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2015年1月

2015年1月31日 (土)

妻にふられたお陰で昌平黌教授、安積艮斎(福島県)

 明治人を調べていて「昌平黌(しょうへいこう)つながり」を感じる事がある。諸藩から熱意ある若者が集う昌平黌では師弟の情とともに友情も生まれただろう。ことに幕末、時代の転換期には出身藩によって立場が分かれるが未だ佐幕・尊皇一辺倒でない頃は、藩を背負わず気の合う友人同士で思うままに行動できた。
  ペリー来航時には休暇をとり、一人で或いは友人と浦賀や房総まで出向く者がいて、海外防備の重要性を改めて認識したのである。それに政治情勢が相まって昌平黌は幕府の学問所なのに、尊皇攘夷の空気が漂い、やたらに剣を振り回す者がいたり、会津の南摩綱紀のように洋学を学ぶ者もでてきた。ついには過激な方へ走る者も、その最激派が天誅(忠)組の松本奎堂である。
 奎堂と尊皇の志を同じくする昌平黌の友人に仙台藩士岡鹿門と大村藩士松林飯山がいた。この三人はのち勤王の双松岡塾を開く。飯山は安積艮斎の門人で同じ安積門の本間精一郎を奎堂に紹介したところ二人はすぐ意気投合した。同期、同門は友人をも繋ぐ。
 昌平黌寮名簿によると学生名と藩主、師(安積門・古賀門・佐藤門・林門など)がわかる。安政期をみると安積門は多い。昌平黌以外にも門人が多く、土佐藩の岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)はよく知られる。昌平黌といえば林家とか古賀家のイメージ、安積艮斎はどんな学者だったのか漢学どころか漢文も読めないが、ちょっと気になり見てみた。

 
          安積艮斎(あさかごんさい)

 1791寛政3年~1860万延1年。幕末期の儒学者。
 陸奥国安積郡郡山(福島県中央部)、神官・安藤親重の子。名は重信。号は思順。

 幼くして二本松藩儒・今泉徳輔に学び「この児怖るべし」といわれるほど優秀であった。
 1807文化4年、16歳。隣村の里正(庄屋)今泉家の養子になったが、艮斎は醜男で風采があがらない上に、読書が好きで、野良仕事が手につかない。妻も舅も艮斎が気に入らない。今なら高校生夫婦、若い二人の感情は無理もない。当然おもしろくもない日を送っていると、郡山に大火があった。すると舅が艮斎に、屋根葺き用の藁を売りに行くよう命じた。
 艮斎は二匹の馬にたくさんの藁を積んで郡山へ行き、半日くらいで売りきったが儲けは僅か。艮斎は掌にのせた銭を見て嘆息、
「われ二馬と共に半日を費やして僅かに数緍(すうびん・銭を差し通したひも) を売るに過ぎず。何ぞそれ賤なるや。しかず、男子の志を成して、富貴を取らんには」そういうと、馬を町外れの林の中に繋いで飄然と江戸に上ってしまった。17歳の時である。

 養家を出奔した艮斎、なんとか千住まで来たが旅費が尽きた。途方に暮れていると、江戸本所馬場町妙源寺の住職・日明が声をかけてくれた。事情を聞いた僧の日明は艮斎を寺へ伴い、艮斎の学力を知ると佐藤一斎に紹介した。お陰で艮斎は一斎の門人となり学僕として住み込み、雑用をこなしながら勉学に励んだ。夜中に眠くなると煙草の脂を瞼に塗りつけて眠気を追い払って勉強したという苦学中の話がある。

 1810文化7年、19歳。初めて江ノ島に遊び書いた紀行文は名文と讃えられる。
 1813文化10年、昌平黌に入り林述齋に学ぶ。
 1814文化11年、神田駿河台小川町に私塾・見山楼を開く。
 朝な夕な富士山と対面というのが見山楼の由来である。塾を開いて間もない頃、町内の井戸恬斎(てんさい)と子の浩斎(こくさい)を知り、酒を飲み、史を論じ、あるいは詩を賦し、交わった。井戸父子は艮斎が赤貧洗うが如し、あまりに貧しいので大いに同情、熱心に塾を応援した。父子の口コミのお陰もあり次第に生徒が集まるようになった。艮斎はその徳を終生忘れなかった。

 1836天保7年、二本松藩の藩校の教授に招かれる。藩主の御前で、艮斎が春秋左氏伝を大河の流るるごとく滔々と講じると、満座の誰もが熱心に耳を傾けたという。博覧強記の艮斎は、諸子百家の書ことごとく読破、学識は古今東西及ばぬところがなかった。

 1850嘉永3年、60歳で師の佐藤一斎と共に昌平黌の教授に挙げられた。
 艮斎は学者が一派に拘泥して壷中の天地に縮こまっているのはよくないと、林大学守一派の学派(朱子学、当時の官学)とは別に一派をたてた。その学は、*程朱陸王漢唐老荘の諸派の粋ををとり、打して一丸とする創見(新しい考えや見解)に富んだものであった。
   *程朱陸王漢唐老荘=程朱:(程朱学)北宋の程兄弟と南宋の朱熹の唱えた儒学(朱子学)。陸王:(陸王学)宋の陸象山と明の王陽明の学説。漢:(漢書)中国の史書。唐:中国の史書・唐詩。老荘:道教のもとを開いた老子と荘子が唱えた思想・学問 

Photo

 1853嘉永6年、ペリー来航、翌年ロシアのプチャーチン来航という時勢。艮斎は国防にも関心をもち、またアヘン戦争に刺激され『海外紀略』を著した。
 詩文家として名声を得た艮斎は、松崎慊堂古賀穀堂らと親交を深め、その詩文『艮斎文略』は大いに読まれた。多数の著作を残している。
 写真:小説家・劇作家の菊池寛が『わが愛読文章』でとりあげた『艮斎閑話』の表紙。

 日頃の艮斎はぼさぼさ頭で身なりを構わず、談論を好み口角泡をとばて我を忘れ、天真爛漫なところがあった。終生人の短所を言わず、楽しみは山水の遊覧だけだったという。
 その艮斎、机近くにいつも婦人の絵を掲げていた。絵の女性はかつての妻で、妻に愛されていたら家庭におさまり今の自分がなかった。だから発憤させてくれた恩を忘れないためだという。
 1860万延元年11月21日、69歳、昌平黌官舎で没。南葛飾郡綾瀬村堀切妙源寺に葬られた。のち東京府の区画整理で寺と共に墓も移転。

    参考:
  『人物の神髄』伊藤銀月・著1909日高有倫堂)/  『先哲叢話』坂井松梁1913春畝堂/ 『成功百話』熊田葦城1926春陽堂 /  『贈位功臣言行録』河野正義1916 国民書院 / 『コンサイス日本人名辞典』三省堂

              **********

     <特別展『3.11大津波と文化財の再生』のご案内>

 “よみがえった明治の響き―――津波で損傷 修理のオルガン”
 2015.2.1毎日新聞に、オルガンを弾いている写真と上記見出しの記事があった。現存しない国内メーカー「海堡」が明治時代に作った、数台しか残っていない貴重な楽器という(3月15日まで展示)。

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2015年1月24日 (土)

馬挽きから立身した県会副議長、岩崎亀治(岩手県)

 明治、大正の人物を調べていて同時代人の人物評はありがたい。よい手がかりになる。100年以上昔の刊行物はそれなりにあって地方で埋もれた人物を知るのにいい。ただし、参考にする著作者の観察眼や評価が適当かどうか二、三冊ではわからない。でも他に見つからず紹介しながら不安な時がある。政治家の場合は著者がその人物と同じ側ならどうしたって甘くなるだろう。甘いから悪いと決めつけられないが偏り過ぎはまずい。
 まあ学者でなしただの歴史好き、あまり深刻になると何も書けないから出来る範囲でだが、次ぎの岩崎亀治については、『岩手県一百人』「世に伝ふる価値がある」をそのまま受けとりたい。その『岩手県一百人』の人物評、後藤新平・斎藤実・原敬ほか有名人はもとより無名人物に対しても辛口が多いが、貶すだけではなく誉める所はほめているし、何より岩崎亀治の元気がおもしろいから引用して紹介。

     岩崎亀治

 1848嘉永元年10月、気仙郡高田町(岩手県陸前高田市の中心地区)に生まれる。
 13歳の頃、一ノ関町にある商店の丁稚小僧になり17歳まで4年間働いた。商売のこつを覚えると、いつまで人の下にいるより独立をしようと考え、ひとまず郷里の高田に帰った。
 帰郷した亀治は独立資金をつくるため父に馬一匹を借り、翌日から馬を挽いて荷物を運んで駄賃取りをはじめた。 ちなみに子どもに与えるお駄賃は、駄馬が荷物を運んでもらう運賃からきている。

 亀治は駄賃を貯めた3両を懐に一ノ関に赴くと、草履・下駄を仕入れた。そしてこれらの品物を背負って気仙郡の海浜を行商して10両貯めた。次は荒物と布を仕入れて行商、倍に増やした。20両を手にした亀治は、次ぎに仙台で小間物売りをする事にした。
 仙台の小間物商・高橋甚之助は亀治の仕入れの仕方をみて「凡物にあらず」と感心。亀治を見込んで20両の資本に100両以上の品物を貸した。亀治はこれらを売り捌いては仕入れを繰り返し大いに儲けた。小間物つまり女の身の回りの品や化粧品をたくさん売ることができたのは愛想がよく女心の機微も心得ていたからだろう。そうして金を貯めた亀治は小売をやめて、卸商になる。
 卸商になった亀治は小売商人の誰彼なく貸し売りをしてやった。ところが正直者ばかりではないから貸し損が増え、ついに300両以上の負債を負ったてしまった。
 1873明治6年、多額の負債を負った亀治は自分の不明を恥じるだけで人を恨まなかった。やがて古本の売買をし儲かるようになった。
 3両の駄賃からはじまった商売は10年を過ぎて財産は2000両以上にもなったのである。

  「衣食足りてはじめて礼節を知る」
 亀治自身が不学のために不便を感じていたから、郷土の子弟のためにも教育を盛んにしようと決心、亀治は学を志し行動を起こす。
 1874明治7年、26歳の亀治は高田町の有力者に小学校建設の企画を説いて廻った。ところが、有力者らは「農業商業の子弟は研学の必要なし」と言うだけでなく、「学校を建て教師を常設すれば、その給料その他費用を賦課徴収される」と絶対反対が多かった。
 このような状況で小学校建設の計画は挫折しかけた。しかし亀治はあきらめなかった。商売を止め自ら学びつつ寝食を忘れるほどに奔走、遂に学校(のちの高田町役場)を建てた。

 ――― しかも(学校ができても)学事が振るわないとみると、教師の里見勲を援助して、無報酬にて半ヵ年間児童の開発教育に従事した(おそらくボランティアで授業を)。

 この後、県の学務係から伝習所に入るよう勧告され、晩学ながら袴を着けて磐井師範校伝習所に入学した。卒業後、4等*訓導として盛郷猪川村に新築された小学校で教鞭をとった。傍ら、立根・安養寺の住職・及川良順と協力して立根の教育にも3年ほど係わった。20歳代後半を教育につくした亀治、気仙郡教育上の恩人といえる。

*訓導:太政官布告による小学校の正規の教員の職名。中学校は教諭。

 1878明治11年、30歳になった亀治は袴を脱いでつまり小学校の先生を辞め再び実業界に入った。今度は木材を扱い、漁業にも携わり数年で4万円ほど利益をあげた。
 1884明治18年コレラが大流行。景気も悪くなり、亀治の事業もつまずいたが、奮起して鰹節を大阪で売って復興したうえ事業を拡大した。

 1896明治29年6月15日三陸地方に大津波、死者27,122人、流失破壊の家屋10,390戸という大災害になった。東北の太平洋岸は1933昭和5年にも大きな地震と津波に見舞われ、4年前の2011.3.11東日本大震災に遭い未だ復興の途上だ。それに加えて原発事故が起きて尚いっそう厳しい。

Photo 写真は『古今災害写真大観』(1935玉井清文堂)より。図上・釜石の家に襲来した海嘯、右下・雨戸板に座し海上に漂う老女が漁夫に救い上げられる所、左下・勇婦が家族4人を救出する光景。写真をクリックすると拡大。
 亀治も資産を減らしたが、今度は儲け仕事をせずに精神的快楽の方、茶道や碁を楽しむことにした。風流自適の晩年をおくることにつとめたが役職は果たした。村会・町会・郡連合会・郡会などの議員、郡参事会員、所得税調査委員、破産管財人など。
 1903明治36年、岩手県会議員に選挙され副議長となる。55歳。

 ―――県会議員といえば、放埒で、不品行で、法螺吹きで、無責任で、軽薄で、狡猾で、収賄詐欺をもって職業となすものの代名詞なるかと思わるる程、岩手県の県会議員の多くは腐敗し堕落して居るは事実であるけれども、三十頭顱(とうろ頭の骨・どくろ)ことごとく然り断言するは聊か苛酷である。中には血あり、涙あり、骨あり、気概あり、正義を重んじ名分を明らかにし真面目にして誠実なる人物も股少なからず、副議長・岩崎亀治氏の如き慥かにその一人である。ただに敬愛すべき県会議員であるのみならず、困難の中に活動し、辛苦の間に奮闘したる氏の既往の経歴は、成功の亀鑑として世に伝ふる価値がある。

       貨殖の秘訣

 記者(阿波直道・泥牛)が、如何にして金を貯うるやと問いしに、岩崎亀治いわく
「不要の金を使わず、必要と雖もこれを弁ずるを延期するのみ」と。記者思えらく、是れ吾人日常座右の箴(いましめ)とすべきである。 

  参考: 近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ 『岩手県一百人』阿部直道・泥牛著1907東北公論社

               **********

      <特別展『3.11大津波と文化財の再生』>
                            東京国立博物館保存修復課長・神庭信幸

 2011年3月11日地震による大津波は東北の太平洋岸に所在する文化財に甚大な被害をもたらした。東京国立博物館は全国の仲間と文化財レスキューに参加し、被害が大きかった陸前高田市立博物館の被災文化財の再生に取り組んできた。今も懸命な作業が続く文化財の再生事業について伝えたいと特別展を開催。特別展のキーワードは
 ①「文化財のレスキュー」福島県では今も続いている。
 ②「安定化処理」海水に浸かり汚れ劣化の恐れがあるものを修理して安定化処理。
 ③「」 奇跡の一本松のあった高田松原にあった石川啄木の歌碑が失われたが、博物館に拓本が残されていたため、碑文を伝える貴重な資料となった。陸前高田の幼児教育の先駆者・村上斐(あや)のオルガンは震災後専門家の支援を得て音色を取り戻した。それぞれの物語を大切に再生している。
     2015.1.14~3.11 東京国立博物館 本館特別2室・特別4室
                同時期開催: みちのくの仏像
                     (上野のれん会発行『うえの』2015年1月号より要約)

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2015年1月17日 (土)

明治の仙台、新聞のはじめと発行人(宮城県)

 この世界から戦争は無くならないし残酷な大事件が後をたたず、知らずにいたいニュースがありすぎる。週一利用している日比谷線八丁堀駅、20年前に地下鉄サリン事件が起きた。発生直後の交信記録、後遺症に苦しむ人たちのニュース(毎日2015.1.15)は今だにぞっとさせられる。暗いニュースが続くとこの先どうなるのか不安にかられるが新聞から目が離せない。インターネットやテレビがあっても紙の新聞がいい。
 その新聞、今は毎日読めるが始まりは日刊どころか発行、維持経営が大変だった。地方では尚更と思う。例えば、東北仙台の新聞発行のはじまりを見てみる。改題を繰り返す新聞を系統で色分け。

      仙台と新聞

 1873明治6年4月3日、仙台で初めて木字活版を用いた「宮城新聞」が大町4丁目の知新社により発行された。メンバーは宮城県士族・太田有孚(ゆうふ)、山岸譲木村一知(かずとも)、横沢浄矢吹董ほか。
 同年6月5日、県内2番目の題号「官許東北新聞」(東北新聞)が創刊された。
  木字活版で官報と一般記事を載せ、美濃紙四つ折りの冊子型で値段は一部2銭5厘、不定期刊行。
  宮城県士族・須田平左衛門水科禎吉ほか藩校・養賢堂の傍らを借りて印刷していたが相愛社を組織、二日町表小路の角に社をおいて4号活字を用い機械で「東北新聞」を発行。

 1875明治8年、新聞紙条例発布。
     処罰の禁獄の刑、はじめ自宅禁錮だったが翌9年より監獄入りとなった。新聞の改題は経営よりも次にみるように新聞紙条例のほうが大きいようだ。

 1877明治10年2月、東北新聞を「仙台新聞」と改題、4ページだての隔日刊にする。
   社長・須田平左衛門は激しい民権論を展開して弾圧を受ける。獄につながれた須田は5月25日獄中で自刃、翌26日没(病死という話もある)38歳。須田は雄弁で政談演説会を開いたり第七十七銀行の創立を図るなど先覚者であった。

   主筆・高橋真卿は水戸藩士の子で号を羽皐。「甲府日日新聞」をふりだしに「茨城新聞」「宮城日報」「仙台日日新聞」などの主筆をつとめた。
 ちなみに新聞紙条例により「仙台日日新聞」で禁獄1ヶ月、その前の明治10年1月「甲府日日新聞」で禁獄50日の処罰を受ける(『筆禍史』宮武外骨)。
 *福島事件で交友が多く連座するのをみて、上京後、戯作者に転じる。1885明治18年、東京感化院(錦華学院)を創設した。1924大正13年死去。
 *福島事件: 1882明治15年福島でおきた自由党員・農民弾圧事件。

Photo 1878明治11年1月、「仙台新聞」を「仙台日日新聞」と改題、県下初の日刊紙となる。東京や近県に販売店を拡張。
 1880明治13年5月、播磨屋久治、禁獄1ヶ月となる。同年、「陸羽日日新聞」、16年「奥羽日日新聞」と改題を重ね、福島事件後の自由民権派の退潮のなかで県下発行部数第一となる。
 1903明治36年1月、「奥羽新聞」と改題するが、後発の「東北新聞」や「河北新報」(一力健治郞)に押されて経営不振に陥り、翌年廃刊した。

 
 1879明治12年、「宮城日報」が創刊される。1880明治13年4月、岡島新次郞禁獄1ヶ月に処罰される。同年11月、「福島毎日新聞」と合併して「仙台福島毎日新聞」と改題。14年7月さらに「仙台絵入新聞」と改題する。

 1889明治22年市制実施当時あった仙台市の新聞は、「奥羽日々新聞」「東北朝日新聞」「民報東北毎日新聞のち仙台新報」の三紙。
 1892明治25年、「東北新聞」「東北日報」「自由新聞」が発行され、「東北毎日新聞」など廃刊。
 1897明治30年、「河北新報」創刊。(当ブログ2014.6.14<明治・大正、屈指の地方史を築き上げた一力健治郞>)
   結局、「東北新聞」と「河北新報」が残り互いに競争。やがて日露戦争となり戦況速報にしのぎを削った。

 1910明治43年5月、「東北新聞」は松田常吉社長の死去により廃刊となり、残った「河北新報」の独占時代となる。

 1916大正5年の仙台市内の日刊新聞は、「河北新報」(東三番丁)「仙台日々新聞」(大町五丁目新丁)「東華新聞」(木町末無)の3社があり、いずれも政党政派の機関を標榜していない。
―――「河北新報」はまさに智者である、「仙台日々新聞」は仁者の風を存し、「東華新聞」は勇者であろうとある(『仙台繁昌記』)

   参考: 『仙台繁昌記』富田広重1916トの字屋/ 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『仙台藩人物誌』1908宮城県編/ 『明治時代の新聞と雑誌』西田長寿1961至文堂/ 『コンサイス日本人名辞典』三省堂

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2015年1月10日 (土)

名誉は高く謝金は低くの弁護士、野沢雞一(福島県)

 いつの時もニュースの種は尽きないが、明るいニュースがあればホッとする。なかでもスポーツ選手の活躍は何の競技でもなんだか励まされる。テニスの錦織圭選手がブリスベンの全豪オープンで勝ち抜く姿が何度も放送されている。その都度コートそばのBrisbaneの文字が目に入り旅行の思い出がよぎる。
 メジャーリーガーの一郎が、日本のオリックスの優勝旅行でブリスベンに宿泊中のホテルの前を通りすぎてコアラを見に行ったり、12月グリーンクリスマスのオーストラリアをあちこち訪れたりと夫と娘との三人旅が懐かしい。
 今や海外旅行は珍しくないが、150年昔は費用、交通機関、現代とは比べものにならない。でも、幕末明治の若者は困難な状況にあっても留学の機会を得れば、喜び勇んで海を渡り学問をしっかり身につけた。戊辰戦争で辛酸をなめた野澤雞一もその一人である。

               野澤雞一 (のざわ けいいち) 

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 1852嘉永5年、陸奥国野沢村(野沢原町/福島県耶麻郡西会津町)で生まれる。本姓は斉藤、のち野沢と改める。父は兵右衛門は里正(庄屋)、母は石川氏。幼名は九八郎。
 14歳のとき渡部思斎の研幾堂で法律や経済などについて学んだが、16歳の時、会津藩医・大島瑛庵に従い、英学を学ぼうと長崎へ向かう。

 1867慶応3年、長崎への途中京都に立ち寄る。折しも、山本覚馬が長崎から横山謙明を招き、会津藩洋学所を開き他藩の学生も教えた。野澤は覚馬を訪ね入学し、学業が進歩するに及んで会津藩主より三人扶持を賜り、臨時藩士なった。

 1868慶応4年、鳥羽・伏見の戦い。4月、薩摩藩兵が会津洋学所を襲い16歳の野沢は陣所の相国寺に連行された。捕らわれた山本覚馬と共に京都薩摩藩邸に幽閉される。この幽閉中に眼病を患っていた覚馬の建白書、将来の日本のあるべき姿を論じた『管見』を野沢が口述筆記した。

 6月、野沢は京都府の(旧幕府町奉行所)六角牢獄に移されると獄舎獄則惨憺たる有様。このとき虐待により野沢は足に障害を負った。数回の尋問を経て9月放免となり、年号は慶応から明治に替わっていた。明治天皇即位と改元の大赦により釈放されたのだが、歩けないほど弱っていた。それを見かねた役人が野沢憐れんで看護費用を与えた。ところが、看護人がその金を持ち去ってしまい食べるのにも困窮した。あまりの仕打ちを嘆く野沢少年を助けたのが鉄五郎という奥州生まれ(江戸とも)の侠客だった。こうした京都での艱難辛苦はのちの裁判官、弁護士の仕事に活かされたのは間違いない。

 1869明治2年、獄中の野沢を尋問した山田輹という人がまだ17歳の野沢を引き取り寄食させてくれた。
 1870明治3年、山田は野沢をドイツから帰朝した小松済治(横浜地方裁判所長)に預け、学資を出して野沢を大阪開成所へ入学させた。ここで同じく学生だった星亨と親しくなる。
 1871明治4年、星が教頭となった横浜の神奈川県立英学校「修文館」に移り、『英国法律全書』を星と共に翻訳、イギリスの法律を学ぶ日本の政治家や学生に活用され、法律整備の先駈けともなった。

 1872明治5年、星の推薦で大蔵省に入り、横浜税関職員など歴任。
 1874明治8年、新潟税関長代理に任命される。
  渡米(年代が資料により明治7年または10年)、アメリカのエール大学で法律学を学ぶ(渡米)。帰国後、星亨の義妹と結婚、星の政治活動を支えた。のちに星亨の伝記を編纂。筆者が野澤雞一を知ったのは『星亨とその時代』(東洋文庫)の編纂者としてである。
 1878明治11年、代言人(弁護士)の免許を得る。官を辞して民に生きることにしたのだ。
 
 1882明治15年、福島事件において星と一緒に弁護活動を行う。

 1889明治22年、さらに知識を深めるため再渡米、ニューヘーべン法科大学で学び、ヨーロッパを廻って帰国。のち神戸地裁判事を経て公証人となり、銀座に公証人役場を設けるなど、日本の法整備やその確立において多大な貢献をした。
 代言人の仕事ぶりは、親切で困苦困難に陥った人をよく助けた。放火未遂の被告の娘を無実の罪から救った事もある(『高名代言人列伝』)。

 1923大正12年9月、関東大震災に遭い蔵書が全部灰になった。
 余談。『閑居随筆』(慶応大学図書館蔵)「閑居随筆前加言」に蔵書消失とあり、幕末から昭和までの激動をくぐり抜けた人物の記録が失われ残念に思った。弁護士という職業柄もあり種々の記録を有していただろうに、災害は文化も襲う。その生涯をなぞっただけでも興味深い人物だと思うが、伝記がないのは惜しい。『閑居随筆』の題から、ご隠居のゆったりした話柄を想像したが内容は深くて、文章も漢文調で筆者には難しい。目次から一部紹介――― 人心・易学・偶感漫語(利・時宜・貿易主義・無死・国民・満蒙領有・空間時間その他)

 1932 昭和7年、死去。
       野の澤の蘆邊の蔭の釣小舟 翁寝けん艫先のみ見せ
        なへて世の人の云ふまま打捨てて 我を立てねは心安かり
                              (『閑居随筆』1933野澤雞一)

 ちなみに、石川暎作はという従兄がいる。大蔵官僚で経済雑誌の記者。『アダムスミス富国論』を翻訳。1886明治19年28歳の若さで死去(『岩磐名家著述録』1941福島県立図書館)。

  参考:  写真:福島県観光交流局HPより/ 西会津商工会HP/
 『高名代言人列伝』原口令成1886/  『大堀(旧野沢)雞一君小伝:福島県第四撰挙区衆議院議員候補者』山寺清二郎1892

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2015年1月 3日 (土)

見よ、飛行機の高く飛べるを、明治の飛行家たち

 2015年、雪の正月を迎えた地方が多いが東京近辺は晴れ。元旦に雨戸を開けたら朝日が差し込んだ。雪も青空もある狭いようで広い日本の空。見上げていたらいつか見た雲の絨毯を思い出した。観光の飛行機は楽しいが、軍用機は困る。
 その軍用機が襲来した長い戦争が終わって70年。明治どころか昭和も遠くなっている。親にB29や疎開の話を聞かされたが殆ど薄れている。自分も含め年金世代でさえ爆弾を落とした飛行機なんか殆どの者が知らない。しかし、世界を見れば今なお曝されている厳しい現実がある。その一方で広大な空に夢と希望を托す人たちがいて私たちを励ましている。小惑星探査機はやぶさの冒険、科学は解らなくてもワクワク。つい先日、「はやぶさ2」が宇宙へ旅立ち、私たちに帰りを待つ楽しみを与えてくれている。
 こんなにもすぐれた技術日本、だけど、今春やっと国産飛行機が初飛行するという。戦前の軍用機(零戦など)生産を敗戦後、GHQ(連合国総司令部)が航空機に関する一切の活動を禁止したから開発が遅れたのだ。その後、航空機製造が解除され国産旅客機YS11、半世紀をへて国産ジェット旅客機MRJが完成、この春飛びたつ〔半世紀ぶり「国産」テイクオフ/毎日新聞2015.1.1より〕。
 ところで日本の飛行機はじめ、どんな様子だったのかな。明治を見てみよう。

 1893明治26年 二宮忠八、飛行機を試作(動力はゼンマイ、車輪付き)

二宮忠八  1866慶応2~1936昭和11年 愛媛県。
  人力飛行機の考案者、実業家。丸亀の歩兵連隊に在営中、カラスの飛ぶのを見て空中飛行を考え研究をはじめる。ゴム動力でプロペラを回す模型を製作し、1894明治27年日清戦争で従軍した朝鮮で、軍用に供する旨の上申書を提出、却下された。その後、ライト兄弟の成功を知り研究を中止、大阪に出て実業家となる。晩年、二宮の飛行機発明がライト兄弟より早いことが認められ、のち叙勲された(『コンサイス日本人名辞典』三省堂)。

 1903明治36年12月17日 ライト兄弟飛行機発明、初飛行

 1909明治42年 内田稲作、飛行機製作に乗り出す
 ―――芝区金杉浜町三十九 内田稲作(31)は、第16776号をもって空中飛行機の特許を受けたるが、米国ライト氏のものより勝る点少なからずという。内田式は翌年、模型の試験飛行に失敗(万町報42.7.25)。
                       (『ニュースで追う明治日本発掘』1995河出書房新社)

 1910明治43年 奈良原三次が複葉機(奈良原式第1号)を完成し戸山ヶ原で滑走

奈良原三次 1877明治10~1944昭和19年 鹿児島県
  航空工学者。余暇で飛行機を研究、のち第4号機で全国巡業飛行、民間操縦士育成につなげた。
 1911明治44年、所沢飛行場で奈良原機テスト飛行に成功。
 1912明治45年、奈良原式・鳳号が青山でおひろめ、観衆7万。

 1910明治43年12月14日 日野熊蔵大尉、代々木練兵場でグラデー式単葉飛行機で初めて飛行に成功(高度10m・距離60m)

 現場責任者の田中館愛橘博士が注視するなか試験飛行したが、距離は目測でしかなく、すこしでも地を離れると、手を叩いたり、万歳を叫んだりの状況のようだった(万町報記者)。
 同12月19日 日野・徳川大尉が初飛行に成功・・・・・・将来我が国の飛行機を語る者はこの光輝ある両大尉の献身的事業にまず感謝せざるべからず(東京日日新聞43.12.20)。

      日野熊蔵 1878明治11~1946昭和21年 熊本県

  発明家・航空の先駆者。陸軍士官学校卒。
 1909明治42年、 臨時軍用気球研究委員
 1910明治43年、飛行機購入と操縦技術習得のため徳川好敏大尉と共にフランスの飛行学校に派遣される。その後、一人でドイツのヨハネスタール飛行場で操縦技術を学び、グラーデ単葉機を購入し帰国。

 ――― (日本に於ける飛行機の将来)飛行機を建造する技術さえ熟達すれば、廉価で優秀な、多数の飛行船を建造することができよう。何事にも創造の才あるフランス人は、飛行機においても先鞭をつけ、つづいて学究的なるドイツ人学理的方面に趨り、堅実なるイギリス人は、遅れて現れたけれども、あるひは実行の点に於いては成果を収めるかもしれぬ・・・・・・(中略)・・・・・・水雷上手の日本男児が、軽快迅速な飛行機に飛び乗って、度胸を据えてかかったならば、非常に目覚ましいことが出来るのではあるまいかと思ふ。
                          (『家庭十二ヶ月・一月の巻』1910啓成社)

 1911明治44年から翌年にかけて自身が設計の機体、日野式飛行機を製作。歩兵少佐・歩兵第24連隊付の身で負債を抱えてまでの飛行機開発が軍人にあるまじき行為として左遷された。
 1919大正8年、40歳のとき部下の失態で引責、軍人を辞め、その後生活は困窮した(参照。ウイキペディア・日野熊蔵)

        飛行機唱歌     歌・日野大尉、曲・岡野貞一 (『飛行機唱歌』1911共益社)

一、勇み立ったる推進機(スクリュー)の 響きは高し音高し
  時こそよけれ放てよと 弓手を挙ぐる一刹那

二、空を目がけて驀地(まっしぐら) 登ればやがて飛鳥(とぶとり)の
  背中も見えて白雪の 富士も目の下脚の下  (以下4~6番略)

 1910明治43年12月19日 徳川好敏大尉もアンリ=フェルマン式複葉機(50馬力・全長12m)で飛ぶ(高度70m・距離3km)/徳川大尉、三千メートルの大飛行 

       徳川好敏  1884明治17~1963昭和38年 東京
   飛行家。徳川篤守(*清水家)の長男。陸軍士官学校・工兵科卒。
        *清水家: 10万石、御三家に次ぐ家格。10代将軍家治の弟が江戸城清水門内に屋敷を与えられ一家をたてたのがはじまり。

 ―――  順当にゆけば彼は伯爵家の当主なのだが父篤守が家臣のために謬まられて、一家滅亡の悲運に悲運にあい(*礼遇停止)、不遇幾多の辛酸を隠忍せねばならなかった。堅実質素を旨とせる武人を選び、冒険的なる飛行界に投じて営々として始終しつつあるは、君国に奉持し以て家門の汚れを一掃せんと志したる為にはあらざるか(『現代之人物観無遠慮に申上候』河瀬蘇北1917二松堂書店)。
       *礼遇: 皇室から受ける特別の待遇

 1910明治43年、日野大尉と欧州派遣。帰国後、代々木練兵場でアンリ=ファルマン式による日本初の飛行を行った。
 ―――代々木原頭に駆けつけたるは山川健次郎博士、井上少将、徳永隊長、田中舘博士以下相次いで参集、場外には群衆詰めかけて・・・・・・徳川大尉、座乗部に上がれべ、轟然、また爆然、発動機の響きは百雷のごとく、推進器は疾風を起こし猛進すること暫し、約1500mの距離を往復すること前後27回、この間、時どき2m乃至6m地を離れて浮揚し、これにて滑走試験を終えたるをもって地を蹴って空中に浮遊せり。雄姿は70mの高空にかかり疾走矢のごとく、前後2回の大円形を描きて3000mの距離を飛行し、群衆の歓呼の声に迎えられ下降せり(東京日日新聞43.12.20)。
 1922大正11年、陸軍所沢飛行学校教官。
 1927昭和2年、飛行第一連隊長
 1935昭和10年、中将
 1944昭和19年、航空士官学校長

 名門の出なのに苦労した徳川好敏は初飛行で大人気出世する。一方、日野熊蔵は花やかで一時は好敏より人気があったが、初飛行以後は不遇であった。軍が技能より徳川の名をとったのもありそうだ。

 

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