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2014年3月 1日 (土)

富津岬の幕末明治、会津陣屋と海堡

 2014年2月、ソチオリンピックのテレビ観戦を楽しむ窓の外は大雪、降り積もった雪は関東地方を困らせた。何とも印象的な冬だが季節は移ろう。はや球春、潮干狩りの予定を立てた人もあるだろう。
 昔、子どもだったころ谷津(習志野市)の海岸で潮干狩りしたが、今や谷津は東京湾岸の住宅地、リクレーション地となり潮干狩りの海はそこからずっと先、富津になった。何度か家族で富津へ貝掘りに行ったことがある。その時どき、浅瀬に足を踏み入れ海風に吹かれ気分をよくしたが、感慨に耽ることはなかった。ところが、会津藩に興味を抱いてからは、富津岬と江戸(東京)湾が有意義、かつ意味あるものになった。
  富津岬:千葉県富津市北西部、東京湾中に突出した砂洲で、南房総国定公園の一部

 幕末、ペリー艦隊が来る前にビッドル率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀に現れ、通商を求めた。幕府はこれを拒絶、江戸湾防衛の大名をふやした。忍藩(大房崎~洲崎)、会津藩(富津岬~竹岡)、川越藩(走水~観音崎)、彦根藩(久里浜~三崎)、いわゆる「御固四家」(おかためよんけ)による防備が開始された。
 会津藩は房総に人員、大小砲弾薬、兵器を送り出して村々を治め、江戸湾を防備した。富津陣屋竹ヶ岡陣屋にそれぞれ家老以下船方役まで家臣が勤務、人員は併せて1400人、大砲小銃474門、新造船19隻が備えられた。
 ちなみに『ある明治人の記録』で知られる柴五郎(のち陸軍大将)の父・柴佐多蔵も家族を伴い房総に出張。富津陣屋に勤務中、四男柴四朗(東海散士のち作家・衆議院議員)が生まれた。

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  江戸府内前面の海域を江戸前、江戸湾の喉もと富津から観音崎を内海といい、湾内の要地に台場が建設された。相模国城ヶ島・浦賀・走水(観音崎)・伊豆下田・安房州崎・上総竹ヶ岡などである。
 富津岬の展望台に立つと三浦半島はおろか横浜も見え、黒船の侵入を見逃す筈がないと察しがつく。蒸気船を発見するや陣屋の藩士らが和船をこぎ出す様が目に見えるようだ。
 富津岬と観音崎を結ぶ湾口は「黒船を入れてはならない重要な防衛線」で、明治以後も要塞地帯に編入され、海堡が築かれた。

 竹ヶ岡砲台は3ヶ所築造され、江川太郎左衛門 鋳た超弩級を備えたヘキザン大砲も据付けられた。
 富津陣屋は敷地約7800坪、周囲を濠および土手で囲い、陣屋の西南に鉄砲場とよばれる鉄砲の練習所があった。
 写真:左・富津砲台の図、右・竹ヶ岡砲台の図(富津市史より)

 1853嘉永6年、ペリー艦隊のミシシッピー号が防衛線の富津-観音崎ラインを越えた。蒸気船が煙を吐いてずんずん侵入して来、上を下への大騒ぎになった。早鐘をつき、注進の早馬は江戸へ疾駆した。老中・若年寄はじめ諸役人は総登城、江戸府内と江戸湾を守る諸藩に動員がかけられた。 
 会津藩は房総から、すぐさま久里浜に向け150隻の番船をくり出し、忍藩と共に入江を固めた。しかし幕府は退去させる実力がなく、国書を受取り回答を翌年に延してようやく急場をしのいだ。
 幕府はペリーの再来に備えるも警備の重点は品川沖に後退していった。会津藩は品川台場6基のうち品川第二台場、砲台の守備を命じられた。第三台場は現在お台場公園として親しまれ、近くにテレビ局もあり若者で賑わっている。

 1854嘉永7年1月、果たしてペリー艦隊が再来。前年より多い7隻の軍艦を率いて神奈川沖に停泊し交渉を開始、日米和親条約が結ばれる。それにより下田・箱館の二港を開港、世界に窓を開けたとたん欧米列強が押しよせ、幕府の支配体制が揺らいだ。
 江戸に近い富津は、鳥羽・伏見にはじまる戊辰の戦乱に巻き込まれ、悲劇に見舞われる。そんな状況にあって、飯野藩(富津市下飯野)剣術指南・森要蔵ら28名は脱藩して会津藩救援に赴く。一行は会津藩士と共に東北各地を転戦、森は福島県羽太方面で銃弾に斃れた。その墓が福島県西郷村にある。
 また、会津藩が籠城中、奮闘した照姫は飯野藩主の娘で、会津藩主松平容敬の養女になり嫁いだが、会津若松城に戻っていた。 
 

         * * * 

 さて、年号を慶應から明治へと改めた日本は富国強兵の道をとり、1873明治6年国民皆兵制度、徴兵令がだされた。
 東京湾の喉元である富津と対岸の横須賀は帝都防衛の要衝、防衛強化のため砲台・海堡が築かれた。何れかの海堡築造に柴五郎の幼年学校恩師、有坂砲で知られる有坂成章も係わっている。有坂は日露戦争で威力を発揮した31年式速射砲を発明した陸軍軍人。

 海堡とは、海中に築島してその上に砲台を築いたもので黒船退去後、東京湾品川沖に台場が造られた。海堡のある海面は走り水と呼ばれ、潮流の早い場所で築島は難工事だった。
 1881明治14年富津岬の基部に元州砲台が築かれた。
 第一海堡 富津岬の先端、水深4~6mの海中に9年かけて造られた人口の島で、1890明治23年完工。太平洋戦争中は海軍の高射砲陣地が置かれた。
 第二海堡 世界に類を見ない壮大な海堡で第一海堡の西方2600mに1889明治22年から建設が始まり途中、日清戦争が起こった。完工は1914大正3年、25年もかかったのである。
 第三海堡 第二海堡の南方2600m、走水砲台とのほぼ中央地点にあり、神奈川県に属す。1892明治25年に工事がはじまり1917大正10年竣工。ところが、大正12年関東大震災に遭い、施設の3分の1が水没して機能を失った。
 これらの海堡は数十年にわたる難工事で犠牲者も出、莫大な費用がかかったが直接軍備に役立つことなく、最後まで一発の発砲もなかったという。その後、海堡は邪魔にされ、明治の国策に沿って建設された壮大な海堡を顧みる人も少ないという。現在はどうなのだろう。歴史のよすが、近現代の史跡として保存されているかもしれない。

 参考:『富津市史』1982(富津市史編纂委員会)、『富津市のあゆみ』1983(同)、どちらも法政大学図書館で閲覧した。

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