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2014年2月15日 (土)

東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県)

Photo_2 小学校がまだ「候文」の時代に二葉亭四迷(長谷川辰之助)は言文一致、口語体の小説『浮雲』を発表、この頃から言文一致運動が盛んになる。明治維新以来、西洋文化が入りローマ字採用、かな文字推進の運動があり、日清戦争後には標準語制定に関心が高まった。

 1900明治33年、文部省は国語調査会を設け前島密委員長、上田万年、大槻文彦、那珂通世委員らは国語の将来について審議。翌年の小学校国定教科書は口語文が採用された。

 ―――私は仮名説を採ります。国字改良の事は世論と云つても可ひ・・・・・・私(那珂通世)はいったい儒者ですからぜんたい漢学には不都合を感ぜぬ方ぢや、併し自分勝手の事ばかりも言つても居られません。まァ普通一般の人は仮名を用ひるとして、学者に成ろうと思ふ人は漢学も洋学もやるとするさ
(*『明治文豪硯海録』自治館編輯局編1902文明堂)

  *明治文豪硯海録:前島密からはじまり津田梅子・岡本監輔・森林太郎(鴎外)・原敬・岸田吟香・清水卯三郎(全文ひらがなの意見書)・海軍大学教師ロイド・井上哲治郎まで67人、国語国字改良について意見を載せた426頁の一冊。印刷は徳富猪一郎(蘇峰)の民友社。

 いつの時代も国語の問題は尽きそうにない。ことに明治は江戸以来の漢学に加え西洋文明が入ってきたから国語表記は重要な問題だったと察せられる。新聞記事の口語化は大正の中頃というから明治は未だ文語体が主流だったが、「かな説」を採った那珂通世は漢学を修め満州語・モンゴル語にも通じた学者である。にもかかわらず中学校や師範学校で仮名を採り文法を教えたのは、児童や青年の将来、ひいては日本のためであった。
 写真『那珂通世遺書』那珂通世博士功績紀念会編より

   那珂 通世(なかみちよ)

 1851嘉永4年~1908明治41年。父は盛岡藩士藤村正徳。那珂通高(江帾五郎)の養子。 盛岡藩城下に生まれた幼名・荘次郎は兄について藩校に通い頭角を表す。藩校作人館の学者・江帾通高に認められ養子となる。
 養父江帾通高が南部藩主の近侍となり「那珂通高」と改姓、彼も「那珂通世」を名乗り、父子共に作人館で教えた。やがて、戊辰戦争がはじまり南部藩も奥羽諸藩と同じ苛酷な運命を辿る。
 戦い敗れ養父通高は東京麻布の藩邸に謹慎となりのち越前藩邸に移され1871明治4年ようやく許され、家族を盛岡から呼び寄せた。
 上京した通世は英学を志し、早稲田にあった山東一郎(直砥)の北門義塾(明治新塾)に入門、間もなく慶應義塾に入った。入塾後、福澤諭吉は通世の状況を憐れみ学内の業務を与え月謝を免除するなどした。

 1875明治8年、福澤の推薦で任期1年の約束で巴城学舎の教師として山口県へ赴任。
 1876明治9年、*『洋々社談』に「日本古代文字考」発表。
   *洋々社談: 洋学・国学双方に精通した大槻盤渓、西村茂樹、通世の養父那珂通高ら中心に結成された学術団体の機関誌

 1877明治10年、千葉師範学校教師兼千葉女子師範学校教師長として赴任。

――― 教師の苦しむのは児童をして許多の漢字を記憶せしむることなり。この困難を排除するには読み本以外の教科書を仮字(かな)のみにて記すに如かずとて、まず算術教科書を仮名文にて作らんことを試み・・・・・・仮名遣いの問題に遭遇せり、第一に仮名遣いは古来のを襲用すべきか、現今の発音通りに改むべきか・・・・・・第二は文語法、分かち方、動詞・助動詞及び「てにをは」文法の考究を要する・・・・・・当時国語の文法を学科に加えし学校はあらざりし

――― 児童に分数の意義を直感的に了解せしめんが為に分数計算機を工夫・・・・・・その構造は同じ長さの板を二分せるもの三分せるもの乃至十五分せるものを一枚の額面に数段に配列し、自由にこれを抜き差しし得るになしたる簡単なるものなり。
 1884明治17年ロンドン教育博覧会にこの分数計算機を出品、銀杯を授与された。
(『文学博士三宅米吉著述集』文学博士那珂通世君伝1929)

 1894明治27年、那珂通世は東洋史の発展に寄与し、<東洋史>という言葉をはじめて中学の教科書に用いたのも通世である。

 1879明治12年、東京女子師範学校訓導兼幹事のち校長。この学校は1875明治8年創立で開校当時から山川健次郎の姉二葉が寄宿舎長をしていた。通世は千葉女子師範学校での経験もあり女子教育に大いに尽力した。
 また第一高等学校、東京高等師範学校教授となり、1896明治29年から9年間、東京帝国大学文科大学の講師を兼任、明治36年早稲田、翌年には浄土宗大学で教授した。
 その間、日本・朝鮮・中国の古代史を研究、漢文の著書『支那通史』5冊(1888~90)は清国で翻刻され、ほかに『元史訳文証補』『成吉思汗実録』などを校訂出版した。
 日本史についても『外交繹史』(全4巻1915)で神武起源について検討、『上世年紀考』で日本の紀年に史実とあわぬ延長があることを指摘した。
(『コンサイス日本人名辞典』三省堂)

以下は慶應義塾の後輩、考古学者・教育者の三宅米吉の記述から

――― 君は外見あるいは縦放なるが如く見ゆることあれども其の実決して然らず。何事にも用意周到なりし。されば学校における諸種の試験又は教員検定試験の答案を調査するにも、先ず自ら各問題に対する答案の要点を摘記し以てその標準を定め、然る後各答案を調査し此の標準によりて評価を下せり・・・・・・君の評点が苛酷なりとて訴ふるものありしが・・・・・・正常の評価となし毫も苛酷たりとは思はざりしなり。

――― 君が自転車に熱心なりしは皆人の知る所にして、はじめて試みられしは第一高等中学校に教師たりし頃なり・・・・・・1901明治34年には輪界十傑に上げられ自ら輪転博士と云えり。
 1905明治38年日露戦争中に旅順に出張を命ぜられ嘉納治五郎、三宅米吉らと数人で宇品に向かったが、対馬海峡・日本海海戦のため出発がおくれた。出帆を待つ間、自転車で芸備地方を巡っていた通世は船出に間に合わなくなる所だった。
それから3年、

――― 君は平素、身体すこぶる強健にして病にかかりしことあるを聞かず、されば君が突然の卒去は実に友人などの意外とする所なりき。三月一日君外出して夜に入り帰宅するや、胸痛を訴へ大いに苦悶せしかば、医を迎えて治療をくわえしかど、翌日溘然逝去せり・・・・・・
 君の生涯を通観するに明治新政の世多く人才を要するに当り、君は専ら教育文学の方面に於てその卓絶せる才能を発揮し、以て文化の進運に貢献する所大かりき。君は一生を通じて寧ろ不遇の境涯にありしかども、明治時代の文化史上に於ける君が功績は永く後世に伝はり時を経るに随て益顕著なるに至るべし。

 因みに、明治後期の栃木県・華厳の滝で「巌頭之感」を書き残して投身自殺した藤村操は甥である。通世の追悼文が「万朝報」にのり、新聞雑誌などが論評を掲載、新思想勃興期の哲学青年の死として衝撃を与えた。 

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