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2014年7月

2014年7月26日 (土)

愛の林檎/蕃茄(あかなす・トマト)

―――蕃茄(あかなす)は外名をトマトといい西洋の野菜でありまして其身はいろいろな調理に用いられます。果の皮面に光沢があって熟する時は真紅となり、外観甚だ美麗で夏分暑い時などに是を見ますれば、涼しさを覚へしめ大いに心身を慰め鑑賞兼実理のある野菜であります。
 この赤茄子は本邦に去来して未だ日が浅いからであろうが、西洋臭い匂ひがありますから一般に栽培せられず、食馴れぬからその甘美な眞味が判らぬのであります。
 然し3、4回も食べますれば追々風味を覚え、食べれば食べるほど味がよくなり、西瓜(すいか)や甜瓜(まくわ)を食べるようにうまくなります
                    (『各種野菜調理法』大正6年日本種苗株)。 

 今夏は猛暑にくわえて激しい雨にも祟られキツイ。それに負けない体力作りに食欲を落とさないようにしないと。夏は凝った料理より、冷や奴、冷えたトマトの丸かじりなど素材そのままの方が食べやすい。トマトは調理してもよく、およそ百年前の『各種野菜調理法』にも蕃茄(トマト)の項があり、様々な調理法が載っている。ジャム・ソースはいいが、トマトの酢煮・塩漬・味噌漬・酒粕漬の方は試してみようと思わない。
 夏野菜の胡瓜(きゅうり) 、朝漬・塩漬・青漬・乾物漬、糸瓜(へちま)の・塩漬・粕漬などなど、冷蔵庫の普及が未だしの頃昔は「漬けて保存」だったよう。糸瓜の田楽も載ってたけど、おいしいのかな。

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 写真のトマトはポンデローザーという品種で他にアリム・クリムソンカッション・テーブルクウヰンが有名と1925大正14『実験栽培蔬菜園芸』(蒿山房)にある。
 ところが、『福島県農友叢書(園芸編)』(1942福島県農事講習同窓会)にある9品種をみると、前出のは一つもない。トマトの品種は多く、栽培品種は時代とともに変化してるのが分かる。

さて、トマトの初めは

 ――― 南米ペルーの原産で今より300年前栽培され、欧州は100年前、我が国は *紀元2369年宝永頃(1704~)出版の『大和本草』に「あかなす」唐柿、さんごじゆなす、等の名を以て蕃茄(ばんか)を説明あれど不明瞭。
 広く世に知れ又栽培せられる様になったのは明治年代、殊に近年(大正)のこと
                     (『重要薬草栽培と其販売方法』1918殖産協会出版部)
紀元: 一国の経過した年を計算する際の起点となる年。日本紀元は「日本書紀」の神武天皇即位のB.C.660年にあたる辛酉の年を紀元とするが、これは聖徳太子が601(推古9)から1260年さかのぼらせて定めたものといわれ、科学的根拠はまったくなく、江戸時代すでに本居宣長らが疑問を出している。1872明治5年の太政官布告でそれを日本紀元と定め、以来第二次大戦終結まで公式に用いられた(『日本史辞典』角川書店)。

 ――― 日本に渡来したのは明治の初年である。在留の欧米人が故国からその苗を輸入し栽培、それと同時に一般的に輸入されるようになつた。しかし当時は見なれないもので、誰も進んで食べようとはしなかつた。
 その後、信州の軽井沢で、避暑に来る外国人に目をつけ利に敏い人が栽培に手をつけはじめた。漸く食前に上るようになつたのは明治27、8年頃から・・・・・・ 一度味を占めるととても忘れることが出来ない。殊にこの美しい色彩の魅力、それは「愛の林檎」といふ異名までつけられるようになつた。
次は<文学上のトマト>                                 
   赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みたり    斎藤茂吉  
                                 
   板敷きにトマトころがれり白玉のきゃべぢの露にトマトぬれつつ  吉植庄亮

   蕃茄の色づくまでの淫雨かな  鬼憐

  農園に入ればトマトの赤き哉  崇山
                            (『蔬果と芸術』金井紫雲1933芸艸堂)

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2014年7月19日 (土)

五稜郭で戦う赤衣の額兵隊隊長、星恂太郎(宮城県)

     星恂太郎  1840天保11~1876明治9年

 東照宮宮仕・星道栄の子。名は忠狂。字は士狷。号は無外。
 幕末維新期の仙台藩士・星恂太郎は、性格激しく、狂暴という者さえあった。よく呑み、酔えば音吐朗々詩を吟じ、人は耳を傾けた。
 時は幕末、はじめ攘夷論をとなえ、開国論者の大槻盤渓(洋学者・砲術家)を国賊とみなし刺そうとした。しかし、会って、その説くところを理解し、たちまち開国論に傾いた。
 
 1864元治1年、恂太郎は江戸に奔り、幕臣の西洋砲術家に学んだ。次いで各藩の兵備を見たく、その費用を同じ仙台藩士・富田鉄之助(当ブログ2013.3.30剛毅清廉の実業家)に相談して得ると、四方へ出張した。
 次ぎに横浜に赴き、兵学、砲術を学んだ。その傍ら衣食の為、ヴァンリードというアメリカ商人の店で働いた。この店は、各藩に鉄砲などを売りこんでいた。

     高橋是清(のち首相・政友会総裁)の星恂太郎談

 ところで、このヴァンリードが恂太郎の紹介で、仙台藩からアメリカ留学に派遣される高橋是清らの面倒を見ることになった。しかしヴァンリードは信用を裏切り、藩から渡された学費や滞在費用を着服してしまった。そのため、高橋是清はアメリカに渡ってから奴隷に売られたり、苦労するハメに陥ったのである(『是清翁遺訓』1936)。

 1868明治元年、恂太郎は藩に帰ると、若者千余人を集め、赤装束を着せ、額兵隊と名付けこれを訓練した。いよいよ戊辰戦争となり東北に官軍が進出してきた。仙台藩は戦いの準備、額兵隊も出征すべく武器を整えた折しも、奥羽列藩同盟が瓦解した。すると、藩論は一変、官軍に謝罪謹慎、恭順となった。
 出兵を止められた恂太郎は憤慨、藩に背いて額兵隊250名を率いて脱藩。艦船を率い松島湾に停泊していた榎本武揚の元に奔り、共に北海道を目指した。
 北海道では額兵隊長として各所に奮戦、箱館五稜郭では土方歳三に属し戦った。木古内口の戦闘でもっともよく戦ったのは額兵隊である。

 恂太郎は砲台で指揮していたが、砲車が粉砕されると自ら銃をとって発射した。しかし弾丸尽き退却。建設時には海岸から遠く離れ、砲爆には絶対安全な場所と築かれた五稜郭ではあったが、兵器の発達はめざましく、兵士は不安から脱走するものが相次いだ。
 官軍はしきりに降伏をすすめ、酒五樽を寄越した。これに榎本は
「糧食弾薬の類はあえて望まぬ、ただ賜る処の酒は喜んで酌まん」。
 ところが、毒を疑って官軍の酒を飲もうとする者がない。恂太郎は笑いながら、
「窮余の我に対していかでか毒を盛らん、安んじて酒を酌むべし」と、樽の鏡を割り椀に酒を汲んだ。これを見て諸将は争って飲んだ(『近世名将言行録』1935吉川弘文館)。

 1869明治2年5月、五稜郭ついに陥落。
 ちなみに、榎本に降伏をすすめたのは官軍の海軍参謀、恂太郎の旧知・黒田清隆である。降伏した榎本らは東京に護送され、星は弘前藩に幽閉された。
 1870明治3年、許された恂太郎は北海道に住む。

    林董(のち外相)の星恂太郎記

 仙台藩に赤衣を着たる歩兵ありて額兵隊と称し、その隊長を星恂太郎と云ふ。
 仙台藩すでに降服の後、隊を率いて脱走の船に赴かんとしたるも老母ありて、その看護を託する者なきに困却したるが、某の女この事を聞き、自ら進んで星に嫁し老母の扶助を引き受けたるにより、星はその志を告げる遂ぐることを得たり。
 後に脱走の徒恩赦ありたる後、子を挙げたりと聞く。恂太郎死後、頗る窮境に陥りたるを榎本等久しく扶助しおりたる(『後は昔の記』林董1910)。

 1871明治4年、政府は札幌に開拓使庁をおく。恂太郎は製塩業が有利だとして開拓使に建白、開拓使出仕(開拓使権大主典)となった。そして、北海道南西部の後志(しりべし)国岩内郡堀株製塩場詰を命ぜられた。
 1872明治5年、千葉県行徳の民を雇い堀株村にて塩を煮、製塩をはじめた。しかし、製塩業の利益がなく開拓使は廃止を決定、恂太郎も免官となった。そこで、恂太郎は自ら事業を立ち上げようとしたが、病にかかり仙台へ帰った(『北海道史人名字彙』1979)。
 明治9年7月27日、病は癒えず37歳の若さで没。墓は仙台市北六番丁萬日堂に。

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2014年7月12日 (土)

明治最初の女流作家、三宅花圃(田辺竜子)

 いつか或る雑誌に、私と樋口一葉女史とが仲が悪いように書いてあった。それは、大変事実に相違しているが、元はと云ふと、私の実家が貧乏だった事から起きた話である。
・・・・・・ある日、一葉女史(夏子)が、中島先生のお弟子に分けてあげる筆の代が、毎月二円くらい不足するので、先生が私を疑つて困ると云うて、泣き込んできたことがあつた。ところが、こちらは、今にも執達吏が来るだらうといふ、そんなとり込んだ時なので、せっかく夏ちやんが来たけれど、案内することが出来ず、私が玄関に立ちふさがって、上って泣きくどかうと思つて来た夏ちやんを、押しとめた。
 「そんな事、なんでもないではないの。あなたにさえやましい事がなければ、すまして居ればいいではないの。疑はれるなど思ふのは間違ひよ」
といふと、夏ちやんは
 「だつて、私が貧乏だから疑われるの。また、疑はれても無理がないと思ふの」  

                     (『貧乏を征服した人々』帆刈芳之助著1939泰文館)

 引用文の「私」は、三宅雪嶺夫人、女流作家として明治時代その名を馳せた三宅花圃。父は幕臣で外交官の田辺太一徳川昭武遣欧使節の随員としてパリ万博に出席。維新後は岩倉遣外使節団書記官長、元老院議官などを歴任した。
 その家が貧乏とは意外だが、花圃と一葉の貧乏はまるで違う。花圃の貧乏はのち思い出話にかわるが、一葉の貧乏は名作を生み、命を縮めた。一葉は萩の舎の助教をしていたから、借金の話はその頃の事だろう。

       三宅花圃 1868明治1~1943昭和18年

 田辺太一(連舟)の長女、兄二人。東京本所に生まれた。本名・田辺たつ子。
 子どもの頃から、近所にあった中島歌子萩の舎塾に通い和歌を学んだ。後年、妹弟子の樋口一葉とともに萩の舎の才媛と称される。

 1876明治9年、跡見花蹊の塾に通学。テニスなどの運動の代わりに身体を動かすため、50畳敷きの部屋でオルガンの代わりに三味線で音頭をした。当時、花圃は兄たちと木登りなどして遊び活発だったが、本を読むのが好き。また、落語三題噺を作って自ら楽しんだりもした。父が派手に遊び、家に芸妓が出入りするような家だったが、母は表に出ず、家を守った。花圃は男のように育てられ、大人になっても男子の前で恥ずかしがったりしなかった。
 跡見花蹊の塾に数年、その後は家で和漢の学を修めた。絵を奇行に富んだ酒豪の浮世絵師・河鍋暁斎に習った。琴は山勢松韻、三味線は杵谷お六を家に呼んで稽古した。

 1881明治14年、13歳の花圃は庭前の梅を見、清国臨時代理公使で赴任中の父に一首送った。

       とつ国の春日やいかに長からん 見せまくほしき庭の梅が枝

 1885明治18年、神田一橋の東京高等女学校(お茶の水)入学。 理科、数学を習うため下級クラスに入ったが、英語は上級に入れられ、神田乃武(かんだないぶ・英学者)の教を受けたが、実力がなく苦労した。

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 1888明治21年6月、在学中、『藪の鶯』を発表。
 図は「藪の鶯」挿絵。
 序を寄せた福地源一郎は父・太一の元に出入りしていた政治評論家。

 ―――『藪の鶯』は中編小説で花圃の出世作。坪内逍遙(春の屋主人)の『当世書生気質』に刺激されて書いた。当時、家産が傾いていたのを助けようとしたのも製作動機の一つ。
 物語は、西洋かぶれ子爵篠原の女浜子の堕落と、浜子の許婚・勤の妻となる松島秀子とを対照して、伝統的な婦徳尊重の立場から欧化思想を批判し、勤がワシントンよりフランクリンを敬慕し、秀子の弟が土木業で名士となるあたりに、啓蒙思想が反映している
       (『現代日本文学事典:関良一』1965明治書院)。

 ―――『藪の鶯』作りました当時、私の家は、昨日の繁栄は夢のような不如意になりまして、(イギリスで病没した)兄の法会さへも思ふにまかせませんで居りました時、私は病中に筆をとりましたのです。漸うようそれで事足りたのでございます
      (『名媛の学生時代』1907読売新聞社)。

 この頃、西洋流行のときで舞踏が流行し、女学校は文部相直轄であったので、毎週舞踏会があり、貴族や軍人も出席した。
 1889明治22年、皇后陛下の行啓があり、『藪の鶯』を書いた生徒として目通りした。
 ―――私の一生の有難い思い出で、その時は嬉し涙に咽びました(同上)。
 

  同年3月、東京高等女学校卒業。卒業後、明治女学校で英語を学ぶ。
  8月、「東京開市三百年祭」(委員長・榎本武揚)があったとき、横山孫一郎などに頼まれて[八朔祭]の歌を作って清元にし、それを吉原芸者が歌って踊り喝采を拍した。また横笛の曲を作り長唄にした。
   (『明治閨秀美譚:小説家当選者田辺竜子』1892東京堂/『名媛と筆蹟』中村秋人1909博文館)

 1890明治23年、「芦の一ふし」 「八重桜」 「教草おだまき物語」などを『女学雑誌』『都の花』『読売新聞』などに発表
 1892明治25年、短編小説集『みだれ咲』刊行。この年、花圃は*三宅雪嶺と挙式。媒酌は、『女学雑誌』主宰の巌本善治・*若松賤子夫妻。のち5人の子をもうける。

 * 三宅雪嶺: 本名・雄二郎。ジャーナリスト・評論家。政府の専制的傾向と欧化主義に批判的立場、明治21年政教社を創立。『日本人』創刊、国粋主義を主張。
 * 若松賤子: 当ブログ2014.6.7――明治の小説家・翻訳家、若松賤子――

 1893明治26年、花圃は『文学界』創刊に関与し、萩の舎の後輩・樋口一葉を寄稿家として推薦。花圃は一葉の創作意欲を刺激し文壇に紹介したが、晩年の回想録には、一葉に対する辛辣な批判が見える。
 1894明治27年、家門をひらいて和歌を教授したが、内助の功的なものであった。

 1895明治28年12月、博文館『文芸倶楽部・臨時増刊号:閨秀小説』をみると
 ―――はしがき/中島歌子、萩桔梗/花圃女史、わすれがたみ/若松賤子、十三夜/樋口一葉、暮ゆく秋/大塚奈緖女ほか掲載。閨秀(女流)という存在が市場化され、特集号は発行後、はやくも3万を売り尽くした。
 花圃はこの風潮に動かされ『露のよすが』など短編を発表するも、作家活動は30年代で終わる。数年後、土曜日毎に親しい知己を集めて歌を詠んだりするのが楽しい様子。

 次の引用文は、花圃「谷中村の野花」から。
 足尾鉱毒事件から18年後、谷中村を訪れ被害地に群れ咲く野の花を見、文と歌を『花の趣味』に収めた。

 ―――谷中村は多年の迫害に種々の辛苦もかひなくて、今や全滅せんとすと聞きて、なんとなくただにはえあらで、にはかに思ひ立ちてゆく、古河に下り立つ停車場に白衣の三人いかめしきは何ぞとみれば、巡査の下り立つ
・・・・・・車に乗りてゆく、思ひ川、渡良瀬川の、合して利根にそそぐ、三国橋のあたり、照りこむ日かげにサアベルのキラメク、いとものものし・・・・・・かの破壊さるる家のあれば、ただ憐れとのみ見べきものか・・・・・・かの田中翁の絶叫して、非道を訴え非義をせめらるるに心幾分を安うして静粛として佇む無智の村民
・・・・・・誠にこの谷中村も荒るるにまかししを幸として、雑草の花のさかりなるいと美(うるわ)し、烏の豌豆とや、半夏生とや、茅がやの中に白くうちそよぐに
人しらぬくさ間の花もおののかし おのか色香のさかりみせたり

 花はどこに咲いても美しいが、眺める者の心裏はどうなんだろう。被害地に咲く花、谷中村の被害民も、花圃と同じく、草花の美しさをそのまま受けとるだろうか。ふと、東日本大震災、原発事故の地に生える雑草を写した映像が浮かんだ。

 1914大正3年、仏教運動家・高島米峰著『店頭禅』(日月社)に序を寄す。
 随筆集『その日その日』からは、晩年の花圃の交際、生活が垣間見える。文筆生活は20年に及んだが、文学上の発展は見られず、しかし近代文学史上最初の女流作家として後進に刺激を与え、今に名が残る。
 1943昭和18年、没。75歳。

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2014年7月 5日 (土)

硬骨朴直の代議士、安部井磐根の半生(福島県)

 「白票を水増し:市選管職員ら3人逮捕」というニュースに耳を疑った。それでなくても、憲法解釈で孫が軍服を着させられる日が来るんじゃないか不安が募る現今。そこへきて「投票結果を操作」だなんて。世事に疎いおばさんでも日本の先行きが心配だ。ところで白票問題とは異なるが1票差で候補者が泣き笑いという総選挙が昔あった。

 1917大正6年。会津若松市(福島4区)で、実業家の新人白井新太郎311票、柴四朗(東海散士・会津藩)310票、わずか1票差に対し河野広中は、
「柴四朗の敗因は問題ですね。僅々一票の差なんですが、その一票が<柴四朗殿閣下>と記され無効というんです。そんな馬鹿なことがあるものですか。明瞭に柴四朗と記され、殿閣下の敬称を附したのだから、これは当然有効ですよ。訴訟ものです」。
 柴四朗は「殿・閣下」を書き無効になった2票の訴訟をおこし、3ヶ月後に勝訴、逆転当選となった(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。

 三春藩出身・河野広中の選挙区は福島県3区。第一回衆議院議員選挙から14回連続当選、東北民権運動の指導者。第2区は二本松藩出身、安部井磐根である。
「名物議員の三人づくし」(日本新聞)によると、三老=安部井盤根・鈴木重遠・津田真道、三謀=犬養毅・佐々友房・柴四朗、三奇・三罵=田中正造ほか。

         安部井磐根 1832天保3年~1916大正5年

 父は二本松藩士・安部井又之丞。
 1868明治元年5月、戊辰戦争で二本松藩が奥羽越列藩同盟に加わったとき、奥羽諸藩の集議所詰となり仙台に赴き次いで白石に移った。しかし磐根は藩論に反対、また官軍に通じているとの嫌疑がかかり仙台で入牢の身となった。そのとき詠じた一首
     吾を人何かいふらむ言の葉の 露よしばしは玉とみゆとも

 二本松落城の日、磐根の父は城内で自刃。仙台の牢にあった磐根は嫌疑が晴れて二本松に戻った。大憐寺に謹慎中の藩主家族を見舞うと、藩主の旧領回復に奔走した。
 1869明治2年4月、丹羽家は二本松5万石に封ぜられ、磐根は市政を委され、市民に御奉行様と呼ばれた。次いで若松県に奉職。
 1870明治3年秋、弾正台(行政警察機関)に採用される。
 1871明治4年、若松県出仕。翌年、病気療養のため辞職。
 1874明治7年1月、家録および士籍を奉還。二本松に帰郷。
 1875明治8年10月、板垣退助らの自由民権運動が盛んで、磐根も「明八会」を二本松町に組織し政治、時事を論じた。
 1877明治10年西南戦争、親族の陸軍少尉・安部井香木が豊後にて戦没。

 1878明治11年、福島県会議員、ついで議長に推される。県令は三島通庸
 1879明治12年、安達郡郡長に任命される。
 1882明治15年、三島県令の施政に不満をもち辞任。
 1886明治19年、有志者の薦めもあって選挙に出、県会議員に当選。議長、常置委員。
 1888明治21年、知事副警視総監

 1889明治22年2月、福島県会議長として憲法発布の式典に参列
 1890明治23年、第一回衆議院議員選挙に当選、大成会に属す。
 大成会は漸進主義を主張、政府支持を標榜し第1議会に臨んだが閉会後、翌明治24年解散。東北地方選出の安部井磐根・藤沢幾之輔・斉藤善右衛門らは、第4回通常議会に臨むにあたり神鞭知常らと共に、{有楽組」を組織、民党として行動した。

 明治26.11.29 衆議院、安部井磐根の演説 「星は議長か番頭か

 ――― 本員が提出しまする緊急動議の案を一応朗読致します(中略) 抑も衆議院議長星亨君の行為は幸いに法律の問の所とならざるも、社会の制試は之を許さぬ、天下囂々之を口にし、之を筆にして止まざることは、諸君も既にご承知の通りであります・・・・・・ 大阪米商会所頭取・玉手弘道、同じく株式取引所頭・磯野小右衛門等が、星亨君を顧問に招聘したるは、衆議院議長なるが故なり・・・・・・ けれども疑は疑に存して暫くは問はざるに措きまして、かの朝野政商と待合茶屋に密会したるが如きは、我が衆議院の体面と栄誉を汚損したものである・・・・・・今や官紀振粛の問題は・・・・・・ 毫も黙止することは出来ませぬで、この議を発する所以でござります
    (『帝国議会雄弁史』弘田勝太郎編1925事業之日本社)。 

 ――― 吾人は知る。衆議院議長たる星亨という剛の者を議会外に放逐せんとして、先ず不信認の決議案を出たし君の意気、遂に満場一致を以て概案を決議したる事実に照らしても彼の人となりを知る・・・・・・ その赤貧洗うが如しに於いても君の性行を証明することができる (『人物と長所』岩崎徂堂1901大学館)。

 1893明治26年(第2次伊藤内閣)、星亨の除名後、磐根は副議長に選ばれる。ちなみに、磐根の東京の住まいは、東京市神田区小柳町19・稲本ワカ方。
 日清戦争直前、大井憲太郎、安部井磐根らは対外硬派の「大日本協会」を創立。 内閣の外交政策を軟弱だとして、条約改正問題を中心に内地雑居現行条約励行論を主張。         
 第5議会で、条約励行建議案・千島艦事件上奏案を提出して政府を追及。一時世論の中心となるも、治安妨害の理由で解散させられ、政府は12月30日衆議院を解散
 安部井磐根・神鞭知常らは「政務調査会」を組織、他の一部は同盟倶楽部に加盟。

 1894明治27年~28年、日清戦争。
 1896明治29年3月(第二次松方内閣)、進歩党結成。第5議会における非自由派の六派連合=立憲改進党・国民協会・東洋自由党・同盟倶楽部(柴四朗ら)・政務調査会(安部井磐根ら)・同志倶楽部(菊池九郎ら)、党首大隈重信。翌年、藩閥との対立が深まり提携を解消。

 1906大正5年、85歳で没。
 『盤根遺詠』『小峰城懐古詩歌集』(会津若松図書館蔵)。

  参考:  『日本帝国国会議員正伝』木戸照陽1890田中宋栄堂) / 『衆議院議員候補者列伝:一名・帝国名士叢伝』大久保利夫1890六法館 / 『日本政党変遷史』青野権右衛門編1935安久社 

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