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2014年11月

2014年11月29日 (土)

 『日本画 名作から読み解く技法の謎』

 何気なくテレビをつけ画面に吸い寄せられる事がある。画面いっぱいに金色のダイオウイカが踊っているのを見たとき思わず見入ってしまった。それで『深海生物の不思議』講座を受講してみた。講師は『潜水調査船が観た深海生物』著者、藤倉克則先生。
 [深海6500]に乗艦して撮影した富士山を逆さに沈めた位のウン千メートル下の深い深い海を、スクリーンに映しだして解説。映像を印刷したレジメもあり親切な説明だったが、門外漢の私には初めての事ばかり。説明の半分くらいしか理解できない。
 それでも、けっこういろいろな生物がいる深海、海底の地形は変化に富んでるしなど想像以上に豊かな世界なのが判った。[深海6500]探査で、近い将来、新たな食料の確保や大地震の予知ができそう。こういう世界もあるのだ。

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 「深海生物」の理解が足りないのを理系が苦手のせいにしたが、文系でも解らないものは多い。絵画、とくに日本画はわからない。まして修復の世界など、難しく大変そうと思うばかり。たまたま、上野の東京藝術大学・陳列館で催されている<美しさの新機軸 ~日本画 過去から未来へ~ 2014.12.3>を見て修復のイメージが変わった。
 修復は傷んだものを修理というより文化の復元、復興なのだと感じた。こういう世界があってそこに携わる画家や職人さんたちの困難、付随する学問など想像したことなかった。
 繊細で美しい絵、力強い絵など見事な模写を愉しんでいた友人に「雨の中来た甲斐がある。誘ってくれてありがとう」と感謝された。こちらこそだ。興奮が冷めないうちに感想を言いあえるって嬉しい。
 ちなみに、<美しさの新機軸>を見学したのは、執筆協力安原成美さんのご縁。

 その日、出版されたばかりの『日本画 名作から読み解く技法の謎』(東京藝術大学大学院保存修復日本画研究室監修、宮崎正明・荒井経・鴈野佳世子編著、世界文化社)を購入した。
 薦められて手にしたけど、絵や図がきれいで説明も易しく判りやすく、ついつい惹きこまれた。

 “面白くてためになる目からウロコの美術指南書”は本当、私も人に薦めたい。当ブログを読んで下さる方なら、精細な印刷の絵はもちろん背景となる歴史も愉しめる一冊。ただ、定価が3500円+税でちょっとお高い、図書館でいかがでしょう。
 次は、本編の<日本画論>から一部引用、それに内容一覧の目次。

 ――― [とらわれからの解放]  江戸文化の特徴は、とらわれから解放されたことです。それまでの日本文化は中国から伝播した文化やそれを模倣した受容の文化を基礎として、伝わってきたものをつくり変えることで形成された文化でした。
 今でこそ芸術にぴてはオリジナリティが重視されますが、昔は形式が決められていて、それに微妙な変化を加えることで新たな作品を生み出していたのです。しかし、江戸時代に鎖国によって人や物の出入りが規制されると・・・・・・ すべて内に籠っていく文化へと一変します。その結果、発酵していくような日本独自の文化が誕生したのでした。それまではお手本となるものがあったため、ああしてはだめ・・・・・・ こうしなければいけないというさまざまな制限がありました。
 鎖国によって外からの情報が遮断されると、今度はああしてみた、こうしてみたい、と自分で考えるようになり、日本文化のオリジナリティというものが生まれたのです。ここに、とらわれからの解放をみることができます。
 画家たちは様式にとらわれずに創作ができるようになりました。絵の具の盛り上げと垂らし込みという日本独自の絵画技法も江戸時代に大きな発展を遂げます。 また、形のとらわれからも解放されました。仏画でも山水画でも、様式を重んじて形を写す方法が主流でしたが、手本どおりでなくともよいのだという開放感が新たな造形感覚を生んだのです。
 そして、200年以上鎖国を続けた日本が世界に門戸を開いた時、その文化は驚きをもって世界に迎えられました。 (以下略)

               目 次

  第一章 (名作から読み解く素材と技法

受容・変容・超越の日本文化/ 絵画の命 色の探求/ 絵画の「骨」線画の愉しさ/ 多彩なる墨の技法/ 光り輝く仏身を描く/ 截金vs金泥 超絶技巧の競演/ 銀が織り成す幽遠静寂の美/ 彩色裏技/ 表装の裏技/ 神仏の住処を飾る厨子絵の魅力/ 金箔が生み出すユニークな空間表現

  第二章 (よみがえる名画

模倣と超越/ 隠された図像を読み取る/ 世界で共有される失われた文化財/ 仮説から始まる新たな研究/ 特許技術による絵画複製 ①壁画の複製 ②絹本絵画の複製 ③板絵の複製 

 第三章 (誰もが知りたい日本画奥の手

絵を描く前に絵を仕上げる/ スケッチのコツ/ 絵づくりと線描/ 技術の応用/ 彩色のコツ/ 箔の使い方/ 色についての考え方

 [日本画論

 ① 十二支の鼠に学ぶ日本文化  ② しみ込む文化  ③ 目のつけどころ  ④ 現地で絵を描かない理由  ⑤ とらわれからの解放

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2014年11月22日 (土)

桜井女学校と桜井ちか(東京)

 <明治最初の女流作家・三宅花圃(田辺竜子)>を2014.7.12に掲載したが、そのとき花圃が桜井女学校で学んだのを記さなかった。資料がなく割愛したが、『明治時代史大辞典』(吉川弘文館)で確認できた。遅蒔きながら三宅花圃が桜井女学校で学んだことを附け加え、明治初期の女子教育の先駆けとなった学校と人物を紹介したい。

       桜井ちか

 1855安政2年4月、東京日本橋、幕府関連の寺社修造などを扱う「神宝方」御用商人の平野家に生まれる。平野家はちかが生まれた頃はまだ栄えていたが、幕府崩壊とともに困窮し、少女期はとても苦労した。

 1872明治5年、数えの18歳で海軍士官・桜井明悳(あきのり)と結婚。
 芳英社、共立女学校などで英語を学んだ(明治4年の文部省布達によると、共立女学校は英学のみ)。
 他にアメリカ人宣教師について英語を学び、やがてキリスト教に近付く。やがて洗礼を受けて信者となり、夫明悳も影響を受けて改宗する。
 桜井昭悳は1845年弘化2年生まれ、伊予国喜多郡若宮村(愛媛県大洲市若宮)の神官の長男として生まれたが、神官になるのを嫌って上京。海軍を退役すると神学校で学び、日本キリスト教会の牧師となった。1883明治16年北海道で教会を設立、その函館相生教会の初代牧師となる。

 1876明治9年、ちかはキリスト教主義の英女学家塾を開設した。この塾はのちに小学校・貧学校・幼稚園を付設して桜井女学校になるが、最初は男子も交えた寺子屋式の学校であった。
 ちかは「良妻賢母」養成を教育の基盤におきつつ、母親が英語の素養をもつことが家庭教育において子どもに及ぼす影響の重要性をといた。
 1879明治12年、男女別学が制度化される。

 1880明治13年、函館に伝道に赴く夫について行くことになり、桜井女学校を矢島楫子(明治・大正期の女子教育家)に托した。そのころ学校は経営難であったようだ。
 北海道に渡ったちかは、函館女子師範学校で教鞭をとる。桜井夫妻の活動は『函館市史』で垣間見える。
 1884明治17年、札幌師範学校教諭。
 1886明治19年、大阪の一致英和学校(現在の大阪女学院)設立に協力する。
 1893明治26年、教育視察のためアメリカに三回ほど赴く。

 1895明治28年、帰国後、東京本郷に全寮制の桜井女塾を開き、家庭的な寄宿舎を作り女子教育に心血を注いだ。英語を中心に教え、西洋料理なども伝授した。また西洋料理の普及につとめ、『西洋料理教科書』『楽しい我が家のお料理』など多数の料理本を出版する。
 1928昭和3年12月19日、77歳の生涯を閉じた。

       桜井女学校

 1876明治9年、桜井ちかが開設した英女学家塾を始まりとする私立学校。明治初期、日本の女子教育に先駆的な役割をはたしたミッション系女子教育機関の一つ、現在の女子学院の前身。キリスト教主義の学校は、男子に比べて制度化が遅れている女子教育の分野に積極的に参加している。なお、桜井女学校は外国人宣教師の手によらず日本人・信徒の責任で創設・維持された。
 
 1879明治12年、桜井女学校と改称。この年幼稚園、20年に高等科を開設し、幼児から青年にいたる一貫教育の学校として注目された。

 1885明治18年刊『東京留学独案内』「桜井女学校」によれば、
 ―――本校ニ於ハ尋常小学科ノ他、女子成長ノ後、家政ニ必要ナル諸件ヲ教授、事物ニ注意シテ節倹ノ方法ニ実験セシム。束脩一円、月謝七〇銭、英学ヲ兼学スル者ハ一円二〇銭、寄宿月俸三円五〇銭。
 高等女学校やそれに類する各種学校へ進学するには、費用を負担できる富裕層や女子の教育に熱心な進歩的な層に限られていた。

 1890明治23年、新栄女学校と合併して女子学院と改称。矢島梶子(1883~1925)が初代院長となる。楫子は婦人矯風事業の先達としても知られる。

 学校は女子の英語教育で名を馳せたが、和漢学にも目配りし、西洋化の退潮期にあっても、和漢をふまえたキリスト教女学を体現した学校としても注目された。
 次は同年刊行『東京諸学校規則集』桜井女学校より
 ――― 第一部(修業年限4年)、国語・英語・聖書・修身学・和漢英文語学・歴史・博物・地理・天文・教育学・算術・代数・幾何・三角術・習字書学・唱歌・音楽・裁縫・編み物・体操
 ――― 第二部(修業年限2年)、英語・聖書・文学・歴史・科学・家事経済・唱歌・音楽・体操・小学教授法実習・幼稚保育法・洋式裁縫

 1899明治32年、高等女学校令。高等女学校は高等普通教育を行い「良妻賢母」を育成する機関とされ、男子中学校より教育内容は低く抑えられ、大学進学は認められてない。
 1915大正4年、高等女学校、大正9年に高等科を東京女子大学に統合。戦後、中高一貫の女子校となり現在に至る。

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『東京諸学校規則集』1890成分館/ 『東京留学独案内』1885春陽堂/ 『コンサイス学習人名辞典』1992三省堂 

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2014年11月15日 (土)

明治の大金持ち、斉藤善右衛門(宮城県)

“「左官科」の修了式が2014.11.12開かれた”というコラム(毎日新聞)をみた
 東日本大震災の復興工事などで深刻化する建設業界の人材不足を解消するため、宮城県立仙台高等技術専門学校(仙台市)が左官科を5年ぶりに復活させたという。技能を習得した6人は「建造物りで復興を手助けし、左官業をずっとしていたい」と決意。こうした若者、それを支え応援する人たちには心を動かされる。
 心を動かされるといえば、テニスプレイヤー錦織圭選手の大活躍が日本中を湧かせている。2014.11.15今夜のツアーファイナル準決勝が楽しみだ。こんな日本人がいたのかと驚くばかり。ところで錦織選手の進出とともに増える賞金に目がいく向きもあり、お金の計算をテレビでやっている。他人のお金、余計なお世話と思うが気になるらしい。運動選手や芸術家など自分の技術、能力を磨いて得たお金だから多くてもいいと思う。
 ところで生まれつきお金持ちという人間もいる。明治・大正期、佐藤善右衛門という大金持ちが宮城県にいた。生まれつき裕福でしかも理財に長けて財産はふえる一方、よく言う人は少なそう。興味をもちにくいが、エピソードの「戊辰戦争に軍資金を寄付して出征」が気になり、少し見てみた。

       斉藤善右衛門

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 1854安政元年、仙台藩領桃生郡前谷地村黒沢(石巻市)に生まれる。
 父善次右衛門は先祖代々の豪農で地主・酒造業で財をなし、献金により仙台藩の中級武士である「大番士」身分を与えられた。戊辰戦争に軍資金一万両を献じて従軍したが、白河で戦死。

 1868明治元年、善右衛門は14歳の若さで家督を相続。家政を叔父に托し、藩校・養賢堂に入学。学を修める傍ら、経史、戟剣を学んだ。
 1870明治3年10月、後見の叔父、廉吾とはかり、扶助米12石5斗秩禄を奉還して帰農を願い出て藩主はこれを許し、短刀一口を賜る。
 土着後は家庭教師を招聘して学術を研修したが、自らは福澤諭吉の著書を耽読し、政治経済などの研究に傾倒した。
 1871明治4年、前谷地村村長に公選される。
 1874明治7年、戸長を辞職。
 1875明治8年、関西遊歴。各地の人情風俗を見たり、商売上の知識を得ようと襲用の旅にでた。家業の酒の販路を広げようと酒造家を歴訪するなどしていたが、母親が病気になり帰郷。しかし間に合わなかった。
 1879明治12年、自作農を廃す。

 1880明治13年、宮城県会議員に当選するも、病と称して辞退。
 1881明治14年4月から6月まで再び関西再遊の旅にでる。
 1882明治15年、質屋業を改めて、金穀貸付を専門にすることにした。
 1883明治16年4月、また、周遊の旅に。
 1889明治22年、酒造業廃止。斉藤家の酒造業は百数十年間これを経営し、同家富の一大源泉であったが、政府の酒造取締りや自家の酒の需要が減ったことなどにもよるらしい。

 1890明治23年、川崎銀行が設立した土地会社・山口店から田地約660町歩を一括して買い取り、東北随一、千町歩地主に成長した。この取引については当時、日本銀行総裁の富田鉄之助の意見をきいている。これらの詳しい経緯は『斉藤善右衛門翁伝』に詳しい。
 この年6月、貴族院多額納税議員候補者となり、仙台の富豪・金須松三郎と対抗したが一票差で敗れる。そのころ収めた直接国税は2614円79銭5厘、県下第一であった。
 1892明治25年、衆議院議員に当選。しかし、政界の内情を知るに及んで翌年末辞任。

 この年、家訓『土地管理心得書』を定め、小作地管理・小作契約の近代化を進めた。また、善右衛門は投資の手腕があり、理財の天才といわれ、事業の見込み外れをしたことがないという。
 1894明治27年、貸付のことで告訴され収監され、新聞を賑わした(福島事件)。
  その他、石塚事件、大谷派本願寺財政整理、箱清水前山国有林下戻などが『斉藤善右衛門翁伝』に載っている。
 1901明治34年、育英貸費事業を開始。
 1909明治42年、全財産を挙げて金融会社・斉藤株式会社設立。写真はこの年、数え年53歳。
 この年6月、東北大学図書館建築費に5万円寄付。
 1921大正10年、学術振興に寄与する目的で財団法人斉藤報恩会設立。
 1924大正13年、仙台信託株式会社創立
 1925大正14年7月25日、72歳で死去。

参考:『明治時代史大事典』2011吉川弘文館 / 『斉藤善右衛門翁伝』1928財団法人斉藤報恩会。

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2014年11月 8日 (土)

忘れられた図書館人、青柳文蔵(岩手県/宮城県)

 筆者にとって、昔より今がいいと思うことの一つが図書館の存在。地元の図書館は、まるで自宅外の書庫のよう。大学図書館には読みたい本がたくさん、書庫に泊まりたいくらいだ。旅先の駅前図書館もいい。
 だいぶ前に青森の浅虫温泉へに行った。当時、新幹線が青森直通でなく八戸で在来線乗換え、待ち時間がけっこうあり一服する夫をおいて八戸駅前の小さな図書館に入った。どのくらいたったろうか娘からメール、「父が待ちくたびれてるよ」 慌てて外に出た。メールは青森と東京を一瞬にして結ぶが、紙の本はそうはいかない。家族に言い訳してもはじまらないが、そこにしかない本や資料がある。今や蔵書検索が自宅で可能、そこにしかない一冊も判る。しかし江戸時代は難しかった。個人蔵本を閲覧するのに金が要ることもあり、貧しいと読めない。ところが困苦から身を起し図書館を開設、世に貢献した人物が東北にいた。磐井郡松川村(現岩手県一関市東山町松川)出身、青柳文蔵である。

       青柳文蔵

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 1761宝暦11年9月25日、文蔵は仙台領奥州磐井郡松川村小野寺三達(静幹)と妻もとの三男として生まれる。字は茂明、号は東里。

 幼いころから読書を好み、少年期には『論語』や『史記』を夢中で読み、絶句を賦した(作った)。物事に動ぜず、言論を好む負けず嫌いで、論破されると「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」などと言い返していた。父はその気性を愛して医業を継がせようとした。
 1776安永5年、父の三達は文蔵を同業の登米郡の名医、飯塚芳安に弟子入りさせた。あるとき文蔵は師に所得を尋ね、年間500両と聞くと、患者のために寝食を忘れて働いてもそれだけかと、勝手に弟子をやめ家に帰った。父の三達は不遜な文蔵を怒り、父母に恥をかかせたと勘当した。

 1779安永8年、文蔵はわずかに300文をもって江戸に向かい、勘当が解けるまではと小野寺の姓を名乗らず、以後、父の生家の青柳を名乗る。

 江戸にでた文蔵は駒込在住の井上金峨に入門するが師は貧しく文蔵を養えなかった。学問をするにも資産がないとだめだと悟った文蔵は、所得を得ようと医家、武家、商家を転々とする。
 1784天明4年、師・井上金峨没。父三達没。
 1800寛政12年、文蔵はこのころまで句読の私塾で子どもに読み書きを教えていた。

 1802享和2年、公事師(代言人)になる。
 1803享和3年頃、文蔵は市井の人々の間で暮らしていたが、ある商家が浅草の侠客に金を奪われそうになったと聞き、解決を買って出た。委託書をもって商家の代行をし脅され負傷したがひるまず解決し報酬を得た。42歳にして初めて金2朱の米を買う。
 一躍、有名な公事師となった文蔵は、金融や訴状の書式にも詳しく、弱者の味方として市井の人々を助けたので頼みに来る者が多かった。文蔵は 「十余年にして多くの謝金を得るに」至り、貧者には無報酬で事に当たった。また、倹約して紙一枚も無駄にせず財を増やし書籍を買い求めた。

 1810文化7年、文蔵50歳「人生百半ばにして後事を経理せずば、死生の理に達する者にあらじ」と、妻と合葬の墓を建て寺に寄進をした。妻は新倉氏、男児を生んだが6歳で夭折、のち養子を迎える。
 1821文政4年、肖像画を描かせた。
 1829文政12年3月、文蔵69歳。これまで蓄えた書籍を多くの人に読んでもらうため仙台藩に、書庫を作り蔵書2万巻を献じて公開することを願い出た。藩は城下の中央、百騎町の医学館の地100余坪を賜った。
 はじめ、仙台藩や水戸藩の圧迫を受けたという。教育を重視し、学校や図書館建設に乗り出したからのようだ。
 近世から近代への転換点にあった「青柳文庫」、仙台では藩が運営する公共図書館、江戸では私立図書館の名称となる。

 1831天保2年7月、書庫の土蔵ができあがり目付二人が配され、青柳館文庫公開となった。以後、文庫は明治維新まで続けられた。
 文蔵は記念碑を建てることにして、儒学者・松崎慊堂(こうどう)に碑文を依頼した。文蔵と酒を酌み交わし会談した慊堂は文蔵の志の高さに驚き、人となりにも感心、誉めている。

 ちなみに、青柳館文庫の基本金は、金千両を藩に献じて、松川村に米蔵を建て、米4千石を蓄え、藩の役人により米を貸し付け、利益で文庫の修理などにあてることとした。この 青柳蔵は天保年間の恐慌の時に破壊し、文庫費用、米の貸し付けも廃された。しかし、仙台の青柳文庫は、医学館付属として藩費で明治維新の際まで持続した。

 
 1834天保5年、天保の大飢饉。このころ文蔵、病む。
 1838天保9年、文蔵は藩主に謁見、十人扶持を賜る。父の故郷、摺澤村に援助資金貸付けた。また、故郷に錦を飾り、父母の墓に詣で大法会を行った。
 1839天保10年3月14日、文蔵江戸で没す。78歳。生涯すぐれた読書人であった。
 この年、蛮社の獄や天保の改革があった。
 明治維新後、医学館は英語学校となり青柳文庫の蔵書は散逸、宮城県立図書館に3千余巻を残すのみとなった。

参考: 『青柳文蔵翁伝 青柳館文庫所在目録』1931宮城県立図書館
     『青柳文蔵とその文庫の思想像』1991岩手県当残町東山町教育委員会(編者・仙台市南部に図書館をつくる会)

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2014年11月 1日 (土)

柔術から柔道へ、講道館四天王

 2020東京オリンピック開催が決まりよかったと思いつつも、東日本大震災の復興工事の進み具合に影響があると聞けばため息が出る。難しい問題だ。ところで、日本最初のIOC(国際オリンピック委員会)委員は嘉納治五郎オリンピック創始者クーベルタンのすすめで就任。1912明治45年、第5回オリンピック・ストックホルム大会に選手2名を率い初めて参加した。それから52年を経た1964昭和39年、柔道は東京オリンピック大会でスポーツとして種目の仲間入りした。
 嘉納治五郎は明治期の教育者で、柔術諸流派(江戸時代には多くの流派が存在、呼び名も柔、柔術、体術など)を統合、体育的に構成した講道館柔道の創始者である。

 嘉納の講道館、最初の門人は西郷四郎。講道館四天王の一人で、長編小説『姿三四郎』のモデルといわれる。小説は明治20年前後の世相を背景に一青年の成長を描いた柔道物語、人気をよび映画にもなった。その著者、富田常雄の父富田常次郎もまた四天王の一人。講道館四天王あとの二人は、横山作次郎山下義韶(よしあき)である。近年、柔道のイメージは惜しいものがある。こんな時、明治の講道館四天王を思い返すのはどうだろう。

      西郷四郎 (新潟県/福島県会津)

 1867慶応3年、四郎は新潟県津川町の篠田家に生まれる。のち会津藩家老・西郷頼母近悳(ちかのり)の養子となるが、実子という説もある。

 四郎を養子とした西郷頼母は会津藩家老。戊辰戦争が起こると「恭順するように」と進言したが、入れられなかった。しかし、西軍が白川口に迫ると、みずから会津軍の総督として戦うなど活躍した。なおまた会津若松城が囲まれたときは城外に打って出、なお抗戦。そのさい屋敷に残った西郷頼母の家族21人が自刃という悲劇がおきた。家族を喪い孤独のまま戦い続けた悲運の人、西郷頼母。維新後、一時幽閉されたが赦され、東照宮の祠官として余生を過ごした。

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 西郷四郎は、はじめ軍人を志したが、身長150cm、体重50kg弱という小柄のため断念。
 1882明治15年、「小兵よく大兵を制す」の柔道に魅せられ講道館に入門。
 必殺技“山嵐”をあみだし、小柄ながら柔術各流派の強豪を破って講道館の名を高め、嘉納治五郎の外遊中には師範代をつとめた。
 四郎は、小柄な体で100kgをこす巨漢を大技・山嵐で投げ飛ばし、反対に投げられても投げられても、猫のように身をひるがえし立ち上がったと言われる。柔道には、力弱いものや体力が劣るものが強者を投げとばすという、小気味のよさをもって語られてきたところがある。

 1897明治30年、講道館を去り中国大陸に渡り各地を転々とするも志を得ず帰国。
 1904明治37年、日露戦争。満州で義勇軍を組織、また孫文の辛亥革命を支援した。
 年不詳だが長崎に行く。福島県出身で明治・大正期のジャーナリストで天佑侠を組織した鈴木力(天眼)の『東洋日之出新聞』の経営に参加したが失敗。鈴木は西郷四郎を評して「純真の武士的志士」という。
 1922大正11年、没。翌年、講道館は六段を贈った。
 写真は西郷四郎。

      富田常次郎 (静岡県)

 1865慶応1年、静岡県で生まれる。
 1882明治15年、講道館入門。得意技は“巴投げ” 同門の四天王と柔術各派をやぶり、講道館柔道の基礎を築いた。
 1887明治20年、郷里の韮山に講道館分場をもうけて柔道の普及につとめた。
 1891明治24年、学習院師範として生徒の柔道を天覧に供した。
 1904明治37年、渡米して柔道を宣伝した。講道館八段。

 常次郎の子、富田常雄が書いた『姿三四郎』は1942昭和17年に第1部、好評で第2部を出版、『柔』は1945昭和20年まで書き継がれた。敗戦後初の直木賞を受賞、時代物・開化物・現代物を書き、健康的な大衆作家として知られる。

       山下義韶(よしあき) (神奈川県)

 1865慶応1年、神奈川県小田原で生まれる。
 1884明治17年、講道館入門。翌年、講道館と揚心流の他流試合となった警視庁武術大会、三島警視総監・嘉納治五郎らが居並ぶなか揚心流の強豪を破り講道館は全勝、名声をあげた。
 1896明治29年、武術大会の縁で警視庁師範となる。

 1903明治36年、アメリカの鉄道王ヒルに招かれ渡米。3年間滞在の間に、ルーズベルト大統領に柔道を教え、ハーバード大学、アナポリス海軍兵学校にも招かれるなど全米に柔道の名を広めた。
 1934昭和9年、九段。
 1935昭和10年、没。のち十段を贈られた。

 

      横山作次郎 (東京)

 1869明治2年、東京生まれ。
 1884明治17年、講道館に入門。
 払腰・足払・横捨身などを得意とし、柔術各流派の挑戦を受けて全勝し“鬼横山”と恐れられた。
 1888明治21年、警視庁師範。
 1904明治37年、七段。
 1908明治41年、『柔道教範』のち、大島英助共著『柔道新手引』など出版。
 1912明治45年、没。死後、八段を贈られる。

  
   参考: 『福島県民百科』1980福島民友新聞社/ 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂/ 『民間学事典・事項編』1997三省堂/ 『日本武道史』1943横山健堂

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