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2014年3月15日 (土)

福澤諭吉の友人、やんちゃな蘭方医・高橋順益(京都府)

 
―――〔種痘医の指定〕  痘瘡(天然痘)は人間一世の難症にして、父母たる者これが予防すべきは勿論、自今小児生まれて75日の後は、必ず左の姓名の医官へへ銘々相対にて種痘を頼み、天然痘に罹らざるよう致すべき旨御布令ありたり。
                                                            明治2.4.11新聞雑誌

―――〔種痘、東京で一割〕 この頃来途中にて小児の葬送に逢うこと多し・・・・・・疱瘡の流行あるなりと。近年人々大いに発明して、種痘は小児の大厄難を免れしめ、人間天然の寿命を保たしむるの神力なることを知り、殊に御上よりも毎々懇切なる御沙汰もあれば、東京に住むほどの者の子供は皆早く種痘仕るべしと思いしが、真の東京人は種痘する者、わずか十分の一に過ぎずと言えり。なんぞ愚のはなはだしきや。
                                                            明治7.12.6東京日日

Photo  予防接種をもたらした日蘭交流の物語『種痘伝来』を毎日新聞書評で知った。天然痘に立ち向かった人々、ジェンナーの牛痘ワクチン、幕末日本の蘭方医についてなどが解き明かされ、しかも読みやすかった。
 とくに後半「ネットワークを構築する――蘭方医たち」の章、名だけは知る蘭方医の学問や医術が垣間見え、医師たちが情熱をもち繋がっていく様が手に取るように記されひきこまれた(アン・ジャネッタ著、廣川和花・木曾明子訳2013岩波書店)。

 表紙写真:「直正公嗣子淳一郎君種痘之図」佐賀城における1849年の牛痘種痘。
 このほか本編に挿入の、髙野長英らシーボルト【鳴滝塾の門人】、【お玉ヶ池種痘所発起人名とその生没年表】など図表がまた興味深い。

 前出の大野松斎も含む「お玉ヶ池種痘所発起人」83名、生没年不詳、本編で紹介のない医師も多い。
 発起人筆頭の箕作阮甫はロシアのプチャーチンが通商を求めて来日の節、長崎で上司の川路聖謨らと応接している。その縁もあってか種痘所開設にあたり、川路は土地の提供を申し出、彼の名で幕府に種痘所開設を願い出る。なお、発起人名簿には伊東玄朴ら名の知れた蘭学者・蘭方医がいる一方、出身、経歴が判らない者がいる。何人か見てみたら、幸田露伴の弟、学者の幸田成友が高橋順益について書いていた。

   高橋順益 (たかはし じゅんえき) 

 1832天保3~1865慶應元年。丹後宮津藩、松平伯耆守藩医で十人扶持。江戸では芝源助町に住んでいた。
 ペリーが軍艦をひきいて浦賀に来航した翌年、高橋順益は蘭学者で医者の緒方洪庵が大阪に開いた蘭学塾(緒方塾・適々斎塾・適塾)に入門。半年後に福澤諭吉が入門するや順益と福澤は息が合い、生涯の友となった。
 二人が学んだ師の緒方洪庵は、坪井信道や宇田川玄真、長崎でオランダ人医師に学び、1838天保9年、大阪で蘭学塾を開いた。以後、緒方は25年にわたり青年を教育、福澤諭吉、大村益次郎、橋本左内、佐野常民ら人材を輩出した。
 適塾での勉強振りや暮らしぶりは『福翁自伝』に描かれ知る人も多いだろう。「新版 福翁自伝」から高橋順益を抜き出してみると、学問のかたわら遊女の偽手紙を書いて塾生に渡すなど悪戯好きやんちゃな若者像が浮かぶ。ほかにも次のような話がある。

―――(芝居見物の失策) 道頓堀の芝居に与力や同心のような役人が大いばりで芝居をただ見する。緒方の書生が、気味の悪い話さ、大小をさして宗十郎頭巾をかぶって役人の真似をしてたびたび首尾よく芝居見物をした・・・・・・ある日ほんものが来た。詐欺だからこっちは何とも言われない。進退きわまり大騒ぎになって・・・・・・この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益という男が頭取であったが、わたしは元来芝居を見ない上に、このことを不安に思うて(順益に)「・・・・・・マサカのときはたいへんだから」といったがきかない・・・・・・とうとうつかまったのが、おかしいどころか一時大心配をした。

―――(禁酒からたばこ) 緒方の塾に学問修業しながら、とかく酒を飲んでよいことは少しもない。これは済まぬことだとことだと思い、あたかも一念ここに発起したように、断然、酒をやめた。スルト塾中の大評判ではない大笑いで・・・・・・ひやかす者ばかりであるが、親友の高橋順益が「君のしんぼうはエライ。よくも続く見上げてやるそ。ところがおよそ人間の習慣は、たとい悪いことでも頓に禁ずることはよろしくない、とうていできないことだから、君がいよいよ禁酒と決心したならば、酒の代わりにたばこをはじめろ。なにか一方に楽しみがなくてはかなわぬ」と親切らしくいう。

 禁酒して順益に勧められ煙草をはじめた福澤諭吉は、酒とたばこの両刀使いになり、ほんとうの喫煙家になってしまったという。慶應義塾で教壇に立ったこともある幸田成友によれば、

―――順益はよほどの徒者(いたずらもの)であったらしいが、福澤先生が順益を指して「親友」と言はれて居る所を見ると、単なる徒者では無く、学問においても人物においても、余程確乎した所があった男に違ひない。
 福澤諭吉伝「高橋順益との交情」という一節があって、先生が土岐家から夫人を迎えられるにつき、順益が周旋した・・・・・・順益が結婚する時、今度は福澤先生が順益の「親戚」として列席せられている。先生と順益の関係は親友から親戚に進んだ(『東と西-史話』1940中央公論)。

 順益は結婚後2年足らずで病死する。順益の藩侯が将軍の御進発(おそらく第二次長州征伐)に扈従することになったので、順益は先発して京都に赴き、任に充たり・・・・・・早く戻ったが、感冒に罹り、全癒しないのに無理して、発熱下痢、うわごとをいうようになった。

 坪井信良・渡辺春汀(ともにお玉ヶ池発起人)らが治療にあたったが、治療の甲斐もなく33歳で没した。道半ばで斃れた高橋順益の葬儀と後の処分を、福澤は親身になって世話をした。
 江戸の昔といえども、33歳の生涯は短すぎる。しかも妻は身重だったという。何とも惜しくいたましい。

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