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2014年6月

2014年6月28日 (土)

二本松製糸場・金山(佐野)製糸場、佐野理八(福島県・宮城県)

           『大隈候昔日譚』――我国最初の製糸工場

 明治三年から四年にかけて、養蚕製糸と云ふこと、ソロソロ始まり、初めて上州富岡に製糸工場を造ったが、是れが日本で抑々初めての機械とりで、それまでは全で座繰りであったんである。
 続いて九年に丁度、大久保(利通)が内務卿で、頻りに産業を奨励して遂に王子に羅紗の製造所を造り、次で絹糸屑糸の紡績を始めるべく、中山道新町に工場を造ったが、これが抑々日本での絹糸の始まりである。(松枝保二編1922報知新聞社出版部)

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 2014年6月、「富岡製糸場と絹産業群遺産」の世界文化遺産登録が決定した。フランスの技術を活用した官営器械製糸場として設立された近代産業遺産である。器械製糸になり、富岡に限らず工場では多くの工女が働いた。
 工女というと「ああ野麦峠」(山本茂実)、若い女性の苛酷な労働を想像するが、富岡は模範工場として労働時間に配慮があったという。開国間もない日本にとって絹は重要な輸出品。
 養蚕は各地で行われていたから、洋式製糸機械を取り入れた製糸場が各地につくられるようになった。

 ―――本郡の如きも往年、繭をもって直に販売し且つ製糸の法も極めて幼稚にして、上州座繰台足踏製糸器などを用ゆるに過ぎざりしが、当局者、製糸改良の急務なるを認め製糸場の設立を促したり。商業者亦世運に鑑み、金山には佐野製糸場、角田には広岡製糸場の如き有力なる事業家をみるに至れり 
   (『伊具郡史』渡部義顕著1916渡部義美)。
 上州:群馬県。 伊具(いぐ)郡:宮城県南端、阿武隈川中流域と支流の内川・雉子尾川流域の郡。 金山:伊具郡丸森町金山。 角田(かくだ):宮城県南部。
 

  佐野製糸所の所主は佐野理八という人物で、はじめ二本松で事業を行っていた。
    図は、機械糸と座繰糸 (『生糸貿易之変遷』橋本十兵衛1902丸山社より)


        佐野理八  1844弘化元年2月~1915大正4年

 江洲(滋賀県)生まれ。十代で近江(滋賀県)の生糸商・殿村與左衛門の手代となる。
 佐野は機敏で16歳1860万延1年ころ、すでに横浜の海岸に停泊中の外国軍艦に赴き各国の金銀貨を調査している。勝海舟が咸臨丸でアメリカに向かった年である。

 次いで小野組に傭われ、糸方・古河市兵衛(のち足尾銅山経営)の下で奥州地方の糸方となる。小野組福島支店で宮城・坂田・山形・若松・米沢地方の業務を担当。やがて、安藤宇兵衛ら7名と蚕糸業を計画し、速見堅曹(1839~1913)を訪ね指導を受ける。速見は洋式器械製糸所「前橋藩営前橋製糸所」を設立、製糸業の礎を築いた人物である。佐野は速見に土地選択を依頼、その結果、二本松城址30町歩を値わずかで払下げを受けた。

  1870明治3年4月、佐野は直ちに、二本松城址周囲の大木を切り倒し小野組生糸製造所を建設した。しかし、経営は農家より座繰糸を集め「折返造」という新製法に改めさせ、品質向上を図り販売したが、なかなか浸透せず惨憺たるものであった。
 1872明治5年、奥羽の小野組総支配人となった佐野は、掛田村近傍の折返造を良しとして、折返器を千余組つくって各郡に配布した。折返は、糸筋細く品位はるかに良く、従来の製造法に勝った。この生糸を「掛田折返」と名付け海外に輸出したところ好評を得た。少女繰糸の図「五人娘」の商標で、横浜在留の外商と取引したのである。

 1873明治6年7月、佐野は、東京築地・小野組製糸場の工女を集めて二本松製糸会社を起こし、二本松製糸場長となった。これが奥羽七洲、器械製糸の始めである。
 1874明治7年、福島県から若干金、岩倉右大臣からも国益増進、士族授産の途を開いたなど金50円を下賜された。ところが一喜一憂は世のならい、11月小野組破産。

 小野組は近江出身、明治初年の政商。当主小野善助は三井組・島田組とともに明治政府の為替方で三井小野組合銀行(のち第一国立銀行)を創設。取扱官金の借入で東京築地他の製糸工場、鉱山経営など事業を拡大したが政府に官金を回収され島田組と共に破産。
 佐野はこれを好機と捉え、独力で佐野組を設けると、二本松製糸場経営に乗り出した。

 1876明治9年12月、アメリカ・ニューヨークに生糸を直輸出。初めて実地販売の利を得た。翌年7月、再試売、巨額の利益を得た。
 1877明治10年8月、東京上野の第一回内国勧業博覧会をはじめ横浜生糸共進会宮城県共進会宮城県および群馬県連合共進会などに生糸を出品、受賞した。
 ところが、製糸場使用の源泉である官林に杉・松苗の植林が行われ、製糸に欠かせない清水が濁り事業の継続が難しくなった。佐野は二本松製糸場を解散、山田修、安西清兵衛に譲渡した。双松館がそれである。二本松を去った佐野は、養蚕業がさかんで戸長の協力も得られた宮城県伊具郡金山村に製糸場を創立した。

 1884明治17年、製糸所の工事を開始。敷地は3710坪、釜数96、運転は水車を用いた蒸気機関、フランスで発明された最新の「ケンネル式」器械製糸機を設置した。
 1885明治18年、製糸所・弘栄館開業。館主佐野理八、所長橋本平兵衛。
「製糸の声価すこぶる信用在り、利益を得るに至ると雖も創業なお日浅くして全く利益を見る能わざるものの如し」(『各地製糸場実況取調書』1889福島県伊達郡役所)。

 1890明治23年、弘栄館を佐野製糸場(金山製糸場)と改める。製出糸は順良精好で、年間3000貫の生糸を生産、国内のみならず欧米にも知られた。また、200人余の工女を寄宿生活をさせた。工女は新潟・敦賀など遠隔地出身が多かった。
 1902明治35年、勲六等瑞宝章
 1915大正4年8月14日死去。72歳。

  なお、佐野没後の大正中期以降、世界的不況で県内の絹糸工場はいずれも著しい経営不振に陥る。佐野製糸場も休業や買収などを経て、1937昭和12年に閉鎖された。製糸場跡に隣接する瑞雲寺の境内の隅に、女工の墓が立つ。
  参考:
『日本製糸業の大勢:成功経歴』岩崎租堂編M39.12博学館 / 『宮城県の歴史散歩』2007山川出版社 / 『蚕糸要論』芳賀宇之吉1890只野龍治郎 / 『日本工業史』横井時冬1898吉川半七

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2014年6月21日 (土)

時は回る(西南戦争・自由党・立憲政友会)鵜飼節郎(岩手県)

 1877明治10年1月、鹿児島私学校生徒、政府移送の弾薬を奪取。注目される西郷隆盛の去就。西南戦争の発端、徴兵を忌避せぬよう人民に説諭する通達がだされた。5月、召募巡査で新撰旅団を編成。6月立志社片岡健吉、国会開設建白するも却下。

西南戦争の巡査隊応募に仙台・会津士族】(明治10.4.18東京日日新聞)

 征西のため新たに巡査(新撰旅団)を募られしは多く奥州辺の旧藩士族にて、中にももっとも多く召募になりしは仙台と会津なり・・・・・・このたびこそ国家のためかつは往時の恥を雪(すす)ぎ、また少しく鬱胸を晴らす処もあれば・・・・・・勇み励んで出立し、昼夜兼行して東京へ来たり、警視局へ着するや否や、一刻も早く戦地へ出張を仰付られたしと

     南部藩士・鵜飼節郎(うかいせつろう) その一

 西南戦争起こるや君、同士を糾合して率いて上京せり。警部補を命ぜられ小隊長心得を兼ね、新撰旅団の小隊引率の任に当たりすこぶる功あり
      (『岩手県国会議員候補者列伝-一名・撰挙便覧』1890菅原藤四郎編)
     その二
 1877明治10年2月15日、鹿児島で不平士族による西南戦争が勃発。明治政府は東北の旧藩士族から臨時巡査を募集、それを征伐にあてようとした。鵜飼は新撰旅団第八大隊第三中隊小隊長として上京。ちなみに同大隊のほとんどが旧盛岡藩士で構成されており、総員1200名,その中には旧藩家老・北済揖、安宅正路らも名を連ねていた。しかし西郷軍の撤退とともに戦争も終息に向かい、鵜飼らは従軍せずに解隊した
(盛岡市http://www.city.morioka.iwate.jp/moriokagaido/rekishi/senjin/

 最大の士族反乱、西南戦争は8ヶ月もの長きにわたり西郷隆盛自刃で終る。その間、新聞は発行部数を伸ばし言論活動が活発になった。国会開設運動の全国組織として国会期成同盟が結成され、これを中心に自由党が生まれる。
 1881明治14年10月、自由党結成。自由民権運動の中核的政党総理は板垣退助、常議員後藤象二郎鵜飼節郎は幹部となり河野広中らと提携。
 1882明治15年、自由党盛岡支部が設けられ、鵜飼は委員として自由党の拡張をはかった。その鵜飼の演説ぶりは、
 ―――長江大河のごとき雄弁をもって演説壇上に立ち、眼光明々として侃諤(かんがく)の正義を主張し、常に生民を拯(すく)ふて平和幸福の域に躋(のぼ)らしめんと努るものは誰、人皆指を君に屈せざるはなし」と。
 

         鵜飼節郎 1856安政3年5月~1931昭和6年

Photo 父は盛岡藩士・鵜飼徳治。盛岡大沢川原に生る。

 1870明治3年、南部藩は70万両の献金に窮し廃藩を願い出た結果、盛岡藩となる。
 1871明治4年の15歳頃? 藩学校・作人館で学ぶ。藩校の同い年に原敬、*鈴木舎定がいる。
 前田連山著『原敬伝』によれば、原は1871明治4年末に上京している。鵜飼もそのころ盛岡を離れたかも、東京で法律経済など諸学科を修めた。
  *鈴木舎定: 1856安政3~1884明治17 盛岡藩士。中村敬宇の同人社で学ぶ。自由民権運動へ参加、舎定は岩手県における中心的な存在「求我社」で指導的役割を担い、機関紙「盛岡新誌」の主筆として自由民権運動への参加を呼びかけた。

 1877明治10年、西南戦争。
 1878明治11年、鵜飼は盛岡に帰り鈴木舎定らと民権伸張をはかる。栃内鉱郎・横浜慶郎・上田農夫らと自由民権運動結社「求我社」の再興、併せて「盛岡新誌」の再興に尽力する。 
 「盛岡新誌」編集発行は坂本安孝(1856~1917)、後に第九十銀行頭取、「岩手日々新聞」(のち岩手日報)社主など歴任。

 1884明治17年、加波山事件、秩父事件。10月、大阪で自由党大会開催、自由党解党。鵜飼も大阪に会合した。
 帰郷後、盛岡に臥せること3年
 ―――何トナク政海ヲ蝉脱(せんだつ、俗世間を超越)シ、深ク自ラ韜晦・・・・・・然レドモ (明治20年)*条約改正の議オコルヤ決然トシテ、非条約論ヲ唱エ、熱心ニ反対党ヲ攻撃(『岩手県国会議員列伝:私撰投票』1889村上繁次郞著)
  *条約改正: 幕府が締結した不平等条約を改正するための明治政府の外交交渉。

  『原敬日記』参照

 1901明治34年10月、原敬、盛岡に帰る。晩に政友会の有志者の鵜飼節郎、宮杜孝一等数名に招かれて、晩餐をともにし懇談した。来るべき選挙のため、政友会支部創立事務所に行き、いろいろ話や指示をした。
 1902明治35年6月10日 選挙運動、演説会盛会。
 藤沢座という芝居小屋で、政談演説会を開らく。宮杜考一、横浜幾慶(前出慶郎?)、與野市次郎、関皆治、菅原博と私が演説した。午後1時の開会なのに定刻前に満席になり総数1200名ほ どで、その他は入場する事ができなかった。
 6月14日相手が弱気。
 政友会岩手支部で選挙委員等が、私(原)を盛岡市から、佐藤昌蔵、鵜飼節郎、平田箴、阿部徳三郎、拾本與右衛門を郡部から政友会議員候補者に推薦したので、鵜飼、佐藤及び私が会って(他は欠席)、候補者会を開らいて種々の打合せをした。
 8月、第7回衆議院議員選挙、立憲政友会の原敬(盛岡)と鵜飼節郎(郡部四)当選。
 1903明治36年、第8回選挙もともに出馬当選。

 晩年の鵜飼は元老として、原敬亡き後の県政友会をまとめ、田子一民(たごいちみん 昭和の内務官僚・衆議院議員)らの後ろ盾となった。鵜飼の晩年の生活は清貧だった。
 その床の間には自筆の「清貧如洗」が掲げられており、盛岡市長を務めた北田親氏も“常に何事に対しても物質に拘泥せぬ気象(ママ)であったと記者に述べている(前出盛岡市HPより、写真も)

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2014年6月14日 (土)

明治・大正、屈指の地方紙を築き上げた一力健治郞(宮城県)

 東北新聞創刊: 須田平左衛門 明治10.5.25 獄中ニ自刃38歳 愚鈍院。
 東北新聞社長: 松田常吉 明治36.7.1没 61歳 龍泉院。
 東華新聞社長: 小野平一郎 宮城県会議長 大正10.3.22没 真福寺。
 仙台日々新聞社長: 小原保固 昭和4.1.25没 70歳 満勝寺。
 河北新報社長: 一力健治郞 昭和4.11.5没 64歳 従五位 成覚寺。  
                    (『仙台郷土誌』1933 仙台市教育会編)

 宮城県士族・須田平左衛門・水科貞吉ら、養賢堂の内聖廟の傍らを借りて活版事業を創始し多少の変革を経て新聞紙を発行・・・・・・東北の眼目、朝野新聞に次ぐの良新紙と
                   (『宮城之栞』1888庄子正光)
 1874明治7年、須田平左衛門『東北新聞』創刊。当初、県の仕事を中心に印刷業をはじめたが、次第に「東北新聞」が権力と対抗する姿勢となり、1887明治10年獄中にて自刃、謎の自殺を遂げた。藩閥政府への対抗意識が「東北」を選ばせたよう
   ([新聞雑誌名「東北」にみる明治期の東北地域感]岩手大学教育学部研究年報57巻2号)

 ちなみに、須田平左衛門が何で牢に入れられたのか判らないが、讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例による言論取締りは地方紙も例外ではなかった。

 明治初期、社会は激しく変わりつつあり地方は孤立分散的だったから住民のニュースへの要求が生じてきた。まず、旧幕府時代からの政治経済の中心地に1871明治4年『京都新聞』、『新潟新聞』などが発刊、宮城県は1874明治7年『東北新聞』が創刊された。
 『河北新報』(仙台市三番町170番地)は、1897明治30年発刊。創刊者一力健治郞いちりきけんじろう)は、1942昭和17年まで長きにわたり個人経営で事業を継続、東北宮城・岩手・福島・青森・山形で有力な地方紙に仕上げた。その人物、経歴は次のようである。

       一力健治郞 1863文久3年9月25日~1929昭和4年11 月4 日

 仙台の唐物商・鈴木作兵衛の四男として生まれ、隣家の茶商・一力松治郎の養嗣子。
  唐物商: 中国または諸外国からの洋品、雑貨などを扱う商売。

 1886明治19年4月、東華学校入学。
  東華学校。仙台区清水小路。明治19年創立。普通学科は修身・漢学・英語・ドイツ語・地理・歴史・数学・体操など。入学資格12歳以上。校長は新島襄。
 1888明治21年、第二高等中学校入学。在学中に、くまじ夫人との間に一男一女をもうける。
  第二高等中学校(のち第二高等学校)。1887明治20年4月高等中学校設置区域第2区内(宮城・福島・岩手・青森・山形・秋田)の仙台に設置された。

 1890明治23年、退学。上京して国民英学会(東京神田錦町、主幹・磯邊弥一郎)入学。

 1891明治24年、仙台に帰り、書籍店文学館を開業。同年、仙台電気株式会社取締役に当選。
 1892明治25年、仙台市会議員に当選。
 1893明治26年2月、仙台電気株式会社取締役辞職。12月、宮城貯蓄植林会社取締役兼社長に就任。組織変更にあたり基礎を確立。
 1894明治27年、宮城県議会議員に当選。4月、仙台米穀取引所理事に当選。
 1895明治28年、仙台市議会議員に再選。

 1897明治30年1月、藤沢幾之輔(改進党・宮城県議会議長)の勧めにより、廃刊寸前の改進党機関紙「東北日報」を譲り受け『河北新報』創刊。
 明治維新の際に薩長から「白河以北一山百文」(白河の関、現・福島県白河市)より北は、山一つ百文の価値しかない)と蔑まれた東北の意地を見せるべく「河北」と改題。東北地方の文化振興を旗印にその発展を図り、1908東北ではじめてマリノニ輪転機を導入、写真製整備の設置、活字鋳造の開始等すべて地方新聞のトップを切って最も早く行った(インターネットWikipediaほか)。

 1898明治31年、米穀取引所・植林会社・市会議員など辞す。
 1906明治39年4月、日露戦役の功により金杯一個下賜される。
 1923大正12年、夕刊を発行。続いて岩手・福島・磐城の三地方版を発行。
 1925大正14年10月、特別大演習のさい仙台偕行社において文化事業功労者として単独拝謁。
 1926大正15年8月、日本新聞協会名誉会員に推薦さる。
 1929昭和4年4月5日、死去。

 1930昭和5年、河北新報社は、青森版を新設して北は津軽海峡より南は白河勿来の関に至る東北全土は、河北新報の範囲となった。販売区域は北は北海道より南は栃木・茨城まで拡大、宮城県においては山間僻地の戸外まで分布した。また、子息一力次郎が後を継ぎ、1942昭和17年会社経営になった。

 一力健治郞は新聞の発行に当たり、「藩閥政治によって無視されてきた東北の産業・文化の開発に尽くすことだ」と不偏不党を宣言、自ら議員などいっさいの役職を辞して新聞に力を注いだ。経営戦術は独特なもので、99 年6 月から地方紙初の英文欄を設け、文芸、家庭欄を充実、
 1900明治33年1 月9 日「社会は活動して1 日も休止することなし」と年中無休刊を宣言、生涯実行した。先見性あるユニークな着想で、人気投票や福引、種々の催しものなどに力を入れて読者を獲得したほか、広告を重視し、とくに中央の広告主を大事にした。
 社員に対してはワンマンだったが、人情味に厚く「時間励行訓」を編集局員に配布し“新聞即時間”をモットーに、時計の購入に半額補助したり、出勤の遅い社員には迎えに行ったなど逸話に事欠かない温情の人として慕われた。
 死の前年、叙位叙勲の話があったが、河北新報は社会公益の機関で産業文化に何か見るべきものがあったとすればそれは全東北人の覚醒と団結によるもので一個人の努力ではないと、辞退したという。
          (日本新聞博物館「日本の新聞人」「続・日本の新聞人」  http://newspark.jp/newspark/works/shinbunjin/pdf/b_37.pdf

 一力健治郞は死後、生前辞退した従五位に叙せられた。国立公文書館「故一力健治郞位記追賜ノ件」には、内閣総理大臣浜口雄幸・宮城県知事湯沢三知男・内務大臣安達謙蔵の名があり、昭和初期の雰囲気が漂う。叙されたのは周囲からより時代の要請か。

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2014年6月 7日 (土)

 明治の小説家・翻訳家、若松賤子(福島県)

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 「小公子」(明治24.11.5)の広告が出ているが、若松賤子の名を出さないで、「巌本善治妻訳」としてあるのが、異様に感ぜられる。
(『明治東京逸聞史』森銑三著・東洋文庫)

  * 巌本善治(いわもとよしはる): 明治・大正期のキリスト教女史教育者。中村正直(敬宇)・津田仙に学ぶ。『女学新誌』(のち女学雑誌)創刊。女子教育の振興・一夫一婦制・廃娼を主張。その門下から大塚楠緒子、羽仁もと子らがでている。
  * 森銑三(もりせんぞう): 大正・昭和期の日本文学者・書誌学者。


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 左の内容は以下であるが、ペンネームの若松賤子でなく結婚後の姓名で載せ、『小公子』などの作品名を挙げず、「その志は常に家庭改良にあり」と記す。

 巌本嘉志子 女文士

 旧会津藩重臣島田勝次郎の長女にして雅名若松賤子、元治元年二月岩代若松に生る 後母を喪ひ東京の人大川甚兵衛に養はれて 次て米国ミラー嬢に頼り明治十年横浜フェリス女学校を卒業 助教諭として声明あり遂に英文学の蘊奥を究め兼ねて和文の才に長す 其志常に我邦家庭改良に在り 是を以て文皆清雅穏健実に文壇の一異彩たり 二十年明治女学校長、*女学雑誌社社長巌本善治に嫁し 二九年二月十日肺患を以て没す年三十三染井に葬る(湯谷紫苑)
  * 女学雑誌: キリスト教を基盤に女性の教養と女権意識を高めようとしたのが評判をよんだ。巌本は24号から「持主兼編集人」として「女学雑誌」を担い、内容は政治社会、海外情報の多方面におよんだ。途中から文芸色を強め、北村透谷・島崎藤村など多くの俊才がここから巣立った。

 

         若松賤子(わかまつしずこ)

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 本名・松川甲子(かし)、父が会津藩主・松平容保の下で公用人物書(隠密)役として仮名を使ったので、幼少時は島田かし子と称した。
 1864元治1年、福島県会津若松市阿弥陀町6生まれ。
 1870明治3年、生母28歳が病没。賤子は、商用で会津を訪れていた横浜の織物商山城屋(野村)の番頭、大川甚平の養女となり、横浜に伴われアメリカ人から英語とキリスト教の教育をうけた。
 8歳でミス・キダー(のちミセス・ミラー)の学校(のちフェリス学院)に入学。ミッションスクールで宣教師の教育を受け、典型的なプロテスタントとしての教養を身につけた。

 
 1882明治15年、フェリス和英女学校高等科第1回卒業生として卒業。成績抜群であったので、ただちに同校の助教となり長く教鞭をとった。英語で寝言をいうほどの語学力であったという。
 1886明治19年、母校の教壇に立つ傍ら『女学雑誌』に寄稿、「旧き都のつと」を若松賤の筆名で初めて発表、以後、「木村とう子を弔ふ英詩」「世渡りの歌」(ロングフェロー)等を訳した。
 1887明治20年に喀血、以来肺結核は徐々に進行。

 1888明治21年夏、賤子は巌本善治がフェリスの試験委員をしていた関係もあって交際がはじまり、恩師ミラー夫人が奨める縁談を断って婚約した。当時のいきさつを相馬黒光が『明治期の三女性』(1940厚生閣)に書いている。
 1889明治22年7月、*中島信行・*湘煙夫妻の立ち会いのもとに横浜海岸協会で結婚。湘煙とは彼女がフェリスに漢文教師として赴任して以来、親しく交際していた。
  *中島信行: 海援隊を統率。維新後は神奈川県令、自由民権運動にかかわり自由党副総理。
  *中島湘煙: なかじましょうえん(岸田俊子)宮中女官から転身した自由民権家。

 結婚後、賤子はフェリスを退職、執筆活動に本格的にのりだし、アデレード・アン・ブロクターの英詩に取り組み翻案、自然な口語体による『忘れ形見』を完成させた。『忘れ形見』全文と原詩“THE SAILOR BOY”は「新日本古典文学大系・明治編『女性作家集』岩波書店」で読める。
 他にも、創作「お向こふの離れ」、翻訳「イノックアーデン物語」(テニスン)を発表。

 1890明治23年、長女清子出産。
 「小公子」を女学雑誌に翻訳連載し、森田思軒(ジャーナリスト・文学者)らに傑作として賞賛を受け、文名を不朽のものにした。挿絵入り『小公子』(文末に写真)は、旧仮名遣いとはいえ、やさしい語り口で120年以上も昔の作品とは思えない。明治文学全集『女学雑誌・文学界集』若松賤子篇(筑摩書房)で読むと、原作原文をすっかりのみ込んで、日本語に翻訳しているのが判る。よほど文学の素養、手腕があったよう。
 賤子の文学は、樋口一葉「この子」押川春浪「海底軍艦」、その他後の少年文学に影響を与えた。

 1891明治24年、長男荘民出産。 1894明治27年、次女民子出産。家庭生活の中で、翻案小説のみならず、童話、評論など数多くの仕事が生み出されたが、賤子は幼い3人の子どもたちを残して、その生を終えた。

 ―――女史は死に臨んで慫慂としてとして、敬愛なる夫君に臨終の想ひを語りました。

「私には人に話すようなものは何もない、ただ一生の恩寵を感謝してただけです」
 それ故自分の死後にどうか伝記などは書かずにおいてもらひたいと。遺言は守られて、葬式は内輪の人のみで静かに営まれ、城北染井の墓地にとこしへの憩ひの場所を与えられました。墓石にはただ「賤子」と彫りつけたばかりであります(『明治期の三女性』より)。

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