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2015年1月24日 (土)

馬挽きから立身した県会副議長、岩崎亀治(岩手県)

 明治、大正の人物を調べていて同時代人の人物評はありがたい。よい手がかりになる。100年以上昔の刊行物はそれなりにあって地方で埋もれた人物を知るのにいい。ただし、参考にする著作者の観察眼や評価が適当かどうか二、三冊ではわからない。でも他に見つからず紹介しながら不安な時がある。政治家の場合は著者がその人物と同じ側ならどうしたって甘くなるだろう。甘いから悪いと決めつけられないが偏り過ぎはまずい。
 まあ学者でなしただの歴史好き、あまり深刻になると何も書けないから出来る範囲でだが、次ぎの岩崎亀治については、『岩手県一百人』「世に伝ふる価値がある」をそのまま受けとりたい。その『岩手県一百人』の人物評、後藤新平・斎藤実・原敬ほか有名人はもとより無名人物に対しても辛口が多いが、貶すだけではなく誉める所はほめているし、何より岩崎亀治の元気がおもしろいから引用して紹介。

     岩崎亀治

 1848嘉永元年10月、気仙郡高田町(岩手県陸前高田市の中心地区)に生まれる。
 13歳の頃、一ノ関町にある商店の丁稚小僧になり17歳まで4年間働いた。商売のこつを覚えると、いつまで人の下にいるより独立をしようと考え、ひとまず郷里の高田に帰った。
 帰郷した亀治は独立資金をつくるため父に馬一匹を借り、翌日から馬を挽いて荷物を運んで駄賃取りをはじめた。 ちなみに子どもに与えるお駄賃は、駄馬が荷物を運んでもらう運賃からきている。

 亀治は駄賃を貯めた3両を懐に一ノ関に赴くと、草履・下駄を仕入れた。そしてこれらの品物を背負って気仙郡の海浜を行商して10両貯めた。次は荒物と布を仕入れて行商、倍に増やした。20両を手にした亀治は、次ぎに仙台で小間物売りをする事にした。
 仙台の小間物商・高橋甚之助は亀治の仕入れの仕方をみて「凡物にあらず」と感心。亀治を見込んで20両の資本に100両以上の品物を貸した。亀治はこれらを売り捌いては仕入れを繰り返し大いに儲けた。小間物つまり女の身の回りの品や化粧品をたくさん売ることができたのは愛想がよく女心の機微も心得ていたからだろう。そうして金を貯めた亀治は小売をやめて、卸商になる。
 卸商になった亀治は小売商人の誰彼なく貸し売りをしてやった。ところが正直者ばかりではないから貸し損が増え、ついに300両以上の負債を負ったてしまった。
 1873明治6年、多額の負債を負った亀治は自分の不明を恥じるだけで人を恨まなかった。やがて古本の売買をし儲かるようになった。
 3両の駄賃からはじまった商売は10年を過ぎて財産は2000両以上にもなったのである。

  「衣食足りてはじめて礼節を知る」
 亀治自身が不学のために不便を感じていたから、郷土の子弟のためにも教育を盛んにしようと決心、亀治は学を志し行動を起こす。
 1874明治7年、26歳の亀治は高田町の有力者に小学校建設の企画を説いて廻った。ところが、有力者らは「農業商業の子弟は研学の必要なし」と言うだけでなく、「学校を建て教師を常設すれば、その給料その他費用を賦課徴収される」と絶対反対が多かった。
 このような状況で小学校建設の計画は挫折しかけた。しかし亀治はあきらめなかった。商売を止め自ら学びつつ寝食を忘れるほどに奔走、遂に学校(のちの高田町役場)を建てた。

 ――― しかも(学校ができても)学事が振るわないとみると、教師の里見勲を援助して、無報酬にて半ヵ年間児童の開発教育に従事した(おそらくボランティアで授業を)。

 この後、県の学務係から伝習所に入るよう勧告され、晩学ながら袴を着けて磐井師範校伝習所に入学した。卒業後、4等*訓導として盛郷猪川村に新築された小学校で教鞭をとった。傍ら、立根・安養寺の住職・及川良順と協力して立根の教育にも3年ほど係わった。20歳代後半を教育につくした亀治、気仙郡教育上の恩人といえる。

*訓導:太政官布告による小学校の正規の教員の職名。中学校は教諭。

 1878明治11年、30歳になった亀治は袴を脱いでつまり小学校の先生を辞め再び実業界に入った。今度は木材を扱い、漁業にも携わり数年で4万円ほど利益をあげた。
 1884明治18年コレラが大流行。景気も悪くなり、亀治の事業もつまずいたが、奮起して鰹節を大阪で売って復興したうえ事業を拡大した。

 1896明治29年6月15日三陸地方に大津波、死者27,122人、流失破壊の家屋10,390戸という大災害になった。東北の太平洋岸は1933昭和5年にも大きな地震と津波に見舞われ、4年前の2011.3.11東日本大震災に遭い未だ復興の途上だ。それに加えて原発事故が起きて尚いっそう厳しい。

Photo 写真は『古今災害写真大観』(1935玉井清文堂)より。図上・釜石の家に襲来した海嘯、右下・雨戸板に座し海上に漂う老女が漁夫に救い上げられる所、左下・勇婦が家族4人を救出する光景。写真をクリックすると拡大。
 亀治も資産を減らしたが、今度は儲け仕事をせずに精神的快楽の方、茶道や碁を楽しむことにした。風流自適の晩年をおくることにつとめたが役職は果たした。村会・町会・郡連合会・郡会などの議員、郡参事会員、所得税調査委員、破産管財人など。
 1903明治36年、岩手県会議員に選挙され副議長となる。55歳。

 ―――県会議員といえば、放埒で、不品行で、法螺吹きで、無責任で、軽薄で、狡猾で、収賄詐欺をもって職業となすものの代名詞なるかと思わるる程、岩手県の県会議員の多くは腐敗し堕落して居るは事実であるけれども、三十頭顱(とうろ頭の骨・どくろ)ことごとく然り断言するは聊か苛酷である。中には血あり、涙あり、骨あり、気概あり、正義を重んじ名分を明らかにし真面目にして誠実なる人物も股少なからず、副議長・岩崎亀治氏の如き慥かにその一人である。ただに敬愛すべき県会議員であるのみならず、困難の中に活動し、辛苦の間に奮闘したる氏の既往の経歴は、成功の亀鑑として世に伝ふる価値がある。

       貨殖の秘訣

 記者(阿波直道・泥牛)が、如何にして金を貯うるやと問いしに、岩崎亀治いわく
「不要の金を使わず、必要と雖もこれを弁ずるを延期するのみ」と。記者思えらく、是れ吾人日常座右の箴(いましめ)とすべきである。 

  参考: 近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ 『岩手県一百人』阿部直道・泥牛著1907東北公論社

               **********

      <特別展『3.11大津波と文化財の再生』>
                            東京国立博物館保存修復課長・神庭信幸

 2011年3月11日地震による大津波は東北の太平洋岸に所在する文化財に甚大な被害をもたらした。東京国立博物館は全国の仲間と文化財レスキューに参加し、被害が大きかった陸前高田市立博物館の被災文化財の再生に取り組んできた。今も懸命な作業が続く文化財の再生事業について伝えたいと特別展を開催。特別展のキーワードは
 ①「文化財のレスキュー」福島県では今も続いている。
 ②「安定化処理」海水に浸かり汚れ劣化の恐れがあるものを修理して安定化処理。
 ③「」 奇跡の一本松のあった高田松原にあった石川啄木の歌碑が失われたが、博物館に拓本が残されていたため、碑文を伝える貴重な資料となった。陸前高田の幼児教育の先駆者・村上斐(あや)のオルガンは震災後専門家の支援を得て音色を取り戻した。それぞれの物語を大切に再生している。
     2015.1.14~3.11 東京国立博物館 本館特別2室・特別4室
                同時期開催: みちのくの仏像
                     (上野のれん会発行『うえの』2015年1月号より要約)

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