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2014年2月22日 (土)

明治、東北の実業人と台湾(荒井泰治・藤崎三郎助・槙哲)

 三度の食事ができて本が読めれば充分な筆者は、実業家とか金満家に全く縁がない。その方面はあまり興味もないが、明治維新後の成功者はたいてい立志伝中の人物でユニークな逸話があったりする。ちょっと気になる実業家3人を見てみた。
 前に、“詩は臥城、人物評論は鉄拳禅(宮城県)2014.1.11”を書いたが、その吉野臥城が『日本富豪の解剖』で東北の新富豪・荒井泰治と系列の藤崎三郎助槙 哲をとりあげている。
 3人とも東北出身で江戸から明治と世が代わり、食べるのにも事欠くほどの境遇から粉骨砕身、冨を築きあげた。この3人に共通するのが台湾の塩水港精糖である。

 日清戦争後、日本は台湾領有にともない植民政策として産業を奨励した。台湾は甘藷の栽培に適していたので総督府は精糖の改良を促し発達を図った。
 兒玉源太郎台湾総督、井上馨は本格的な台湾精糖業の振興を目的として1900明治33年台湾精糖会社創立に尽力。創業当初は、台湾総督府から援助を受け保護助成策のもとに発展した (のち新日本興業→台糖株式会社)。台湾における総ての民業は官憲の庇護によって発展したという説もある。

 1903明治36年、台南の大糖商ら数名が南台湾屈指の糖業地・塩水港庁下に赤糖工場を作った。(旧)塩水港精糖会社である。資本金30万円で設立しが、営業の成績はあがらず欠損が出るばかりであった。
 翌37年、総督府の糖業奨励にもとづいて新式精糖事業に変更、岸内庄に工場を建設した。ところが不幸にして相次ぐ暴風雨、資金難で会社は悲境に陥った。この難局に際し荒井泰治は槙哲に手術を依頼した。
 槙は支配人となり、資金の調達と改善を断行、1906明治39年には配当を行うまでに改善させた。

――― 塩水港精糖には少壮の槙哲あり。藤崎三郎助あり。共に荒井の股肱と見るべく、事業に対しては進歩的の頭脳を有す・・・・・・荒井系統の者が、台湾ないし東北の実業界に雄飛せんとするは注目すべき現象ならずとせず(吉野臥城)。 

 時あたかも日露戦争後の勃興期で製糖業界で、原料区域の争奪戦も展開された。そうした中で塩水港精糖も増資、拡張に迫られた。 
 1907.3.2明治40年、その商号と事業を継承して塩水港精糖(株)が設立された。本社は台湾。社長は荒井泰治。荒井と同じ東北出身の後藤新平、兒玉総督の知遇を得て就任したのである。
 荒井は10年前からサミユル商会台湾支店長として台湾に赴任していたが、商会を辞めて塩水港精糖株式会社に入ったのである。常務は槙哲と堀宗一(元台湾糖務局技師)。

 1908明治41年、荒井社長と専務取締役・藤崎三郎助は台湾総督府の保護の下に資本金を500万円にし、さらに高砂精糖会社を併合した。専務の藤崎はもっぱら東京出張所を担当。
 塩水港精糖の社名は今も、台湾での創業以来そのまま単独で受け継がれている。

    荒井泰治

 宮城県仙台市の隣村、七北田生まれで幼い頃から湯屋の夫婦に養われた。食べるにも事欠く境遇で、死を決心したこともあるという。それほどの苦労さなか、東北の先輩、日銀総裁・富田鉄之助に救われ日銀に入る。後々の成功の為の修業時代となった日銀で、実業の才能を発揮し働きぶりを認められ、鐘紡に入社、さらに東京商品取引所支配人になった。やがて、サミユル商会支配人として台湾赴任、塩水港精糖社長。 

――― 内地に帰るや、仙台に華美宏荘の居を構え一挙貴族院議員となり、仙北鉄道、仙台瓦斯を企画・・・・・・東北の天地をして第二の台湾視せる彼にして果たしてよく東北の実業家たるを得んか、ひいて東北振興策としてその除幕は展開せらるべし。
――― 荒井は黄金を攫取するに手段を選ばざるの人物と誤解さるるも、彼には比較的清廉なる所あり・・・・・・公金を使用するが如き悪質の人にあらず・・・・・・説くに理を以てすれば容易に屈すべし。沢柳政太郎は説くに理を以てせしが故に、彼は東北大学の為に三万金を寄付せり。

    藤作三郎助

 1869明治2年、宮城県仙台で代々呉服商を営む素封家の家に生まれる。母の手一つで育てられ学校教育は受けず、外国人家庭教師ヂフォレストに学ぶ。
 1902明治35年、上京して海外貿易に従事。やがて南米貿易の有利なのを知ると、店員4名を連れて
 1906明治39年ブラジル・サンポールに赴き、日本雑貨商店を開いた。南米に於ける日本人商店の初めである。

――― 現今塩水港精糖が旭日昇天の声望を博する、素より社長荒井泰治氏、常務槙哲氏らの辣腕的経営あると雖も、彼らは所謂成金者肌にして、台湾の如き新開地に在りては、驥足を伸ばし得れ、内地に於てしかく同社の信用を維持するもの、一に渠の累代的徳望によらずして何ぞや。

    槙 哲

 新潟県長岡出身。
 慶應義塾の学僕をしながら苦学力行した。1890明治23年卒業後しばらく舎監をしていたが、実業界に入る。北越鉄道の事務員、王子製紙の工場長として働いていたが、アメリカに渡る。

――― 君はソンジョソコラの月並み重役共の知らぬ苦労をして来たものである・・・・・・米国に飛び出しテキサス州辺で米を作って見たが、大失敗で、内地へ帰れぬところから台湾へ流れ込んだ。台湾における悲惨な生活は今聞いてもゾッとするくらいで、ほとんど浮浪人に等しい時代さえあったのである。そこでその頃、台湾で羽振りをきかして居た同窓の先輩、藤原銀次郎君が見かねて後藤新平(台湾民政局長官)に頼み、塩水港の支配人に推薦してもらった。

 後藤新平の推薦で塩水港精糖に入社した槙は、当時難局にあった会社を整理収拾して、優良会社に立て直した。その後しばらく閑職にあったが、請われて塩水港精糖の社長に就任。槙はその手腕と共に人柄からも株主や社員に信用があった。
 槙は5人兄弟。彼をよく励ました長兄は『奥羽日々新聞』主筆、仙台米穀取引所理事、塩水港精糖重役などをつとめた。次弟は仙台で絹織物業。末弟は石巻電燈支配人。

参考: 『日本ダイレクトリー:御大典紀念』清田伊平編 / 『財界一百人』遠間平一郎(妖星)/ 『財界名士とはこんなもの?』湯本城川/ 『日本コンツェルン全集 第15』春秋社/ 『現代業界人物集』経世社編

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