震災が起き芝浦球場は「震災復興基地」として内務省に差し押さえられ、チームは解散した。
 解散後、河野は阪神急行電鉄の小林一二三の支援を受け本拠地を宝塚球場に移転、チーム名も宝塚運動協会と改称して再建を図った。しかし世界恐慌によりまたも解散となる。

 1928昭和3年、河野安通志はワールド・シリーズ観戦のため渡米。新聞記者の資格でアメリカの記者たちと共にシリーズが行われる球場へ移動、選手席でヤンキースのベーブ・ルースに会った。観戦記は『スポーツ年鑑』に野球人ならではの詳しい記述があるが、ここでは河野のベーブ観を『世界人の横顔』から一部引用してみる。野球を精神修養の野球道とではなく、仕事、職業として捉えている点がプロ野球の創設者らしい。

―――体格は実に立派なもので30貫(約112kg)もありましょう・・・・・・ヤンキースの勝因はいつも彼が作り、まるで一人舞台でした。少し専門的になるが、彼のバッティングは全く独特でゴルフを打つのと同じです。自分でも「ゲーリッグは腕で打つ。だから良い当たりの時は必ずライナーで、フライの時は必ず当たり損ねで腕のどこかに力の抜けたところがある。おれのはスゥイング・フロム・ザ・ヒール、踵で打つのだ。だからいい当たりがすれば必ず大フライで、スタンドに打ち込むかスタンドの向こうに落ちる。おれは打撃率では誰にでも勝つとはいえないがホームランなら絶対に負けない」といっています。
Photo
―――彼が野球界で如何に人気を持っているかは、8万ドルという法外な給料がよくそれを表しています。昔は槍一筋で5千石と言いましたが、ベーブはバット一本で8万ドルというわけです。アメリカには職業野球団が非常に多く、数えると33ありますが、小リーグになると一人の給料の平均2~3千ドルですから1チームの人数が20人としても6万ドル足らずでベーブ一人の給料にも及びません。岩見重太郎は十人力とか二十人力とかいいますが、ベーブは給料にかけては20~30人力です。

 1934昭和9年ベーブ・ルースが大リーグ選抜チームの監督として来日。当時、ベーブはもう最後の年で実力は衰えていたが、日本の大歓迎に感激して自伝に述べている
―――その旅行は私たち全員にとって素晴らしい経験だった。日本人はこの7年後に奇襲を仕かけてくるのだが、あのとき彼らが示してくれた歓迎は、どう見ても本心からだった。・・・・・・振り返ってみて、やはり政府の頭がおかしくなってしまうと、やさしい国民をもどうしても戦争に追いやってしまう、また一つの例だと思う

 アメリカチームを迎え撃つ全日本もメンバーをそろえ対戦した。おおらかで、豪快で、楽しさに満ちた野球は日本人を楽しませた。もう最後の年で実力は衰えていたベーブ・ルースだが活躍はめざましく、熱気を巻き起こした。この時の河野の動静は分からない。

 写真:『野球上達法』1938ベーブ/ルース著 水谷博訳(平原社)より

 1936昭和11年プロ野球リーグが結成され河野は名古屋軍監督に迎えられるが、翌年退団し後楽園イーグルスを創設。
 1941昭和16年、ベーブの言う奇襲、真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまり、「大和魂」で野球をしていた河野も大和軍と改称していた球団を解散する。チーム編成どころか野球もままならない中で敗戦を迎え、翌1946昭和21年1月21日、脳出血のため急死、享年62。
 プロ野球創設と挫折の人生を終えたが、河野の蔵書は、野球体育博物館図書室の元になり、1960昭和35年、特別表彰で野球殿堂入りを果たした。

 参考:インターネット<河野安通志http://ja.wikipedia.org/wiki/
 『日米野球裏面史』2005佐山和夫(NHK出版)/ 『スポーツ年鑑昭和3年版/4年版』1929(大阪毎日新聞社・東京日日新聞社編)/ 『世界人の横顔』昭和5(四条書房) 

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