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2014年3月 8日 (土)

日本種痘はじめ、お芋の松斎先生(秋田・江戸浅草)

 弥生三月、上野駅で友人と待ち合わせ、東京都美術館【覚の会~現代作家によるそれぞれの個展 ~3/8】http://www.tobikan.jp/exhibition/h25_kakunokai.htmlを見に行った。“これからの日本の美術になっていきそうな”工芸・彫刻・日本画が展示されていた。べたっとした強い色彩を見なれた目には「和の彩り」が新鮮に映った。きっと、どれも文化財の保存に携わり伝統の技法を身につけた若い作家の感性が、自ずと表れているからだろう。
 安原成美「橅の音、雪の音」屏風の前を行きつ戻りつ、描かれたブナ林に入り込んでみた。描かれているのは和の装いにして実はモダン、作者が望む宇宙のイメージ、見る目のない素人の勝手な感想だ。灰白色のブナの樹皮は一本一本美しく生き変わり、見る位置でキラリ光る樹、おぼろな雪白、見飽きない。このブナ林に佇めば過去がよぎり、雪の音さえ聞こえそう。例え聞こえなくても感じれば、現実のゴチャゴチャを吸収してもらえそう。

Photo  同じ上野公園内で開催【モネ、風景をみる眼】展、国立西洋美術館に も行った。もの凄い混雑で絵どころではなかった。そうそうに会場を出、早めのランチにした。食後、園内を行くと八部咲きの寒桜が人目を集めていた。すぐ側は上野動物園、もう春休みなのか親子連れで賑わっていた。それを横目に上野東照宮に向かった。
 大きな灯籠が立ち並ぶ参道の突当たり、修復された金ピカの唐門が陽に耀いていた。拝観料を払い中に入ると、社Photo_2殿はもちろん透塀(すきべい)の修復もなり、家光造営時の豪華絢爛な江戸の昔を蘇らせていた。江戸の昔といえば、上野と地続きの浅草も今に変わらぬ賑わいだろう。前ぶれが長すぎたが、そのお江戸浅草に「お芋の松斎先生」がいた。

   大野松斎 1819文政2~1888明治21年7月

Photo_3  お芋の松斎先生こと種痘の普及に貢献した大野松斎(おおのしょうさい)は出羽国秋田の出身。
 地元では藩医・斉藤氏に医術を学んだ。のち京都に出て新宮涼庭に、次いで江戸の坪井信道にと二人の蘭方の大家に学んだ。その勉強ぶりは「勉学弩(ゆみ)の如し」で頼山陽(儒学者)の折紙付きであった。
 松斎は長崎でも医学を学んだが、その長崎で高島秋帆(西洋式軍事、砲術家)に呼ばれ、次のような依頼を受けた。

 ―――今度オランダから牛痘の種痘が伝わりました。ついてはこの種痘を切らさずに永く日本に残して人命を救いたいのです。日本の為にぜひ貴方に引き受けていただきたい

 まだ漢方医の勢力が盛んなときで、妨害がないとも限らない時代であったから、松斎は少し考えたが引き受けた。さっそく長崎を発った松斎の江戸への持ち物で大切なのものは、三粒の痘痂(とうか・かさぶた)であった。

 1848嘉永元年、30歳の松斎は浅草で開業。それから亡くなるまで、幕末から維新をへた日本の大きな転換期を浅草で見続けた。
 松斎は根岸の別宅をでるとき、いつもお芋の入った大きな袋を肩に、じんじんばしょりで浅草三軒町の診察所に通った。その途中、わざわざ裏通りを廻って米の買えない人びとに与えた。焼芋を与えた子どもは診察所に連れていき種痘をほどこし、天然痘予防と同時に、痘苗(種痘に使うたね)が絶えないようにしたのである。

 古くから伝染病の天然痘・疱瘡(ほうそう)、医学では痘瘡(とうそう)の流行に中国やヨーロッパなど世界中が悩まされていた。1796年イギリスのジェンナーの発見した牛痘ワクチンの普及によってやっと下火になったのである。
 日本にも中国の医書やオランダ人医師による種痘法が伝えられていたが、なかなか普及しなかった。そこで、洋学を学んだ医師たちが協力して神田お玉ヶ池に種痘所を建設する事にし、1857安政4巳年8月*川路聖謨の名で幕府に届け出た。その費用を拠出したのは箕作阮甫坪井信道松本良順ら83名の医家で、大野松斎もその一人である(『伊東玄朴伝』)。
  *川路聖謨: 長崎でロシアのプチャーチンと応接、日露和親条約に調印した幕政家

  
 
 ―――慶應・戊辰の年、江戸で官軍と徳川将軍家と戦争が起こり、徳川医学所頭取・松本良順は、幕府軍に随って東北に去らねばならなくなりました。心に懸かるのは種痘の痘苗でした。良順は松斎に会って「日本の国に痘苗がきれないように」と頼みました。しかし、戦争中の痘苗の保存は容易ではなく、松斎は砲煙弾雨の間を東奔西走して痘苗を切らさないようにしました。また子の恒徳に言いつけて、江戸近在にも痘苗が絶えないようにし、江戸が東京に変わっても痘苗には困らなかったのです(『日本種痘はじめ』写真も)。

 森銑三(大正・昭和期の文学、書誌学者)の聞き書き
―――松斎の医院は浅草の仲町(三軒町から転居)にあった。破風作の玄関の立派な構えで、毎日400人くらゐづつ出入りがあるといはれてゐた。内からはいつも赤ん坊の泣声が聞こえてゐたそうである。先生は今戸焼の鳩の笛を一度に沢山買ったりした。それは泣いてゐる子供をあやすためだったそうである。明治十年代のまだ種痘の行渡らぬ頃には、うつかりとあの辺を歩かぬ方がよい。捕らへられて植疱瘡をさせられる。公園まで出て人を捕へて、無理やりにしたりするさうだ、などともいはれていたそうである。

 1877明治10年、同志と種痘積善館を立てて種痘事業に精進した。
 松斎は昭憲皇太后(明治天皇の后)、皇太子(大正天皇)、親王たちに種痘を施し、宮中侍医の内命を受けたが拝辞。裏店の貧民に至るまで隔てなく誠を尽くして接種、死去するまで40年間に約23万人に一人で種痘を施した。
 1888明治21年7月、70歳で死去。大野松斎の人となりは、
 ―――淡泊廉潔ニシテ仁恵ヲ施シ、シバシバ窮民ヲ賑ハス。大イニ世人ノ敬慕スル所トナル。アア医は仁術ナリト古人吾ヲ欺カザルナリ(『現世日本名医高評伝』)。

 
 谷中墓地にある大野松斎墓碑、撰文は*中村敬宇、書は山東直砥(一郎)である。森銑三「種痘医大野松斎の墓」でそれを知った。大野と松本良順は医師仲間、良順と山東は旧知、その縁から松斎と山東の接点はありそう。松斎と敬宇との縁は分からないが、敬宇は山東の英語辞書に序をつけている。
 それにしても、森銑三も記しているが、大野松斎は人に優れた働きをしたのに殆ど知られず、人名事典にも見当たらない。歴史の出来事も記録がなければただの事、足跡が残らない。
   *中村敬宇: 中村正直、敬宇は号。福澤諭吉とならぶ啓蒙家。『西国立志編』翻訳。

  参考:『日本種痘はじめ』鈴木三郎1942帝国教育会出版部 / 『伊東玄朴伝』伊東栄1916玄文社 / 『現世日本名医高評伝』菊池清隆1886簾清堂 / 『森銑三著作集』1993中央公論社

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コメント

 省斎ご子孫様
 コメントありがとうございます。
 お訪ねの恒徳、種痘の件は残念ながらわかりません。当ブログは毎週一回更新、次々と広く浅く、研究が足りずすみません。ご子孫のコメントを読んで回答して下さる方があるといいです。
 業績があるのに、あまり知られていない人物を一人でも多く紹介できたらいいなと。今は東日本大震災の福島・宮城・岩手の出身者が多いです。今後は熊本もです。

投稿: けやき | 2016年5月12日 (木) 09時40分

6年ほど前に松斎のことを調べましたが、ここまで詳しいことはわかりませんでした。驚き、感激しています。
私が最初に見た史料は、温故堂さまの挙げて下さっている「近代名医一夕話」と同等のものだと思いますが、昭和12年の日本医事新報の座談会記録です。その中で松斎の孫が語った内容では、松斎は秋田から江戸に出て、その後京都、さらに長崎に行ったとあります。しかし、その孫の語った内容自体が家庭内の口伝程度の信憑性しかなさそうです。長崎遊学のくだりは私も史料を探しましたが、発見できませんでした。
森氏の聞き書きには恒徳の戸籍に関する記載がありますが、残念ながら関東大震災で焼けたらしく、その戸籍は現存しません。
なお、大正天皇に種痘を行ったのは、恒徳の方だと記憶していますが、いかがでしょうか。

投稿: 松斎の子孫 | 2016年5月11日 (水) 22時41分

松斎が長崎に留学したことは『近代名医一夕話』と『東京日日新聞』明治21年7月19日の記事に書かれていますが、ほかの史料で裏付ける確証がありません。いつごろ留学したかお分かりなら教えてください。21歳から5年間凉庭に学び26歳で江戸に出て3年間誠軒の門で学び、その後秋田に帰り1年間過ごし、再び江戸に出てきて、川本家に寄寓し浅草三間町で開業した。嘉永2年31歳の時、牛痘苗を伊東玄朴から分けてもらい、種痘を始めている。
この間長崎に留学する時間があったとは思えませんが、秋田から出てきて短期間長崎に出向いたのでしょうか。この履歴が誤っているのでしょうか。また『近代名医一夕話』のなかで石黒忠悳が語ったアイヌに種痘を施すため桑田立斎とともに北海道に渡ったというのも記憶違いでしょうし、石黒の言には他にも誤りがあります。

投稿: 温故堂 | 2014年4月28日 (月) 11時03分

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