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2014年12月

2014年12月27日 (土)

狂歌百人一首、大田南畝(蜀山人)

 今年も纏まりのないブログを読んでくださってありがとうございます。新しい年が皆さまにとってより良い年でありますように。

 気忙しい師走、うかうかしている間にもうすぐお正月。昔子どもだった頃、お正月には羽根付き、百人一首の絵札で坊主めくり、トランプもした。百人一首が好きになり全部覚えたらカルタ取りが楽しくて毎日でもしたかった。でも、札をとれない弟妹が「つまんない」と言うし、読み手の大人も忙しいといつの間にかしなくなった。
 現代の遊びは何もかもゲームに取って代わられたようで、のどかな遊び風景は滅多にみられない。今どきの子は目の前に人が居なくても一人で遊べる。スマホやゲーム機なら相手の顔色を窺わずにすんで気楽だ。だけど人付き合いの練習はいつ何処でする。

 百人一首といえば「小倉百人一首」が有名。他に狂歌百人一首・百人一句・百人一詩など変わり種、茶化したり皮肉ったりもあったが罪に問われなかった。ところが、発売禁止になった百人一首があったと『有閑法学』(1934日本評論社)にでていた。

 ――― 1693元禄6年「芝居百人一首」と題して出版すると、書物奉行・服部甚太夫に「卑しき河原者をやんごとなき小倉の撰にまねして憚りあり」と注意を受けた。そこで「四場居色競」と改題、しかし体裁は変えなかったのでさらに町奉行・能勢出雲守より発売を禁じられ、版元の平兵衛は軽追放に処せられた。
 数十部売り出したところで禁書になった「芝居百人一首」(四場居色競)現存するものがごく僅かで、それを演芸珍書刊行会が複製1914大正3年に出版した。その複製原本の持主が関根只誠という人で、彼が書き込んだ奥書により発禁の理由分かったのである。

 『有閑法学』著者の穂積重遠は、明治・大正・昭和期の民法学者で戦後、最高裁判所判事になった人。法律学者と百人一首は結びつきにくいが、穂積は「法律家だって笑い話くらい読む・・・・・・一口話とか川柳を読Photo_2
んで頭が権利義務の化石化するのを防いでいる」というユーモアの持主。まだ女性に参政権の無い時代、女性参政権の法律が議会を通過しなかったのを残念がる所もある。

 裁判所ではないがお堅い役所に勤めながら笑いを文化にしたのが、江戸後期の文人、大田南畝(蜀山人)。幕府の能吏でありながら、各方面の文人・芸能人と交わり、江戸市民文化の中心となり多くの作品のを残した。その中の「狂歌百人一首」から、つい笑ってしまったものを抜粋してみる。近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ 『大田南畝集』を見れば他にもいろいろ愉しめる。
 ちなみに並び順は、第一首・天智天皇からはじまり第百首・順徳院まで「小倉百人一首」と全く同じ。選者に諸説あるが並び順は定着しているようだ。

 


 狂歌百人一首   蜀山人


  秋の田のかりほの庵の歌がるた とりそこなつて雪はふりつつ      天智天皇

  いかほどの洗濯なればかぐ山で 衣ほすてふ持統天皇    持統天皇

  あし引の山鳥のをの*しだりがほ 人丸ばかり歌よみでなし    柿本人丸
               *したり顔

  白妙のふじの御詠(ぎよえい)で赤ひとの 鼻の高ねに雪はふりつつ    山部赤人

  鳴く鹿の声聞くたびに涙ぐみ 猿丸太夫いかい愁たん    猿丸太夫

  わが庵は都の辰巳午ひつじ 申酉戌亥子丑寅う治    喜撰法師

  ここまでは漕出けれどことづてを 一寸たのみたい海士の釣舟    参議篁

  吹きとぢよ乙女の姿暫とは まだ未練なるむねさだのぬし    僧正遍昭

  みなの川みなうそばかりいふ中に 恋ぞ積もりて淵はげうさん    陽成院

  陸奥のしのぶもぢもぢわが事を われならなくになどと紛らす    河原左大臣

  月見れば千々に芋こそ食いたけれ 我身一人のすきにはあらねど    大江千里

  このたびはぬさも取敢ず手向山 まだその上にさい銭もなし    菅家

  山里は冬ぞさびしさまさりける やはり市中がにぎやかでよい    源宋于朝臣

  心あてに吸はばや吸はん初しもの 昆布まどはせる塩だしの汁    凡河内躬恒

  ひさかたの光のどけき春の日に 紀の友則がひるね一時    紀友則

  忘らるる身をば思はず誓ひてし 人のいのちの世話ばかりする    右近

  徳利はよこにこけしに豆腐汁 あまりてなどか酒のこひしき    参議等

  由良のとを渡る舟人菓子をたべ お茶のかはりに塩水を飲む    曾禰好忠

  瀧の音は絶えて久しくなりぬると いふはいかなる旱魃のとし    大納言公任

  あらざらん未来のためのくりごとに 今一度の逢ふこともがな    和泉式部

  名ばかりは*五十四帖にあらはせる 雲がくれにし夜半の月かな    紫式部
        *源氏物語に「雲隠の巻」あり名のみにて文なし

  大江山いく野のみちのとほければ 酒呑童子のいびききこえず    小式部内侍

  夜を籠めて鳥のまねして まづよしにせい少納言よく知つている    清少納言

  友もなく酒をもなしに眺めなば いやになるべき夜半の月かな    三条院

  淡路島かよふ千鳥の鳴く声に また寝酒のむ須磨の関守    源兼昌

  何ゆゑか西行ほどの強勇が 月の影にてしほしほとなく    西行法師

  波かぜの常にかわれば渚こぐ あまの小舟の船人かなしも    鎌倉右大臣

  定家どのさても気ながくこぬ人と 知りてまつほの浦のゆふ暮    権中納言定家

  風そよぐならの小川の夕ぐれに 薄着をしたる家隆くっしゃみ    正三位家隆

  後鳥羽どのことばつづきの面白く 世を思ふゆゑに物思ふ身は    後鳥羽院

  百色(ももいろ)の御歌のとんとおしまひに ももしきやとは妙に出あつた    順徳院

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2014年12月20日 (土)

民の本は農工商の隆盛にあり、十文字信介(宮城県)

   
 このところ寒冷地ばかりでなく日本各地で大雪被害が相次いでいる。降り積もって災害をもたらす雪はスキー場の雪と違って、恐ろしいばかり。雪に閉じ込められ停電で寒さに震える地域に少しも早く電気が届きますように。天空に願いたい、降る雪を加減して銀世界と雪合戦を楽しめる程度に止めて。

 
        十文字信介の機知 雪合戦に勝つ

 大いに雪降り綿を飛ばすがごとし、海軍兵学校諸生徒は他日、帝国の*干城を期するもの。気昂ぶり腕鳴り、少年隊と青年隊の二隊に分かちて雪戦す。落花紛々、雪丸飛び霰(あられ)の如し、両隊苦戦
・・・・・・雪戦たけなわなるや朔風肌をさし手足凍結、両隊大いに悩む。信介走りて手桶に温湯を入れ、ひっさげて戦場に至る。之によりて少年隊は交々手を温め、寒さをしのぎ勝を得たり(『実業家奇聞録』1900実業之日本社)。
  *干城: 国を守る者、転じて軍人、武士。

           十文字信介

  先祖は奥州亘理郡(宮城県)十文字館の城主、のち仙台藩支封伊達安芸の居住地陸奥国涌谷(宮城県)に移住。五代目が南蛮流の砲術家として知られ、その子秀雄は砲術で伊達家の師範役になった。信介の父である。秀雄は江幡五郎当ブログ2014.2.15東洋史学者・那珂通世と分数計算器)と親友。
 信介は1852嘉永5年11月、陸奥国涌谷に生まれる。7歳で涌谷月将館に入り漢学を学ぶ。8歳で藩主の小姓となったが、口が達者で目上をはばからず銭庫に閉じ込められたこともある。
 家業の砲術を学び10歳にして和銃の不利を悟り、父と鈴木大亮に西洋砲術を学び銃を毎日発射した。そのため鼓膜が破れ、4年間の療養の間に嫌いだった読書に励み多くを得た。中でもアメリカ独立の租ワシントンの伝記に感動、激しすぎる己の品行を顧みて反省したという。
 1868慶応4年、16歳のとき戊辰戦争起こり佐幕、勤王がぶつかり物情騒然となった。信介は大義が勤皇にあるとして「勤皇」を腰刀に刻み奔走、佐幕派に挑み挫こうとしたが父に止められ思いとどまった。

       <農は国家の父母なり

 明治初年、叔父の十文字栗軒が*開拓使大主典として北海道に赴くのに随行、当地を見聞した。のち上京、箕作秋坪に入門して英学を学んだ後、海軍兵学校に入学。雪合戦のエピソードはこの時で元気だったが、激性胃腸病にかかり1年で退校。欧米の政治経済を学ぼうとしたが学資がなく、柴田昌吉と西洋人について書を読み政治経済を学んだ。
   *開拓使: 明治初期の北海道開拓と行政機関。明治15年廃止。

 1873明治6年ころ寺島参議が信介に与えてくれた蔵書中の政書に
「欧米政治の原は民にあり、民の本は農工商の隆盛にありて攻伐戦勝に非ざるなり」の一節があった。これを読んだ信介は、
経済の要は実行にあり、経国の道は農業を発達するより急なるはなし、此業にして盛んならずんば日本の富強は期すべからず」と農桑山林牧畜を学ぼうと決心、開拓使農学校に入学した。しかし間もなく農学校は閉校になってしまった。
 信介は方針を変え、「農業経済真理の実験」を行う事にして駿河台(東京)旧吉川侯の屋敷跡の空き地500坪を借りて農業を始めた。
 農夫2人を雇い、自らも耕した。西洋野菜、西洋葡萄の類を植え付け種苗を販売した。野菜はキャベツ・ビート・セロリ・パセリ・トマト・苺など。他に鳥の飼育、事業は利潤もでて、生活の方も使用人一人、食客数人をおけるまでになった。
 *津田仙が東京麻布に学農社を起こすと、これに加わり農書を学び『農業雑誌』の記者・編集長として刊行に尽力、また『農学啓蒙』『農業科学』『小学読本農学啓蒙』などの編著、翻訳をした。十文字信介の名が上がり広島県に招かれた。
    *津田仙: 農学者。明治最初の女子留学生、津田梅子の父。

      <広島県勧業課長、宮城県農学校長

 1878明治11年冬、広島県勧業課長になり赴任。広島に赴くとすぐに馬一匹と「小学読本」を買い求め、地理を覚え馬で市街を一巡した。勧業課長として殖産興業につとめる傍ら、農学の私塾を開くと、山陽はもちろん遠く故郷の宮城、北越からも子弟が集まり百名を超す人気であった。信介は喜んで毎朝5時起き、3時間の講義をしたが公立の農学校設立に尽力、私塾を閉じた。著作の教科書を安い値で販売しても版を重ね利益がでたので500円を宇品築港に寄付した。また、道路開削にも関心を寄せ、石洲街道開削に功があった。次は広島でのエピソード。

        十文字信介 井上馨を驚かす

 安芸の宮島付近の林、信介は猟銃でヤマシギを撃ち落とした。たまたま近くにいた井上馨参議が自分を狙撃したとして巡査に発砲者を探させた。巡査が信介を見つけると信介は
「予は*海山猟夫十文字信介なり。シギは射ったがサギ(参議)は射たないと井上に報ぜよ」といった。友人らは、信介生涯の大出来と賞した(『明治奇聞録』嬌溢生1911実業之日本社)。
    *海山猟夫: 家は砲術家なので狩猟にたくみで海山猟夫と号した。

 1884明治17年、父の病気で故郷に帰り、同年、宮城県農商課長兼農学校長
 1886明治19年、宮城郡長仙台区長
 1889明治22年、公務の合間の一首
     今日もまたよしあし原に分け入りて 思ふかままにかりくらさなん

       <政治と実業

 1890明治23年、富田鉄之助(2013.3.10剛毅清廉の実業家、富田鉄之助)と松島に「松島倶楽部」を作り松島の風光明媚を発揚した。同年、第1回総選挙に宮城3区から当選、大成会に属した。大成会再編問題が起き奥羽連合同志会を作る動きなどあったが、信介は第2議会が解散するとそのまま議院を去った。
 189326年春、銃器製造販売で実業界入り。『猟銃新書:傍訓図解』を著し、猟具館を開いた。
 事業経営、発明したものは、最新式石油発動機を輸入販売・鉄砲の製造・蒸気ポンプ・重過燐酸肥料・消火器・消毒噴霧器・改良農具など。
 1902明治35年、大日本農会第21回集会で「農業家目下の急務」東北地方苹果(りんご)栽培の必要を演説。
 1908明治41年8月12日、没。57歳。

 
  参考: 『百家高評伝』久保田高三1895文寿堂書林 / 『日本帝国国会議員正伝』木戸照陽編1890田中宋栄堂 / 『宮城県国会候補者列伝』藻塩舎主人1890晩成書屋  /  『宮城県国会候補者列伝:一名・撰挙便覧』日野欣二郞1890知足堂  / 『明治時代史事典』2012吉川弘文館             

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2014年12月13日 (土)

日露戦争時のアメリカ公使、高平小五郎(岩手県)

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 ときどき国会議事堂の向かい、憲政記念館の展覧会に行く。ただしせっかくの展示も漢文の素養がなく、公文書や明治人の達筆は読めないが、生の史料は刺激になる。先日、【明治に生きた英傑たち 議事堂中央広間から歴史を覘く特別展】を見た。
 自由民権運動の勃興、帝国議会の招集と歩みと指導者たち、板垣退助・伊藤博文・大隈重信・・・・・・以前はこのような展示をただ感心して見ていた。しかしある時、ここでの展覧会には東北人が滅多に登場しないことに気付いた。歴史は勝者が記すと聞いたことがあるが、ここで開催される数々の展覧会もそのようだ。なぜなら幕末明治の歴史をふり返れば、東北に人物がいなかった訳ではなく、敗者の側は能力があっても舞台に上がれなかったから。
 東日本大震災で酷い目に遭った東北、もう3年9ヶ月もたつのに“被災地の声が届かぬ永田町”(岩手県被災者)の川柳が身につまされる。東北から原敬一人じゃなく首相が輩出していたらどうなんだろう。 写真:11月末に憲政記念館から見た国会議事堂。
 国政のリーダーでなく各国公使や書記官クラスなら東北人も登用されている。伊藤総理・板垣内務という元勲内閣時代に、オランダ弁理公使、イタリア特命全権公使を務めた東北出身者がいる。陸奥国一ノ関(岩手県)生まれの高平小五郎である。日露戦争時、小村寿太郎とともにポーツマス条約に署名したことでも知られる。

       高平小五郎

 1854安政元年1月14日、一ノ関田村藩、田崎三徹の三男として生まれる。
 1863文久3年、10歳で藩の祐筆、国学者の高平真藤の養子となる。
 1871明治4年、藩校「教成館」から選抜され官費生として上京、大学南校(のち東京大学)入学。
 1873明治6年、工部省燈台寮に出仕。
 1876明治9年、外務省入省。12年、グラント将軍前アメリカ大統領来日の際には接伴掛。同年10月から外務2等書記生としてワシントン勤務。14年、外務書記官。
 1883明治16年12月、外務権少書記官として交信局勤務。
 1885明治18年3月、外務書記官として京城に在勤。
 1887明治20年上海領事。23年総務局政務課長。24年ニューヨーク総領事。
 1892明治25年9月、オランダ駐剳*弁理公使兼デンマーク公使
      *弁理公使: 特命全権公使の次で、代理公使の上位

 1894明治27年8月、イタリア駐剳特命全権公使。28年、オーストリア公使(スイス公使を兼任)。日清戦争後、遼東半島還付の三国干渉を偵知して本国政府に報告、外交界に高平ありいわれた。
 1899明治32年、青木周蔵外相のもとで外務次官。

 1900明治33年、外務省官房長官を経て6月アメリカ公使。

余談:『現代女傑の解剖』より

 ――― 鳩山和夫(政治家・弁護士)がエール大学の学位を受けるにあたり夫人の春子も渡米、日本人夫妻はアメリカで大いに歓迎された。鳩山夫妻はあちこち招待され、その度に春子は日本女性の代表者として女性の地位をあげようと演説、拍手喝采された。公使として常に鳩山夫妻と同席、この様を目にしていた高平は春子にちくり一針、
「貴女よ、日本女子の位置を論ずるに先だち、宜しく貴女の夫和夫君の事を顧みられよ。和夫君の艶名は本国に於て嘖々たるものあるにあらずや、己の夫をして攀柳折花の風流あらしめ而して却つて女子の地位を説くは、寧ろ滑稽に値せざるか」

 今なら高平の一針に対し幾十針も飛んできそうだが時代は明治、著者・九百里外史は春子に追い打ちをかける。
 ―――高平は肯綮(急所)をついている、男女両性は互いに独立すべきものに非ず・・・・・・高平氏の言は、一場の揶揄に止まらずしてまことに肯綮に中りしものなり」そして和夫の女遊びは春子が余りにお転婆だから嫌気を生じてその慰藉の法を他に求めるに過ぎず

 1905明治38年、アメリカ公使在任中、日露戦争の講和会議に小村寿太郎とともに全権委員としてポーツマス軍港へ赴き、働いた。
 1906明治39年、功により貴族院議員に勅選。翌年、イタリア駐剳特命全権大使。

 1908明治41年1月、アメリカ大使。

当時、アメリカ国内では移民問題などをめぐって排日気運が高まっていたことから、第2次桂内閣小村外相は高平にたいして「日米永遠ノ和親ヲ維持スル」ために交渉にあたるよう訓令。11月、エリュ-=ルート国務長官との間に<高平・ルート協定>を締結。
 太平洋における商業の自由平穏な発展や現状維持、清国(中国)における商業の機会均等、両国領土の尊重など5項目を確認。正式には<太平洋方面に関する日米交換公文>、日本はハワイ、フィリピンに対する侵略的意図はないことを明らかにし、中国においてもアメリカとの協調を表明したのである。この件を近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ で検索すると、

 ―――光緒帝と西太后の亡くなった月に日米政府の間に取り交わされた「高平・ルート覚書」といふものは妙なものである(『挑むアメリカ』)などの他、様々な立場から書かれたものがある。

 1909明治42年、駐米公使を免ぜられ、1912大正元年に待命満期で退官。
 1910明治43年、伏見宮貞愛親王に随行して渡英。
 1917大正6年、再び貴族院議員に勅選され15年まで務めた。
 1926大正15年11月28日、73歳で死去。墓は岩手県西磐井郡真瀧村瑞川寺。

    参考: 『明治時代史大辞典』吉川弘文館/ 『日本史辞典』角川書店/ 『現代女傑の解剖』九百里外史著1907万象堂/ 『興亜の礎石 近世尊皇興亜先覚者列伝』大政翼賛会岩手県支部1944  

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2014年12月 6日 (土)

星の村天文台とあぶくま洞、滝根町の明治(福島県)

 先だって、フィギュアスケートNHK杯、羽生結弦選手が怪我を押して出場し賛否両論だが、エキジビションの“花は咲く”を見て思った。羽生選手は、東日本大震災の被災者、ひいては困難のさ中にいる人々に励ましのメッセージを届けたかったのではないだろうか。このような応援もあれば、星の村天文台のように“”を届ける方法もある(毎日新聞「福島の星空をみてください」2012.7.19)。

 福島県田村市星の村天文台は東京電力福島第1原発から最も近い天文台で、浜通り(海岸沿い)・中通り(奥州街道)の中間付近、高約640mの空気が澄んだ高原にあり、星空の美しさは折り紙付き。
 天文台も震災で大きな被害を受け休館したが、「絆」と命名した新たな望遠鏡を得て再開。そして小型の望遠鏡を持って各地の避難所や仮設住宅を30カ所ほど回り、星の観察会や天文教室も開いた。

――― 一般的な観察会は親子連れが多いが、被災地ではおじいちゃんやおばあちゃん、車椅子やベッドに寝たままの人までもが望遠鏡をのぞきに来てくれた。木星や土星を見て、手をたたきながら喜んでくれた・・・・・・星の美しさは人々を癒やし、心の復興につなげる力を持っていると痛感した。全村避難となった飯舘村の支援も続けたい(星の村天文台長・大野裕明さん)

 この星の村天文台に隣接して「あぶくま洞」がある。あぶくま洞は1969昭和44年石灰岩採掘中に発見され観光鍾乳洞としてオ ープンして今に至る。このあぶくま洞や瀧根村を明治期の地誌や福島県案内で見ると土地に歴史あり、平安時代までさかのぼる。

――― 本村大滝根山の中腹に鬼穴と称するものあり。入口2丈余、深さ50間余の所に千畳敷と称する広間あり。なお20間余入れば二階と称する所あり甚だ険隘なり。また釣瓶落としいう穴あり。深きこと幾尋なるを知らず石を投ずときは暫くして微音あり。
 伝えいうこの窟は往古、東北の豪賊*悪路王、大多鬼丸など、*田村将軍追討の際、蹙迫身を容るる所なり。逃れてこの穴に潜伏せしものなりと、また近辺に屏風石、羽石などと称する大石あり。懸岩千仞、一臨人をして戦慄せしむ。又平山は金山石灰石にして殆ど無尽蔵なり。
  * 悪路王: 蝦夷の酋長で坂上田村麿に抗した伝説の英雄
  * 田村将軍: 坂上田村麿。平安初期、蝦夷地平定に大きな功績を残した。征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた。

 1889明治22年3月以前、菅谷村・広瀬村・神股(又)村だったが、明治22年4月から瀧根村となった。瀧桜で有名な三春町を距たること5里余り。戸数400余、人口3千余。物産は米、馬、蚕糸、薪炭、煙草なりとす。特に菅谷大六より産出した煙草は字名が煙草名となったほど。酒も、大正期『東北醸造家銘鑑』によると、滝根村・先崎徳蔵275石、猪狩孫一41石、二人の名がある。

――― 人情風俗。田村郡の人は性質朴直にして義侠心に富めり、然れども其性情の致す所、大事偉業を企図する者少なく、従って大財産家、大偉人を出さず。又義侠心に富めるが故に常に自己の損益を顧みずして他人を助け、又公共のために尽瘁する事を厭わざるの風なり。従って各自に於ける生計の度きわめて低く、概ね清貧に甘んずるものの如し。本郡の文学美術は大いに発達せるものの如し。*平野金華など・・・・・・。
  * 平野金華: 江戸期の儒学者。荻生徂徠の門に入り、服部南郭とならび詩文に長じた人物。奥州に生まれたので金華と号した。

 ――― 滝根村。尋常小学校は菅谷、神又、広瀬にあり。巡査駐在所は神又にあり。社寺は菅谷神社などあるが、入水寺は御朱印付にて殿堂壮麗近郷に稀なる大寺なり。しかし、有名な翁杉の中腹より発火し全伽藍灰燼となれり。灰中骨および脂の如きものありこれ大蛇なりしならんという。寺の後方に玉滝あり有名なり。
 木村にはつるヶ池、ます池、小野小町の片葉葦などの奇話及び古跡と称するもの数多あり。広瀬に鉱泉あり、打ち傷、切り傷に妙なり。

 参考: 『田村の誉』1904遠藤常師・坂本活版所/ 『最新田村郡小地誌』明治36、1903根本隆治著/ 『福島県町村沿革便覧』1894遊佐勝司編/ 『東北醸造家銘鑑』1924田子健吉編 東北醸造家銘館刊行会/ 『福島県案内』1931半崎多七 発行 古今堂書店

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