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2014年2月

2014年2月22日 (土)

明治、東北の実業人と台湾(荒井泰治・藤崎三郎助・槙哲)

 三度の食事ができて本が読めれば充分な筆者は、実業家とか金満家に全く縁がない。その方面はあまり興味もないが、明治維新後の成功者はたいてい立志伝中の人物でユニークな逸話があったりする。ちょっと気になる実業家3人を見てみた。
 前に、“詩は臥城、人物評論は鉄拳禅(宮城県)2014.1.11”を書いたが、その吉野臥城が『日本富豪の解剖』で東北の新富豪・荒井泰治と系列の藤崎三郎助槙 哲をとりあげている。
 3人とも東北出身で江戸から明治と世が代わり、食べるのにも事欠くほどの境遇から粉骨砕身、冨を築きあげた。この3人に共通するのが台湾の塩水港精糖である。

 日清戦争後、日本は台湾領有にともない植民政策として産業を奨励した。台湾は甘藷の栽培に適していたので総督府は精糖の改良を促し発達を図った。
 兒玉源太郎台湾総督、井上馨は本格的な台湾精糖業の振興を目的として1900明治33年台湾精糖会社創立に尽力。創業当初は、台湾総督府から援助を受け保護助成策のもとに発展した (のち新日本興業→台糖株式会社)。台湾における総ての民業は官憲の庇護によって発展したという説もある。

 1903明治36年、台南の大糖商ら数名が南台湾屈指の糖業地・塩水港庁下に赤糖工場を作った。(旧)塩水港精糖会社である。資本金30万円で設立しが、営業の成績はあがらず欠損が出るばかりであった。
 翌37年、総督府の糖業奨励にもとづいて新式精糖事業に変更、岸内庄に工場を建設した。ところが不幸にして相次ぐ暴風雨、資金難で会社は悲境に陥った。この難局に際し荒井泰治は槙哲に手術を依頼した。
 槙は支配人となり、資金の調達と改善を断行、1906明治39年には配当を行うまでに改善させた。

――― 塩水港精糖には少壮の槙哲あり。藤崎三郎助あり。共に荒井の股肱と見るべく、事業に対しては進歩的の頭脳を有す・・・・・・荒井系統の者が、台湾ないし東北の実業界に雄飛せんとするは注目すべき現象ならずとせず(吉野臥城)。 

 時あたかも日露戦争後の勃興期で製糖業界で、原料区域の争奪戦も展開された。そうした中で塩水港精糖も増資、拡張に迫られた。 
 1907.3.2明治40年、その商号と事業を継承して塩水港精糖(株)が設立された。本社は台湾。社長は荒井泰治。荒井と同じ東北出身の後藤新平、兒玉総督の知遇を得て就任したのである。
 荒井は10年前からサミユル商会台湾支店長として台湾に赴任していたが、商会を辞めて塩水港精糖株式会社に入ったのである。常務は槙哲と堀宗一(元台湾糖務局技師)。

 1908明治41年、荒井社長と専務取締役・藤崎三郎助は台湾総督府の保護の下に資本金を500万円にし、さらに高砂精糖会社を併合した。専務の藤崎はもっぱら東京出張所を担当。
 塩水港精糖の社名は今も、台湾での創業以来そのまま単独で受け継がれている。

    荒井泰治

 宮城県仙台市の隣村、七北田生まれで幼い頃から湯屋の夫婦に養われた。食べるにも事欠く境遇で、死を決心したこともあるという。それほどの苦労さなか、東北の先輩、日銀総裁・富田鉄之助に救われ日銀に入る。後々の成功の為の修業時代となった日銀で、実業の才能を発揮し働きぶりを認められ、鐘紡に入社、さらに東京商品取引所支配人になった。やがて、サミユル商会支配人として台湾赴任、塩水港精糖社長。 

――― 内地に帰るや、仙台に華美宏荘の居を構え一挙貴族院議員となり、仙北鉄道、仙台瓦斯を企画・・・・・・東北の天地をして第二の台湾視せる彼にして果たしてよく東北の実業家たるを得んか、ひいて東北振興策としてその除幕は展開せらるべし。
――― 荒井は黄金を攫取するに手段を選ばざるの人物と誤解さるるも、彼には比較的清廉なる所あり・・・・・・公金を使用するが如き悪質の人にあらず・・・・・・説くに理を以てすれば容易に屈すべし。沢柳政太郎は説くに理を以てせしが故に、彼は東北大学の為に三万金を寄付せり。

    藤作三郎助

 1869明治2年、宮城県仙台で代々呉服商を営む素封家の家に生まれる。母の手一つで育てられ学校教育は受けず、外国人家庭教師ヂフォレストに学ぶ。
 1902明治35年、上京して海外貿易に従事。やがて南米貿易の有利なのを知ると、店員4名を連れて
 1906明治39年ブラジル・サンポールに赴き、日本雑貨商店を開いた。南米に於ける日本人商店の初めである。

――― 現今塩水港精糖が旭日昇天の声望を博する、素より社長荒井泰治氏、常務槙哲氏らの辣腕的経営あると雖も、彼らは所謂成金者肌にして、台湾の如き新開地に在りては、驥足を伸ばし得れ、内地に於てしかく同社の信用を維持するもの、一に渠の累代的徳望によらずして何ぞや。

    槙 哲

 新潟県長岡出身。
 慶應義塾の学僕をしながら苦学力行した。1890明治23年卒業後しばらく舎監をしていたが、実業界に入る。北越鉄道の事務員、王子製紙の工場長として働いていたが、アメリカに渡る。

――― 君はソンジョソコラの月並み重役共の知らぬ苦労をして来たものである・・・・・・米国に飛び出しテキサス州辺で米を作って見たが、大失敗で、内地へ帰れぬところから台湾へ流れ込んだ。台湾における悲惨な生活は今聞いてもゾッとするくらいで、ほとんど浮浪人に等しい時代さえあったのである。そこでその頃、台湾で羽振りをきかして居た同窓の先輩、藤原銀次郎君が見かねて後藤新平(台湾民政局長官)に頼み、塩水港の支配人に推薦してもらった。

 後藤新平の推薦で塩水港精糖に入社した槙は、当時難局にあった会社を整理収拾して、優良会社に立て直した。その後しばらく閑職にあったが、請われて塩水港精糖の社長に就任。槙はその手腕と共に人柄からも株主や社員に信用があった。
 槙は5人兄弟。彼をよく励ました長兄は『奥羽日々新聞』主筆、仙台米穀取引所理事、塩水港精糖重役などをつとめた。次弟は仙台で絹織物業。末弟は石巻電燈支配人。

参考: 『日本ダイレクトリー:御大典紀念』清田伊平編 / 『財界一百人』遠間平一郎(妖星)/ 『財界名士とはこんなもの?』湯本城川/ 『日本コンツェルン全集 第15』春秋社/ 『現代業界人物集』経世社編

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2014年2月15日 (土)

東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県)

Photo_2 小学校がまだ「候文」の時代に二葉亭四迷(長谷川辰之助)は言文一致、口語体の小説『浮雲』を発表、この頃から言文一致運動が盛んになる。明治維新以来、西洋文化が入りローマ字採用、かな文字推進の運動があり、日清戦争後には標準語制定に関心が高まった。

 1900明治33年、文部省は国語調査会を設け前島密委員長、上田万年、大槻文彦、那珂通世委員らは国語の将来について審議。翌年の小学校国定教科書は口語文が採用された。

 ―――私は仮名説を採ります。国字改良の事は世論と云つても可ひ・・・・・・私(那珂通世)はいったい儒者ですからぜんたい漢学には不都合を感ぜぬ方ぢや、併し自分勝手の事ばかりも言つても居られません。まァ普通一般の人は仮名を用ひるとして、学者に成ろうと思ふ人は漢学も洋学もやるとするさ
(*『明治文豪硯海録』自治館編輯局編1902文明堂)

  *明治文豪硯海録:前島密からはじまり津田梅子・岡本監輔・森林太郎(鴎外)・原敬・岸田吟香・清水卯三郎(全文ひらがなの意見書)・海軍大学教師ロイド・井上哲治郎まで67人、国語国字改良について意見を載せた426頁の一冊。印刷は徳富猪一郎(蘇峰)の民友社。

 いつの時代も国語の問題は尽きそうにない。ことに明治は江戸以来の漢学に加え西洋文明が入ってきたから国語表記は重要な問題だったと察せられる。新聞記事の口語化は大正の中頃というから明治は未だ文語体が主流だったが、「かな説」を採った那珂通世は漢学を修め満州語・モンゴル語にも通じた学者である。にもかかわらず中学校や師範学校で仮名を採り文法を教えたのは、児童や青年の将来、ひいては日本のためであった。
 写真『那珂通世遺書』那珂通世博士功績紀念会編より

   那珂 通世(なかみちよ)

 1851嘉永4年~1908明治41年。父は盛岡藩士藤村正徳。那珂通高(江帾五郎)の養子。 盛岡藩城下に生まれた幼名・荘次郎は兄について藩校に通い頭角を表す。藩校作人館の学者・江帾通高に認められ養子となる。
 養父江帾通高が南部藩主の近侍となり「那珂通高」と改姓、彼も「那珂通世」を名乗り、父子共に作人館で教えた。やがて、戊辰戦争がはじまり南部藩も奥羽諸藩と同じ苛酷な運命を辿る。
 戦い敗れ養父通高は東京麻布の藩邸に謹慎となりのち越前藩邸に移され1871明治4年ようやく許され、家族を盛岡から呼び寄せた。
 上京した通世は英学を志し、早稲田にあった山東一郎(直砥)の北門義塾(明治新塾)に入門、間もなく慶應義塾に入った。入塾後、福澤諭吉は通世の状況を憐れみ学内の業務を与え月謝を免除するなどした。

 1875明治8年、福澤の推薦で任期1年の約束で巴城学舎の教師として山口県へ赴任。
 1876明治9年、*『洋々社談』に「日本古代文字考」発表。
   *洋々社談: 洋学・国学双方に精通した大槻盤渓、西村茂樹、通世の養父那珂通高ら中心に結成された学術団体の機関誌

 1877明治10年、千葉師範学校教師兼千葉女子師範学校教師長として赴任。

――― 教師の苦しむのは児童をして許多の漢字を記憶せしむることなり。この困難を排除するには読み本以外の教科書を仮字(かな)のみにて記すに如かずとて、まず算術教科書を仮名文にて作らんことを試み・・・・・・仮名遣いの問題に遭遇せり、第一に仮名遣いは古来のを襲用すべきか、現今の発音通りに改むべきか・・・・・・第二は文語法、分かち方、動詞・助動詞及び「てにをは」文法の考究を要する・・・・・・当時国語の文法を学科に加えし学校はあらざりし

――― 児童に分数の意義を直感的に了解せしめんが為に分数計算機を工夫・・・・・・その構造は同じ長さの板を二分せるもの三分せるもの乃至十五分せるものを一枚の額面に数段に配列し、自由にこれを抜き差しし得るになしたる簡単なるものなり。
 1884明治17年ロンドン教育博覧会にこの分数計算機を出品、銀杯を授与された。
(『文学博士三宅米吉著述集』文学博士那珂通世君伝1929)

 1894明治27年、那珂通世は東洋史の発展に寄与し、<東洋史>という言葉をはじめて中学の教科書に用いたのも通世である。

 1879明治12年、東京女子師範学校訓導兼幹事のち校長。この学校は1875明治8年創立で開校当時から山川健次郎の姉二葉が寄宿舎長をしていた。通世は千葉女子師範学校での経験もあり女子教育に大いに尽力した。
 また第一高等学校、東京高等師範学校教授となり、1896明治29年から9年間、東京帝国大学文科大学の講師を兼任、明治36年早稲田、翌年には浄土宗大学で教授した。
 その間、日本・朝鮮・中国の古代史を研究、漢文の著書『支那通史』5冊(1888~90)は清国で翻刻され、ほかに『元史訳文証補』『成吉思汗実録』などを校訂出版した。
 日本史についても『外交繹史』(全4巻1915)で神武起源について検討、『上世年紀考』で日本の紀年に史実とあわぬ延長があることを指摘した。
(『コンサイス日本人名辞典』三省堂)

以下は慶應義塾の後輩、考古学者・教育者の三宅米吉の記述から

――― 君は外見あるいは縦放なるが如く見ゆることあれども其の実決して然らず。何事にも用意周到なりし。されば学校における諸種の試験又は教員検定試験の答案を調査するにも、先ず自ら各問題に対する答案の要点を摘記し以てその標準を定め、然る後各答案を調査し此の標準によりて評価を下せり・・・・・・君の評点が苛酷なりとて訴ふるものありしが・・・・・・正常の評価となし毫も苛酷たりとは思はざりしなり。

――― 君が自転車に熱心なりしは皆人の知る所にして、はじめて試みられしは第一高等中学校に教師たりし頃なり・・・・・・1901明治34年には輪界十傑に上げられ自ら輪転博士と云えり。
 1905明治38年日露戦争中に旅順に出張を命ぜられ嘉納治五郎、三宅米吉らと数人で宇品に向かったが、対馬海峡・日本海海戦のため出発がおくれた。出帆を待つ間、自転車で芸備地方を巡っていた通世は船出に間に合わなくなる所だった。
それから3年、

――― 君は平素、身体すこぶる強健にして病にかかりしことあるを聞かず、されば君が突然の卒去は実に友人などの意外とする所なりき。三月一日君外出して夜に入り帰宅するや、胸痛を訴へ大いに苦悶せしかば、医を迎えて治療をくわえしかど、翌日溘然逝去せり・・・・・・
 君の生涯を通観するに明治新政の世多く人才を要するに当り、君は専ら教育文学の方面に於てその卓絶せる才能を発揮し、以て文化の進運に貢献する所大かりき。君は一生を通じて寧ろ不遇の境涯にありしかども、明治時代の文化史上に於ける君が功績は永く後世に伝はり時を経るに随て益顕著なるに至るべし。

 因みに、明治後期の栃木県・華厳の滝で「巌頭之感」を書き残して投身自殺した藤村操は甥である。通世の追悼文が「万朝報」にのり、新聞雑誌などが論評を掲載、新思想勃興期の哲学青年の死として衝撃を与えた。 

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2014年2月 8日 (土)

生くべくんば民衆と共に、布施辰治(宮城県)

 現代は一般人でも大学で受講の機会が得られ、開放されている大学図書館もある。春先は大学のオープン講座のパンフレットが幾つも届き、カルチャーおばさんは楽しい。ところが、明治初期は若者でも学校が少なく入学して学問する事は容易ではなかった。 明治大学博物館・企画展【近代日本の幕開けと私立法律学校――神田学生街と法典論争】をみると、明治期に学校を創る、それも私立学校となると深い学問と志、二つともなければ創立できなかったと解る。
 展示は5つに分かれていたが、どのコーナーも良かったが、第Ⅱと第Ⅳいついて記すと、
 第Ⅱ: 「明治維新と文明開化」の〔会津若松戦争図〕は中央大学の創立者の一人西川鉄次郎が白虎隊士だったとして展示されている。他にも西川と同じような体験の持ち主がいて、自身も学ぶなかで学校創立をも志したと推察できる。
 ちなみに前回登場の山川健次郎も白虎隊士、西川と明治の教育者同士として交流があったかもしれない。
 第Ⅳ: 「法典論争の中の私立法律学校」はとても勉強になった。民法と商法の施行をめぐり学会・法曹界・官界・政界・経済界を巻き込んで展開した法典論争、ボアソナードや穂積陳重等など何となく耳にしていたがよく分からなかったが少し判った。
 明治期の卒業生の写真もあり、その一人布施辰治(明治法律学校/現・明治大学)の解説を読み感心、調べてみた。年譜は三省堂刊『民間学事典』『コンサイス人名事典』を参照。

   布施 辰治(ふせたつじ)

 1880明治13~1953昭和28年。大正・昭和期の弁護士・社会運動家。
        宮城県石巻蛇田村の出身。
 1900明治33年 上京して明治法律学校入学
 1902明治35年 卒業。判検事登用試験に合格し司法官試補として宇都宮裁判所に勤務したが間もなく辞職。
 1903明治36年 「トルストイの弟子」を自認し、弁護士になる。
 1906明治39年 社会主義者・山口孤剣の弁護をはじめとして、片山潜、大杉栄、金子文子などの運動家や労働運動、小作争議の弁護をする。

――― 知友が刑事被告人として法廷に立つあり。君これが弁護に当たりて縦横論究大に努む、是君が弁護士となれる動機なりとす。 爾来、刑事法に就いて熱烈考究する所あり。 博く古今東西の法理を叩き帝国現状の時勢を鑑み、立論正確比喩功名にして聴者をして常に首背感服の外なからしむ。 加ふるに恬淡瀟洒にして義侠心に厚く、救済の念旺盛なるを以て社会の信頼を得ること甚だ大也。 常に学究に耽り手に新刊の書を放たず、斬新の奇説しばしば人を驚かす 現代の法曹界の明星として帝都の中央に飛躍するもの真に結えありといふべし。
  (『御大典記念:日本ダイレクトリー』清田伊平編1915甲寅通信社)

 1917大正6年 普通選挙(男子)実施要求の普選運動をはじめる。運動は明治25年結成の普通選挙期成同盟から始まり大正デモクラシー期に全国的大衆運動になったが、大正9年原内閣は議会で普選案を否決。
 1918大正7年 米価高騰がきっかけとして日本中で起こった激しい民衆運動・米騒動の被告の弁護をした。
 1919大正8年 著作『生きんが為に:米穀騒擾事件の弁論公開』(布施辰治法律事務所)
 1920大正9年 個人雑誌『法廷より社会へ』創刊
 1921大正10年 自由法曹団の結成に参加
 1922大正11年 東京で借家人同盟を創設

 1923大正12年6月 階級闘争の犠牲者と家族救援のため「防援会」結成。
   9月亀戸事件: 関東大震災の混乱の中で、当時の革命的労働運動の組合員らが亀戸警察に不法検束された事件。総同盟から自由法曹団に調査が依頼され、布施らは虐殺された平沢計七らの死体を荒川土手に探しにいったり、証拠収集にかかったが今もって不明の部分がある。大杉栄の虐殺を警視総監に問い詰めたことは有名(『コンサイス学習人名事典』)。
 布施の活動は朝鮮・台湾にもおよび、義烈団事件、朝鮮共産党事件、二林蔗糖農民組合事件などの弁護士としても活躍した。水平社にも援助した。
 1924大正13年 『急進徹底普選即行パンフレット.1』自然社より刊行

 1926昭和1年 日本労働組合総連合会長 
 1928昭和3年 第1回普選に労農党公認で立候補
 1929昭和4年 『無産者モラトリアム』(共生閣)
 1931昭和6年 『無尽・保険・月賦・その他の掛金に対する法律知識』『家賃地代に対する法律知識』(ともに浅野書店)
 1932昭和7年 弁護士除名。社会主義弁護士として活躍、日本共産党の被告たちをも弁護したため一時、弁護士としての資格を取り上げられてしまった。
 1933昭和8年 新聞紙法違反で検挙される。『電灯争議の新戦術』(希望閣)
 1938昭和13年 『審く者・審かれる者:法廷実話』(布施辰治・中西伊之助著/春秋社)

 第二次大戦後は弁護士に復帰、日本労農救援会(日本国民救援会)などの代表となる。
 1946昭和21年 『新聞などに表れたる各政党その他の憲法改正案』 第十二〔布施辰治氏の憲法改正私案〕
 1949昭和24年三鷹事件・松川事件などの弁護に活躍
 1953昭和28年9月13日 73歳で「生くべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆の為に」をモットーに活躍したスケールの大きい人権派の弁護士の生涯を閉じた。

 参考: 近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/  布施辰治の著作20冊以上をダウンロードし読める。

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2014年2月 1日 (土)

戊辰戦争、米国留学、東大総長、山川健次郎(福島・青森県)

 明治期の東大教授・山川健次郎を書こうとして、東大でその肖像を見たのを思い出し、十数年前の安田講堂での公開講座が思い出された。その講座は毎回違う先生で科目内容も異なっていた。すごく面白くてさっそく講師の著書も読んだ回と、この先生は一体何を伝えようとしているんだろうという回があった。講義が頭に入らなかったのは、ただの主婦に理解できなかっただけかも知れないが。
 それはさておき、今の社会は一般人でも大学や公共の機関で学習する機会が得られる。しかし、明治初期には入塾、入学の機会を得るのが困難な若者が多かった。まして戊辰戦争で賊軍とされた藩の出身者は、食べるのにも事欠き、志があっても勉学は大変な事だった。そんな厳しい境遇でも諦めず名を成した人物も少なくない。山川健次郎もその一人で、東京帝国大学の総長をつとめ教育に尽力した。

       山川健次郎

 1854安政1~1931昭和6年。明治大正期の物理学者・教育家。
 父は会津藩士・山川尚江で家老の家柄。兄弟姉妹みな活躍しているのは幸田露伴と似ている。長兄山川浩は陸軍少将、長姉二葉は女子高等師範学校教授、次姉は宮内省出仕(掌侍)、妹捨松はのち大山巌にのぞまれて結婚、公爵夫人。

―――腕白時代の友達としては柴四朗赤羽四郎山際永吾池上三郎など「二ノ丁辺」の者で団結し、鰊缶へ日新館へ通ったり遊んだりした。喧嘩は負けるな、大きい人の言う事を聞けなどと訓示され、武術の稽古は厳しく年長者から制裁を受ける事もあった。
  ((『男爵山川先生遺稿』1937山川健次郎著)。

 1868慶應4年、戊辰戦争で籠城一ヶ月、会津若松城は悲壮なる開城をした。そして亡国の臣となった健次郎たち会津23万石の藩士は北辺の斗南3万石に移され、惨憺たる生活難におちいる。副食物は胡麻塩ばかり、下駄などは50人中4~5人しか持ってなかった。
 1869明治2年、上京。沼間守一の塾に入り仏語と英語を学び、数学の初歩も学んだ。
 1870明治3年、北海道開拓使の推挙で健次郎は平田東助(のち官僚・政治家)、赤羽四郎(のち外交官)の3人でロシアに留学。開拓使次官黒田清隆は薩摩の出身だが反対意見を押し切り
「戊辰の役で最も男らしく戦ったのが会津と庄内藩である。士風盛んな両藩の青年を採用しようではないか」と健次郎らを留学させたのである。

―――(健次郎は講演でアメリカまで3週間余かかる太平洋上にて) 私は当時まだいくらか攘夷というような思想が抜けられず、外国人などはまだ敬する気持ちになれなかったのであるが、どうしても彼らに学ばねばならぬと感じたことは何かというと、丁度太平洋の真ん中でありましたが、今晩おそくか、或いは明日の夜明けになるであろうが、吾が会社の太平洋汽船会社の船に会うであろう。日本へ手紙を用意しておきなさいということであった。
 どうも私は、こんな広い海の上で二つの船がきちんと会う事は少しホラじゃないかと疑った。とにかく手紙をかいたのであった。然るに夜の3時か4時であった。二町も隔たった所で船を止めてこっちからボートを出して先方の手紙を受取り、此方のものを先方に渡したのであった。これを見て私は彼らの学問というものは偉いもんだ、到底日本の敵う所ではない、向こうの学問は深遠なものであるとつくづく思った。
  (『山川老先生六十年前外遊の思出』山川健次郎述1931武蔵高等学校校友会)

 1871明治4年、平田はドイツ、健次郎と赤羽はアメリカに留学。健次郎はハイスクールに入り基礎から学びエール大学で物理学を学んで学位を取得、明治8年帰国した。
 1876明治9年、東京開成学校教授補(助教授・月俸70円)、翌年、大学理学部教授補。 開成学校は幕府の蕃書調所の後身で後に大学南校さらに東京大学となる。
 1879明治12年、日本最初の理学部教授となり物理学全般の講義を担当。

―――当時は理学部の学生は少なかったが、健次郎は学生を前に耳を聾せんばかりの大声を張り上げ講義。長幹痩躯、眼光人を射る様子で教壇上を闊歩したから、学生達は
「これが白虎隊出身の山川博士か」と怖れをなしたという(『明治の人物と文化』1968弘文社)。

 1886明治19年、理科大学教授。
 1888明治21年、最初の理学博士に。中学・師範・教員学力試験委員をつとめ、実際に各試験会場に足を運んだという。
 1890明治23年、 「物理学の実験を指導して頂いたが、問題を与えられた後は、全く吾々の自由探求に任せられて、吾々の進まんとする方向に実権を進行せしめられ、然も岐路に入らざるよう丁寧親切に指導せられて、早く学術研究と云うことを理解し得た」。
  (『物理学周辺』1938中村清二著)。
1892明治25年、東京帝国大学理科大学長。「深く理学を攻究せんと思っているから」と再三辞退したものの就任。

1901明治34年、東京帝国大学総長
―――果たして君は良総長であった、大学独立の声は即ち君の時代に呱々の声を上げたのである、しかして君は*戸水博士休職事件のために、潔くその身を犠牲にしてしまった・・・・・・君今や安川氏に聘せられて、その高等工業学校に長足らんとす、九州の育英蓋し是より大いに見るべきものあらん。
   (『人物画伝』1907大阪朝日新聞社)。
*戸水事件: 日露戦争講和に際しおきた大学自治をめぐる事件。

 九州大総長、次に京都帝国大学総長に就任、大学教育の確立に尽力するとともに各種の教育関係の要職についた。

 ―――彼は平凡な学究の徒ではなく、実に気骨稜々たる国士的学者である。卒業式に際し、上流の諸名士出席列席せる面前で、学生に向かって上流社会の淫靡奢侈を痛罵、また東北視察の時、国務大臣の不品行を憤慨せる演説をしたこともあった・・・・・・正義人道の為に論議し、権勢威武に屈せずその所信を吐露する硬骨男子である。身を持すること謹厳で平素綿服を纏ひ、家にいても袴を脱ぐことがないが温厚な君子人である。
   (『名士立志伝』1916秋野村夫著)。

1904明治37年、勅選貴族院議員。
―――日露戦争が始まると山川家は一家総出で紙縒(こより)の大量生産に着手、陸軍恤兵部に包装用として贈った。その用紙は古手紙類を用いて毎日数千本の紙縒を作った。
  (『明治文明奇譚』1943菊池寛著)。

1915大正4年、男爵
1923大正12年、枢密顧問官
1927昭和2年、『戊辰殉難者名簿・校訂』山川健次郎編・飯沼関彌
 晩年は中央教科団体連合会や国本社に関係し、国家主義的な教化運動につとめた。

 
1931昭和6年 「先生は怖ろしい、然しまた最も優しい先生である・・・・・・ご臨終の後大学で解剖をせらるる間、室外で終るのを御待ちして最後の清められた恩師の尊容を拝した時の私の心の寂しさは今に痛切に身に迫るを覚える」(中村清二・昭和6年7月12日稿)。

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