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2014年4月

2014年4月26日 (土)

時計商・松浦玉圃は美術工芸も秀逸 (宮城県仙台)

            <松浦玉圃客を窘(たしな)む>

 松浦玉圃は神田小川町の時計屋なり。気骨抜群、書生を愛して已に670余生の証人となる。一日店頭客あって懐中時計の立派なるを尋ね、是れ兄なる一紳、弟なる一生に与えんとするもの弟をして、散々選ばしめて以て結句代金30円なるものを購求す。玉圃瞥見して喝して曰く「その時計なら書生には過分(すぎ)てゐる、兄君が持つのだと思つたら・・・篦棒(べらぼう)な」、二客色を変じて怒髪帽を刺す、玉圃乃ち紙片を取つて狂歌一首を書す。

楽しみを後に残して苦しめよ 書生に金は身を破るもと

と、二客読下してその訓戒に服し、高価の時計を返して僅々10円のものに代ふ、侠腸玉圃の如きは滅多に得難いと謂つべし。         (『名士奇聞録』1911橘溢生)

 明治半ばを過ぎても時計は学生にとって高価だろう。それを金に任せて学生の弟に買い与えようとする兄。それを見た店主は儲けを喜ぶどころか、べらぼうな話だと渇を入れたというからおもしろい。客はひどく怒ったものの、狂歌の趣意に納得した。
 「若いうち苦労は買ってもせよ、大金は身を誤らせる」はいつの世も同じ。説教でなく狂歌でさとした店主の教養、素直に聞き入れた兄弟、双方に感心。欲得ずくでない松浦玉圃、いったいどんな人物か。以下、大槻文彦著『松浦玉圃伝』(1889飯田宏作編)など参考にみてみた。

Photo      松浦玉圃(1839天保10年~?)

 先祖は肥前松浦の浪人。仙台に流れ来、五代目が松浦屋を称し麹を業とした。玉圃の父五郎助は八代目、天保の飢饉の際に貧者に米や銭を施した。母は仙台河原町吉岡屋儀右衛門の娘えい、子は男女6人。
 1839天保10年に次男栄松(玉圃)生れる。この年父死去。母は子育てに奮闘し68歳迄生きたが、母も施与を好み葬儀のさい墓所が供花で埋もれたという。母は子らに学問、謡曲など習い事をさせ玉圃はとくに彫刻を好んだ。
 1857安政4年、19歳の玉圃は江戸に出て愛宕下の仙台藩邸にいる桂島斧吉に竹木、金石、玉角を彫る技を学んだ。やがて画法を知らないと進歩がないと気づき幕府絵師・狩野梅軒の塾に入り修業に励むが、実家の兄のすすめもあり母を気遣い帰郷した。
 仙台に帰った玉圃は、彫刻の技をもって藩の門閥諸家に出入りし喜ばれた。しかし作品を売らなかったので暮らしがたたない。兄たちが心配して玉圃に、勤め先を見つけたり、商売をさせたが上手くいかなかった。余りにも欲がなさ過ぎるのだ。
 1863文久3年、25歳になり兄の世話で広瀬川の崖上の邸を手に入れ、その家から大槻盤渓の元に通い詩を学んだ。盤渓が詩会開くと玉圃は末席で見学しつつ学んだ。

 1868戊辰2月、京へ赴く藩の重役に玉圃も随従を許され、松島湾から藩の汽船・宮城丸に乗り神戸の港に向かい、神戸から京へ入り仙台藩邸に寄食した。折しも戊辰の騒擾のさなか、玉圃は商人の身を忘れて時事に没頭した。5月、ついに仙台藩は白河で開戦。
 京の玉圃は仙台領江洲の陣屋に赴き、銃丸の製造を担任したが、銃丸は古く使い物にならない。その間にも戦は激しさを増し、藩士一同は仙台へ引き揚げることになった。玉圃もさんざんな目に遭いながら数十日かけて仙台に帰りつき、戊辰戦争は終わった。
 戊辰戦争を首謀したとして仙台藩重役・伹木土佐が辞職すると邸はひっそり。玉圃はその伹木家を訪れて慰め、また獄に入れられた師の大槻盤渓の留守宅も見舞い助力した。

 明治維新後、玉圃は邸宅(皆宜園)を没収横取りされそうになり、岡鹿門(千仞)に相談した。岡は玉圃に書面を与え、玉圃はそれを藩の参政に差出し説明もして取上げられずにすんだ。この騒ぎで玉圃は藩士の困窮を知り、藩士の子弟に職を与えようと邸内に工場を作った。75人集まり、その工徒の中に絵画篆刻を業とし、名をなした者があった。

 1872明治5年、玉圃は東京に出、かねて興味のあった時計の商売をする事にした。同郷の佐和正(後藤正左衛門)から、警視庁時計修理の入札があると聞き、応じて落札。以来、警視庁御用達となる。その頃、玉圃の仮住いには故郷の食客が78人もいて茶碗や箸は共用という有様だった。しかし、玉圃は意に介さない。やがて古家を買い引越した。

 1875明治8年、玉圃は尼崎藩士・土屋政暘の娘を妻に迎え、のち男女4人の子をもうけた。
 1877明治10年、西南戦争。巡査が一時東京に集まると、玉圃は巡査屯集所に出入りして時計を売った。玉圃は時計を仕入れるため何度も横浜と東京を往復。宮城県の巡査はみな玉圃から時計を買ったので玉圃は財をなし、以前大火で焼けてしまった家を新築することができた。
 しかし、景気が悪くなり、玉圃は時計の行商をはじめた。横浜28番館で仕入れた時計を薄利で売ったのである。そのため同業者が争って時計を買ったので玉圃はまた儲かった。
 1888明治21年、玉圃は父の五十年忌に妻と子を連れて帰郷。すると仙台停車場には四、五百人もが迎えにきていた。その後の大宴会は推して知るべし。その時の狂歌、

      積善の家に余けいな馳走より 親にかうこでちょつと一盃

 1890明治23年、東京神田区錦町に引越、新築開店すると仙台出身の学生が紅白の大旗で祝い、新聞に投書し宣伝してくれた。この店で早稲田の学生が10円の時計を買ったのである。

      松浦玉圃と工芸

 玉圃は時計に金象眼を施して博覧会に出品して褒賞を得たことがある。また、ガラスに着色して焼く技術を研究すること7年、盃、皿、諸器に精緻な彩画を施すその嚆矢となった。

―――(http://blog-imgs-59-origin.fc2.com/a/u/c/aucwatch/
<焼付コップ、びいどろ、ギヤマン、氷コップ、江戸硝子>なんか和風で珍しい感じだなぁと思ったガラスのコップが40万円。説明によれば松浦玉圃の約130年ほど前の作品、大きさは9×6.2cm「日本で初めてガラスに焼付け上絵付(エナメル彩)を試みた松浦玉圃作、垂れ柳にサギ文コップ」

―――(www.suntory.co.jp/news/2002/8178.html
<エナメル彩桜に雀図ガラスコップ>松浦玉圃、 明治中期、 びいどろ史料庫

 玉圃は湯呑みに彩画して焼き、熱湯を注いでも割れなかったので実用品に応用した。
 「らんぷ」の「ほや」を強烈な火力にしても破裂しない製品も作り、1896明治29年、ガラス店開業

 1899明治32年5月、玉圃の還暦祝い。荒井泰治大槻文彦に小伝を依頼し賀客に配る。

 1908明治41年、『紅療法講演録』(*山内啓二述、松浦玉圃筆記、大槻文彦序、後藤新平題字、大気堂刊) http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20101031
  *紅療法の発明者山内啓二1866慶応2年宮城県生れ。山内玄人編『伝記山内不二門』
  *大気堂:『東京模範商工品録』1907明治40年に大気堂の輪転謄写機の写真あり。
 1918大正7年8月、玉圃80歳.。大槻文彦宛「富士登山記」あり(早稲田大学図書館蔵)。
 松浦玉圃の没年不詳。
                                       
     <参考>
荒井泰治: 当ブログ2014.2.22 「明治、東北の実業人と台湾(荒井泰治・藤崎三郎助・槙哲)」
大槻文彦: 国語学者。蘭学者大槻玄沢の孫。『言海』刊行。
大槻盤渓: 維新期の洋学者・砲術家。大槻玄沢の次男。著書『近古史談』
岡鹿門(千仞): 当ブログ2011.5.21 「幕末の大阪で塾を開いた漢学者、岡鹿門(仙台藩)」
佐和正:  当ブログ2012.7.22 「明治の少警視そして青森県知事・佐和正(仙台)」

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2014年4月19日 (土)

宮沢賢治と妹トシ(岩手県)

Photo  「吾ヲシテ最モ意義アル生活ヲナサシメント欲ス」 

これは宮沢賢治最愛の妹トシの入学時の決心である。毎日新聞“日本女子大で直筆答案発見”の記事(2014.4.17)
 草創期の日本女子大学校で学んだ人々が「実践理論」の講義で提出した自己調書や答案が見つかった。資料は日本女子大学成瀬記念館で公開(~6月7日迄)されているそうで見てみたい。
 
 
 
 

 記事には、平塚らいてう「実践理論」答案と宮沢トシの「自己調書」の写真があり、トシは「元始、女性は太陽であった」で知られる平塚らいてうの後輩と知った。
 賢治の妹を幼いと決めつけていたから大正期の女子学生と知って、お互いの進む道が理解できた兄妹だったと想像できた。

 写真は、6歳ころの賢治とトシ(森荘已池『宮沢賢治』より)。

 1896明治29年8月1日、宮沢賢治、父・宮沢政次郎 母・イチの長男として稗貫郡花巻町鍛治町、母の実家で生まれる。

 1898明治31年11月5日、トシが岩手県稗貫郡花巻川口町303に生まれる。トシは清六、しげ、くにの5人兄妹の長女。
 宮沢家は祖父の代は質屋、父の代に呉服屋・古着屋をするなどして裕福であった。
 宮沢賢治について、作品・伝記評論・研究など数多くあり、賢治の大ファン井上ひさしの「風景はなみだにゆすれ」などもよく知られている。が、ここでは賢治・トシ兄妹を知る賢治の親友、*森荘已池の『宮沢賢治』(小学館1943)を主に参考にした。

  *森荘已池:もりそういち・本名は佐一。1907明治40年盛岡市生まれ。
 1943昭和18年「蛾と笹舟」「山畠」で直木賞受賞。中学生のとき、賢治が森の家を訪れ深い交流が始まった。賢治没後、全集の編集に携わり賢治を紹介し続けた。

 まだ電灯もつかないランプを使用していた時代に、宮沢家の主、政次郎は子どもたちをつれて散歩したり、冬の夜にはカルタ会、茶話会などを催した。兄賢治と3歳違いのトシはこのような商家に育ち、東京の日本女大学へ入学した。
 このたび発見され毎日新聞に載ったトシの「自己調書」には、
「意志薄弱、陰鬱(いんうつ)、消極的、その他大抵の短所を具有す」ときちょうめんな字で書かれている。真面目で内省的な性格のようだ。

 1920大正9年、日本女子大在学中のトシは流行性感冒にかかり、東京・小石川の病院に入院。賢治は知らせを受け、家族と相談して上京、妹の看病にあたった。トシの入院中、賢治は毎日病院に通い、付添の看護婦が側を離れたときには便の始末までした。そして、病状を知らせるハガキを毎日書いては花巻に送った。やがて、トシの病状がよくなると、いろいろおもしろい話をしたり、本を買ってきてトシに読んで聞かせたりした。そのうち母も上京し母子で病院に通い、トシが快復すると賢治は花巻に戻った。

 賢治は日蓮宗を信仰していた。ところが、宮沢家は代々親鸞の浄土真宗を信仰していたので賢治は父母に改宗をせまった。しかし、断られた。
 1921大正10年1月、賢治は汽車賃だけをもって花巻の家をでた。

 上京した賢治は、本郷の東大前に住み、*筆耕の仕事をして生活をし、夜は下谷の国柱会(日蓮宗)へいって伝道を手伝い、日曜日は上野の図書館にいって勉強した。
  *筆耕:ひっこう。文章を写したり謄写版(とうしゃばん)で印刷したりすること。

 そのころの賢治は父からの送金を遣わず返してしまい、一日一食、ジャガイモの煮たものに塩をつけて食べ、水を飲んで済ませていた。
 4月になり賢治を心配した父が上京、父子で関西奈良地方を旅行した。

 7月、女子大を卒業して郷里の花巻女学校教諭をしていた妹のトシが病気になる。知らせを受けた賢治はすぐに帰省。このころから「心象スケッチ」自由形式の詩を書きはじめていたので、大行李にどっさり童話や詩の原稿をつめて花巻へ帰った。
 12月、賢治は花巻農学校の教師になり、以後4年在職した。

 1922大正11年11月、トシが肺結核で死亡。24歳はまだこれから、若すぎる死は何ともいたましい。最愛の妹の死に大きなショックを受けた賢治、一夜で有名な「永訣の朝」を書き上げた。“けふのうちに とおくへいつてしまふ  わたくしのいもうとよ”で始まる詩は文末に引用した。

 1933昭和8年、宮沢賢治37歳で死去。しばらくしてから弟の清六が残った原稿を整理中に、小さな手帳の鉛筆書き「雨ニモマケズ」を見つけた。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノアツサニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
野原ノ松ノ林の蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコワガラナクモイイトイヒ
北にケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 

    永訣の朝

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてへはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(とうわん)に
おまえがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛(そうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしょうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまえはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・
・・・ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうえにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系(にそうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしょにそだつてきたあいだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあおじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
  (うまれでくるたて
 こんどはこたにわりやのごとばかりで
 くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

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2014年4月12日 (土)

大熊町立図書館その他、近代デジタルライブラリー

 この春、息子の次男が小学校を卒業した。式に参列♪仰げば尊し~ 生徒や父母に交じって歌い、12年前、彼が生まれた福島県大熊町へ手伝いに行ったのを思い出した。上野から常磐線に乗り大野駅で降りると、薄い青緑のしゃれた建物が目に入った。それは、町に原発があるから出張で来た人が泊まるホテルだろうと思った。
 出産したお嫁さんが入院中、私はお兄ちゃんになった3歳児を保育園に送り迎えし、炊事洗濯をした。町の保育園で孫を一時預かりしてもらった後、家事の合間に自転車で辺りを見物したことがある。深緑の森、水中の小魚も見えるほど澄んだ川、広い果樹園、 そして図書館も良かった。ホテルと勘違いした建物は図書館だった。外観もいいが館内の造りも凝っていて、書棚も閲覧場所もゆったりしていた。畳敷きのコーナーにはモダンなランプがあり、暖かみのある空間になっていた。

 このような大熊町図書館の話をすると「原発のお金でしょ」とにべもない人が少なくない。そうかもしれないが・・・・・・ そうこうするうち息子が異動で大熊町を去り、図書館再訪の折はなかった。それどころか大熊町に入れなくなった。なんと2011.3.11東日本大震災・原発事故発生。図書館の本は一冊も持ち出せない。
 現在、大熊町役場が置かれている会津若松市は明治維新まで会津藩が治めていたが、戊辰戦争に敗れ、本州最北の下北半島へ藩をあげて移住するはめになった。食べるにも事欠く中、遠い北辺斗南へ旅立つだけでも大変な事態だ。にも拘わらず会津藩士は子弟の教育を考え、蔵書をはるばる北の大地まで運んだ。戦に敗れてさえ本は残った。しかし、原発事故にあった図書館からは一冊も持ち出せない。戦より酷い原発事故。

 原発事故後、町民の多くが100キロ離れた会津若松市に避難、学校も立ち上げた。『大熊町学校再生への挑戦』2012年刊には、著者・武内敏英氏ら大熊町教育委員会や町民が力を併せて、同じ福島県でも風土の異なる会津に小・中学校を再開、挫けない心が描かれている。しかしこの3月、大熊中学は卒業生56名に対し新入生は9名、
「少人数ならではの、いい教育をしてまいりたい」と校長先生。生徒を思う気持ちにあふれている。しかしながら、丸3年を過ぎてなお厳しい現実に先生方、生徒、家の人たちと皆さんの心持ちが気にかかる。

 大熊小・中学校の生徒さんも調べ物など会津若松市立図書館を利用するでしょうか。私は2008年『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』 執筆中に何度か訪れた。館長さんから会津図書館ならではの資料を閲覧させて頂いたこともある。このように、図書館は本の貸し借りもさることながら、地元資料を探すには欠かせない。
 図書館の蔵書や資料、今では居ながらにして検索できるようになった。会津若松図書館は全国に会津ファンがいる、さぞや検索数、遠方からの閲覧者も多いでしょう。

 自宅のパソコンで「検索と閲覧が可能」な図書館がある。国会図書館・近代デジタルライブラリー(近デジ) http://kindai.ndl.go.jp/ である。

 昔は国会図書館に通い、カードをめくり冊子を探してから閲覧申込、本が出てくるのを待った。コピーが必要なら順番待ち。やっと手にした本に探し物がなくて、がっくりもあった。
 今は間違っても次をクリックすればよく、めっけものに行きあたる事さえある。近デジは明治・大正・昭和初期くらい迄、書名・人名・事項で検索、本編のダウンロードもできて無料。
 ここに至るまで技術もさることながら、公開には出版・書店など諸々方々と葛藤があった様子。でも、研究者だけでなく一般人も利用できるありがたいシステム、これからもますます使いやすくしてほしい。当ブログの読者はきっと本や歴史好き、興味の事物を検索してはいかが。もう利用していそうですが。

 さて、近デジで検索した本のページ数が400頁もあったらどうする? ダウンロードしても読むのは大変。私はその本を大学の図書館で検索、あったら閲覧に行く。やはり紙の本がいい。明治・大正期の本には時代の匂い、名残がある。
 今は生涯学習の時代、公開講座を受けると図書館を利用できる大学が多い。何かの折、ある教授に、早大の図書館を気に入ってると話したら「私の話を聴くより図書館の方がいいでしょ」 謙虚なお言葉に恐縮。ともあれ、早大と共に母校の法政大の図書館も好き。

 NHKニュースがgacco という大学の授業が無料で受けられるシステムが始まると伝えていた。受講すると、各々の大学図書館に入れるなら受講してみたい。

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2014年4月 5日 (土)

観古会・竜池会・東京美術学校、高村光雲(江戸下谷)

Photo  桜前線が北上しているが、今はどのあたりかな。写真は2014.3.29谷中墓地、江戸時代富くじが行われていた天王寺前の桜並木である。
 五分咲きの花のトンネル、途中に旧会津藩士・南摩羽峰(綱紀、のち東大教授)の碑があるが、それを横目に実家の墓所、感応寺に向かった。そこには『渋江抽斎』(森鴎外著)の墓があり、上野界隈を史跡巡りする人と行き交うこともある。お婿さんと二人で墓参りしてから彼の案内で根津、東大・弥生美術館/竹下夢二美術館そばの花見場所に向かった。

 谷中から根津へ、ヤネセン(谷中・根津・千駄木)は恰好の散歩路、下町歩きを楽しみつつ会場のお宅へ伺った。今日日、例年の戸外花見地が禁じられ、やむなく室内で花見となったという。広いリビングに仕事関係、ご近所、ワイン繋がりの男女20人が三々五々やって来、持ち寄りのご馳走や飲み物を並べ口腹とも楽しんだ。久しぶり現役ばりばりの若い世代に囲まれ、ついつい浮かれたが中締めでお暇した。
Photo_4

 午後の日差しの中、のんびり行くとじきに「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑があった。そういえば東大博物館で弥生式土器を見た、そんな事を思い出し歩いていたら上野公園の東京芸術大学の前にでた。ここの美術館で高村光太郎と高村光雲父子の彫刻を見たことがある。
 

Photo_5

 東京芸術大学は、1887明治20年創立された東京美術学校と東京音楽学校とが戦後、新学制により合併した大学である。美術館に入らずとも学食を一般も利用でき、安い学食は上野散歩で疲れた身の一休みにいい場所だ。
 芸大の前身、東京美術学校は創立に尽力し校長になった岡倉天心が有名だが、彫刻家教授に迎えられた高村光雲もよく知られる。今、音楽や美術は身近だが、戊辰の戦乱の余波が消えてない明治初めは芸術は暮らしに遠かった。彫刻家・高村光雲もはじめは仏師に弟子入り、西洋の脂土(あぶらつち)や石膏に心惹かれていた。

 ――― 虎ノ門際の辰ノ口に工部省で建てた工部学校では西洋人を教師に傭って、油絵や西洋彫刻を修業しているのだという評判・・・・・・生徒には藤田文三氏や大熊氏広氏などがいるようであるが、自分は純然たる仏師のこととて、まるで世界が違う。
 ・・・・・・脂土は、附けたり、減らしたり自由自在にできるから、何でも思うように実物の形が作れる。その出来た原形へ「石膏」を被せ掛けて型を取るのだそうな。
 ・・・・・・木彫りは一度肉を取りすぎると、それを再び附け加えることはできない。この不自由なのに対して、増減自在・・・・・・「どうだろう。脂土の売り物はないだろうか」(『幕末維新懐古談』高村光雲著1995岩波文庫――田村松魚と息子光太郎の聞き書き)。

 さて、明治の美術会は前出、「光雲の懐古談」によると、

 1880明治13年頃、日本の絵画、彫刻その他の工芸的制作が衰退するのを案じた数奇者(すきしゃ)、日本の美術工芸を愛好する山高信離・山本五郎・納富介次郎・松尾儀助ら10人足らずが、お互いに所蔵している古美術品を持ち寄って、鑑賞し、批評しあって研究することにした。そこへ制作する側の人も加わり月一回ずつの催しを始めた。

 場所は上野池ノ端弁天の境内静池院(せいちいん)、それで龍(竜)池会と名付けた。だんだん会員も増え、絵画・彫刻・蒔絵・金工の諸家も入会し発展、そこで日本美術協会と名を改め、会頭は佐野常民(日本赤十字社初代社長)、年に一度展覧会を開いた。これが観古美術会である。
 観古美術会は、会員所蔵の逸品も数限りがあるので、上流諸家や宮内省御物からも拝借して陳列、それを一般に公開した。会場は下谷の海禅寺(合羽橋)、東本願寺などで行い、美術の普及に功績があった。

 観古美術会出品目録を見ると、

第5回:大熊氏広(のち靖国神社大村益次郎像制作)は、木彫で[山部赤人像]を出品。
第6回:山東直砥が所蔵の[薩摩焼水注]を出品。
    [鵜ノ斑薬建水]を制作出品した光雲は維新のさい木彫界は衰退、他に転身するものが多かった中で精進を続けていたのである。

 1884明治17年、岡倉天心(覚三)が竜池会入会。天心は東大を卒業後、文部相に入り美術行政官(音楽図書・美術取調係)となり、フェノロサに随行して近畿の古社寺を訪れたり、欧米に派遣され美術品の調査をした。
 同年、築地本願寺で第1回新古展覧会開催、高村光雲は白檀で蝦蟇仙人を彫り出品、3等賞。のちに、光雲を東京美術学校教師に招いた岡倉天心は光雲について、

 ――― 彫刻界においては高村光雲の写生主義大いに行われたると同時に、日本新聞の主唱に係わる歴史的の大作あり、住友家の創意になれる楠公の銅像あり。老西郷の像、北白川宮の御肖像など、陸続出で来たれり

ちなみに上野公園内観音堂の裏手に光雲作・西郷隆盛像がある。

 1887明治20年、ヨーロッパ出張から帰国した天心は東京美術学校幹事。
 1889明治22年、東京美術学校開校。翌年、岡倉天心が校長となり、国粋主義的立場に立つ美術官僚としての手腕を発揮したが、天心を排斥する事件が起こり、*非職となる。
 以後、天心は民間在野で国民芸術の創造に邁進する(『民間学事典』佐藤能丸)。
  
   * 非職: 官吏の地位をそのままで職務のみ免じること。1884明治17年の条例によれば、3年を一期とし現給3分の一を支給、満期免官(『近現代史用語辞典』安岡昭男編)。

 1893明治26年、光雲はシカゴ万博博覧会に「老猿」を出品受賞。その後は、古社寺保存会員、文展審査員などを歴任、木彫界に重きをなし、その門から平櫛田中らを出した。1934昭和9年、82歳で没。

  余談: ブログ記事を書いている最中、毎日新聞<夢二晩年の日本画、「宵待草」を発見>と、弥生美術館が発表という記事を見た。本日、4月4日から6月29日まで特別展示される。

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