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2014年5月

2014年5月31日 (土)

外来の体操とスポーツ・卓球を明治日本に、坪井玄道

2014
 近ごろ、卓球にはまって机に向かう時間が減り、ブログの週一回更新がきつい。ブログは生き甲斐、時間配分どうしよう? 卓球の技量は「やろうとする事は判る、でも腕がついて来ないなあ」とコーチに笑われる程度、なのにどっちもやめられない。考え中、ふと、スポーツ草創期の明治卓球界は? 「界」というほど普及してなくて「会・倶楽部」程度だったかなど、気になり調べてみた。 
 ちなみに、野球の紹介は卓球よりずっと早く、1873明治6年、開成学校の米人教師・ウィルソンがはじめて紹介。明治半ばごろ、人気が過熱、「野球害毒キャンペーン」が展開されたほどだ(2013.12.7記事「ベーブルースと会った河野安通志」)。

  1902明治35年6月、英国より帰国の東京高等師範学校教授 坪井玄道、卓球を紹介
この年。日英同盟協約調印/ 耐寒雪中行軍の弘前歩兵第5連隊、八甲田山麓で猛吹雪のため遭難/ アメリカ炭鉱労働争議、ルーズベルト大統領紛争介入など。

 坪井玄道 
                 1852嘉永5年~1922大正11年
    明治・大正期の教育家。外来の体操とスポーツを日本に植え付けた功労者。
    

Photo 千葉県(下総国東葛飾郡鬼越村)の農家に生まれ、医学を志し、1867慶應3年、15歳で江戸に出て英語を学ぶ。
 1871明治4年1月、大学得業生(卒業生。明治初年に置かれた兵学寮・大学校の教官及び工部省の技術官)。8月文部相出仕。
 1872明治5年。師範学校係となり、アメリカ人教師スコットの教授法を通訳する。
 1875明治8年、宮城英語学校教諭。1877明治10年、仙台中学校教員。

 1878明治11年、体育指導者養成のため政府が東京神田に設置した体操伝習所(初代主幹・伊沢修二)アメリカ人教師リーランドGeorge E.Lelandの通訳兼助手となる。
 1882明治15年、リーランドの著述を翻訳、日本最初の体操教科書 『新撰体操書』 刊行。
 1885明治16年、文部相御用掛となり体操伝習所勤務。東大教師ストレンジの著書翻訳 『戸外遊技法』 出版、体操や様々なスポーツの普及に努めた。本文中に〔フート、ボール(蹴鞠の一種)〕という項目があり、後にサッカー普及の祖として顕彰される。
 1886明治19年、伝習所は東京高等師範学校に継承されその教授となる。
 1887明治20年、高等師範学校教諭。明治21年、東京高等女学校教諭、明治23年、東京女子高等師範学校教授を兼任。

 1900明治33年、体操研究のためフランス・ドイツ・イギリス三国へ留学。
 1902明治35年、欧州から帰国のときアメリカを巡り、アメリカから卓球の用具をはじめて輸入、流行の端緒をつくった。
 1903明治36年、体操主任教授。東京市本郷区弥生町三番地在住
 1904明治37年、文部省体操および遊技取調委員を委嘱される。
 1907明治40年、普通体操及び兵式体操の調査委員。
 1922大正11年死去。70歳。

 
         ○○○○○ ピンポン卓球 事始め ○○○○○

      〔ピンポン倶楽部〕

 ――― 少年諸君の中にはまだご存じないかたも多かろう。それは英国から渡った新しい遊戯機械で、何の事はない、座敷テニスだ・・・・・・余も二、三度やって見たが、元よりテニスほどの趣味は無く、またそれほど運動にもならぬが、女子供の遊びには、又至極適当なものだ
   (『小波洋行土産』巌谷小波著・明治36博文館)。

   

          〔卓球初期の思出話〕
                        東京帝国大学教授・小石川植物園長 中井猛之進

 ――― 体操の先生、故坪井玄道氏がピンポンPing Pong 一名Table Tennis を輸入されて美津濃で10組を試作させた。然し先生が東京帝国大学校内を持回って買手を求められたが全部は売れなかった
・・・・・・黄色を帯びたセルロイドのボール、ネットは弱いので桃色の布で縁が取ってあった。ラケットの柄は長く太く相当に重かったが、1909明治42年兵隊に行くため本郷追分の屑屋の手に渡ってしまい、惜しい記念物を失ったと悔やんでいる
・・・・・・1914大正3、4年の頃は子爵戸田康保氏、新谷壽三(北樺太石油会社技師)らと共に宗教大学の各選手と往復していた。当時、美校生が写生に来るので幾度も試合した。その頃、農大・東歯・宗教の3校が東都の三傑で巴戦をしていた・・・・・・ラケットは人々勝手なものを使い、計量本位の編目の穴あきもの、筋をつけてカットに便ぜるもの、柄の馬鹿に長いもの、板に象嵌したもの、象牙の柄を附けたもの、板の部が一尺もある大型のものを使用し打つ毎にボールを煽いでいた人もあった・・・・・・
   (『東京歯科医学専門学校学生会卓球部創立二十年史』1934)。

      〔多治見人とピンポン〕

 ―――  瞬間の駆け引き、咄嗟に敵の虚を看破して、熱球深く敵手の胸をつく底の快味は、此の競技の特徴でしかもテニスよりは、もっと簡単な競技が、この忙しい町に勃興するのは当然の事で、立派な正式の卓が各商店に据えられ、全多治見の商店の娯楽機関の中心になろうとして居る
   (『茶碗屋茶話』芳野町人著・大正14山名書房)。

          〔ピンポン〕

  ―――目下当地に於ける流行の一つはピン、ポン(PingーPong )と申す遊技に御座候・・・・・薄き革にて張りたる、団扇型の、おもちゃの太鼓の如きラケットにて、杏の実ほどなるガムのボールを打ち競ふこと・・・・・・ピン、ポンとは其の球を打つ音に象取りし名なる・・・・・・晩餐のあと食卓をかたずけてより、いざ一勝負と、若き男女等・・・・・・きわもの類の小説詩歌集中にも、「物思はしげなる美人が、ピンポンの音する家より二軒目の窓の前に、そと立寄りて」・・・・・・など物したるを見申候
     (『明治大正随筆選集14』島村抱月著・大正14人文会出版部)。

  参考: 『最新学校体操之理論及体操遊技教授細目』明治43平本健康堂 / 『第五回内国勧業博覧会審査官列伝.前編』明治36金港堂編(肖像写真)  / 『世界大百科事典』1972平凡社  / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂

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2014年5月24日 (土)

ペリー、プチャーチン応接係、維新後は神道:平山省斎(福島県)

 幕末の外交史年表をみると、各国使節・提督=米ペリー、露プチャーチン、英スターリング、総領事=米ハリス、英オールコック、仏ド・ベルクールのちロッシュの外国人名が並ぶ。開国したものの体制が弱りつつあった幕府に、その応接は困難だったが、アメリカのハリスと交渉して通商条約の締結に努めた岩瀬忠震(いわせただなり)、またロシアのプチャーチンと応接に努め日露和親条約に調印した川路聖謨(かわじとしあきら)らはよく力を尽くした。
 ところで外交交渉とは別に、攘夷派の武士らによるやっかいな殺害事件が一度ならずあった。1856安政2年、米国公使館書記・通訳官ヒュースケン暗殺はよく知られる。また、坂本龍馬の「船中八策」なった翌月に「イギリス水兵殺傷事件」がおきた。

 1867慶応3年7月6日夜、長崎の寄合町で泥酔し寝込んでいた英国軍艦イカラス号水兵2名が殺された。公使パークスは激高、幕府に犯人の逮捕処刑を強要すると共に、

 ―――殺害したのは近くにいた土佐藩・胡蝶丸乗組員であるとし幕府を介せず、直接英国軍艦を土佐に派遣して詰問しようとした。幕府は外国奉行・平山図書頭(ずしょのかみ省斎)をイギリス艦に乗せて土佐に送り問題を処理しようとした。省斎は高知に赴くや藩主(山内豊範)に面会して相談。犯人を捕らえて差し出すという答えを得、すぐ長崎に赴き、土佐藩の艦長に藩主の命を伝えた。

―――幕府も責任上、いろいろ探索したが、犯人を得ることができなかった・・・・・・後に、この犯行は筑前藩士と判明し、明治元年関係者が処罰されたが、下手人の金子才吉はすでに自殺していた(『幕末外交談2』田辺太一著1966東洋文庫)。

        平山省斎 
               1815文化12年~1890明治23年

 陸奧国三春藩士で剣道師範・黒沼活円斎の次男。母は塩田氏。名は謙二郎のち敬忠。
 1834天保5年、20歳で江戸に遊学。以来10数年、叔父・竹村久成の家事を助け、漢学を桑原北林安積艮斎に学び、国学を前田夏蔭に学ぶ。学力をつけてからは家に居て教え、求めがあれば講義した。
 1848嘉永1年、桑原北林の次女、千代と結婚。
 1850嘉永3年、36歳。幕府小普請・平山源太郎の養子となる。

 1852嘉永5年、内命あり下田に微行。ロシア船の日本漂流民送り戻しの事実を探った。
 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率い浦賀に来航。
 1854安政1年、40歳。幕府徒目付。3月、日米和親条約締結、省斎も応接係の一員であった。4月、目付・堀利忠らに随行、蝦夷を巡視し樺太、東北沿海を巡る。ロシア海軍提督プチャーチン再来、水野忠徳に従い応接し12月、日露和親条約締結。
 1855安政2年、ペリー下田に再来、省斎は岩瀬忠震に随行し応接。
 1857安政4年、勘定奉行・水野忠徳に随行、長崎でロシア・オランダ公使と貿易交渉。
 1858安政5年、書物奉行に昇進。岩瀬忠震の命を受けて越前・橋本左内と往来。

 1859安政6年、45歳。一橋派とみなされ大老・井伊直弼により処罰、御役御免となり甲府勝手小普請入り。甲府勤番は幕府直轄領支配として設置されたが、のち多く左遷された非役の御家人がなった。
 ちなみに、省斎は岩瀬の知遇を得て、意見書など省斎の筆になるものもあるという。他に、永井尚志、水野忠徳、堀利煕、山口直亮、大久保忠寛、板倉勝静らと交際があった( 『省斎年譜草案』1908平山成信編)。
 1860万延元年4月、甲府に出発。甲府にいる間も子弟を教えた。
 省斎の人となりは沈毅堅忍、倹素、人の危急を救うのに力を惜しまなかった。教え方も理解しやすいように丁寧に繰り返して説くといったふうで、教えを請う者が跡を絶たなかった。

 1862文久2年、江戸小普請入り江戸に帰る。箱館奉行支配組頭になり翌年函館へ。
 1865慶應1年、51歳。二ノ丸留守居外国御用となり江戸へ帰る。第二次長州征伐
 1866慶應2年、省斎は小笠原長行に従い小倉に赴く。この間、鍋島閑叟の求めで佐賀に赴き面会。7月、将軍家茂が戦い半ばで病没、幕府軍は引き揚げることに。小倉陣営の小笠原は夜陰に乗じて船で長崎へ向かった。省斎はこれを知らず昼夜兼行で急ぎ長崎へ向かう。着いてみると、小笠原らは既に江戸に帰った後だった。省斎はのちに
「余、世故を閲し難局に当たること多し、然れども苦心焦慮このときに過ぎたるはなし」(『明治百傑伝』千河岸貫一編1902青木嵩山堂)と語る。
 外国奉行に抜擢された省斎は8月、長崎から江戸へ出発。名も図書頭と改めた。

 1866慶應2年、朝鮮で布教をしていたフランスの宣教師と信徒が惨殺された。
 フランス東洋艦隊ローズ提督は艦隊をひきいて朝鮮に赴き攻撃を開始。朝鮮はこれに応戦、また厳寒の季節のためフランス側はいったん兵を引き揚げた。このフランス朝鮮戦争について朝鮮から幕府へ知らせがあり、フランス公使からも通知がきたので、幕府は仲裁をしつつ、もともと交際のある隣国朝鮮に西洋各国との交わりをすすめ、更に東洋に覇をとなえる下地にしようとした。
 1867慶応3年、幕府は平山図書頭、古賀謹一郎の使節派遣を決めた。省斎は若年寄兼外国総奉行に抜擢され、朝鮮との交渉を命ぜられた。ところがその時初めに記した、「イギリス兵殺傷事件」がおこり、平山は朝鮮に向かう前に、前述のように高知と長崎で事に当たらなければならなかった。

 さて、役目を果たした省斎は、対馬から朝鮮へ渡航するため11月品川を出帆、大阪に着き京に至った所で政変、徳川慶喜の大政奉還を知った。幕府役人平山省斎は御役御免、朝鮮への使節派遣は中止になった。

 1868明治元年、平山は官位剥奪の処分を受けて閉居していたが、まもなく徳川慶喜に従い静岡に移住。静岡では八幡村・西光院で子弟を教えた。
 1870明治3年正月、許されて東京にもどり、城北白山/北豊島郡に住み、素山道人と号した( 『偉人事績』1908福島県編)。
 1873明治6年、59歳。氷川神社大宮司、権中教正に補せられる。
 1876明治9年、氷川神社大宮司、日枝神社祠官を兼任。正七位に叙される。
 1879明治12年、大教正。大成教会を結成し、その教長と称す。これより国教を振張するため敬神愛国の道を説く。
 1884明治17年、70歳。神道総裁より大成教管長を申しつけられる。
 1889明治22年、佐久間象山贈位祝祭の斎主となる。その帰途、病にかかる。
 1890明治23年5月、前年の病が再発し76歳で没。上野公園谷中墓地に眠る。

   

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2014年5月17日 (土)

小説家・翻訳家壮志忘れず、二葉亭四迷

Photo  先日「今でしょ」の林修氏が、テレビで二葉亭四迷の「言文一致」について説明していた。見ながら染井霊園の落ち葉が吹溜まった二葉亭の何とも寂しげな墓石を見た日を思い出した。訪ねる人もなさそうだったのは二葉亭の文学が難しいのか、明治がよほど遠いのか。知識がないし判らない。この際、ちょっと見てみようか。でも、夏目漱石や森鷗外が口語訳で読まれる現代、およそ130年前の『浮雲』を読むのは難しそう。

 1887明治20年出版『浮雲』は、言文一致体といっても筆者には古文と同じ、注釈が必要。そこで『坪内逍遙/二葉亭四迷集』(新日本古典文学大系・明治編2002岩波書店)を借りた。この本なら詳しい注と挿絵に助けられ読めそう。そればかりか豊富な注(十川信介・校注)は、明治の世相を垣間見る手立てになり、歴史的の興味も満たされる。

 また、「小説のような二葉亭四迷/長谷川辰之助の生涯の輪郭」を、年譜(『政治小説/坪内逍遙/二葉亭四迷集』(現代日本文学大系1978筑摩書房)で記す。

 


 
 1864元治元年 江戸市ヶ谷合羽坂尾張藩上屋敷で生まれる。本名・長谷川辰之助。父は尾張藩士・長谷川吉数。
 上野戦争(戊辰戦争)後、諸藩引き払いとなり祖母らと名古屋に赴く。父は江戸に残り藩邸を守る。
 1869明治2年 野村秋足の塾で漢学、叔父に素読を学ぶ。このころ髷を結い帯刀。
 1875明治8年 父の任地・島根県松江へ。内村鱸香に漢学、松江変則中学校に通う。
 1878明治11年 15歳で上京。軍人志願で陸軍士官学校を受験、3年続けて不合格。
 1881明治14年 18歳。東京外国語学校露語科入学。寄宿舎に入る。

   20年来の友人・内田魯庵(評論家・小説家)は当時の二葉亭について

  <東亜の形勢を観望して遠大の志を立て、他日の極東の風雲を予期して舞台の役者の一人となろうとしてゐた・・・・・・それ故に軍人志望が空しくなると同時に外交官を志して露語科に入学した。二葉亭のロシア語は日露の衝突を予想しての国家存亡の場合に活躍する為の準備として修め・・・・・・死ぬまで国際問題を口にしたのは決して偶然ではない、青年時代からの血を湧かした希望であったのだ>(『おもひ出す人々』二葉亭四迷の一生)

 1885明治18年 父が非職(官吏の地位をそのまま職のみ免ず)となり両親と住む。

     <20代>

 1886明治19年 商業学校(のち一橋大。東京外国語学校が廃止され東京商業学校に合併)を退学。英人イーストレーキに英語を学ぶ。ツルゲーネフ「父と子」を部分訳。
 1887明治20年 24歳。『浮雲』第一編刊行、二葉手四迷と号した。翌年第二編。
 1889明治22年 内閣官報局雇員(高橋健三局長)。初め英語のちロシア語の新聞雑誌の翻訳をした。
  文学では生活できず苦境の二葉亭に翻訳官として官報局に斡旋してくれたのが、外国語学校の恩師・古河常一郎であった。夏から出仕、以後の数年は生活が保障され漸く安心して、文壇から縁を絶って読書に没頭することが出来た。
 1891明治24年 神田錦町の下宿を横山源之助(社会問題研究家)が訪ねてきた。彼は二葉亭、松原岩五郎らの影響をうけて社会問題に関心を持った。 
以下“―――部分”は、横山源之助著『凡人非凡人』(1911新潮社)より

―――長谷川君に会ってみると何もない4畳半の部屋できちんと座り・・・・・・どうかすると腕捲りをする癖があったようだが、どこ迄も穏やかで、丁寧で、その中に近づくべからざる威厳も備わっていた。僕はこの人が小説を書いた人かと、聊か案外にうたれた。

     <30代>

 1893明治26年 30歳。1月福井つねとの婚姻届、2月長男生まれる。

―――いつも長谷川君の家で落ち合ったのは、内田不知庵(魯庵)君であった。当時内田君はドストエフスキーの『罪と罰』を訳して、名声さくさくたる時で、長谷川君と口角泡を飛ばして、何か論じていたのを僕は傍で煙草を吹かしながら聞いていた。
・・・・・・その中に(明治27年)日清戦役の黒幕が落ちた。この時はもう理想に耽る長谷川君ではなかった。国際問題も出れば、生活難も出る、家庭の煩悶もでてきた。

 1896明治29年 つねと離婚。翻訳集『かた恋』(片恋、奇遇、あひびき)出版。二葉亭の訳文はいずれも推敲に推敲が重ねられており、美しい日本文体に昇華されている(『現代日本文学大事典』1965稲垣達郎)
 1897明治30年 ゴーゴリ「肖像画」、ツルゲーネフ「うき草」訳載。内閣官報局は自由の空気があり書生放談の下宿屋の雰囲気だったが、局長が替わり自由な空気は一掃され、恩師古河も辞め、二葉亭も辞職。
 1898明治31年 陸軍大学校露語科教授嘱託となったが辞め、海軍編修書記となる。
 1899明治32年 海軍編修書記を辞任、東京外国語学校教授に就任。
 1902明治35年 髙野りうと結婚。東京外国語学校を辞任。貿易商・徳永茂太郎のハルピン支店顧問としてハルピンに赴く。

 「ハルピンの私の写真館に、飄然と現れた奇人の中にロシア文学者二葉亭四迷(長谷川辰之助)氏がある。何の目的でハルピンに来たのかと訊ねても、いつも笑って答えなかった。徳永商店に滞在してブラブラと日を暮し、気が向けば私の写真館に遊びに来たまま一週間も泊り込み、写真館のお客を相手に自由なロシア語を操っていた。筆名の由来を訊ねると、親父が三文文士が大嫌いでね、貴様のような奴はくたばってしまえと」(石光真清著『曠野の花』1972龍星閣)

 二葉亭は各地を視察して北京への途中、ウラジオストックでのエスペランティストの会合に参加。10月、外国語学校の同窓の川島浪速・清国宮師警務学堂監督と会い、同学堂提調代理に就任。北京北城文司庁胡同警務学堂公館に住んだ。

      <40代>

 1903明治36年 40歳。警務学堂提調を辞任して帰朝。
 1904明治37年 日露戦争開始。大阪朝日新聞東京出張員となる。トルストイ『つつを枕』出版。

―――長谷川君が
「語学というのは恐ろしいもんだ。露西亜(ロシア)の事情は、皆目判らない癖に、露西亜の事となると、之はおれのにんむだというふ気がしてならない」といったのを覚えているが、おそらく君の心事を尽くしたものであろう・・・・・・その翻訳でも、対露問題でも、はたまたその生活でも、皆君の性格を領していた真面目を以て蔽はれていた。僕は真人長谷川辰之助君に最も服したのであった(明治42年横山源之助)。

 1905明治38年 二葉亭の原稿は細密であったが新聞向きではなく冷遇され、大阪朝日を退社しようとしたが、池辺三山(明治の三代記者の一人とも)の尽力でそのままとなった。
 1906明治39年 小説『其面影』を東京朝日に連載。亡命ポーランド革命家ビルスーツキーを知り援助、また亡命ロシア革命家らも援助した。
 1908明治41年 ロシアの新聞記者ダンチェンコが来遊、二葉亭は朝日を代表して方々案内した。ダンチェンコは朝日社長の村山や池辺に、二葉亭を特派記者として推奨し受け入れられた。二葉亭は6月、神戸から海路大連を経て、シベリア経由でペテルブルグへ赴く。

 1909明治42年 46歳。二葉亭は感冒から肺尖カタル、肺結核に冒され友人の説得により帰国を決意。4月入院先を出発、ベルリン、ロンドン、マルセイユ、スエズ、コロンボを経て日本へ帰航途上の5月10日、ベンガル湾上で死去、シンガポールの山腹で荼毘に附された。
 二葉亭終生の友人、内田魯庵は『二葉亭四迷の一生』を次のように結ぶ。

  一代の詩人の不幸なる最後にふさわしい極めて悲壮沈痛なる劇的光景であった。空しく壮図を抱いて中途にして幽冥に入る千秋の遺恨は死の瞬間まで悶えて死にきれなかったろうが、生中に小さい文壇の名を謳われて枯木の如く畳に朽ち果てるよりは、遠くヒマラヤの雪巓を観望する丘の上に燃ゆるが如き壮志を包んだ遺骸を赤道直下の熱風に吹かれつつ荼毘に委(い)したは誠に一代のヒーローに似合わしい終焉であった・・・・・・葬儀は染井墓地の信照庵に営まれた・・・・・・門生が誠意を込めて捧げた百日紅樹下に淋しく立てる墓標は池辺三山の奔放淋漓たる筆蹟にて墨黒々と麗しく二葉亭四迷之墓と勒せられた(中略)
 渠(かれ)は小説家ではなかったかも知れないが、渠れ自身の一生は実に小説であった。 

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2014年5月10日 (土)

続・日本種痘はじめ大野松斎 & 桑田立斎

              「大野松斎は長崎に行ったか」

 ―――松斎がまだ長崎で勉強をしてゐた時、どこで松斎の人格を知ったのか、ある日高島秋帆が松斎を呼んで、「今度オランダから牛痘の種痘が伝わりました。ついてはこの痘病を切らさず永く日本に残して人命を救いたいのです」(『日本種痘はじめ』鈴木三郎著p170)

 これで、シーボルトと関わりのある長崎町年寄・高島秋帆が松斎に
「長崎から江戸へ種痘の種、痘痂(かさぶた)を運ぶことを依頼した」のを知り<日本種痘はじめ、お芋の松斎先生>に記した。実は、引用しつつも松斎はいつ長崎に? 師は誰?と気になったが、他の資料が見つからなかった。その「気がかりに」コメントが寄せられた。右下コメント一覧、*温故堂氏をクリックしてください。精しい情報が得られます。
 

―――(温故堂氏コメント)松斎が長崎に留学したことは『近代名医一夕話』と『東京日日新聞』明治21年7月19日の記事に書かれていますが、ほかの史料で裏付ける確証がありません。いつごろ留学したかお分かりなら教えてください。

 お答え: 分かりません。読んでもらえたばかりかコメントまでいただき感謝しつつ資料を探しましたが見つかりませんでした。以下参考まで。

 シーボルト関連の著作や研究書、『シーボルト先生――その生涯及び功業』(呉秀三著・東洋文庫)、『江戸参府紀行』(シーボルト著・東洋文庫)、『シーボルト日記』(八坂書房)などで日本人をチェックするも、それらしい人物は見つけられなかった。『種痘伝来』(アン・ジャネッタ著・岩波書店)にも長崎関連で松斎の名はない。また、松斎の師・坪井信道は長崎で医術を学んでいないようで、この方面からの長崎行きはなさそう。
 ただし、長崎町年寄・高島秋帆は種痘の大切さをよく理解、普及にも熱心だった。そうした彼自身で、または蘭方医に頼まれて痘苗を輸入している。そんな事から手に入れた痘苗を江戸へ送る事を頼むことはありそうだが、資料がなく不明。

 高島秋帆と大野松斎の出会いを描いた『日本種痘はじめ』帝国教育会の出版、会は大日本教育会と国家教育社が合併して設立され、会長は近衛篤麿である。松斎は皇族方に種痘しているからその方面に経歴書がありそう。それに長崎で学んだと記されていたのだろうか?これも資料を見ていないから分からない。

 ところで、「松斎が長崎で種痘法を学ぶ」というのがネットにあった。

<谷中・桜木・上野公園路地ツアー/大野松斎 
http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/oonoSyousai.htm

―――はじめ久保田藩の藩医斎藤養達に医学を学ぶ。のち京都で新宮涼庭に、江戸で坪井誠軒に師事。のち、長崎でモンニッキに種痘法を学ぶ。・・・・・・ 養子に大野恒徳がいる。門人に秋田種痘医北島陳直・児玉弘愛がいる。

 モンニッキはおそらく出島のオランダ人医師、オットー・モーニッケ(モーニケとも)と思われる。記事の出典を知りたい。

 ちなみに、モーニッケは長崎通らの日本人3人の子どもたちに牛痘種痘を施している。モーニッケは種痘を日本にもたらすために、30年もの間苦労をして、やっと3人の中の一人に成功した。日本に種痘を広めるのに功績のあった人物である(『種痘伝来』)。

        「松斎は北海道に渡ったか」

  ―――桑田立斎と大野松斎は同門で、立斎が病で亡くなった後、松斎がよく志を継いで種痘に奔走した(1876明治9年『牛痘弁論』林義衛 述[他] (英蘭堂・島村利助蔵版)。

Photo    桑田立斎(くわたりゅうさい) 
    1811文化8~1868明治1。新潟越後の生れ。
 幕末の医師、桑田立斎は江戸深川で小児科を開業。モーニッケによって牛種痘が伝えられ、痘苗が江戸の佐賀藩主鍋島邸に到着すると、同邸および自邸で幼児らに接種。さらに書物を著し、錦絵風の引札をたくさん作ってその効果を宣伝した。
 写真: 桑田立斎『三済私話』1854嘉永7年刊挿絵(早稲田大学図書館・古書資料)

 ―――立斎は長崎遊学の機会はなく、おそらくオランダ語に堪能ではなかったであろうが・・・・・・彼自身天然痘にかかった子どもの治療経験を持っていたゆえに、ジェンナーの牛痘種痘の普及への貢献は際だつ(『種痘伝来』)。

 その立斎は1857安政4年、蝦夷地で痘瘡が流行した際、幕命をおびて門弟と苗児を伴い、幼児に種痘するリレー式で目的地に赴き、7千人に接種した。このとき、大野松斎も立斎と北海道に渡ったという石黒忠悳(いしぐろただのり)だが、資料は得られなかった。

 しかし、石黒忠悳のち軍医総監は、大野松斎が社長をつとめた種痘所積善社議員6名の筆頭に名がある(『種痘弁疑・続』)。そのことからして、松斎が北海道へ渡った話はそうかも知れないと思えるが、どうだろう。
 また、北海道へ種痘に赴いたとき立斎は46歳、松斎も行ったとすれば立斎より8歳下の38歳、門弟と思われ特に名を記されなかったのかも。
 なお、桑田立斎は明治維新後、種痘所が出来た年に死去、積善社人名表(56名)に名は無いが、その功績は伝えられている。
 

 余談。
  前出、『種痘弁疑・続』(1881島村利助)著者・阪本蕙墅は、原稿を携えて中村敬宇に序を乞いに行った帰り、飯田橋あたりで袂に入れた原稿を紛失してしまった。散々探し探し回った翌々日、無事に届けられた。市ヶ谷在住の若松県士族青山藤五郎という人物が、「種痘の書にして天下有用の術なれば」と届けてくれたのである。
 ちなみに、大野松斎の墓銘は中村正直(敬宇)撰。松斎の隣にある養子・大野恒徳の墓の撰文は石黒忠悳である。恒徳もまた種痘医として活躍し、日清戦争に軍医として従軍した。1899明治32年没。

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2014年5月 3日 (土)

武侠社: 押川春浪(愛媛県)・柳沼澤介(福島県)

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 プロ野球のテレビ観戦を楽しんでいる。東京ドームに応援に行くこともある。やはりナマは迫力があり、ホームランはもちろん野手の送球もカッコイイ。ただ勝負事だから負ける時もある。それも長時間かかって負けると損した気分、時間を返してもらいたいと思う。それにしても近ごろの野球人気、陰っているらしく、スカパーでないと始めから終わりまで観られない。
 ところで、野球が日本に入ってきた明治はなかなかの人気だった。2013.12.7記事「ベーブルースと会った河野安通志」にも書いたように、「野球は害毒」説がでるほど人気があった。それに反論し野球擁護にまわった明治の野球好きが河野安通志、そして早稲田野球部長・阿部磯雄、小説家・押川春浪らだった。

     押川春浪 1876明治9.3.21~1914大正3.11.16

 愛媛県松山生まれ。本名・方存。父は明治期のキリスト教教育家で東北学院を創立した押川方義である。
 春浪は仙台の宮城師範附属小学校に入学、その後上京して明治学院入学した。
 しかし、野球に熱中しすぎて勉強を怠り、父に東北学院に転学させされた。が、粗暴なため放校された。次に札幌農学校に入ったが、ここでも乱暴なためまたも追放された。父方義が、大隈重信と親しかったので、早大の前身、東京専門学校に入学した。

 この在学中に処女作「海底軍艦」を書き、単行本として出版し一躍名を知られた。
 春浪の冒険小説は日清戦争時の国運伸張の気運に乗じ、世に大いに迎えられた。この反響に春浪は次々の作品を発表、巌谷小波の推薦で博文館に入社、雑誌『冒険世界』の主筆となった。しかし、翌年二児を亡くし元気がなくなった。そのころ、学生野球人気の過熱に対し「東京朝日新聞」野球撲滅論キャンペーンがはられた。これに春浪らは真っ向から反論、『冒険世界』でも大々的に反論しようとして注意され、博文社に迷惑がかからぬようにと退社した。
 1909明治42年ごろ、野球好きの押川春浪を中心にはじまったチーム、天狗倶楽部のメンバー中に小杉方庵柳沼澤介がいた。天狗倶楽部の活動は、試合や宴会までも新聞記事になり、読者の注目を集めた。

 1912大正元年、押川春浪は友人、柳沼澤介・小杉方庵(未醒)らと、ナショナリズムとつながる少年文学雑誌『武侠世界』を創刊し活躍していたが、その2年後、風邪から肺炎になり38歳の若さで死去した。

    柳沼澤介 1888明治21・5.21~ ?

 福島県二本松生まれ。
 1904明治37年、16歳で出版社の興文社に入り、先代・長治郎に才能と手腕とを認められた。
 
 24歳の時、興文社を辞めて、押川春浪と武侠社を創立、『武侠世界』を発刊。
 当時は日本の進展期にあたり、東洋にも諸外国の植民政策が伸びてきていた。それに対抗して日本民族の生きよう伸びようとするロマンチックな夢は、春浪の冒険小説を読む青年たちの共感をそそったのである。この雑誌は一時期、高評を博したが、春浪没後、廃刊になった。
 武侠社は、昭和初期の円本時代を迎えて、雑誌『犯罪科学』や円本の『近代犯罪科学全集』 『性科学全集』を刊行。しかし、円本時代の終焉とともに武侠社は消滅したようだ。

 1905明治38年 近時画報社『婦人画報』を創刊した。国木田独歩が編集長をつとめ、翌39年、独歩社に改称。独歩の死後、東京社が継承したが経営状態はよくなかった。
 1931昭和6年、柳沼澤介は小杉放庵との関係もあり東京社の経営再建を引き受け、立て直し社長になった。この東京社は、現ハースト婦人画報社の前身であり、柳沼は1955昭和30年代まで経営していた。
 

 
 かつての勤務先、興文社にも相談役として関わり、興文社の「小学生全集」とアルス出版の「児童文庫」が販売でしのぎを削っている時、柳沼は采配をふるった。

 
 柳沼自身の著作、『飛行機の作り方』大正元年出版していたとあるが、この本を確かめられなかった。
 また 『日本出版大観』に次のようなエピソードがあるが、これも資料が見当たらない。
 第一次世界大戦中、ドイツ潜艦の出没が激しくなり、輸出入が途絶えると、大日本人造肥料会社の重役・平田初熊と共同で南洋方面に船を出し、一年半ほど冒険的事業に身を投じた。
 明治から昭和初期にかけての編集者だが人名辞典に掲載がなく、残念ながら詳しい履歴、死去の年代も分からない。

  武侠社の出版物は古書で出回っているのもあるよう。次に、近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/ )で読める武侠社の刊行物をあげておく。
 『犯罪科学全集』 『清水次郎長』 『日本共産党検挙秘史』 『忍術己来也』 『唐手・琉球拳法』 『性科学全集』

 参考: 『日本出版大観』1931出版タイムス社。 『現代日本文学大事典』1965.明治書院。

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