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2014年10月

2014年10月25日 (土)

ああ小野訓導、小野さつき(宮城県)

 毎日新聞<道徳を「特別教科」16年度にも検定教科書導入>2014.10.22
「教材は検定教科書が適当としながらも、郷土資料など地域による多様な教材の併用を求め」があった。道徳というと身構えてしまうが、地域を知るのはいいと思う。
 郷土の誇りを記すとなれば、優れた業績やいい話に偏りそうだが、書き残さないと。埋もれてしまえば無かった事に。それに物事が盛んになると批判や反対が出、これはこれで残り、偏りがいくらかは少なくなるかも。 
 ところで、道徳修身を指導したのは小中学校の先生、訓導である。訓導は1873明治6年から戦後の教育改革にいたる小学校の正規の職名で、戦前の修身の教科書には「殉難の訓導」が載っている。
  たとえば、関東大震災に遭い御真影を死守した先生、身を犠牲にして生徒を救った先生。その「殉難訓導」で最も有名なのが小野さつき訓導。

                      小野さつき

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 明治34年6月14日、宮城県刈田郡福岡村、小野政治の次女として生れる。7歳で中岡小学校入学、3年のとき福岡小学校と合併し通学に往復一里、冬場は大変だった。
 1916大正5年、地元の白石町立実科高等女学校入学、同7年卒業
 1918大正7年、宮城県女子師範学校入学。官費生で寄宿舎にはいる。得意は裁縫・図画・数学で体操は水泳ほか運動助手をした。

 1922大正11年 卒業。
 3月31日、志望により刈田郡宮尋常小学校訓導を拝命。九級下俸四〇円。学校職員は男子8、女子5名。学校の近くに間借りして自炊。受持児童は66名。
 初給料でビスケットを買い在学中着ていた筒袖で母校を訪ねた。化粧もせず、同窓会へも筒袖で出席するなど驚くべき質素の人。性格は表裏がなくサッパリ、しっかり者で同窓生から頼りにされた。
 愛読書は、教育書のほかに厨川白村著『象牙の塔』、雑誌『思想』『婦人公論』。

 7月6日、皇太子が北海道巡啓のため白石駅北白川駅の間を通過する際、児童を引率して奉迎した。そのときいい景色をみて写生の授業を思いついたという。

    “ああ小野訓導”
 7月7日、5時限目の図画の授業は写生にして野外へ。受持の4学年男女56名を引率、昼12時45分学校を出発、白石河畔に向かった。
 ちなみに鉄道は白石川に沿い、日露戦争の時、戦地に赴く兵士たちの汽車が通ると、村人は川岸に並んで小旗をふって万歳を叫びながら見送った。それで白石川を万歳川とも。

 写生に出た日はとても暑かった。生徒が泳ぎたいとせがむので、さつきはやむを得ず許可、危ない所に行かないよう注意を与えた。子らは膝くらいの浅瀬で遊んでいたが、3人が裸になって水中に飛び込んだ。対岸に泳ぎ渡ろうとしたが危険な場所にはまってしまった。さつきは助けを求める児童に気付くと、着衣のまま川に飛び込み2名を助けた。もう一人助けようとするのを児童らがしがみついて引き留めるが、それを振り切り、再び川に飛び込んだ。溺れる男児に近付くと絡みついてきた。そのため思うように動けず、二人はそのまま渦に巻き込まれ、流されてしまった。
 悪い事に事故が起きた時、昼食後の午休み。畑に農夫はいず、川で漁をする者もいなかった。助けてくれる大人が近くにいなかった。子どもたちが泣き叫びながら助けを求め、捜索の人々が多勢駆けつけたが、間に合わなかった。
 川岸に横たえられた22歳の女子と13歳の男児、二人の遺骸を前に数百の村人が涙した。天の川で男女が邂逅すると伝えられる7月7日七夕の日に若い娘が命を落とすとは。

 7月14日、宮小学校において村葬。各界から弔辞、弔歌、弔、弔電が寄せられた。
         故小野訓導を葬る日 
   (棺につながる)縁の綱を握る故小野女史生前の教え子
     弔旗は風に翻り三千余名の会衆皆泣く
     ああ永久に鎮む妙操大姉の霊

 小野さつき死後、数々の表彰があった。
 鎌田栄吉・文部大臣、力石雄一郎・宮城県知事、佐藤静治・刈田郡長、沢柳政太郎・国民教育奨励会長、徳川達孝・日本弘道会会長。
 社会の反響は大きく、各新聞は事蹟を伝え、殉職訓導小野さつき女史を賛美してやまない。映画が製作され東京本郷座で舞台にもなった。これら賛美一辺倒の世間だったが、次のような冷めた目もあった。

          <小野訓導の死> 『真実の鞭』より 

 世人は挙って女子の殉難を美しい死として悼んでゐたが、私には単にそれだけで、女史の死を葬ることはできなかった・・・・・・ 考うるにあの場合、女史の心頭には咄嗟にあらゆる責任感が一時に激発されたのではなかったか・・・・・・ 私は深い痛ましさ憐れさを、女子の死に認めずにはゐられない気がする。
 若し此処に女子が二人目を救助しただけに止めて、存命してゐたならば、どういう結果になったか、それを見ると慄然とするものがあったからだった・・・・・・ 自分の力で能う限りの事はし尽くしていた。
 しかし存命してゐたとすると、飽くまで女史は最後の一人を見殺しにした事になるのであった・・・・・・ 女史は一人自分ばかりでなく、学校名を傷つけ、その父兄の怨嗟を買ったに違いなかったと思う。此の死の一線前の女史の世界は、実に冷酷な惨しいものでなければならなかった・・・・・・
 賛美する世間こそ、死に駈けらしめた軽浮な一面を持っている・・・・・・酸鼻な死! 私はそれを女史の死に感ずる。あの事件の顛末を探れば探るほど、自ら死について行ったような女史の殉難を、こうした世間の前に私は悲しく思う。

  参考: 『噫故小野訓導』1922刈田郡教育会/ 『烈婦小野訓導』1922中田武雄/ 『殉職訓導小野さつき女子』1922宮城県教育会/ 『真実の鞭』鷹野つぎ子1923二松堂書店

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2014年10月18日 (土)

北海道大学育ての親、佐藤昌介とその父、佐藤昌蔵(岩手県)

 [星松三郎とその夫人」でレディファーストを実行する星を進んだ男と思ったが、明治期は笑いの種になったらしい。海外に留学または公務で出張のときは仕方がないが、帰国すれば男社会、レディファーストが何だとなる。
 ―――駐米公使・栗野慎一郎がアメリカから帰朝した時に、妻君が神戸で汽車に乗ろうとして、栗野に向かい「あなた手を取って頂戴な」と言った。すると栗野は「馬鹿ここを何処だと思う。日本だぞ」と叱り飛ばしたそうな(『独笑珍話』より)。

 「ここは日本だぞ」の話が載ってる『独笑珍話』(嬌溢生1907実業之日本)は、外交官はもとより政治家、官僚、実業人、庶民まで週刊誌的ネタが満載。「知名人で厳格なる面貌にて天下に活動している各界人の珍談、失敗」を面白おかしく描き、学者も俎上に。

 ―――札幌農学校(北海道大学の前身)からは随分奇傑の士が出ている。農学を修めながら丸で方角違いの職業に就いている者が大部分であるのは一奇だ。1897明治30年第一回卒業生で荒川重秀は船舶司検官から文士俳優に、第二回の内村鑑三、第四回の志賀重昂などは誰が見ても農学士に適当な仕事を遣っているとは思えない・・・・・・
 第一回の卒業生佐藤昌介は札幌農学校校長を勤めているが、彼は農業経済が大得意で評判もよろしい。新渡戸稲造は第二回の卒業生じゃが、在学中も英文の達者なことは有名であった・・・・・・出身者に教育家が多いが、教科書収賄事件に関係した者は一人もない。

 金や女のしくじり話や奇談が豊富な『独笑珍話』だが、前出「札幌農学校の卒業生」では真面目を評価。面白話の合間に教科書疑獄(明治35年教科書採用をめぐる贈収賄事件)をあげるなど幅広い。著者・嬌溢生はもしかして複数人か。
 ともかく、卒業生中、佐藤昌介が東北出身、またその父昌蔵が一段と興味深い人物なので、佐藤父子を見てみた。

              佐藤昌介

   1856安政3~1939昭和14年
 1856安政3年11月、陸中国稗貫郡里川口村に生る。父は佐藤昌蔵は盛岡藩士。
 1863文久3年、盛岡藩・揆奮場に入り文武両道を学ぶ。父はここの学頭を勤めた。
 1868慶応4年/明治元年、戊辰戦争。父は「勤王の志」抱くも藩に従い秋田を転戦。

 1869明治2年、戦が終り父が藩用人となり盛岡に移転。翌年、藩の作人館で学ぶ。
 1871明治4年、父に従い上京、「共慣義塾」また小笠原賢蔵に入門、英語・数学を学ぶ。
 1872明治5年、横浜に行き、星亨とアメリカ人ブラウンの英学校入学。
 1874明治7年、東京・外国語学校英語科に入学。

 1876明治9年、卒業。札幌農学校教頭アメリカ人クラークが東京に生徒を募集しに来、これに応じて友人6人と北海道に渡り、札幌農学校に官費入学。
 1877明治10年、アイヌ人の案内で生徒10人で石狩原野の地形山川の形状を見、その後も江差福山七重地方を踏査。
 農学校では農学・理科などの専門学科だけでなく広範囲にわたる近代的教育、キリスト教にもとづく人格教育が行われ人材を輩出。昌介もクラークの薫陶を受け、キリスト教に入信。
 1880明治13年、卒業と同時に開拓使に奉職。

 1881明治14年稲田陽子と結婚。アメリカ留学、ジョンスホプキンス大学で農業経済および農政を研究。
 1886明治19年帰国、農学校教授となる。以来、1930昭和5年の退官まで教授、学長、総長を歴任、「北大育ての親」といわれる。その佐藤昌介が、学校と離れていたのは洋行した時くらいであった。

   参考:『北海道人物誌』(岡崎官次郎1893北海道人物誌編纂所)/ 『コンサイス日本人名辞典』三省堂

 

        佐藤昌蔵

 1833天保4年6月15日、稗貫郡花巻で生る。盛岡藩士。号は花巻城にちなみ十八城。
   同藩の松岡圓平に入門、漢学を学ぶ。郷里花巻にいて御取次という役を務めた。

 1849嘉永2年頃、盛岡藩主の廃立問題に絡み、昌蔵は硬論をとなへ罪になるところだった。藩の重臣目時は昌蔵の才幹人物を愛し、目付に抜擢、盛岡詰めにした。
 1868慶応4年、奥羽列藩同盟に盛岡藩も加わるが、昌蔵は勤王論を唱えた。同盟の不可を論じ、「鎮撫総督府の命は勅命に等し、故にわが藩はよろしく九条総督の命を奉じ、同盟に抗して勤王に終始せよ。もし仙台藩攻め来たらば花巻城でこれを防ぎ、孤忠を守り南部武士の面目をたてん」と建議。
 しかし藩は同盟に決し、秋田に進撃した。
 戊辰戦役に失敗した盛岡藩はその善後策に窮し東次郎を挙用。東次郎は勤王の士を抜擢、昌蔵は城中勤番になり、藩主父子が東京に召還されるや勤王藩士として従った。
 維新後、感ずる所あり、耕作に従事し平民籍になる。

 
 
 1869明治2年、盛岡藩権少参事兼公用人として東京に駐在、同4年、廃藩置県で盛岡県がおかれ、盛岡県権典事に任用された。同5年、免官。
 1874明治7年、台湾征討事件が起こると、東次郎と上海に赴き大陸方面で活躍。事件落着後も上海にいて中国の内外の事情を探った。
 1875明治8年、帰国。 故郷に戻り青森県勧業課長として出仕。同10年、岩手県庁に転じ、南部利恭の新撰旅団募集に力をかした。同14年、西東磐井郡長。同18年、茨城県庁に転じ、同県下郡長などを歴任。
 1889明治22年、退官して郷里に帰る。恭教社を起こし農業の振興をはかった。
 1890明治23年、国会開設。岩手県より出馬し国会議員に当選し、前後10年衆議院議員として国政の場にあった。
 1915大正4年11月30日、83歳没。墓は稗貫郡大田村昌歓寺にあり、碑文は子の昌介の撰、篆額は西園寺公望の書である。

   参考:『岩手県国会議員候補者列伝』1890三省書店 / 『岩手県国会議員列伝』1889哲進堂 / 『興亜の礎石』1944大政翼賛会岩手支部 / 『日本帝国国会議員正伝』1890田中宋栄堂 / 『明治新立志編』1891鐘美堂

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2014年10月11日 (土)

星松三郎とその夫人(宮城・高知)

  『名士名家の夫人』この本は女性の手腕、能力を誉めているわりに、幾人かは○○夫人、△△の娘としか書かれてない。「家の制度」が当り前の時代、女性は活躍してもフルネームでなく、××の妻、○△長女などと表記されることが多かった。お家大事だったのだ。
 しかし今、「家」どころか「墓」さえ棄てられている。“あいつぐ墓の大量投棄”がNHKで放送されていた。すし詰めに立ち並ぶ数え切れない廃墓石、家の制度が壊れていくスピードが目に見えるようだ。少子化の現代、この先が思いやられる。
 ところで、すぐに答えがでない問題はおいといて、家が尊ばれ、家父長が巾をきかせていた時代でも、仕事と家庭を両立、夫に大事にされた星夫人のような女性もいた。

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 国会議員の夫が子どもの面倒を見、妻の仕事を応援、ホテルのパーティでは人目を気にすることなく妻に飲み物を運んだりとやさしい。今では珍しくない夫婦だが、明治期には笑われたらしい。何しろ次の引用文、お終いは「呵々」。わざわざ、呵々大笑の“呵々”大笑いを附け加えているのは編著者の嫌み、それとも世間一般の風潮?

   <星松三郎と其夫人>

 ――― 星松三郎君の細君は、東京女学校の教師にして頗る秀才の聞こえあり。校内における生徒間の評判もよろしき方なり。
 居常内政の術に巧にして、又君に仕えて頗る親し。君に帰してより以来幾人の子女を挙げられしが、その教薫は皆、夫君一人にて所弁し居り、夫人には毫も内顧の憂いを致さする事なしと。而して夫人には専ら教鞭に力を尽くさせつつあり、君は元来細君には親切の方にしてなかなか注意周到なり。
 去る一昨年の天長節の折等は、君夫人と共に帝国ホテルの夜会に出席せしが、君は頻りと細君の処に種々の品物を持ち運びつつありしとか、人の妻となってもかく親切にせらるは実に幸福なる次第なり。これ即ち君が夫人の徳高きの故ならんか、呵々。
      (『名士名家の夫人』須藤愛司1902大学館)

           星 常子 

 高知県土佐生まれ。片岡常子。女子教育家。
 17歳で高知女子師範学校入学。1884明治17年、東京女子師範学校(のち高等師範学校)入学。1886明治19年、高等師範女子部にすすむ。

    “学生時代のエピソード”
 校長の川上彦治は女子も男子も同様に扱う主義で、女子も雪の降る時でも立たされた。同級生13人中に教育家・社会事業家の野口幽香がいる。女子学生の髪形は銀杏髷か唐人髷だったが、生徒同志で結い合うので書生風になり生意気に見えたらしい。舎監から島田髷にするようにと注意されたことも。
 舎監中に、会津の山川浩・健治郞兄弟の姉、山川二葉もいた。
 金曜日毎に夜会があり、西洋人や貴族を招待して、夜中までピアノの伴奏で踊った。

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 1890明治23年卒業。東京府立第二高等女学校の教師、献身的で勤勉と評判だった。
 1896明治29年6月15日明治三陸地震津波に義援金。横浜毎日新聞記事によると、常子も長女愛子も各1円を寄付。
 1903明治36年『家事教程』(星常子・中島與志子共著1903東京六盟館)上下2巻出版。内容は、衣食住・看護・伝染病の予防消毒・育児・教育・養老・家計・経済など。

 
 
    “明治35年頃、常子談”
 現時の学制と当時の学生を比較すると、華美に流れ勉強に熱心でないようです。
 もし、今日社会でいうように、堕落した生徒があるとしたら、その罪は家庭にあるのではないか。また女学生の堕落が事実とすれば、まづ男子の方に改良すべき点が多いでしょう。女子はどうしても男子の嗜好に伴うものでして・・・・・・
 性格は、小さい時に父母に死なれ家庭の味を知らないせいか、物事に冷淡だとよく人に言われます。理科と数学が好きで文学などに興味がなく、理性に優れてるのは悪くないが、女には感情に美しいところが無くてはならぬと注意されたことがあります。

 (片岡)常子は家庭を持つまでは土佐の同郷、谷干城子爵家に世話になっていた。星の前妻が死去したあと再婚。夫が病没(時期不詳)したあと、小学生の長男を頭に5人の子を育て上げた。
   写真:『名士名家の夫人』中島益吉編1907読売新聞社より。学生時代と後年。
   著作

          星 松三郎

1856安政3年5月~?
 陸前登米郡佐沼町の呉服商・島屋松治郎の第七子。英語と漢学を学ぶ。
 1870明治3年、佐沼で設立された公愛会の通信員としてしばしば上京しては大隈重信と面談、自由民権を唱えるようになる。
 1875明治8年、故郷が水害に遭うと家産をつぎ込み窮民救恤にあたった。勧業世話役、衛生委員、学校世話役など公共事業に力を入れ、出費もした。
 1877明治10年、西南戦争に際し、木綿百反を陸軍省に献納。
 1881明治14年、北海道に渡り300万坪の原野を開拓、経営。政変で大隈が下野、改進党を組織すると積極的に参加、評議員となったが、後に意見が合わず袂を分かつ。
 1882明治15年東京市芝区伊皿子に居住し呉服店の支店を横山町と弥生町に開く。
 明治17~19年の間、前後二回、日本全国を周遊して民情、経済を観察。これを編集発行し内閣に提出、民間に頒布した。
 1885明治18年、東京市芝区市会議員に当選、以来8年間つとめる。 
 1886明治19年、ヨーロッパに渡り、政治経済を学ぶかたわら代議政体の運用を研究して明治21年帰国。翌年、芝区より東京市会議員に。以来、数々の公職を歴任。

 一家一門は松三郎の政治参加に反対するも第一回総選挙に宮城四区から出馬、落選
 1898明治31年8月、臨時総選挙に東京府第二区から出馬し当選。商人出身の政治家として経済政策をとった。     (『立身致富信用公録』1902国鏡社編)

 実業界においても、品川電灯株式会社専務取締役その他、帝国水産、日本織物、山本セメント、宮城商業銀行などの重役。公共事業で何度も銀盃や褒賞を受けた。
 仙台東7番町、石巻鰐山に別荘を設けて交遊の地とした。
    (『宮城県国会議員候補者列伝』藻塩舎主人1890晩成書屋ほか)

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2014年10月 4日 (土)

会津富士、磐梯山の大噴火

 近ごろ天候が変だ。雨の降り方も半端でなく災害をもたらしている。何か不安ただよう秋だが、御嶽山の紅葉は青空に映え人をひきつける。2014年9月27日も上天気、多くの登山客が御嶽山の頂上めざした。と、突然、噴火がはじまった。立ちのぼる噴煙、降りそそぐ火山灰や石。戦後最悪の大惨事となった噴火、負傷者ばかりか死者も多くでて恐ろしい。山は無惨に灰に埋もれ、多くの人が命がけで救助にあたっている。麓で無事を祈りつつ見守る家族、友人たちが傷ましい。日本には火山が多いと改めて思い知らされた。つい忘れがちだが、噴火の記録を目にすることが少なくない。

 1888明治21年7月15日
 午前7時半頃、大音響とともに磐梯山は火柱を噴きあげた。鳴動と地震は2時間にわたり、山頂は吹き飛んだ。天から石と灰が降りそそぎ、泥流は時速77キロのスピードで北川山麓を襲い集落を呑み込んだ。死者は463人(角川『日本史辞典』)。

        <救難救助の図>宮城県士族・雲野香右衛門
Photo ――― 会津人は維新の際の戦争をこの上なき恐ろしき事と記憶し孫の末々まで伝うべしと考えしが、この噴火事変に遭い、ああ今度この変に比すれば会津戦争なんど丸で盆踊りくらいと評せし由、是にてもその惨状を推察せられぬ
(『磐梯山大変録:密画挿入』明治21.7.30)

     <磐梯山噴火、山頂吹っ飛ぶ>明治21.7.17 東京日日新聞

 大噴火、岩瀬村全村埋没――― ある電報に磐梯山噴火、岩瀬村の内およそ56戸潰れたり、噴火なお止まずとありし由。また一報に同山の噴火は六里四方に災害を及ぼし、埋死およそ四百人ほどあり(内十五人浴客なり)。埋没戸数三十ほど、*ヒバラ全村は大川噴出の土に埋もれ、ほとんど沼とならんとす。鳴動なおやまずと見えたり。
  *ヒバラ: 北麓の檜原川・長瀬川が泥流でせきとめられ、裏磐梯に檜原湖などたくさんの湖沼が発生した。

     <二里四方の草木枯死>明治21.7.19 官報

 磐梯山二里四方は噴火灰燼のため草木枯死し、かつ長瀬川流滞停して二里四方に溢る。よって直ちに同県にては防御に力を尽くせり。しかして、該山の鳴動はようやく止み、再び破裂の恐れなかるべし。

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    図:小磐梯旧形の図

福島県耶麻郡磐梯山噴火詳誌』佐藤誠之助著



 

 


    <猿猴、地変を告げて人名全うす>時事新報明治21.7.23

 磐梯山の噴火する三、四日以前より小磐梯、大磐梯、北磐梯、櫛ヶ峯等の諸山に住める猿猴は何か事あり気に啼き叫びて実に耳噪がしき程なりしかば上の湯、中の湯、下の湯および磐梯の湯等の諸温泉に入浴し居る人々は、かくも憐れに悲しみ叫ぶは天変地異の前兆ならん、或いは同類の首領の死を悲しむものならんなどと勝手に空想・・・・・・
 ・・・・・・是は必ず天変地異の前兆に相違なしとて、未発の危難を思い遣りそうそう支度を調え家路をさして逃げ帰りたるに、果たして十五日の早朝無惨の凶変起こりたれば、件の逃げ帰りたる人々は、吾が命は猿の賜なり。彼なかりせば如何で我が命助かるべきと、ひたすら万死の中に一命を得たるを喜びて他人に語り居れりといふ。

     <天なんぞこの村民に無情なるや

 1890明治23年国会開設の前年、東北遊説のため、谷干城佐々友房柴四朗らは、四朗の兄五三郎の案内で明治22年5月朝早く上野駅を出発した。
 本宮という所で降りて人力車で中山道を磐梯熱海に向かった。熱海に温泉はあるが伊豆の熱海と違いひなびた村なので、その夜は猪苗代湖東岸の宿、山潟亭に泊った。
 猪苗代の辺りは戊辰の戦陣があった所で往事がしのばれ、柴四朗は涙をさそわれた。佐々友房は西南の戦で西郷軍に呼応し戦い敗れた敗軍の将である。敗れた者同士、二人は杯を傾け昔を振返った。
 ちなみに、谷干城は西南戦争で、政府軍として熊本城を西郷軍から死守した将軍。のち貴族院議員。

 翌早朝、一行は磐梯山に上り前年に大爆発をした噴火の跡を見物した。その噴火で、戊辰戦争さなか会津に攻め寄せた谷干城が泊った檜原村、長坂村も村民を喪っている。長坂村は噴火のさい百人以上が圧死、そのうえ岩瀬川が決壊、洪水で家や田畑が流されるという惨状であった。
「天なんぞこの村民に無情なるや」
災害の大きさに誰も言葉がない。その晩ふたたび山潟亭にとまり翌朝、出迎えの人たちと会津若松に向った。途中、十六橋にさしかかり白虎隊士の死を悼んだ。
   (『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)

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