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2014年3月

2014年3月29日 (土)

袴の代名詞・仙台平、小松彌右衛門(宮城県)

 小学校の卒業式、孫の担任女性教諭は着物に袴、きりっとして見目よかった。教え子の6年生も見なれた先生の改まった袴姿に、よりいっそう卒業を実感したでしょう。
 ♪仰げば尊し 全員で合唱、自分も小声で合わせたが 「身を立て 名をあげ やよ励めよ~」 にちょっと詰まった。今はそういう時代じゃなさそうだから。まあそれはさておき、男女ともに袴姿は凛々しい。その袴の代名詞ともいえるのが仙台平、江戸時代に仙台で織り始められた男子儀式用の袴地である。

 『郷土産業開発の跡』(1939 鉄道省編・博文館)によれば、

 ――― 仙台平の元祖は、(昭和10年代)仙台市良学院丁に機業場を持っている小松富一郎の祖先、彌右衛門である。彌右衛門は京都の人で1711正徳元年に「御兵具方」として伊達家に召し抱えられ、主として藩の軍服を縫っていた。
 1713正徳3年、藩主伊達吉村の時、御織物師として彌右衛門が選ばれこの任に当たった。彌右衛門は藩主の命で竹に雀の紋所のあるお召物を織り出したところ、その織出といい光沢といい京都の西陣に比べて出来栄えがよかったので、大いに面目を施した。

 彌右衛門は機業を伝習するかたわら、養蚕業にも意を用い製糸の改良に努力した。その頃、本吉郡から製出した生糸はこれを金華山といって御用糸に用いられこの生糸で袴地を織出して精巧なものを完成した。これが仙台平の織り始めで、ただ御袴地といっていたが、他藩から仙台平と名付けられた。

 明治維新後、御用機屋はなくなり仙台平の製造を中止した。しかし1873明治6年、小松彌右衛門の子孫が再興、機業工場も増えて仙台市の重要物産に成長した。
 ところが、それから百年以上たつ平成の今、和服を着る人はめっきり減り、袴となるともっと限られる。とはいえ、伝統ある織りの技術は受け継がれている事でしょう。

 話は変わるが、思わぬところで江戸時代の仙台平人気を知った。『徳川時代の賄賂史管見』【一夏中に仙台平三百反】によると、仙台平は幕府役人への格好の賄賂、名産品だったようだ。

 ――― *祐筆組頭の荒井甚之丞という者が一夏、各方面から贈られた袴地の内、仙台平だけを調べてみたら三百反もあったとの事であります。

  *祐筆: 江戸幕府では老中・若年寄の下で機密文書を扱うのが奥祐筆で、組頭をはじめ祐筆らが諸侯からもらう賄賂はそうとうなものだったらしい。

 賄賂の理由は、幕府が日光の御修繕とか、台場の新設、印旛沼の改修とか堤防の修繕とか土木工事を大名に命じるが、そのお手伝いとか御用金の多寡は、藩の運命を左右するほど大変な負担で、各藩は戦々恐々としていたからである。
 大名に課す土木工事やお手伝い、御用金については老中が原案を作成するのだが、殿様育ちの老中方は出来ないので、奥祐筆の組頭が作成した。それを老中方に差し出すと、老中方は盲判を押すだけだった。という次第で、各藩は平生から祐筆たちに付け届けをし、なるべく負担の軽い役目にして貰うようにしていた。各大名は祐筆に骨折りをしてもらうからと、莫大な贈賄をしたのである。

 賄賂の一例として「料理切手」、今で言う商品券が既に使われていた。
 天保の頃、船橋勘右衛門という祐筆組頭が、有名な向島八百善の料理切手をもらい、たまたま用人に与えた。用人は連れと三人で八百善に行き、山のようなご馳走を食べ、帰ろうとすると、残った分とし15両も渡された。その料理切手は50両以上の値打ちだったのである。

 そうした役人に対する落首

 盗人猛々しいは袴着る ――― 袴着た盗人、即ち役人の賄賂取りを皮肉ったもので、当時は夜は入る盗人よりも此方が一般から怖がられていた。

 役人の骨っぽいのは猪牙に乗せ ――― 役人買収の秘法である酒肴の饗応を言ったもの。
 これに続けて『徳川時代の賄賂史管見』の筆者・中瀬勝太郎は、 「今も昔もこの事には変わりがない様であります」 と結んでいる。

参考: 近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/『経済倶楽部講演 80輯』(徳川時代の賄賂史管見)1935榊原周平編集・東洋経済出版部

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2014年3月22日 (土)

明治期の法律学者、菊池武夫(岩手県)

 春3月は卒業シーズン。開化日本の留学生はどの様に卒業式を迎えたのだろう。『明治日本発掘』に【山川捨松の卒業演説が評判】という記事があった。のちの東大総長、会津の山川健次郎妹の捨松が開拓使からアメリカ留学に派遣されて10年、成績優秀で選ばれてしたアメリカ・ワスクル大学卒業演説についてである。

 ――― 演説は日本に対する英国の政略といえる題にて、はなはだしく我が日本輸出入の不平均より、まったく英国の条約改正を拒む心術に論究せしに、喝采の声場中を振動し、余響しばらく止まざりし(明治15.7.29朝日)

 記事は、「一身の栄誉のみならず、我が日本国の一大面目」と結ばれているが、帰国後、捨松の能力は活かされなかった。薩摩の大山巌元帥に嫁してのち、大山夫人として鹿鳴館で洋行帰りの知識を活かせたのである。明治日本の女子たちが活躍する場は少なかった。
 男子の留学後の将来は保証されたも同然、東北出身者も留学の機会を願った。捨松の兄で旧会津藩士・山川健次郎も開拓使から派遣されてアメリカ・エール大学を卒業、帰国後に開成学校(のち東大)教授補となった。
  山川が帰国した1875明治8年、小村寿太郎や旧南部藩士・菊池武夫らが開成学校からアメリカに留学した。菊池は中央大学の初代学長となった法律家である。

    菊池武夫 1854安政1~1912明治45年

Photo  盛岡加賀野に生まれる。父は南部藩目付役で町奉行、用人役も兼ねていた。11歳のとき藩の儒者・江幡五郎について漢学を学び、次いで藩校・修文館に入学したが間もなく戊辰戦争がはじまった。南部藩は洋風の練兵をし、藩士を15歳以上と以下に分け、少年の組を豆隊・小豆隊と唱え武夫もその一人であった。

 戊辰戦争が終わり、武夫は単身上京を志したが父に反対される。しかし諦めず許しを得て1869明治2年、15歳、の武夫はなんとか上京した。父に学資をもらえなかったので無一文の身を麻布の南部藩邸に寄せた。藩邸の目付役、谷が武夫を憐れみ、また志をほめ英麿君の近侍に抜擢してくれた。                     
 1年ほどして英麿君が帰国することになり、未だ学問の道に入れないでいる武夫も付き従い、郷里に戻った。翌年、ついに南部候が学資を給し上京遊学が許された。
 写真、『菊池先生伝』より。

                                                     
 再度上京した武夫は伊藤庄之助について英語を学び、大学南校(のち開成学校)に入学し法律を学んだ。同じクラスに鳩山和夫(のち衆院議長、早大総長)がいた。そして、前述のように文部相第1回留学生に選ばれて5年間アメリカに留学したのである。

 郷里の藩校・作人館の後輩、佐藤昌介は武夫について、

 ―――菊池君は18、9歳かと思はれ眉目秀麗なる好紳士にて・・・・・・小生は北海道に渡り札幌農学校の学生となり、ボストンの菊池君と文書の交換をしておった。

 ―――菊池君は北海道へも来たことがある。一度は山田顕義司法大臣(のち日本大学創立)の秘書官として、一度は岡野敬次郎、土方寧諸氏と中央大学の校務を以て来られたのである。育英事業にも功績のある人である。(『菊池先生伝』)

 1880明治13年10月、帰国27歳。11月、司法省に入り、少書記官兼翻訳課勤務、司法大臣秘書官、民事局長などを歴任。その間、東京大学法律講師、*英吉利法律学校設立に力をつくし、1888明治21年わが国における最初の法学博士となった。

  *英吉利(イギリス)法律学校: 1885明治18年、穂積陳重(法学者、のち枢密院議長)らによって東京神田錦町に設立。当時優勢であったフランス法学派に対抗し、実地応用を旨とするイギリス法学を講じた。のち東京法学院(中央大学)。

 司法省民事局時代について、部下の長島鷲太郎は次のように話している

 ―――先生は詰め襟の運動服を着用せられ砂土原町の私邸より、徒歩にて大手町の役所に通勤せらるるを見受けた。威儀を保ちうると信じたる当時の官人と比較して吾々は頗る異様に感じたのである。
 1891明治24年3月、東京法学院院長に選ばれる(中央大学初代学長)。官吏生活12年のその頃、
 ―――司法省の官制に改革があり民刑両局の廃止、(菊池)先生に対し特に総務局長の椅子を擬せんとしたるに、先生は人の為に官を設くるを不可とし固辞して受けず、敢然官界を去りて身を在野法曹の群れに投ぜられた。

 辞職した武夫は同年9月、代言人免許を受け代言事務所を開く。12月貴族院議員。 1893明治26年、弁護士登録を受け、没するまで弁護士生活22年の間に、日本弁護士協会を創立、また東京弁護士会議長、会長を務めた。
 1912明治45年、58歳で没。
 伝記叢書『菊池先生伝』(新井要太郎編1997大空社)には、新渡戸稲造らによる追想録が多く掲載され、人柄や業績が偲ばれる。

 ちなみに、菊池武夫の妻イチ子は、東京府女子師範学校第1回卒業生で賢夫人と評判だった。2男8女、10人の子を育てあげた。イチ子は児らが幼い時は乳母をつけ大事にしたが、成長すると何処に嫁いでもしっかり家事がとれるようにと躾けた。

 ―――小児の養育については特に衛生に注意し、飯の如きは一々釜を異にして之を炊がしめたり、こは長者には硬きを与え、幼者には柔らかきを喰はしめんとの用意にして、年齢によりて其の硬柔の度に幾段の差別あらしめたるなり(『家庭の教育』1901読売新聞)。 

 これまでさまざまな分野の人物を取り上げたが、その妻について書かれたものを見なかった。菊池夫人が記事になったのは、賢夫人の評判が高かったせいだろう。明治期は山川捨松でも判るように、女性自身の能力より内助の功が評価された時代だったのだ。

              *** ***

  余談:  同姓同名の菊地武夫、陸軍軍人で日露戦争には中隊長で出征。のち貴族院議員。天皇機関説攻撃の先頭にたった。男爵。敗戦後、戦犯に指名されたが釈放された(『コンサイス人名事典』三省堂)。

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2014年3月15日 (土)

福澤諭吉の友人、やんちゃな蘭方医・高橋順益(京都府)

 
―――〔種痘医の指定〕  痘瘡(天然痘)は人間一世の難症にして、父母たる者これが予防すべきは勿論、自今小児生まれて75日の後は、必ず左の姓名の医官へへ銘々相対にて種痘を頼み、天然痘に罹らざるよう致すべき旨御布令ありたり。
                                                            明治2.4.11新聞雑誌

―――〔種痘、東京で一割〕 この頃来途中にて小児の葬送に逢うこと多し・・・・・・疱瘡の流行あるなりと。近年人々大いに発明して、種痘は小児の大厄難を免れしめ、人間天然の寿命を保たしむるの神力なることを知り、殊に御上よりも毎々懇切なる御沙汰もあれば、東京に住むほどの者の子供は皆早く種痘仕るべしと思いしが、真の東京人は種痘する者、わずか十分の一に過ぎずと言えり。なんぞ愚のはなはだしきや。
                                                            明治7.12.6東京日日

Photo  予防接種をもたらした日蘭交流の物語『種痘伝来』を毎日新聞書評で知った。天然痘に立ち向かった人々、ジェンナーの牛痘ワクチン、幕末日本の蘭方医についてなどが解き明かされ、しかも読みやすかった。
 とくに後半「ネットワークを構築する――蘭方医たち」の章、名だけは知る蘭方医の学問や医術が垣間見え、医師たちが情熱をもち繋がっていく様が手に取るように記されひきこまれた(アン・ジャネッタ著、廣川和花・木曾明子訳2013岩波書店)。

 表紙写真:「直正公嗣子淳一郎君種痘之図」佐賀城における1849年の牛痘種痘。
 このほか本編に挿入の、髙野長英らシーボルト【鳴滝塾の門人】、【お玉ヶ池種痘所発起人名とその生没年表】など図表がまた興味深い。

 前出の大野松斎も含む「お玉ヶ池種痘所発起人」83名、生没年不詳、本編で紹介のない医師も多い。
 発起人筆頭の箕作阮甫はロシアのプチャーチンが通商を求めて来日の節、長崎で上司の川路聖謨らと応接している。その縁もあってか種痘所開設にあたり、川路は土地の提供を申し出、彼の名で幕府に種痘所開設を願い出る。なお、発起人名簿には伊東玄朴ら名の知れた蘭学者・蘭方医がいる一方、出身、経歴が判らない者がいる。何人か見てみたら、幸田露伴の弟、学者の幸田成友が高橋順益について書いていた。

   高橋順益 (たかはし じゅんえき) 

 1832天保3~1865慶應元年。丹後宮津藩、松平伯耆守藩医で十人扶持。江戸では芝源助町に住んでいた。
 ペリーが軍艦をひきいて浦賀に来航した翌年、高橋順益は蘭学者で医者の緒方洪庵が大阪に開いた蘭学塾(緒方塾・適々斎塾・適塾)に入門。半年後に福澤諭吉が入門するや順益と福澤は息が合い、生涯の友となった。
 二人が学んだ師の緒方洪庵は、坪井信道や宇田川玄真、長崎でオランダ人医師に学び、1838天保9年、大阪で蘭学塾を開いた。以後、緒方は25年にわたり青年を教育、福澤諭吉、大村益次郎、橋本左内、佐野常民ら人材を輩出した。
 適塾での勉強振りや暮らしぶりは『福翁自伝』に描かれ知る人も多いだろう。「新版 福翁自伝」から高橋順益を抜き出してみると、学問のかたわら遊女の偽手紙を書いて塾生に渡すなど悪戯好きやんちゃな若者像が浮かぶ。ほかにも次のような話がある。

―――(芝居見物の失策) 道頓堀の芝居に与力や同心のような役人が大いばりで芝居をただ見する。緒方の書生が、気味の悪い話さ、大小をさして宗十郎頭巾をかぶって役人の真似をしてたびたび首尾よく芝居見物をした・・・・・・ある日ほんものが来た。詐欺だからこっちは何とも言われない。進退きわまり大騒ぎになって・・・・・・この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益という男が頭取であったが、わたしは元来芝居を見ない上に、このことを不安に思うて(順益に)「・・・・・・マサカのときはたいへんだから」といったがきかない・・・・・・とうとうつかまったのが、おかしいどころか一時大心配をした。

―――(禁酒からたばこ) 緒方の塾に学問修業しながら、とかく酒を飲んでよいことは少しもない。これは済まぬことだとことだと思い、あたかも一念ここに発起したように、断然、酒をやめた。スルト塾中の大評判ではない大笑いで・・・・・・ひやかす者ばかりであるが、親友の高橋順益が「君のしんぼうはエライ。よくも続く見上げてやるそ。ところがおよそ人間の習慣は、たとい悪いことでも頓に禁ずることはよろしくない、とうていできないことだから、君がいよいよ禁酒と決心したならば、酒の代わりにたばこをはじめろ。なにか一方に楽しみがなくてはかなわぬ」と親切らしくいう。

 禁酒して順益に勧められ煙草をはじめた福澤諭吉は、酒とたばこの両刀使いになり、ほんとうの喫煙家になってしまったという。慶應義塾で教壇に立ったこともある幸田成友によれば、

―――順益はよほどの徒者(いたずらもの)であったらしいが、福澤先生が順益を指して「親友」と言はれて居る所を見ると、単なる徒者では無く、学問においても人物においても、余程確乎した所があった男に違ひない。
 福澤諭吉伝「高橋順益との交情」という一節があって、先生が土岐家から夫人を迎えられるにつき、順益が周旋した・・・・・・順益が結婚する時、今度は福澤先生が順益の「親戚」として列席せられている。先生と順益の関係は親友から親戚に進んだ(『東と西-史話』1940中央公論)。

 順益は結婚後2年足らずで病死する。順益の藩侯が将軍の御進発(おそらく第二次長州征伐)に扈従することになったので、順益は先発して京都に赴き、任に充たり・・・・・・早く戻ったが、感冒に罹り、全癒しないのに無理して、発熱下痢、うわごとをいうようになった。

 坪井信良・渡辺春汀(ともにお玉ヶ池発起人)らが治療にあたったが、治療の甲斐もなく33歳で没した。道半ばで斃れた高橋順益の葬儀と後の処分を、福澤は親身になって世話をした。
 江戸の昔といえども、33歳の生涯は短すぎる。しかも妻は身重だったという。何とも惜しくいたましい。

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2014年3月 8日 (土)

日本種痘はじめ、お芋の松斎先生(秋田・江戸浅草)

 弥生三月、上野駅で友人と待ち合わせ、東京都美術館【覚の会~現代作家によるそれぞれの個展 ~3/8】http://www.tobikan.jp/exhibition/h25_kakunokai.htmlを見に行った。“これからの日本の美術になっていきそうな”工芸・彫刻・日本画が展示されていた。べたっとした強い色彩を見なれた目には「和の彩り」が新鮮に映った。きっと、どれも文化財の保存に携わり伝統の技法を身につけた若い作家の感性が、自ずと表れているからだろう。
 安原成美「橅の音、雪の音」屏風の前を行きつ戻りつ、描かれたブナ林に入り込んでみた。描かれているのは和の装いにして実はモダン、作者が望む宇宙のイメージ、見る目のない素人の勝手な感想だ。灰白色のブナの樹皮は一本一本美しく生き変わり、見る位置でキラリ光る樹、おぼろな雪白、見飽きない。このブナ林に佇めば過去がよぎり、雪の音さえ聞こえそう。例え聞こえなくても感じれば、現実のゴチャゴチャを吸収してもらえそう。

Photo  同じ上野公園内で開催【モネ、風景をみる眼】展、国立西洋美術館に も行った。もの凄い混雑で絵どころではなかった。そうそうに会場を出、早めのランチにした。食後、園内を行くと八部咲きの寒桜が人目を集めていた。すぐ側は上野動物園、もう春休みなのか親子連れで賑わっていた。それを横目に上野東照宮に向かった。
 大きな灯籠が立ち並ぶ参道の突当たり、修復された金ピカの唐門が陽に耀いていた。拝観料を払い中に入ると、社Photo_2殿はもちろん透塀(すきべい)の修復もなり、家光造営時の豪華絢爛な江戸の昔を蘇らせていた。江戸の昔といえば、上野と地続きの浅草も今に変わらぬ賑わいだろう。前ぶれが長すぎたが、そのお江戸浅草に「お芋の松斎先生」がいた。

   大野松斎 1819文政2~1888明治21年7月

Photo_3  お芋の松斎先生こと種痘の普及に貢献した大野松斎(おおのしょうさい)は出羽国秋田の出身。
 地元では藩医・斉藤氏に医術を学んだ。のち京都に出て新宮涼庭に、次いで江戸の坪井信道にと二人の蘭方の大家に学んだ。その勉強ぶりは「勉学弩(ゆみ)の如し」で頼山陽(儒学者)の折紙付きであった。
 松斎は長崎でも医学を学んだが、その長崎で高島秋帆(西洋式軍事、砲術家)に呼ばれ、次のような依頼を受けた。

 ―――今度オランダから牛痘の種痘が伝わりました。ついてはこの種痘を切らさずに永く日本に残して人命を救いたいのです。日本の為にぜひ貴方に引き受けていただきたい

 まだ漢方医の勢力が盛んなときで、妨害がないとも限らない時代であったから、松斎は少し考えたが引き受けた。さっそく長崎を発った松斎の江戸への持ち物で大切なのものは、三粒の痘痂(とうか・かさぶた)であった。

 1848嘉永元年、30歳の松斎は浅草で開業。それから亡くなるまで、幕末から維新をへた日本の大きな転換期を浅草で見続けた。
 松斎は根岸の別宅をでるとき、いつもお芋の入った大きな袋を肩に、じんじんばしょりで浅草三軒町の診察所に通った。その途中、わざわざ裏通りを廻って米の買えない人びとに与えた。焼芋を与えた子どもは診察所に連れていき種痘をほどこし、天然痘予防と同時に、痘苗(種痘に使うたね)が絶えないようにしたのである。

 古くから伝染病の天然痘・疱瘡(ほうそう)、医学では痘瘡(とうそう)の流行に中国やヨーロッパなど世界中が悩まされていた。1796年イギリスのジェンナーの発見した牛痘ワクチンの普及によってやっと下火になったのである。
 日本にも中国の医書やオランダ人医師による種痘法が伝えられていたが、なかなか普及しなかった。そこで、洋学を学んだ医師たちが協力して神田お玉ヶ池に種痘所を建設する事にし、1857安政4巳年8月*川路聖謨の名で幕府に届け出た。その費用を拠出したのは箕作阮甫坪井信道松本良順ら83名の医家で、大野松斎もその一人である(『伊東玄朴伝』)。
  *川路聖謨: 長崎でロシアのプチャーチンと応接、日露和親条約に調印した幕政家

  
 
 ―――慶應・戊辰の年、江戸で官軍と徳川将軍家と戦争が起こり、徳川医学所頭取・松本良順は、幕府軍に随って東北に去らねばならなくなりました。心に懸かるのは種痘の痘苗でした。良順は松斎に会って「日本の国に痘苗がきれないように」と頼みました。しかし、戦争中の痘苗の保存は容易ではなく、松斎は砲煙弾雨の間を東奔西走して痘苗を切らさないようにしました。また子の恒徳に言いつけて、江戸近在にも痘苗が絶えないようにし、江戸が東京に変わっても痘苗には困らなかったのです(『日本種痘はじめ』写真も)。

 森銑三(大正・昭和期の文学、書誌学者)の聞き書き
―――松斎の医院は浅草の仲町(三軒町から転居)にあった。破風作の玄関の立派な構えで、毎日400人くらゐづつ出入りがあるといはれてゐた。内からはいつも赤ん坊の泣声が聞こえてゐたそうである。先生は今戸焼の鳩の笛を一度に沢山買ったりした。それは泣いてゐる子供をあやすためだったそうである。明治十年代のまだ種痘の行渡らぬ頃には、うつかりとあの辺を歩かぬ方がよい。捕らへられて植疱瘡をさせられる。公園まで出て人を捕へて、無理やりにしたりするさうだ、などともいはれていたそうである。

 1877明治10年、同志と種痘積善館を立てて種痘事業に精進した。
 松斎は昭憲皇太后(明治天皇の后)、皇太子(大正天皇)、親王たちに種痘を施し、宮中侍医の内命を受けたが拝辞。裏店の貧民に至るまで隔てなく誠を尽くして接種、死去するまで40年間に約23万人に一人で種痘を施した。
 1888明治21年7月、70歳で死去。大野松斎の人となりは、
 ―――淡泊廉潔ニシテ仁恵ヲ施シ、シバシバ窮民ヲ賑ハス。大イニ世人ノ敬慕スル所トナル。アア医は仁術ナリト古人吾ヲ欺カザルナリ(『現世日本名医高評伝』)。

 
 谷中墓地にある大野松斎墓碑、撰文は*中村敬宇、書は山東直砥(一郎)である。森銑三「種痘医大野松斎の墓」でそれを知った。大野と松本良順は医師仲間、良順と山東は旧知、その縁から松斎と山東の接点はありそう。松斎と敬宇との縁は分からないが、敬宇は山東の英語辞書に序をつけている。
 それにしても、森銑三も記しているが、大野松斎は人に優れた働きをしたのに殆ど知られず、人名事典にも見当たらない。歴史の出来事も記録がなければただの事、足跡が残らない。
   *中村敬宇: 中村正直、敬宇は号。福澤諭吉とならぶ啓蒙家。『西国立志編』翻訳。

  参考:『日本種痘はじめ』鈴木三郎1942帝国教育会出版部 / 『伊東玄朴伝』伊東栄1916玄文社 / 『現世日本名医高評伝』菊池清隆1886簾清堂 / 『森銑三著作集』1993中央公論社

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2014年3月 1日 (土)

富津岬の幕末明治、会津陣屋と海堡

 2014年2月、ソチオリンピックのテレビ観戦を楽しむ窓の外は大雪、降り積もった雪は関東地方を困らせた。何とも印象的な冬だが季節は移ろう。はや球春、潮干狩りの予定を立てた人もあるだろう。
 昔、子どもだったころ谷津(習志野市)の海岸で潮干狩りしたが、今や谷津は東京湾岸の住宅地、リクレーション地となり潮干狩りの海はそこからずっと先、富津になった。何度か家族で富津へ貝掘りに行ったことがある。その時どき、浅瀬に足を踏み入れ海風に吹かれ気分をよくしたが、感慨に耽ることはなかった。ところが、会津藩に興味を抱いてからは、富津岬と江戸(東京)湾が有意義、かつ意味あるものになった。
  富津岬:千葉県富津市北西部、東京湾中に突出した砂洲で、南房総国定公園の一部

 幕末、ペリー艦隊が来る前にビッドル率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀に現れ、通商を求めた。幕府はこれを拒絶、江戸湾防衛の大名をふやした。忍藩(大房崎~洲崎)、会津藩(富津岬~竹岡)、川越藩(走水~観音崎)、彦根藩(久里浜~三崎)、いわゆる「御固四家」(おかためよんけ)による防備が開始された。
 会津藩は房総に人員、大小砲弾薬、兵器を送り出して村々を治め、江戸湾を防備した。富津陣屋竹ヶ岡陣屋にそれぞれ家老以下船方役まで家臣が勤務、人員は併せて1400人、大砲小銃474門、新造船19隻が備えられた。
 ちなみに『ある明治人の記録』で知られる柴五郎(のち陸軍大将)の父・柴佐多蔵も家族を伴い房総に出張。富津陣屋に勤務中、四男柴四朗(東海散士のち作家・衆議院議員)が生まれた。

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  江戸府内前面の海域を江戸前、江戸湾の喉もと富津から観音崎を内海といい、湾内の要地に台場が建設された。相模国城ヶ島・浦賀・走水(観音崎)・伊豆下田・安房州崎・上総竹ヶ岡などである。
 富津岬の展望台に立つと三浦半島はおろか横浜も見え、黒船の侵入を見逃す筈がないと察しがつく。蒸気船を発見するや陣屋の藩士らが和船をこぎ出す様が目に見えるようだ。
 富津岬と観音崎を結ぶ湾口は「黒船を入れてはならない重要な防衛線」で、明治以後も要塞地帯に編入され、海堡が築かれた。

 竹ヶ岡砲台は3ヶ所築造され、江川太郎左衛門 鋳た超弩級を備えたヘキザン大砲も据付けられた。
 富津陣屋は敷地約7800坪、周囲を濠および土手で囲い、陣屋の西南に鉄砲場とよばれる鉄砲の練習所があった。
 写真:左・富津砲台の図、右・竹ヶ岡砲台の図(富津市史より)

 1853嘉永6年、ペリー艦隊のミシシッピー号が防衛線の富津-観音崎ラインを越えた。蒸気船が煙を吐いてずんずん侵入して来、上を下への大騒ぎになった。早鐘をつき、注進の早馬は江戸へ疾駆した。老中・若年寄はじめ諸役人は総登城、江戸府内と江戸湾を守る諸藩に動員がかけられた。 
 会津藩は房総から、すぐさま久里浜に向け150隻の番船をくり出し、忍藩と共に入江を固めた。しかし幕府は退去させる実力がなく、国書を受取り回答を翌年に延してようやく急場をしのいだ。
 幕府はペリーの再来に備えるも警備の重点は品川沖に後退していった。会津藩は品川台場6基のうち品川第二台場、砲台の守備を命じられた。第三台場は現在お台場公園として親しまれ、近くにテレビ局もあり若者で賑わっている。

 1854嘉永7年1月、果たしてペリー艦隊が再来。前年より多い7隻の軍艦を率いて神奈川沖に停泊し交渉を開始、日米和親条約が結ばれる。それにより下田・箱館の二港を開港、世界に窓を開けたとたん欧米列強が押しよせ、幕府の支配体制が揺らいだ。
 江戸に近い富津は、鳥羽・伏見にはじまる戊辰の戦乱に巻き込まれ、悲劇に見舞われる。そんな状況にあって、飯野藩(富津市下飯野)剣術指南・森要蔵ら28名は脱藩して会津藩救援に赴く。一行は会津藩士と共に東北各地を転戦、森は福島県羽太方面で銃弾に斃れた。その墓が福島県西郷村にある。
 また、会津藩が籠城中、奮闘した照姫は飯野藩主の娘で、会津藩主松平容敬の養女になり嫁いだが、会津若松城に戻っていた。 
 

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 さて、年号を慶應から明治へと改めた日本は富国強兵の道をとり、1873明治6年国民皆兵制度、徴兵令がだされた。
 東京湾の喉元である富津と対岸の横須賀は帝都防衛の要衝、防衛強化のため砲台・海堡が築かれた。何れかの海堡築造に柴五郎の幼年学校恩師、有坂砲で知られる有坂成章も係わっている。有坂は日露戦争で威力を発揮した31年式速射砲を発明した陸軍軍人。

 海堡とは、海中に築島してその上に砲台を築いたもので黒船退去後、東京湾品川沖に台場が造られた。海堡のある海面は走り水と呼ばれ、潮流の早い場所で築島は難工事だった。
 1881明治14年富津岬の基部に元州砲台が築かれた。
 第一海堡 富津岬の先端、水深4~6mの海中に9年かけて造られた人口の島で、1890明治23年完工。太平洋戦争中は海軍の高射砲陣地が置かれた。
 第二海堡 世界に類を見ない壮大な海堡で第一海堡の西方2600mに1889明治22年から建設が始まり途中、日清戦争が起こった。完工は1914大正3年、25年もかかったのである。
 第三海堡 第二海堡の南方2600m、走水砲台とのほぼ中央地点にあり、神奈川県に属す。1892明治25年に工事がはじまり1917大正10年竣工。ところが、大正12年関東大震災に遭い、施設の3分の1が水没して機能を失った。
 これらの海堡は数十年にわたる難工事で犠牲者も出、莫大な費用がかかったが直接軍備に役立つことなく、最後まで一発の発砲もなかったという。その後、海堡は邪魔にされ、明治の国策に沿って建設された壮大な海堡を顧みる人も少ないという。現在はどうなのだろう。歴史のよすが、近現代の史跡として保存されているかもしれない。

 参考:『富津市史』1982(富津市史編纂委員会)、『富津市のあゆみ』1983(同)、どちらも法政大学図書館で閲覧した。

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