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2014年8月

2014年8月30日 (土)

関東大震災: 蠹魚(しみ・紙魚)の自叙伝・内田魯庵

 “泥と格闘”広島土砂災害は報道される度に死者が増え、大変な惨状だ。夏から秋、季節の変わり目は災害が起きやすいのだろうか。間もなく9月1日、関東大震災があった震災記念日である。その日はあちこちで災害避難訓練が行われる。その訓練、孫を学校へ引き取りに行くと、生徒全員が防空頭巾をかぶり校庭に座り迎えを待っていた。仕事を休んで参加する親は負担だろうが、こう災害が続くと避難訓練は大切だ。

  1923「大正十二年九月一日帝都大震災大火災大惨状」ほか関東大震災の新映像が、東京国立近代美術館フィルムセンターに収蔵されたという。9/27から同センターで特集上映される(毎日新聞2014.8.28)。
 ◇東京・丸の内で建設中に崩落300人が犠牲になった内外ビル 牛込駅(現・飯田橋駅) ◇見せるべきではないと国の通達後に削除された遺体の映像など。

 たまたま、『魯庵の明治』(講談社文芸文庫)を読んでいたら「灰燼十万巻」、東京日本橋・丸善炎上の話があった。関東大震災かと思いきや1909明治42年末の火事、本もろとも焼けて了ったのだ。その丸善は関東大震災で再び燃えた。丸善の顧問・魯庵は東京生まれの東京育ち、住み慣れた街が破壊され万巻の書が灰になった衝撃は大きかった。

     内田魯庵 1868明治1~1929昭和4

 本名・貢、別号・不知庵。
1_3 明治中頃から「女学雑誌」「国民之友」に評論を発表、批評家として認められた。二葉亭四迷と親しく、ロシア文学に早くから影響を受け、ドストエフスキー『罪と罰』を日本で初めて紹介した翻訳家、『暮れの二十八日』など小説家としても知られる。また、随筆家として文明批評や回想記などすぐれたものを残し、今なお読者を持つ。

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 魯庵の小説、翻訳、随筆などは各地域の図書館に置かれているが、関東大震災10ヶ月後に書かれた『蠹魚之自伝』(とぎょのじでん)はあまり見ない。引用、紹介したい。
 蠹魚(とぎょ)の蠹はとも書き、樹木のしんを食う虫、紙を食い荒らす8mmほどの昆虫で紙魚(シミ)のこと。はじめ『蠹魚之自伝』の蠹魚が読めず、意味も判らないので一旦は投げ出した。でもせっかくだから頁を繰ると、海老と見まごうイラスト、何これ?紙魚(しみ)の拡大図だった。つい気になって読みだすと軽妙な筆致、気がつけば魯庵の世界に取りこまれていた。

   <蠹魚之自伝>(とぎょのじでん)

「罷出でたるは此のあたりの古本箱に棲む蠹魚(しみ)にて候」とシヤリヤピン(ロシアのバス歌手)張りのバスを張り上げてみてもこの体じゃ押しがきかねェ。だが、あんまり安く扱つてもれェたくねェ。虫眼鏡で覘いて見て吃驚(びっくり)しなさんな
・・・・・・武備あるものは必ず文事ありで、東西古今の典籍をパンとしてゐる俺の頭は諸子百家をはちきれるほど詰め込んでをる
・・・・・・人間の垢をしやぶる虱や台所を駆けずり廻って総菜のつまみ食ひする油虫のやうな賤虫族と違つて、俺は古い墨の香に陶酔する虫の中の隠君子さまだ。
 だが、去年の地震ぢやァ大学図書館を初め松廼屋文庫やそこら中の俺たちの眷属の植民地が焼き払はれる。仲間の奴らは惨死する。目もあてられねェ。隠君子だなんて引込んぢやをられん。
     ―――中略―――
 三方から火を喰止めて国家の貴重な文献を漸とこさ助け、戦場なら安く見積つても感状物だが、本ぢやイクラ貴重書を助けたのでも拾ひ首ほどの手柄にもなれねェと見えて、御苦労だとも云はれねェんだ。之だもの、そこら中の官庁で国家の重要な記録が灰になつちやつたのも少とも不思議はネェのさ。
・・・・・・人間は無精で横着で、オマケに書物に目の利く奴が根つから無ェので、大切なものまでも放たらかして置く
・・・・・・人間は汝(うぬ)が無精や手ぬかりを棚へ置いて蠹魚蠹魚と書籍の滅亡を俺たちばかりのせゐにしてやがる。イヤだ、イヤだ。俺はもう蠹魚の生活にグッドバイをして、来世は聖賢の文字を触つた功徳によつて、本なんぞを読まねえでも大臣になれる金持の貴族の坊ッちやんにでも生れ変りてェもんだ(大正13年5月4日~31日東京日日新聞)。

      <永遠に償はれない文化的損失>(大正12年10月10日~23日東京日日新聞)

 マダ流言飛語が全く絶えない地震から一ヶ月半後「関東大震災で焼失した図書を追懐」、まで連載された。地震で落ちた屋根の修繕がマダ出来ず、雨漏り悩まされながら、破れ畳で一家十人で半罹災民として生活するなかで魯庵はこれを書いた。
 (一)京橋・日本橋・神田から下谷・浅草・本所・深川へ跨がる罹災地は一面の焼け野原、横浜から房総湘南一帯も滅亡。日本橋・丸の内界隈の大建造物も焼失。しかしいずれ再建できるだろう。それより、百年たっても永久に保障されないものがある。
 (二)真に惜しむべき大損失は、金に見積もれない歴史的建造物、古芸術、古記録、稀覯書その他多くの文献の滅亡である。
 (三)東京帝国大学図書館も今度の震災の最大禍、70何万冊の殆どが滅亡した。外国からも寄贈があったが、それだけでは図書館本来の役目は果たせない。
 (四)被服廠に隣接する松廼屋(まつのや)文庫には能・歌舞伎・徳川時代の民衆文芸・名家巨匠の書き入れ本などがあり、安田善次郎は千金の稀本でも借覧させた。それが焼けてしまい「我々読書生にとって最も愛惜にたえないのはこの松廼屋文庫の焼失である」と魯庵は嘆く。
 (五)黒川文庫のご宸翰や国宝的古筆の万葉の断簡を初め名家の自筆藁本(草稿)などもみな灰になった。美術史の損失は浮世絵、縁起絵日記、古畫珍什にまで及ぶと魯庵は惜しんだ。
 (六)最も遺憾に堪えないのは、内務、大蔵を初め消失した各官庁の記録及び調査資料の全滅。同じ歳月と同じ費用をかけても決して再び得られないと魯庵は大憤慨、大震災の最大損失だと歎く。数十年間数百人の吏僚を役して調査せしめたナショナル・レコードの殆ど全部を焼いたのは文明国としての恥辱と言い切る。
 (七)震災の翌日、動物園が焼け大小猛獣が射殺され、博物館も延焼のニュースの後、「災厄に鑑みて貴重の文献を収蔵する文庫は普通の建造物から隔離し、万全な防火設備の完成を図らなければならない。稀覯書の複製と重要な記録の副本作成は文化上の重大な事業である」。

 現代はコピー機能が発達し魯庵の心配の半分は解消されているが、文書の保存についてどうだろう。保存可能となっても、誰もが見られるシステムができあがってないから、好奇心が人一倍強い魯庵を満足させられるものではなさそう。

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2014年8月23日 (土)

藤山家の門

 ただの歴史好きが幕末明治を知るのに「明治文化全集・全24巻」は欠かせない。この全集を編修・刊行したのは、吉野作造宮武外骨小野秀雄尾佐竹猛明治文化研究会を発足させた8人。
 その8人はもとより全集が完結するまでには歳月もかかり、多くの学者、研究者ら多くが関わった。その誰もが豊富な明治のエピソードを抱えているから、それぞれの著述はとても興味深い。明治を知りたい気持ちを満足させ、新たな興味へとつないでくれる。
 古本カタログにはその類の書籍が載り、たまに購入するが積ん読になりがちだ。その積ん読に明治文化研究に功績のあった尾佐竹猛『明治大正政治史講話』1943一元社(序・明治76年盛夏)があったので開いてみた。
 目次をみると「藤山家の門」というのがあり、藤山って一体どこの誰と思った。読むと、大金持ちの実業家・藤山雷太であった。門と直接関係ないが雷太の長男は、政界に進出し「絹のハンカチを雑巾にする」と表された藤山愛一郎である。
 明治76年(昭和18年)に書かれた「藤山家の門」、他にも在りそうな建造物の歴史話だが興味深い。引用しつつ紹介したい。それにしても、その門、戦災にも遭わず残っているかな。尾佐竹氏は司法省時代に門を撮影したそうだが、写真はあるのかな。

       「藤山家の門」   尾佐竹猛(おさたけ たけき)

  故藤山雷太氏は財界の大立者であるに反し、僕は陋巷に住む貧乏書生であるから、その間何等の関係ある筈はないのであるが、唯だ強いて思ひ出せば、曽て福澤先生研究会の席上、藤山氏の後に僕が一場のお喋舌をしたくらいで、所謂謦咳に接するといふ程度にだも達せぬ没交渉の間柄である。

 ・・・・・・実は余計な物数奇から同家の門について少し調べたことがあるのである。誰でも同家を訪ふものの嫌でも応でも気のつくことは、同家の門は堂々たる大名の門であることに目を瞠るのである。失礼ながら藤山氏はお大名の出身でもない・・・・・・これは藤山氏が何処からかお求めになつたのか、これが同家に買われたことについて最も喜んだのは僕である。
 ・・・・・・門が藤山家に買はれる前には、今の海軍軍法会議の在る処に、淋しく立腐れにならんとして居つたのを、日夕眺めては、涙をこぼして居つたのが僕であつた。
・・・・・・
 それは、その形式が「両出御番所御長屋門」といつて、両方の番所が突出して居て、長屋が続いているのは、今日現存している高輪御殿の御門、閑院宮家の御門、華族会館の門、大学の赤門とも形を異にして居るのが珍しい。旧江戸の名残りも漸次湮(ほろ)びて、特に(大正)大震災以後には建築物などの殆ど残らなくなつたのに、斯かる特殊の形式の門の残ついていることは、懐かしいのみならず、その来歴が親しみ深いのである。
・・・・・・
 あの門は1897明治30.3.22 宮内省より海軍予備校として海城中学へ払下げられたので、その前は今の東京駅付近にあった司法省の門であり、1871明治4.9.24には畏くも明治天皇の行幸を仰いだこともある光栄ある門である。
 而して、その以前は備前岡山32万石の池田家の添邸門である。しかも更に遡れば幕府評定所の表門であつたといふ説があるが、此の点は明確なる史料を欠くのを遺憾とする。
 若し、この説にして真正ならば、幕府最高の裁判所たる評定所の門が司法省の門となり、それが偶然にも、司法省、裁判所の相並ぶ日比谷付近に移され、その場所がまた裁判に関係のある海軍軍法会議の敷地となつたいふのであるから、この方面に多少の関心を持つ僕としては、愛着の涙を濺ぐ・・・・・・

 僕はこの門が藤山家の門になつたとき、喜ぶの余り、某雑誌に報告した。その一編の趣意は
―――大名の門が司法省の門となり、最後に富豪の門となった。これは近代政治が、封建政治より官僚政治となり、財閥政治となつたことを表徴するものである。
・・・・・・
 この記事が出た数日後、藤山雷太氏の秘書が訪ねて来て、門の来歴を書いてくれ、またその書いたものを石に刻つて門に樹つるからといはれたのには、如何に心臓の強い僕でもダアとならざるを得なかった。哀訴嘆願して書くことの容赦を願つたのである(『明治大正政治史講話』附録第八)。

     *****

     尾佐竹猛

 1880明治13~1946昭和21年
 明治・大正・昭和期の司法官・歴史学者。旧金沢藩士で漢学者尾佐竹保つの子。
 明治法律学校(明治大学)卒業。福井・東京・名古屋各地方裁判所判事、東京控訴院判事を歴任。1924大正13年大審院判事、1942昭和17年大審院検事。この間、法制史的随筆や明治文化史・憲政史の研究を発表、法学博士となる。
 研究は社会風俗にも及び、考証に厳しい自由主義的学風で、晩年明治維新史研究に業遺跡を残した。明治文化研究会を設立、「明治文化全集」編纂、刊行した(『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂)

     *****

     藤山雷太

   1863文久3~1938昭和13年
 実業家、肥前藩出身。慶應義塾卒業。長崎県会議員を経て三井銀行に入り、中上川彦次郎のもとで芝浦製作所の再建や王子製紙の乗っ取りに成功。また東京市街電鉄・日本火災・帝国劇場創立に参加。
 1909明治42年から20余年にわたり日東疑獄後の大日本精糖の整理・再建に功績をあげ、これを中心に台湾精糖・パルプ業の開発に成功し、大正・昭和の財界に、旧財閥に対抗して一方の雄となった。晩年は東京商工会議所会頭をはじめ要職を重ねた(『日本史辞典』1981角川書店)

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 【けやきメモ no.2】

 過去記事
<大正デモクラシーに理論を与えた人、吉野作造(宮城県)>
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-f3aa.html

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2014年8月16日 (土)

明治期、ホノルルの名物男・勝沼富造(福島県三春)

 昨夏、中学生の孫が「戦争の記憶がある人から話を聞く」宿題をもってやってきた。戦中派だが記憶がなく、明治・大正生まれの両親から聞いた話を伝えた。「空襲で真っ赤になった空。幼児の私は空襲警報が聞こえるとすぐ防空頭巾を被り母にしがみついた。空襲を避けて東京の貸家を転々した」など。終戦後、一家で東京に戻ったがタケノコ生活。父は着物を持ち千葉へ買い出し。行く度、交換の米が減り父母は農家にいい印象がない。私にもその感情は刷り込まれた。ところが、結婚して夫の実家で気付いた。義母から「戦争中、疎開の人が畑の作物に手をつけ」というのを聞き“悪いのは人でなく戦争”と。

 2014年8月15日は終戦から69年、日本はずっと平和だった。その69年を遡ると1876明治9年にあたり翌年に西南戦争があった。その後、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦、そして終戦。こんなにも戦争していたんだと今さら驚く。戦争は庶民に負担を強、生活が苦しくなる。そのためか、夢を抱いてか、明治早々から海外移住を志す若者がいた。その中にハワイ移民の先駆者、勝沼富がいる。『福島県民百科』(1980福島民友新聞社)ほかを参考に記す。

  勝沼富造  1863文久3年~1950昭和25年

 祖父は三春藩士、父は平藩柔道師範・加藤木直親、母は士族花沢家長女・えう子。福島県磐城平で長男・周太郎、次男・重教が生まれ、三春町亀井に移住後、三男・富造が生まれた。
 戊辰戦争時、官軍が三春に入り5万石の小藩三春藩は降伏、会津攻めの先導として会津に出陣した。次はその頃の俗謡、『重教七十年の旅』(1928加藤木重教)より

   会津ゐのしし仙台むじな三春のきつねにだまされた

 1877明治10年、加藤木富造14歳。次兄の重教は既に上京し工部大学校で電信技術を学んでいた。ところが、西南戦争が起こると技師不足になり退学させられ電信局へ配属される。後に電信技術官として東北地方在勤となる。
 1878明治11年、富造は勝沼盛也の家を継ぎ勝沼富造となる。
 この年、工部技手となった重教は弟の富造を仙台に呼び寄せ英語学校(のち第二高等学校)へ入学させた。ところが、富造は忙しい兄が留守の間に無断でやめ帰郷、その後、田村郡から給費生に抜擢され上京、東京獣医学校で学んだ。
 ―――当時、三春は馬産が盛んでしたが、獣医が足りませんでした。そこで、地元では富造に学資を提供して獣医の勉強をさせることにしました(http://blogs.yahoo.co.jp/minato_koichiro/folder/887396.html <新方丈記>)。
 どこの獣医学校か詳しい記述がなく、見たところ2校あったので列記する。ちなみに、富造は卒業しても故郷に戻らず、母校の助手として東京での生活を継続したのである。
    <獣医学校その一>
 1881明治14年設立の私立獣医学校、産業・軍事をはじめ多方面の要求にこたえ得る人材を育成。『東京遊学案内』1898によれば、「授業料一ヶ月2円、校舎は牛込区市ヶ谷河田町にあり、9名の教員を以て60名の生徒を養ふ」。
    <獣医学校その二>
   私立東京獣医学校。『新苦学職業学校案内』1911によれば、位置・東京府下下渋谷(エビス停車場際)、獣医科3年、蹄鉄科1年、授業料1年36円。特典・本科生は徴兵を猶予せられ卒業者は無試験1年志願兵たる資格を有す。

 
 次兄重教は、電信局電気試験所で電話機・電話交換法を研究し1888明治21年に日本初の火災報知器を製作、さらに技術を学ぼうと渡米を計画すると富造が同行を願った。
 1889明治22年、重教は富造連れて渡米。4月15日東京新橋を発ち横浜港からアメリカ汽船ニューヨーク号でサンフランシスコに向かった。船室は最下等で中国人が多かった。サンフランシスコにつくと、富造は働きながら夜学に通うことにした。
 富造と別れた重教はニューヨークへ赴き、電気技術を学び翌年7月帰国する。この間の事は『重教七十年の旅』に写真付き、詳しい記述がある。

 1892明治25年、富造の兄重教へのアメリカ通信
 ―――馬車馬が電鉄レールを横切らんとする際、電気に感じ、馬は数尺空中に跳ね飛ばされて即死。後に馬を解剖したるに腸間膜腺充血心臓肥大をみる。

 1896明治29年、加藤木重教は「電友社」を創設。電灯工事、電機輸入などの事業のほか、日本初の電気雑誌『電気之友』を創刊、毎月発行した。
 この頃、勝沼富造はなおアメリカでソルトレーク大学留学中、専門の獣医のほか一般農業、神学、英文学などを勉強。卒業後、ユタ州で獣医として働き、モルモン教に入信。日本人初のモルモン教徒となりアメリカ市民権も獲得した。

 1898明治31年1月、10年ぶりに日本に戻った富造は、熊本移民会社が東北から移民募集を始めると、その募集係となって各地で移民を説いた。7月、富造は大量の東北移民を連れて、ドウリック号で横浜を出航、ハワイに入植した。
 東北移民合資会社(仙台、『海外出稼案内』1902)もあったのに、富造が熊本移民会社で東北人を募集した経緯は判らない。ただ、熊本移民会社で辣腕を振るった井上敬次郎が、のちに東京市電気局長になっているので電気関係、兄重教の縁とも考えられる。
 当時、移民には自由渡航と手数料などを支払い移民会社を通してがあった。ハワイは「官約移民」の制度があったが、廃止されると民間移民輸送会社がこれに代わり、巨利を博した(『布哇案内』1936日本郵船株式会社)。

 1901明治34年、獣医師として知られた富造はハワイ・ワイアルア在住星名謙一郎の結婚式に出席([移民の魁・星名謙一郎のハワイ時代後期]飯田耕二郞)。
 同7月25日、布哇(ハワイ)日本人会。アメリカ丸乗り組み日本人女性がハワイ衛生局員による不当な検疫にあったため抗議集会が開かれた。常議員・勝沼富造も出席した。

 富造の人柄
  ――― (福島県三春・ホノルル府)君はかつて米国において獣医学を研鑽し開業免状を得、ハワイに渡来しホノルル府に開業せしが、大いに在留内外人の賞賛を博し、傍ら移民事業を幇助せり。蓋し邦人にして米国獣医たる者は君の他に之あるを聞かず、其技量特に絶妙の聞こえあり(『新布哇』藤井秀五郎(玄溟)1902文献社)。
 富造は移民局移民官をつとめ移民の世話をする傍ら、日刊「日布時事新聞」の副社長になった。世話好きで「宴会博士」などとあだ名をつけられ、ホノルル社会の名物男だった。
 1950昭和25年、87歳で死去。著書『甘蔗の志ぼり滓』(1924刊・馬笑庵)はホノルルの日本語新聞のエッセイをまとめたもの。

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【けやきメモ no.1】
 2014.8.16毎日新聞――― 今日8月16日「女子大生誕生の日」。1913(大正2)年のこの日、東北帝国大学(東北大学)が女子受験生3人の合格を発表したのだ―――

  <科学・数学女子、女性初の帝大生・黒田チカ/2013年10月12日>
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/10/index.html
 

 女子大生の日を知って以前書いたブログを思い出した。お時間があればご覧ください。ちなみに当ブログの記事数は306になります。
2014.8.16

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2014年8月 9日 (土)

障害者スポーツ&金メダリスト成田真由美(神奈川県)

Photo
 2014.8.1~8.3「毎日新聞主催高野山夏期大学」に初めて参加した。東京駅から新幹線で出発、新大阪から電車を乗り継いで高野山に到着、宿坊に二晩泊まった。三日間、朝から晩まで各分野の講演を聴いた。得るところがあった。
 1921大正10年から始まり今年が90回目、その歩みをみると講演者は、与謝野晶子・鉄幹夫妻、倉田百三、和辻哲郎、直木三十五、吉川英治ら昔夢中で読んだ作家、また政治家・学者・実業家・スポーツマン・高野のお坊様などそうそうたる顔ぶれである。リピーターが多いのも頷ける。

 宿坊は5人の相部屋だったが、初対面の関西の4人とすぐ馴染んだ。リュックから飴をだし勧めたら、大阪の同世代に
「アメちゃんをありがとう。あなたも大阪のおばちゃんになれる」と太鼓判を押された。彼女は水泳が趣味、自分も卓球をするので「幾つになっても運動は良い、若くいられる」と話に花が咲いた。出会い、これも高野山大学の良さかも。

 第一日目の二人目、パラリンピック水泳メダリスト・成田真由美さんが車いすで登場。ラメを施し華やかに装飾した車いすでスイスイ、颯爽と壇上に現れた。
「自分の可能性を求めて」と題して講演する成田さん。ハキハキと明るい声で元気いっぱい、楽しそうにお話され、聴いているだけで元気がもらえた。でも、話の内容は、甘くはありません。

 車いす故の理不尽な目に遭った話の数々、水泳のコーチに巡り逢うまで何度も断られたスイミングプールの門前払いをはじめ、あんまりだという目に何度もあっています。
 嫌な思いは数知れず。なのに、成田さんはユーモアを交えて話されるので会場が笑い声に包まれもしました。辛かった事、あんまりな事を詰問調で訴えるのでなく、笑いを交えて話されました。かえって身につまされ、若いのになんとできた人かなと感心しました。それだけ苦労が多く困難に鍛えられてということですよね。

 今、成田さんは東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事をつとめていますが、そのとき着る上着のサイズは19号とか。Mが9号だから19号はいかにも大きい。それほど肩回りに筋肉がついているのは、厳しい練習、激しい鍛錬をしている証拠。金メダルを獲るのはなまなかの事ではない、改めて感じ入りました。講演の終わりに成田さんのアテネの金メダルが会場を一巡、私も触らせてもらいました。メダル裏の点字が印象的でした。

 高野山から帰って、パラリンピックを『大辞林』で引いてみました。
 パラリンピック――― Paralympic [paraplegiaとOlympicの合成語]脊椎障害者の国際スポーツ大会。イギリスのストーク・マンデビル病院の医師グットマンが始めたのがきっかけで、1952昭和27年国際大会が開催された。

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 障害者のスポーツは『障害者とスポーツ』(高橋明著2004岩波新書)によれば、傷病兵のリハビリから始まり、18世紀には、フランスやドイツで、いわゆる運動療法としてスポーツが活用されている。これが、イギリスやアメリカに伝えられて、世界中に広まった。

 こうしたスポーツへの関心が高まってきたのは1914~19第一次世界大戦以後で、とくに1939~45第二次世界大戦中に大規模な戦争によって、数多くの傷病兵が生まれたことが大きな要因。戦争によって受けた障害で歩くことに支障が出て、車いすを使うようになった人たちのリハビリテーションのために、積極的に導入された。

 なかでも、イギリスの神経外科医でパラリンピックの生みの親であるグットマン博士(Sir L.Guttmann)の功績が讃えられている。
 グットマン博士はドイツのポーランド国境に近いトストという町で、ユダヤ人のの両親の元に生まれた。第一次世界大戦後、反ユダヤの空気が強まったドイツを脱出し英国の亡命。第二次世界大戦で多くの戦傷者が出ることを予見した英国は、救急病院から社会復帰までの専門病院の一つとしてロンドン郊外に、国立脊髄損傷センターを設立。そのセンタ^長にグットマン博士が招聘されたのである。
 ここで治療を受けた人たちの85パーセントが有給で就職するという成果を出したといわれ、その要因の一つとして、医学的リハビリテーションにスポーツを取り入れて、身体的機能の回復訓練、心理的効果などに大きな成果をもたらしたことがあげられる。

 前出の成田真由美さんは13歳で脊髄炎発症、車いすを余儀なくされた時も水泳は嫌い、車椅子100メートル走、ソフトボール投げで全国大会優勝をしていた。その大嫌いな水泳を始めたのは、障害をもつ水泳選手から団体のメンバーが足りないから一緒にと誘われたからだという。
 冗談半分だと思うが、岩手国体にでれば萩の月や牛タンが食べられるもあって一念発起、練習に励みついに出場を果たし、以来、今日のメダリストへの道に繋がったという。
 今や障害者スポーツも様々な分野があり、裾野が広がっているようだ。私たちもテレビや新聞でさまざまな障害者の競技を目にするようになった。でも、わざわざ見ようとしない限り障害者の競技大会を目にすることは殆どない。こうした中、成田さんはパラリンピックや障害者への理解を求め、全国各地へ出向いている。

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 また、パラリンピックを目指すアスリートたちを応援してる団体や個人もいると教えてくれるのが『ようこそ障害者スポーツへ』(伊藤数子2012廣済堂出版)。読んで、ここに登場する人や団体があって、世の中進歩しているのだと考えさせられた。
 表紙裏の本文抜粋に驚かされるけど、立派なことをしているんだと肩肘張らず率直な文章で読みやすい。多くの人に読まれるといいなあ。

 ―――人口呼吸器が外れてしまい、選手がその場でバタッと倒れてしまった。驚いたのはここからです。人工呼吸器が取り付けられ、今、命をつないだばかりの選手が休むこともなく、そのままプレーを続行したのです。考えてみれば、彼らに時間がありません。いつプレーができない身体になるか、いつまで生きていられるか、という中で彼らはプレーをしているのですから(本文より抜粋)

 

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2014年8月 2日 (土)

チョウノスケソウ、幕末の植物採集・須川長之助(岩手県)

 東日本大震災から4年目。何も出来ないまでも、せめて、被災地の苦労を察する気持ちだけは持ち続けたい。しかし、つい忘れがちだ。それを思い出させ、どうかするとこっちが励まされるのが、毎日新聞・毎週金曜掲載「希望新聞」だ。先日の希望新聞、“記者通信”は、「8月3日開催・釜石はまゆりトライアスロン大会」を復興ままならぬ中、自らも被災者の大会事務局長らが困難を乗りこえ前へ進む様を伝える。

 トライアスロンの鉄人を一人知っている。大学通信教育スクーリングで知り合った働きながら学ぶ若者だ。体育の授業卓球で知り合い、自分は経験者なので手助けし、英語の授業では彼に助けてもらった。彼は働きながら学び、トライアスロンも頑張り感心した。
 スクーリング授業で10人と知り合ったが、4年で卒業したのは彼と私だけだった。彼は卒業後、勤務先に大卒として雇い直してもらったという。
 今でもトライアスロンと聞くと、20数年前に彼と乗り合わせた総武線車内を思い出す。JR飯田橋駅から乗ると、車内は東京ドームの巨人戦帰りの乗客でいっぱいだった。人に揉まれながら、テストやレポートの話をした。傍目には母子だったろうが、学友だ。その学友も、はや中年、まだ鉄人レースに参加してるかな。続いいてれば、「釜石はまゆりトライアスロン大会」にエントリーしたかも。

 さて、太平洋側の釜石市と離れた内陸岩手県中央部、北上川の中流域、盛岡市と花巻市の間に紫波郡がある。『紫波郡誌』(1926岩手県教育会紫波郡部会編)を開くと、「紫波」の地名は古くから史書に表れ、シバ・シワと呼ばれるがシハと音読するのが正しいとある。また、明治初期の紫波郡の所属の転変も興味深い。
 1871明治3年8月盛岡八戸2県に分属、同11月盛岡県に専属、明治5年岩手県治。
 郡誌には「人物誌」があり、ロシアの学者の植物採集を手伝い、その名が付いた植物もあるという須川長之助に興味をもった。幕末日本の植物採集といえば、シーボルトが有名であるが、長之助が採集助手をしたマキシモウイッテCarl Johann Maxmowicz(マクシモビッチ1827~1891)はそれに劣らぬ学者といわれる。

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       須川長之助

 1842天保13年2月6日、農業・須川与四郎の長男として紫波郡下松本村21番屋敷(現・岩手県紫波郡紫波町下松本字元地)で生まれた。
 長之助の家は父の与四郎がわずかな田畑を耕作する貧しい農家で、手習いの機会が無く独学で読み書きを覚えた。    
 12歳で奉公に出され、1858安政5年、年季が明けて実家に戻る。
 1860万延元年18歳の時、下北を経て箱館に渡った。最初は大工の見習いとして住み込み、後に八幡宮の別当(馬丁)、さらにアメリカ商人ポーターの馬丁として住み込む。ある日、仲間の善助がお金のことで不正をはたらき、長之助もその巻き添えで辞めざるを得なくなった。
 

 そんな時、たまたま入ったロシア正教会(現函館ハリストス正教会)神父に、来日したばかりのロシアの植物学者マクシモビッチを紹介され、風呂番兼召使として雇われた。
 マクシモビッチは「黒竜江地方植物誌」という論文で科学・技術・芸術の優れた業績に対して授与されるデミードフ賞を受賞した新進気鋭の植物学者である。
 須川は箱館ロシア領事館に寄寓するマクシモビッチのもとで誠実に働き、植物にも興味を持ったので気に入られ、チョウノスキーと愛称され弟のように可愛がられた。

 当時、外国人は開港場から10里以遠の地域に旅行することを禁止されていたが、日本人に採取させることは自由で、マクシモビッチは長之助に頼った。マクシモビッチは長之助をつれ臥牛山(函館山)に出かけては、採取の要領を教え観察力を養う指導をした。
 1861文久元年、マクシモヴィッチと須川はセントルイス号に便乗、横浜へ向かった。 1862文久2年、長崎に上陸。二人はここを根拠地として九州各地で植物採取を行い、多数の標本を携えて横浜に戻った。
 1864元治元年、マクシモビッチは来日3年目、帰国の途についた。この秋、長之助も4年半ぶりに帰郷。
 
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 マクシモビッチは帰国後もずっと東アジアの植物を研究し続け、長之助に採集を依頼、長之助は採ったのを押し葉にする作業を続けた。全国各地で採集された標本は、東京神田駿河台ニコライ堂のアナトリイ神父を通し、マクシモヴィッチに送り届けられた。

 植物採集を始めた当時はまだ鎖国攘夷論が盛んで、外国人は危険な目にあうから植物採集など思いもよらず、長之助の協力無しに採集は進まなかった。
 長之助はマクシモビッチのために挟み板、挟み紙を携えた異装で単身全国を踏破した。その足跡を残した山岳は、北は北海道から岩手山・早池峰山・信州駒ヶ岳・三吉山・乗鞍山・伯州の大山・九州の霧島・阿蘇山から南は桜島まで及んだ。

 マクシモビッチは高名な学者であったから往来手形など便宜が図られていたようだが、交通がまだ発達していない時代、しかも外人の従僕として、長之助はロシアの間諜に間違われたり苦労があった。
 信州木曾の御料林の檜の皮を剥いて役人に3週間も抑留され、御山奉行の力でやっと放免、肥前の大村から長崎に越える時は雲助数人に追いかけられたなどなど。しかし須川はやり遂げた。

 
 1877明治10年、長之助はかつて岩手県紫波郡日詰町の郡山駅にあった郡山協会で、アナトリイ神父から洗礼、ダニエルの聖名をうけ、日本ハリストス正教会信者となった。

 1889明治22年、長之助は越中の立山に登った時、濃霧に襲われ暴雨風となって道を失い、山頂の社屋でなんとか寒さをしのぎ辛うじて凍死を免れた。
 1890明治23年、南部地方を中心に鳥海山に向かったが、降雪に阻まれ本荘、角館を経て帰宅。
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 1891明治24年、 マキシモビッチ永眠。マクシモビッチと須川長之助、二人の関係は、単なる雇用関係でなく、厚い信頼と友情で結ばれていた。マクシモビッチも長之助の苦労に報いるかたちで、多くの日本産植物の学名にTschonoskiの種小名を残している。
 これ以降、長之助は植物標本の採集旅行に出掛ける事はなくなり、農業に専念。

 1925大正14年2月24日、長之助は風邪から肺炎になり昏睡状態に陥り、眠るように死去、行年84歳であった。

 死後、日露文化交流に貢献した功績を顕彰する「須川長之助翁寿碑」が志和稲荷神社境内に建立された。のち 紫波町名誉町民。
 長之助の採集標本が岩手大学にあり、そのいきさつが論文「須川長之助翁と岩手大学」にあり、他にも参考になった。マクシモヴィッチと須川長之助の写真はここから。興味のある方はネットでどうぞ、アドレスは下記。

参考: 
箱館中央図書館「はこだて人物誌」
(http://www.lib-hkd.jp/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/sugawa_tyou.htm ) 

 「須川長之助翁と岩手大学」岩手大学ミュージアム・須田裕 
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1858/3/tyounosuke-iwateuniv.pdf

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