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2014年9月

2014年9月27日 (土)

生活綴り方、村山俊太郎(福島県/山形県)

 地下鉄のとある駅、制服の中学生一団が乗ってきた。男子ばかり、騒がしいと思いきや静か。皆すぐにゲームを始め小さな画面に集中、見渡せば大人もスマホを見入ってる。珍しくもない光景だが、ゲームができず、興味もないおばさんは余計な心配してしまう。インターネットが当たり前の十代は、ナマの現実にどう向き合ってる?
 友達いなくても一人遊びでき、情報が溢れている現代。今どきの教育者は大変そう。情報有りすぎの分、悩みいろいろ、つまずきやすいかも。転んで傷ついてもメール、ラインでうったえ、紙には書かなそう。だいたい、日記とか作文、授業に採り入れられてるのかな。
 孫息子、一人は作文が得意で一人は苦手、三行で終わっちゃう。まあこんなに短くなくても作文苦手は多い。でも、作文、綴り方の歴史を知れば、自由に書けるっていい、それができる社会が良いと感じ、面倒がらずに書こうと思うかもしれない。
 戦前、生徒の貧しい生活環境を思いやり、生きていく力を身につけさせようという運動を起こし、作文で実践した教師がいた。「山びこ学校」「綴方生活」などで、そこに至るまでと、実践した村山俊太郎をみてみる。

 1872明治5年、学制がしかれたころの作文は、模範的短文を応用した作文が指導された。
 明治20年代(1887~)には、漢文調や擬古文調の美辞麗句を暗誦、綴り合わせる形式主義の作文が展開された。この傾向は、長く明治期をおおっていた。
 そういえば、明治人や著作を探しているとき“美文”の参考の類をよく見かけた。近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ 「美文」で検索すると185冊、同じ趣旨で文字を換えればもっとあるだろう。美文は文学芸術に関係ない人にも必要だったよう。

 日露戦争後、一時的に自由発表の主張がおこったが、大勢は以前として、課題作を主にしての漢文調の議論文、記事文、説明文、書簡文などが、範例によって指導された。
 1900明治33年、小学校令改正によって、作文は綴方となり国語科に位置し、読方、書方とならんだが、自由で個性的な表現はみられなかった。
 明治40年代(1907~)に入って、文壇の自然主義思潮の影響を受け、写生主義綴り方が増してきた。
 大正時代(1912~)になると、自由主義教育の台頭で課題作でなく、自由選題となり、児童性を尊重、綴り方に童心を反映させるようになった。鈴木三重吉主宰の雑誌『赤い鳥』がよく知られる。
 『赤い鳥』の綴り方は、文芸的リアリズムを助長し、現実生活を具体的に表現するようになった。この発展として<生活綴方>が起こり、綴り方の生活的・人生的意義が強調されるようになった。
      (「作文教育/滑川道夫『世界大百科事典』平凡社)

         村山俊太郎

   1905明治38~1948昭和23年。福島県に生まれる。
  戦前の生活綴方運動のなかで、生活綴方教育全般にわたる理論化においてきわだった業績をのこした。大正から昭和初期、小学校教師のかたわら童謡の創作にうちこみ、そこから生活綴方運動に参加していった。

       昼の三日月

  月夜のひめさん 忘れたか
  波間に浮いている  銀のくし。

  きらきら波間に  浮き沈み
  小櫛は流れて  行きました。 (以下略)

 水に映った三日月は銀の櫛、きれいな情景が浮かぶ童謡詩、作者は村山俊太郎である。彼は貧しい農家に育ち、借金を抱えて生活していたが、
「こうした環境にあって、すべてを美しく眺め、借金の累積に悩む自分の家すら頭にはなく、芸術至上の夢に酔い、文学を読み、詩歌創作に耽った」。このような時代があったのである。

 1928昭和3年、山形師範学校を卒業。教壇に立って教え子をよく見ると、農家、日雇い、女工、職工、商業、植木職、事務、大工など、さまざまな家から通っている子らの現実に、それまでの自分の子ども観と大きくかけ離れていることに気付かされる。
 1929昭和4年『綴方生活』が創刊され、12月に新興綴方講習会が開かれると参加。その会で村山は「綴方生活に*自照文を」を発表、非常にきびしい批判を受け、生活詩への転換にむかうことになった。
    *自照:自分自身に対する反省、観察

 ―――子どもたちの生活を見れば見るほど、貧乏と苦悩の現実でしかない。現実を書かせればいいというものではない。そこからどういう見通しを子どもたちに与えていくのか、どういう生き方を追求させていくのかという、あるがままの現実からあるべき現実を子どもたちに探求させていく生活表現こそ、自分たちの本当に求めるリアリズムの道だ。
      (『生活綴方実践論』*村山士郎・青木教育叢書)。
      *村山士郎: 村山俊太郎の子息、教育学博士

 1930年代(昭和5~)に入ると、東北地方6県の生活綴り方の実践家たちを結んだ北方性教育運動が本格的に進められる。封建制を残した東北農村の社会的科学的分析にもとづいた北方性教育論の理論化につとめた。
 村山はこうした運動の一方、軍国主義の時代にあって非合法の教育労働運動にも参加、検挙されて免職。一時『日刊山形』の記者となった。

 1937昭和12年復職。この間、雑誌『綴方生活』同人として、リアリズム綴方論を展開。
 1940昭和15年、村山をはじめ北方教育関係者の検挙が続き、戦時下、生活綴方運動関係者に加えられた弾圧の嚆矢とされる。
 戦後初期に共産党に入党、ふたたび教育労働運動に尽力したが、獄中で熾烈なとり調べを受けて害した健康はもとに戻らなかった。
 1948昭和23年、43歳の若さで死去((船橋一男)。
       (『民間学事典』1997三省堂)

          ***   ***   ***

       草刈り
                  高一女子

   山のように高く生えたこの草
   今から刈るのだ
   牛の一番大好きな草
   野原一めんに生えた草は
   この鋭い鎌で刈り取ってやるのだ
   こおろぎ、鈴虫は草やぶから飛び立つ
   それでもなお私はこの草を刈り取るのだ
   一本でも残すものか
   手からは血がだらだらと流れ落ちる
   血に染まったこの指で草を刈り取るのだ
   雨はやっぱりやまぬのか
   笠にぽとりぽとりと音をさせている
   この向こうの野原にも
   女がひとり、笠をかぶって刈っている
   私もやっぱり雨にぬれながら
   この山のように高く生えた草をかるのだ

 『生活綴方実践論』には、生活綴り方の教育指導をする教師たちが指導した詩が載ってい、「草刈り」はその一編である。掲載された詩のどれを読んでも、貧しくて厳しい環境にある子どもたちの姿があり、子どもたちに生きる力を与えたいという、教師たちの思いが目に見えるよう。それにひきかえ現代は、子どもの労働を見なくなった。しかし、貧しさが消えたとは思えず、考えると難しい。
 

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2014年9月20日 (土)

国語辞典の基礎をつくった『言海』大槻文彦

 このブログを読んでくださる方はきっと言葉のあれこれが好き、お気に入りの国語辞書をお持ちでしょう。筆者は二十歳記念に買った『広辞苑』と他にも使っているが、どれも古くなった。言葉は生き物、変化するし改訂版が出ているけど買換えてない。近ごろは電子辞書が普及、持ってはいるが紙の方がいい。
 点訳をしていたとき先輩に「点訳する原本の出版年と同時代の辞書がいい」と言われた。なるほど納得で辞書は新旧とも大切と思ったが、辞書そのものには無関心だった。
 ところが“為になっておもしろい”『辞書とことば』(惣郷正明・南雲堂)に出会い、辞書ってこんなにも違うんだと興味がわいた。
 『辞書とことば』は、考えだすとやっかいな言葉についてや調べ方を、たくさんの辞書から引用して説明、解りやすくておもしろい。さっそくブログにと思ったが内容がありすぎて、抜粋とか抄訳といった半端ができない。そこで、<国語辞書の誕生『言海』>の大槻文彦をみてみることにした。

        大槻文彦  1847弘化4~1928昭和3年。

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 明治・大正期の国語学者、号を復軒。   
 祖父は蘭学者の大槻玄沢(磐水)、父は洋学者の大槻盤渓、兄は学者の大槻如電。江戸生れ。
 岩手県教育会盛岡支部会の冊子には、1847弘化4年11月西磐井郡中里村に生れとある。
 江戸に出て漢学を学ぶ
 開成学校(大学南校、東大の前身)で学び、同時にアメリカ人に英語を学んだ。卒業後、東京高等師範学校などで国語学を講義した。

 1873明治6年、宮城県師範学の創立ともに校長に就任、祖先の地、宮城に赴いた。
 1875明治8年、文部相・報告課勤務、日本辞書編輯の命を受け、ここから『言海』との苦闘がはじまった。
 文部相の国家的事業として発足した『言海』だが、草稿の完成後は文部相の倉庫で埃をかぶり、出版の見込はなかった。
 この間1878明治11年、大槻は文法会を興し「かなのかい」に参加、かな文字の普及に力をつくしたことでも知られる。

 大槻文彦は陽の目を見ない「言海」の原稿の引渡しを受け、自費で出版することにした。
 ―――この一大事業を為し遂げるまで、編修の苦心もさることながら、校正者の死去、自宅の類焼、妻子の病死など不幸があった。倦まずたゆまず努力して完成させた『言海』は我が国の国語辞典の元祖であり、権威である(岩手県教育会盛岡支部会)

 次は、完成まで17年もかかった『言海』跋文の一部、
―――筆とりて机に臨めども、いたづらに望洋の歎をおこすのみ、言葉の海のただなかに*梶緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、その遠く広く深きにあきれて、おのが学びの浅きを恥ぢ責むるのみなりき
   *梶緒: かじお。舵を船にとりつける縄

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 1891明治24年、原稿が膨大なため分冊で予約を始めたが、学者の大槻にとっては編集より何倍もの心労であった。ともかく和綴じの分冊本『言海』(のち洋装本の一冊に)がようやく完結、世間から絶賛されやっと苦労が報われた。

 1898明治31年、『広日本文典』出版。当時としては最も優れた中古文典といわれ、文法の基礎をつくった。この中古時代とは、桓武天皇より院政の始まるまで。
 1899明治32年、文学博士となる。
 文部相国語調査会設置。委員長・前島密、大槻文彦ほか委員7名で口語法制定を目指した。のち、大槻が起草し口語法一巻刊行、口語法の基準となった。

 ―――収めてある語彙はさまで多くないのと時世の進運とはこれが改訂を促すこととなり、十閲年にして阿加佐(ア・カ・サ)三行を了えた頃病にかかり、1928昭和3年没した。
 増訂版『大言海』は、関根正直・新村出両博士監修の下に、1932昭和7年第1巻を刊行、1935昭和10年全4巻を刊行(『国語史』1942福井久蔵)。

       こぼれ話    

 ☆大槻が死去した年、彼がもっとも愛護していた松の木が枯死し、人々から奇しき因縁といわれた。

 ☆<混説せられた『大言海』のダルマサウ>

 ―――ダルマソウ(達磨草)とよぶ植物に二種あつて、一つはキク科のダルマソウ(達磨菊)、一つはサトイモ科のダルマソウ(ザゼンソウ)・・・・・・大槻文彦博士は混説してゐられるが、二種に分かつべきものである。かくも『大言海』に関しては、書中の諸処に誤謬が鮮なくないのが事実である。好辞典誠に可惜哉である(『牧野植物随筆』)。
 植物学者・牧野富太郎はこのように『大言海』を批判するが、『国語史』によれば、大槻は「一人でその大業を完成されようとしたので、語源なども改訂を加うべきものがないでもない」のである

 ☆ 大槻文彦はかつて根岸沿革地図の編纂に従事してい、除夜の鐘も鳴ろうという大晦日の多忙の折しも*益田克徳を訪ねた。益田が苛立って「今時分、何の用かね」というと微笑して「将軍塚の所在だ、探してみたが分かりかねるから君に聞いてみようと」言う。益田は呆然、「ソンナ事を知るものか」
     *益田克徳: 三井物産社長・益田孝の弟。"茶"を愛した。

 ☆ 明治44年、『光悦談叢』著者・森田清之助が根岸「御行の松」辺の大槻邸を訪ねると、大槻は白頭長身、神経過敏ならざる好老士、古代の人はかくやと思ふばかり。応接振りは、極めて素朴誠実であつた。

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2014年9月13日 (土)

ミシンと明治・大正・昭和

 卓球の試合で浦安ディズニーシーそばの体育館に行き、老骨にムチ打ち動き回って今日は筋肉痛。昨日は雨降りの平日にもかかわらず、舞浜駅はディズニーランドの客で混雑。改札を出、エレベーターに向かうと先客がいた。学校が休みなのか女子高生らしい数人がディズニーのあれこれを身につけ楽しそう。エレベーターの扉があくと1人が「どうぞお先に」といい「ありがとう」と乗った。エレベーター内は彼女らのキャリーバッグもあり、ギュー詰め。でも、みんな笑顔。「楽しんでね」と外に出た。
 夕方、再びエレベーター。朝のカラフルな服装の平成ガールを思い、ふと、自分で縫うなんてないだろうと思った。だいたい家にミシンあるかな?
 昔、ミシンは花嫁道具、裁縫好きの私はオムツをはじめ子どもの普段着はほとんど縫った。はじめ足踏み式、いつの頃からか電動に買い換えた。「英語のソーイング・マシンが略されミシン」というJR車内のクイズ広告を見たせいか、ミシンを思い出した。

 ミシンはイギリスで18世紀産業革命期に発明され、以来改良され進歩したという。日本にはじめて渡来したミシンは、安政年間アメリカ総領事ハリスから徳川将軍家定夫人に献上された一台。しかし、このミシンは一般の目にふれることはなく、中浜万次郎が咸臨丸で持ち帰ったミシンが日本初のよう。石井研堂『明治事物起原』に次の記事があった。

 ―――中浜万次郎、1860万延元年、大使衛護船の通詞として米国に渡り、此年五月帰帆す。時に、写真器械と裁縫ミシンとを携へ来たり、庶人に示して其効を弘めしといふ。これを本邦裁縫ミシンの始とす

 また、ミシンの使用を初めて日本人に伝えたのは、宣教師ブラウンの夫人という説がある。ミス・キダーによるミッション・スクールでの裁縫授業の奨励、裁縫技術を伝道に活かすなどもあったらしい。明治期にミシンの輸入がはじまり、洋装の普及とともに需要がました。その時どきの世相が見えそうなミシンの話、いくつか拾ってみる。

1894明治27年:『工芸技術教授書・自習独特』大阪工芸

 今の世にミシンほど一家の中に忠義なる者はなし―――の書き出しでミシンについて3頁ほど記しているが、これだけでは自習できず何も縫えない。ただ、附言の
ミシンは鉄製ゆえ甚だ錆の着き易きものなれば1週間に一度宛は油布にて丁寧に掃除」に、ミシンもはじめは鉄製だったと知った。たしかに鉄は錆びやすいから掃除しないと。

 

       1919大正8年:『女が生活するには』中村孤月・大日本雄辯会

 ――― ミシンではシンガーミシンが広く行われて居りまして、機械は月賦で販売しますから、大した金が無くとも買ふことができます・・・・・・地方でミシンを覚えますのには、月賦で売つた所で、無月謝で教えます。

             『応用自在現代広告文句辞林』千早正寛

 ――― ミシン一台で裁縫全部を遊ばす大経済を成程と御承知遊ばすにはシンガーミシンを実際ためして御覧になるに限ります。
  そよ吹く風の初秋に際していとも親しむべきは、家庭用シンガーミシンにて、時節に有り勝ちの憂愁の思ひも消散し給ふべし。実益多きが上に趣味も亦秋と共に深からん

1931昭和6年:『借金の合理化』改政社・著者の犀川長作は弁護士

ミシン金融の項:東京にある6つの業者・店名、住所、電話が掲載されている。
―――(序)およそ、この*不況時代に処してゆくには、どうすれば・・・・・・おとぎ話みたような金儲けの雑本は店舗に堆積されている。溺れる者は藁でもつかむとやらで、迷へる民衆は或いは手にするものがないとも限らないが、その日暮しの庶民階級にどうして金儲けができようか
―――本書は、その階級の人々に、でき得る限りの親切と、丁寧と、そして極めて平易に、金融利用の秘訣を提示したものである。

  *不況時代: 昭和5年、世界大恐慌が日本に波及、不況は昭和7年ごろまで続いた。

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1948昭和23年:『最新機器総合型録』(日本科学技術連盟)
     <ミシン>
 「ミシンは近代文化の所産で、その発明普及が衣料文化の飛躍的進歩或は衣料製作の能率化、画一化などを通じて、世界人類の福祉に貢献・・・・・・
 この観点から我が国の現況を見れば、ミシンの保有台数は、太平洋戦争前1000人あたり19台、戦後は1000人あたり7台に過ぎず、東洋諸国間においてすら極めて低位にある実情で、将来文化国家としての日本はミシンの保有台数を欧米諸国のレベルに引あげるべきで、
その上多数の引揚者戦炎者(戦災?)、遺家族等の更生用機器としての用途、又食料輸入の見返品としての適格性を思ひ合せる時、その前途は輝かしい光明に満ち満ちて居ります・・・・・・

 技術の面では戦時中の輸入途絶による国産化などの必要から、却つて相当の進歩を遂げ・・・・・・今や各ミシン製造メーカーは終戦と共に立ち上がり、本年度は13万台、来年度は20万台を越える計画であります」

 この『最新機器総合型録』には国産ミシンの写真があり、蛇の目ミシンが懐かしい。カタログにあるミシンをあげてみるが、覚えのあるメーカーありますか。また、現在も生産されているかな。

 トヨタミシン・リズムミシン・三菱ミシン・東京アサヒミシン・パインミシン・イシイミシン・津上ミシン・蛇の目ミシン・マルタミシン

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2014年9月 6日 (土)

130年前の漁業者表彰(牡鹿郡・気仙郡)

 はや9月、図書館カードを首から提げて小道を歩いていたら、かすかに良い匂い。辺りを見回すと金木犀ならぬ銀木犀が咲いていた。キンモクセイのオレンジ色と違って白い花は地味で香りがないと気付かない。こじつけのようだが、人の歴史、業績も同様かと。記録がなければ埋もれてしまう。
 そこへいくと東洋文庫は埋もれそうな過去を遺してくれている気がする。この文庫には東洋こと広いアジアはもちろん、日本の地方文化、産業なども収められている。たとえば、『大日本産業事蹟』(上・下、大林雅也編著・平凡社)には、記録が残されにくい農業や漁業などさまざま記述がある。何か参考になるかも知れない。項目をあげておく。
 各項の説明は短いが、纏めるには時間のかかる調査と史料が必要。価値があってもベストセラーを予測できそうもない地味な仕事。著者はどのような人物だろうと気になったら、巻末に略歴と解説があった。それに基づき、著者と岩手・宮城県水産業の一端をあげてみる。 

 勧農殖産、開拓疎水、穀菽(コクシュク、穀物・大豆)、蔬蓏(ソラ、野菜・果実)、果樹、各様草属植物、各様樹属植物、甘蔗糖、茶、養蚕製糸、林業および林産物、運輸交通、漁猟、漁具、捕鯨、採藻、河沼漁、業業参考、海産製品、製塩、織物、陶磁器、磁器、各種工芸、抄紙、製油、醸造、食料製品、鉱業、雑事
(1988『大日本産業事蹟』第一編~第四編)。

 
【漁猟】 <陸前国気仙郡 鮪(まぐろ)漁業者の事蹟

 陸前国吉浜村故・新沼武左衛門なる者は、従来地方に秋鮪漁業のなきを痛歎し、歳月辛苦を積み、ついに一種の*建網(たてあみ)を工夫し、これを浜海の各所に試設し、新たに漁利の多きをいたし、公益を後人に伝え、以て1885明治18年4月 宮城県下本吉郡、牡鹿郡、桃生郡、岩手県下気仙郡、南閉伊郡、連合水産共進会より特にその功労を追賞する所ありし。

  *気仙郡: 1869明治2年9月、江刺県に属し、同4年11月、一ノ関県に属し、同9年4月、宮城県に属し、同年5月、岩手県に属せり(『岩手県史談』1899志村義玄)。

  *建網: 魚群の通路に設置し、魚群を導き入れて捕らえるもの。定置漁業の大部分はこれをもって行われる(『広辞苑』)

【海産製品】 <陸前牡鹿郡 鮪節製造の起源

 陸前国牡鹿郡十八成浜 遠藤金兵衛なる者は幼児より漁業に従事し、かねて魚商を営み、しばしば豆、相二国(伊豆・相模)の間を経歴し、たまたま小鮪を節に製するの実況を目撃し、深く感ずる所ありて、その製法を習練して居村に鮪節の製造を創む。
 漸次販路を拡張し、製額を増し、特産となし、海浜漁民の福利を増すに至り、その功績大なるを以て、明治18年4月 宮城県本吉郡牡鹿郡桃生郡岩手県下気仙郡南閉伊郡連合水産共進会においてこれを嘉賞する所あり。

 

         大林雅也
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 1866慶應2~1927昭和12年
          東京府士族
 1887明治20年8月、東京農林学校農学本科を卒業、農学士、22歳。三重県尋常中学校に教諭として赴任するも間もなく辞職、東京に戻り、農商務省に入る。

 1888明治21年、このころ農商務省技手見習、農務局蚕糸課に所属、月給30円。
大林は蚕糸部に配属され、主に海外実況の調査を担当。
 1889明治22年、あちこちの地方に出張、「農工商臨時調査」にあたった。
 1890明治23年には三重県に出張、巡回調査にあたり、県知事部長らと面会、乳牛場、養豚場など見学、県議会の傍聴もした。

 明治政府は、維新このかた欧米制度・技術の導入に全力をあげていたが欧化方針の反省が生じる。大林は上司・前田正名のもと調査に従事したことにより、在来産業に強い関心をもち、『大日本産業事蹟』を著すにいたった。東京農林学校卒業から4年後のことである。この書で、

わが国在来産業の起源と発展の過程を、創業者らの事蹟をもとに明らかにしようとした」のである。

 1892明治25年、農商務省技師に昇任。29年、農商務省産業講習所、このとき新設の西ヶ原、農務局製茶試験所の主任技師として製茶試験などを担当。
 当時、農商務省には官僚体制が整備され、本省にいることなく地方に調査に赴く環境は失われた。これ以後、大林は1906明治39年までもっぱら茶業専門技術官僚の道を歩むことになる。
 1894明治27年、大日本農会・全国農事大会に出席。
 1907明治40年、招かれて静岡県農事試験場茶業部(牧ノ原)に赴任。
 1911明治44年、茶業組合中央会議所(東京京橋区)の嘱託技師となり、かつての住居(駒込)に戻る。この時をもって、官吏生活を終え、茶業組合の嘱託技師、特別議員として、1924大正13年まで、製茶技術の改良普及につとめる。
 1927昭和2年、大林は生涯ほとんどを東京で過ごしたが、千葉県船橋に転居後、心臓麻痺で死去。61歳。

 「一人の専門的農業技術者が、若い頃、『大日本産業事蹟』という一冊の編著をまとめたことを大事に思う」(丹羽邦男、解題)。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  【けやきメモ no.3】

  遠い復興  “戻らぬ港 細る漁業”
 宮城県石巻市雄勝町の北東部に位置する荒(アラ)漁港。岸壁の半分は崩れ落ち、コンクリートのがれきは放置されたまま。漁船は1隻も係留されていない。「目の前に漁場があるのに、自分の漁港から船が出せない。本当に歯がゆい」荒地区の漁師は憤る。
 復興工事を何度か発注したが応じる企業がないのだという。東京オリンピック、復興需要による人手不足も原因のようだ。津波で壊れたまま、手つかずの荒漁港の写真がすさまじい。東日本震災から3年半すぎたのに、ほんとうに復興は遠い。何も出来ないので、せめてこの記事を紹介したい。
(毎日新聞2014.9.7「遠い復興・雄勝」)

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